永遠の花 1/2/3/4/5/6/7/8








 ヒカリと朋和が揃って笹岡を送り出す頃には、すでに日は傾き始めていた。
 玄関の扉を開けると、ポーチの向こうから廊下に向かって、赤い日射しが差し込んでいるのが見える。灰色のコンクリートに描かれた淡い色彩を湛える夕方の日射しを見つめていると、ヒカリは時間が少しだけ過去に巻き戻ったような錯覚に捕らわれた。
 なぜ急にそんなふうに感じたのだろう。時間はほとんど正反対でも玄関前の視界は広々と開けているから、降り注ぐ光量は朝夕でさほど変わりはない。だからだろうか。思い出したのはあの日、ヒカリが最後に秀和の姿を見た、事故当日の早朝の風景だ。
 あの日ヒカリはふいに思いついて、仕事に出掛けていく秀和を玄関まで見送った。いつもと何ら変わりのない出勤風景、普通ならヒカリがいちいち見送りに出ることはない。この家に住み着くようになってすぐの頃は義務感も手伝ってそんなことをしていたこともあるが、秀和に笑いながら「そんなことはしなくてもいい」と窘められてから気が楽になって、それをきっかけにして少しずつこの家に、何より秀和その人に馴染んでいったことを憶えている。
 あの日に限ってなぜ玄関まで見送ろうと思ったのか、今となっては誰にも確かめようがないことだったが、あの朝は秀和もなぜかヒカリの行動について何も言わなかった。
「今日、帰りに寄るところがあるから少し遅くなると思うよ。先に夕食を済ませて、あまり帰りが遅いようなら先に寝ていなさい。無理をして、起きて待っていなくていいからね」
「食事の用意だけはしておきます。温めたらすぐ食べられるように。それでいいですか?」
「ありがとう、助かるよ」
 ヒカリが素直にそう言うと、秀和は満足そうに笑みを返してくれた。優しい瞳。温もりに満ちていて穏やかで、出会った時に秀和がこんな風に笑っていなかったら、自分はきっとここにはいなかった。
 誰かと触れ合う。見知らぬ誰かや、良く知っているはずの誰かとも。なぜ温かいのだろう。なぜ冷たいのだろう。こうして誰かと向き合うという行動自体は同じなのに、その場の空気や相手に感じる温度はまるで違う。
 なぜ道は逸れてしまったのだろう? 以前は確かに通じ合っていたはずだった。
「ヒカリ…くん?」
「っ…あ、はい?」
 別のことを考えていた意識が、秀和の声で現実に引き戻された。ヒカリが慌てて顔を上げると、秀和は唇を軽く引き結んでじっとヒカリを見下ろしていた。
「何ですか?」
「…君は、ずっとここにいたいと思う?」
「えっ?」
 秀和の言葉の意味が上手く読み取れなくて、ヒカリが思わず聞き返す。秀和は少し笑って、もう一度同じ言葉を口にした。
「君はずっとここにいたいと思ってるのかな」
 言って、さすがに唐突な台詞であることに自分で気づいたのか、ヒカリを見つめる笑顔が苦笑に変わる。
「ごめん、急に。びっくりさせたね。ずっと言おうと思ってたことを急に思い出してしまって、つい。こんな慌ただしく急いで言うことじゃないんだけど、何だか聞きたくなった」
 ヒカリは答えに詰まって黙り込んでしまった。秀和の言葉にどう答えたらいいのか、全く解らなかったからだ。
 何も聞かず黙って家に置いてくれる秀和の傍にいるのは、ヒカリにとって苦痛であるわけはない。ずっとここにいたいと思う気持ちは本当だから、ヒカリにとっても否定のしようがないのだ。けれど自分と何の関係もない秀和の世話になり続けていいものか、実際こんな状態をいつまで続けて行けるのか、自分ではどうしてもまともな判断が出来ないような気がする。
 ここにいたい。けれどそれを自分から口にすることは、違う意味を持つことにならないだろうか? もっと生々しく、もっと重く明らかな意志を持った選択肢の一つ。言い出したら最後、与えられるだけでは済まなくなる。
 恐怖が、背筋を貫いた。体中の血液が足下を伝って廊下の冷たいコンクリートに吸い込まれていく。それは錯覚だがあまりにもリアルな感触だ。下肢を伝う生温い感覚が急に蘇ってきて、ヒカリは堪らずひっと息を吸い込んだ。まだ忘れていないのだ。
 見下ろした爪先が震えている。視界が小刻みに揺れているのは、足下だけでなく全身が痙攣しているからなのだろう。この震えを止められるとは思えなかった。止まるとすればヒカリがすべてから解放される時、自分が自分で無くなる―――何かを諦めるか死を迎えるか―――そんな時ではないかと何度思い巡らせたことか。
「大丈夫かい? 顔色が…」
 自分が秀和に体ごと支えてもらっていることに、ヒカリはようやく気づいた。何とか意識を奮い起こして、感覚の無くなった両足に力を込める。
「大丈夫…。ごめんなさい、驚かせて」
「悪かったね、こんなに急にする話じゃなかった。…立てる?」
 頷いて、秀和の腕から体を離す。秀和の顔をまともに見返すことは出来そうになかった。今の自分はきっと卑しい顔つきをしている。そう感じた。現実から目を背けて逃げ出した者の当然の報いだ。
 秀和は腕時計に目を落としながら、ヒカリをゆっくり壁に寄り掛からせた。顔を傾けて、まっすぐにヒカリの瞳を覗き込む。
「この話は今夜帰ってから、しよう。今日、たぶんめどが付くはずなんだ。君のこれからについてそろそろ考えなくちゃいけないから。僕と、一緒に、考えよう。一緒に」
 もう一度目を上げた瞬間、何にめどが、と聞き返す気持ちがヒカリの中からあっけなく消えた。
 秀和は笑ったのだ。初めて会ったときと変わらない笑顔で。
『行くところがないなら、僕と一緒に暮らさないか?』
 行く所など何処にも無い。
『ずっとここにいたいと思ってるのかな』 
 そう。僕はここにいたい。

