昼休みも半ばを過ぎた頃、仲のいい同級生が朋和に声を掛けてきた。
「なぁ、斎知らねぇ? 購買でパン買っといてって頼まれてたのに、アイツどっか行っちゃって見つからないんだ」
「ああ、斎なら……屋上か体育館裏あたりだと思うぜ」
昼休みに入ってすぐ、弁当を広げる間もなく教室に現れた女生徒数人に連れ出されて行ったまま戻って来ないところをみると、おそらく例のアレだ。
「げ。ひょっとしてまた告られてんの、あいつ?」
「多分な」
「くーっ、モテるヤツはいいねぇ」
三崎というその生徒は、冗談半分本気半分といった調子で大げさに身を捩った。
確かに斎は入学した当初から、本当にしょっちゅう誰かに告白を受けている。クラスや学年を問わずかなり人気があるらしくやたらとモテるのだが、当の本人は『誰とも付き合う気はない』と言い切ってフリーでいるものだから、一縷の望みを掛けた女生徒にこうして昼休みや放課後に呼び出されることも少なくないのだ。
購買部で手に入れた戦利品を振り回しつつ、三崎が不思議そうに首を捻る。
「斎ってマジでカノジョとかいねぇのかな? 他の学校に付き合ってる女がいんのかって聞いてもさぁなっつって答えないしさぁ、人当たりは良いけど案外ガード固いよな」
「女に興味ないだけじゃねぇの。えらそうにしてるけど、中身はけっこうマジガキだぜ、斎は」
「そんなもんかな〜」
他に用事があるらしく、三崎は何となく腑に落ちない表情のまま、朋和に斎の分のパンを預けてその場を立ち去った。
この学校内で斎がひとつ年上の珱と中学の頃から付き合っていることを知っているのは、朋和だけだ。「珱のことを言える奴と言えない奴の区別ははっきりある」と、珱と初めて引き合わされた時、斎は自分から朋和にそう言った。
分からなくはない。斎の恋人が同性だと知っても、それほど違和感なく「ああ、そんなものか」と納得してしまう自分の方がきっと珍しいのだろう。
朋和にしても、最初から平静でいられたわけではなかった。初めて珱を紹介された時、斎が『大事にしている』と臆面もなく言い切る相手が少年だということに、それを自分に隠そうとしないことに驚き、そして何よりも当の珱本人の造作の美しさに驚いた。
窪塚珱という少年は、本当に整った顔立ちをしていた。
内側から発光しているような黒い瞳はくっきりと見開かれ、浅黒い肌色と相まって息を飲むような雰囲気を醸し出していて、しばらくの間視線を外すことが出来なかった。彫りの深い目鼻立ちが日本人離れしていると思ったら、ハーフなのだと後から聞かされてひどく納得した。身長は斎や朋和とそれほど変わらない上に適度に筋肉も付いているのにどことなく華奢に見えるのは、シャツから覗く首や腕がびっくりするほど細いからだということは、最近ようやく分かってきた。
分かり始めたことは他にもある。それは珱が恐ろしく無愛想だと言うことだ。朋和とふたりきりの時でもこちらから話しかけなければいつまでも黙ったままだし、話しかけてもほとんど必要最低限の返事しか返って来ないのである。
朋和にしても人付き合いが得意な方ではないから、これには随分苦労した。あれはなんだと訴えても、斎は「ま、気長に慣れてよ」などと呑気なことを言って相手にしない。
何度か顔を合わせるうちに、どうも珱が他人と接することに慣れていないらしいということが朋和にもだんだん分かってきた。珱は決して無愛想なのではなく、単純にどうしていいかわからず戸惑っていたのだ。
と同時に、ともすればきつく見えがちな表情の下から本来の珱を上手に引き出しているのが、側にいる斎だということにも気が付いた。
斎はいつも珱を見ている。それはあからさまに視線で追うのではなく、心を砕いているという意味でだ。そして斎がことあるごとに見せる揺るぎない愛情に、珱も不思議なほど素直に応える。珱が斎に対して見せる和らいだ表情が、珱にとっての斎の存在の大きさを物語っていた。
