永遠の花 1/2/3/4/5/6/7/8










 初めて見た時、少年は静まりかえった無機質な空間にぽつんと佇んでいた。
 呼吸をしているのだろうか、と不安になるくらい身動ぎもせずじっと部屋の隅に身を寄せて、白い布に覆われた人を見つめていた。
 何を考えているのだろう。
 涙もなく表情も変えず……自分はどうしてここにいるのだろうとでも言いたげな風に、呆然と、ただ無言で。
 悲しい光景だと思った。


 薄暗く陰気な空気の立ちこめる警察署内の霊安室。ドアを開けると広くも狭くも感じる中途半端な空間に、オブジェのように白く覆われた塊が寝台に横たわっている。
 付き添いの警官に促されて、櫻井朋和はゆっくりと部屋に足を踏み入れた。
 微かに消毒液のような香りがする。無遠慮に内臓を侵されているような気がして、朋和は息を詰めた。ここに置かれているのは生き物ではない。光も差さず色もほとんどない灰色の景色は、まるで入る者に無言でそのことを教えようとしているみたいだと思う。部屋の中は春だというのにひんやりして湿っぽかった。
 先に入った警官が朋和を振り返って、手招きような仕草をしている。単に慣れているのか、嫌なことはさっさと済ませてしまおうとしているのか、ひとつひとつの動作は事務的で無駄がない。
「ご確認、いただけますか?」
 警官の手が物体を覆う白布に掛かり、戒めが恭しく持ち上げられた。
 見なくても解っていた。
 叔父から学校に連絡を貰った時にはすでに兄であることはほぼ断定されていたし、兄であるはずがないと思い込めるほど朋和は取り乱してもいなかった。
 よく知った、実の兄の顔がそこに現れたときも、だから不思議と動揺は無かった。
「……ええ、兄の秀和です。間違いありません」
「ヒデちゃん…………」
 叔父の比呂斗が漏らす嗚咽が、広くない部屋に響いた。亡くなった父の弟の柊比呂斗は心優しい人物で、一人で大丈夫だと言う朋和のことを心配してついてきてくれたのだ。なんとなく申し訳ないような気になって、朋和は叔父の方にそっと手を置いた。
「ひろちゃん、泣かないで……」
「だって……ともちゃん、独りになっちゃったよ……?」
「そうだね……」
 ひとり。
 そうかも知れないが、だからといって何が変わるワケじゃない。
 兄とは長い間離れて暮らしていて、こうして会うのが何年ぶりかすぐには思い出せないくらいで、急に独りになったと言われてもピンと来ないというのが正直な気持ちだ。こうして東京で世話になっている叔父一家の方がもうこの世にいない家族より余程『家族』という気さえする。
(俺は何処かおかしいのかも知れないな)
 兄そっくりの人形のような顔をぼんやりと見つめながら、朋和は思った。
 兄のことは嫌いではなかった。むしろ仲は良かったと思う。
 でもその死に対して悲しみの感情は湧いてこない。ただ、兄が死んでしまったという事実を頭で理解しているというだけに過ぎない気がした。
(―――――兄貴)
 もう二度と言葉を返すことのない最後の家族に、心の中で話しかける。
(なにか、心残りとか無かったかよ……? もしあるなら今、言っとけよ?)
 それだけが、兄にしてやれる事のような気がする。事実、もうしてやれることは何もないのだから。
 唇が―――――動いた気がした。
(なに?)
(彼を……)
 誰に言っても信じてもらえないに違いない。でも、兄の声がはっきり聞こえた。
(彼を、お前に……頼むな………………)
 彼? 
 顔を上げて辺りを見回す。
 ふと視界を遮るものに目が留まった。
 花が立っていると思った。


 彼は静まりかえった霊安室の片隅から、まっすぐ朋和を見つめていた。



「彼は……?」
 泣き続ける叔父を揺さぶって聞いた。
「ああ、向こうでヒデちゃんが一緒に暮らしてた人らしい」
「一緒に?」
「事故の知らせは最初に彼に行ったんだよ。ヒデちゃんのマンションに連絡したら彼がそこにいて、それで警察にともちゃんのことを言ってくれたそうだよ」
「俺のこと知ってる?」
「ヒデちゃんから聞いてたんじゃないかな」
「一緒に暮らしてるって……どういうこと?」
「僕も詳しくは知らない。ともちゃんも知らなかったの?」
 初耳だった。
 兄が家を出たのは6年前、大学入学の時だ。京都の大学に合格して東京を離れて、向こうで暮らし始めた。卒業後もそのまま京都に残って母校で研究がてら講師の職に就いたため、結局東京には戻ってこなかった。
 忙しいのか面倒臭いのか、たまに連絡はあるものの実家に戻ってきたことは一度もない。ましてや同居人がいるなんて話は聞いたことがなかった。
 それも男?
 朋和はその少年を改めて見つめた。
 決して明るいとは言えない照明の下で淡く透き通る髪の色。まっすぐ上を向く長い睫毛。抜けるような白い肌と折れそうに細い体。それだけ見るといかにも女性的だが女っぽい印象は全くない。
 むしろ性別を感じさせない不思議な雰囲気を持っていて、生々しさがないというか、植物を目にした時に感じるような、人間とは違う種類の生命という印象を受けた。
 花が立っていると思ったのはそのせいかもしれない。
(俺に頼むって言ったの、アイツのこと?)
 もう兄は何も答えない。初めから答えなど無かったのかも知れないが。
 朋和は視線を揺らすこともなく宙を見つめる少年の前に立った。思ったより背は高い。視線の位置は朋和とそう変わらないように見える。
 少年が朋和を見上げる。さっき自分を見つめていると思ったのは気のせいだったのだろうか、今初めて気が付いたように目を見開いた。
「名前は?」
 少年は黙ったまま何も答えない。視線は怖いほど朋和に据えられたままだ。
 朋和はもう一度同じ言葉を繰り返した。
「名前、教えてくれ」
「結城……ヒカリ………………」

 ユウキ ヒカリ。
 綺麗な名前だと、思った。


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