 言わなければ。手を離されてしまいたくないのなら。
 あの場所へ戻りたくないのなら。
  叫びは声にならなかった。秀和にはついに聞こえなかったのだ。
 あれが秀和に会った最後だった。



「…でさ、何か全然進まなかったから今日はこっちに泊まって、明日もう少し片付けてからそっちに戻るよ。…大丈夫、ちゃんと飯も食うから。ヒカリもいるし。分かってるって、子供じゃないんだからさ…」
 思いがけない笹岡の訪問で部屋の整理が思ったように進まなかったために、朋和とヒカリは秀和のマンションに泊まって続きを進めることにした。叔父に報告を終えて居間に戻ってきた朋和が、ヒカリを認めて可笑しそうに顔を歪ませる。
「ったくひろちゃんもウルサイったら。俺たちだけでこっちに泊まって飯はどうするんだとか、寝る場所はあるのかとか、まるで子供扱い。いつも俺らだけで暮らしてるっていうのにさ…」
 言われてみれば家政婦のハツがいるものの、ハツの部屋は柊家にあるから用事が済むと彼女は大抵櫻井の家には泊まらず自室に帰ってしまう。朋和とヒカリはその生活の大部分を二人だけで送っていると言っても過言ではなかった。
(まるで秀和さんの時と同じように…?)
 ヒカリの胸がコトリと微かな音を立てる。
 秀和との暮らしと朋和とのそれは似ているようでどことなく違う。
 似ているのは二人の存在。そして違っているのは……ヒカリの心の有り様だ。
 不用意に朋和に触れてしまった。触れて欲しいと願った。それはヒカリにとって恐ろしいほどの決定的な違いだ。
 …く出来た息子だよ、お前は…………
 …じょうぶ、もうすぐ何もかも上手く行く……
 声が、頭の中に小さく反響する。
 マンションの近くの店で朋和と食事を済ませる間も、どこからともなく声はひっきりなしに聞こえ続けていた。
 その声はあの場所から届いている。忘れるつもりで逃げ出した、忘れられるはずのないあの場所から。