珱の後ろで一歩引いて見守りながら、必要なときにだけ手を貸してやる。余計な口出しは一切しない。そして珱もそれをすべて受け入れる。
信頼し、支え合って、愛情を注ぐ。自然にお互いを思い合う二人の様子を間近で見ていると、それは難しいことではないように思えてくる。
「どうした? えらく深刻な面してるじゃないの」
「―――――斎」
見上げると教室を離れていた斎が、いつの間にか真後ろに立って朋和を見下ろしていた。用事が済んだのだろう。自分の席に座ると同時にさっさと弁当を広げて片付けに掛かった。
「ホラ、三崎に頼んでたんだろ、これ」
朋和は同級生が置いて行ったナイロン袋を掴むと、斎の目の前に置いた。
「お、サンキュ。アイツは?」
「出てった。急いでたみたいだぜ」
フンフンと頷きながら、斎はまた食事に取り掛かった。あと少しで昼休みが終わる時刻だ。
「今度は誰? 知ってるヤツ?」
「や、3年だって。お姉さまーって感じ」
「で?」
「丁重にお断りしてきた。なんたってお姉さまだしな」
斎がチラリと朋和を見上げた。何を今さら、という顔をしている。
「オッケーするとか思った?」
「それは無いだろ」
「知ってるなら聞くなっつーの」
「だな」
聞き返したのに深い意味は無かった。そのとき朋和は全く別のことを考えていたのだ。昨夜、ヒカリと自分の間に起こったことを。
触れ合うつもりはなかった。―――――少なくともあんな形では。
ヒカリを抱き締めたい、出来れば繋ぎ留めたいと思ったのは事実だ。それは兄の死によってヒカリと出会うことになったあの日から変わっていない。
けれどそれはヒカリが自分と兄とを繋ぐ唯一の線だと思ったからで、ヒカリはひとつの象徴に過ぎず、それすら実体の無いあやふやな想像でしかなかった。
でも昨夜は違う。朋和はあの時確かにヒカリその人を求めた。
抱き寄せずにいられなかった。それよりもっとはっきりとした確信を自分は望んだのだ。だから唇を重ねた。ヒカリもそれを拒まなかった。
自分でこうだとだと思い込んでいたことが、実は全く根拠のない地盤に根付いたものだということに突然気づかされて、足下が揺らぐ。見えていたはずの境界線が急に不確かなものに変わっていく。
「惚れてんだよな」
「……ハイ?」
「珱にさ」
箸を銜えたまま、斎が気の抜けた返事をする。
「はぁ……、めちゃめちゃ惚れてるよ」
「何が違うんだよ、他の奴と? 何で好きなの」
周りを見渡すと、多くの人が自然に誰かと寄り添って生きている。なぜそうまで強く他人を求めるのか、それが朋和にはずっと不思議だった。こんなふうに斎に尋ねても、おそらく答えは返って来ない。それでも訊かずにいられなかった。
そもそも自分は何を知りたいと思っているのだろう。
「う〜ん」
斎は本当に困った顔で眉間に皺を寄せた。
「別に違わないと思う、けど……アイツしかいらねぇんだもん、しょうがねぇよ。だいたい中学ん時からずっと俺、アイツを笑わせてぇーって、それだけで生きてきたようなもんだし。なんで好きとか、んなこと考えるヒマも無かったしな」
家を飛び出した珱を、斎は文字通り限界まで腕を広げて守ってきた。詳しい話を聞かなくても、二人の間に流れる空気を見ればそれは容易に想像が付く。そんなことを考える余裕が無かったと斎が言うのは本心だろう。
「そういうのは理屈じゃないってか……」
「っつうコトかな」
「……ホント呆れるくらい健気だよな、お前って」
「俺もそう思うわ、マジで」
自分で茶化すように言ってから、
「昼メシ食いながら言っても格好つかねぇけどな」
朋和に向かってサラリと笑顔を見せた。
季節が初夏に移ろうとする頃、朋和とヒカリは兄の住んでいたマンションのある京都に向かった。
秀和が亡くなって2ヶ月と少し。四十九日の法要も済んだのだから、いつまでも空き家のまま部屋を放って置くわけにもいかない。そろそろ遺品の整理を始めて、キリがついたらおそらくマンションは売ることになるだろう。