「明日も早いし、そろそろ寝ようか」
 朋和が振り返るとヒカリはダイニングテーブルに座って、前に組んだ自分の両手をじっと見下ろしていた。朋和の声が耳に入らないのか、返事は無い。
 笹岡が帰ってから、ヒカリの様子がおかしい。食事の最中もずっと上の空で、何か考え込んでいるように見えた。
 笹岡という男は一体、ヒカリに何を告げに来たのだろう。
 いつか斎が言ったようにやはりヒカリは家出少年で、そのことで笹岡に何か相談しているのかも知れない。1年も秀和と暮らしていたのだから、その間に何らかの行動を起こしていたとも考えられる。
 けれど今のヒカリの様子を見る限り、笹岡のもたらしたニュースがヒカリにとって嬉しいものであるようには見えなかった。
「じゃあ、俺はこっちの部屋で寝るから。あんたは自分の部屋があるんだよな」
 ようやくヒカリが顔を上げた。
「ええ、…そうします」
 淡い紫の瞳が揺れている。思わず手を伸ばすと、ヒカリは少し戸惑った表情を見せてから、朋和の手をそっと握った。
「まだ具合が悪そうな顔してる。大丈夫か?」
「大丈夫。すみません、心配、させてしまって…」
「どうして謝るの。ひどい顔色してる奴を心配するのは当たり前だろ。なんかあるのか? 心配なことが」
 ヒカリの顔色が一瞬で変わる。なんて顔をするんだろう。まるで捨てられた犬か猫のようだと思う。
「やっぱりここに来たのは辛かった?」
 ヒカリがゆるゆると首を振る。
「違う…。そうじゃ、なくて……」
 朋和の手を握り込む指がわずかに動いて、ヒカリがギュッと手に力を込めたのが分かった。震えている。それでも懸命に我慢しているのだろう。透き通るような手の甲に、くっきりと青白い線が浮き上がっている。
 見る見るうちにヒカリの全身がガタガタと震えだしたのが見えて、朋和は堪らなくなって、もう片方の腕でヒカリの頭を抱き寄せた。
 身体の中心にヒカリの暖かい体温を感じる。胸のすぐ下に押し付けられた淡色の髪が微かに身動ぐ。朋和が腕を緩めると、それを拒むようにヒカリはさらに身を乗り出して頬を朋和の身体に押し付けた。
「僕は朋和さんに何も出来ない。何もしてあげられない。なのにこうして、近くにいて欲しいと思ってる。こうして傍にいてもらうだけでホッとしてる。朋和さんはそれでいいんですか?」
「それでって?」
「僕が何も返せなくても、それでも…」
「何もしてやれないのはお互い様だろ」
 こうして身を寄せてくるヒカリをただ抱き締めてやること以外、ヒカリにしてやれることを朋和は一つも思いつかないのだ。
 自分は今まで一体何を見て生きてきたんだろう。兄と遠く離れてしまったあの日から、自分で気がつかないうちにきっと色々なことを見落とし、手放してしまったのだと、改めて感じた。そのことに気づかされることは何より堪えた。
 例えば斎ならこんな時どうするだろう。
 わずか1年ほど前、朋和や他の同じくらいの年齢の少年たちが自分のことだけを考えて気楽な毎日を過ごしているあいだに、斎は誰かの手を取って、必死で支え合うことを心に決めた。なんという強さだろう。普通では出来ない。少なくとも今の自分は、こうして何かに心を痛めているヒカリを受け止めてやることも出来ないでいる。
「して欲しいことがあるなら、言って。言ってもらわないと、たぶん俺は解らない。人の心とかあんまり感じなくなるように、自分で自分を鈍くしてきたんだと思う」
「自分を…?」
 そうだ。そうしなければ自分がズタズタに傷ついてしまうからだ。
「兄貴が家を出て行った時、俺は、兄貴に行かないでくれって言えなかった。両親もいなかったし、本当は寂しくて離れたくなんかなかったと思う。でもどうしても行かないでって言えなくて、…どうして言えなかったのか、自分でも解らないんだ。解らないまま忘れてしまった。悲しかったことも、兄貴のことも、…自分のことも」
 何かを感じ取るアンテナを少し鈍らせることで、兄を失った寂しさから逃れようとした。そうして知らないうちに、きっと心ごと失ったのだ。
「俺ってすごく冷たいんだと思う。もしかしたら誰も傍にいなくても平気で生きていけるかも知れない。それってなんか、寂しいよな…」
「朋和さんは…冷たくなんかないよ」
 ヒカリの声は小さかったが、驚くほどしっかりと朋和の耳に届いた。
「何にも言わないで僕を抱き締めてくれるのに、冷たいはずがない。ここは暖かい。すごく、すごく安心する。ずっと抱いていて欲しいと思う…」
 両腕で細い体を支えるようにして立ち上がらせると、朋和はヒカリの背中に腕を回して抱き締めた。
「…こう?」
「うん」
「あったかい?」
「すごく暖かい。このまま眠ってしまいたいくらい」
 ヒカリは泣いていた。声を立てないで、ただ涙だけが伏せた瞼から止め処なく溢れて、頬や朋和の着ているシャツの肩口を濡らしていく。激しくしゃくり上げることもしなかった。
 涙はどこにも吸い込まれることはなく、目に見えない空間を彷徨い続ける。行く処もなければ帰る場所もない。ヒカリの涙が静かであればあるほど、その涙はいっそう朋和の胸を詰まらせた。
 『此処にいたい』と何度も繰り返すヒカリは、その細い体内に何を抱え込んでいるんだろう。どんなに腕を伸ばしても外側からは決して触れることの出来ない、心の中の奥深くに。
「じゃ、そうしよう。俺もすげぇ暖かい。腕の中があったかいとよく眠れそうな気がしないか? 眠って、起きたら、飯食って、明日のことを考える。それまで、…明日の朝まですぐ傍で、一緒に眠ろう」 
 腕の中のヒカリが小さく頷く気配がする。涙が流れ込んで少し湿ったヒカリの唇に、心を移し合うつもりでキスをした。朋和の舌に涙の味が移る。もう一度唇を近づけると、今度はヒカリの方からしがみつくように唇を重ねてきた。重ねた唇の隙間からまた新しい滴が流れ込んで来た。


 その夜は秀和の部屋で一緒に眠った。
 その日二度目に足を踏み入れた兄の部屋は、まだ持ち主の気配を色濃く残していた。
 兄がすぐそこで見ている。二人が身を擦り寄せて眠りにつくのを、例えばそこにある机の前に座って、頬杖でもつきながら。分厚い本を読んでいる視線を時々上げて、朋和とヒカリの穏やかな寝息にしばらく耳を澄ませたあと、また手元に視線を戻す兄の息遣いが聞こえてきそうな気がした。まるで三人で眠っているような夜だった。


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