最初は叔父の比呂斗も一緒に来る予定だったのだが、間際になって仕事の都合がつかず結局二人だけで出掛けることになった。
秀和とヒカリが住んでいたのは、鴨川が一望できる位置に立つファミリー向けのマンションだった。
「結構でかいんだな」
ヒカリの後からタクシーを降り立った朋和は、目の前に聳え立つマンションの外観を見上げながらそんな感想をこぼした。
吹き抜けの天井窓から外光を取り込んだ明るいエントランスを抜けると、ホテルのフロントのようなカウンターがあり、身なりの整った女性が立っていた。
「当マンションの入居者の方にご用でしたら、お繋ぎいたしますが」
「あ、えっと、兄の部屋を見に、……訊ねてきたんですが」
「あの、こんにちわ。717の櫻井…です。彼は櫻井さんの弟さんです」
「まぁこんにちわ、結城様」
ヒカリが朋和の後ろから遠慮がちに顔を覗かせると、フロントの女性の表情が途端に和らいだ。朋和は一瞬驚いて、すぐに納得した。ヒカリは兄と暮らしていたのだ、フロントと顔見知りだったとしても不思議じゃない。
「これは大変失礼いたしました。お帰りなさいませ。そうそう、お預かりしていたお洋服のクリーニングができています。あとでお持ちしますね」
「いつもすみません。あの…それじゃお願いします」
ヒカリがぺこりと頭を下げる。
女性は首を振って親しげに微笑むと、丁寧に腰を折って手でエレベーターの方角を示した。
「なんかすごくないか? このマンション」
エレベーターに乗り込んだ途端に、朋和は素直な驚きを口にした。
「ホテルみたいなフロントとかあるし。なんで兄貴はこんなとこに住んでたんだろ」
興奮気味の朋和の様子がおかしいのか、返事をするヒカリの声にもわずかに笑みが混じっている。
「秀和さんの部屋より二階上に、入居者専用のジムとかプールなんかもありますよ。僕は行ったことないけど、休みの日とか朋和さんは時々行ってました。掃除やクリーニングも頼めばやってもらえるし、日用品なんかも定期的に届けてもらえるみたいです。水とか、トイレットペーパーとか。仕事で家を空けることが多いから管理が行き届いているマンションのほうが安心だし、何かと便利だって」
「ふうん…なんかよくわかんねえー…」
確かに兄は忙しかったようだし、学会や研究会が近づくと家を空けることも多かっただろう。こういう高級マンションなら専任のガードマンが在駐することでセキュリティが確立され、施設やサービスも行き届いている。部屋に続く廊下は広々としていて清潔で、玄関に辿り着くまでに小さい門のある各室専用のポーチまで付いていた。兄のような妙齢の独身男性にとっては、いずれ結婚して家族が増えるのを想定して購入するにちょうど良いだろうと思う。
なのに兄がここに住んでいたということが、朋和には不思議でならなかった。兄のことをよく知らないのだから、以前に結婚を考えた相手がいたとしてそれを朋和が知らないのはおかしい事ではないのだが、何となく兄にそんな人はいなかったんじゃないかという気がする。告別式の時も追悼式にも兄の友人は大勢集まってくれたが、参列者の中に恋人だったらしい女性も見当たらなかったし、そんな人がいたという話も全く出なかった。
「あんたが兄貴と住み始めたときからここなのか?」
「ええ、学生のときから住んでるって聞きました」
「京都に来たときからここに?」
「6年くらい前でしょう? そうだと思います」
それも初耳だった。確かに京都に移ってから電話番号が変わった事はなかったし、そう思えば兄は最初からここに住んでいたと考えるのが普通だ。けれどそれはとても不自然なことのように思えた。
マンションを買うこと自体は、そんなに難しいことではない。叔父に頼んで都合してもらうことだって出来るし、両親の残した信託財産や叔父が管理してくれている事業からでもそれくらいの金額は十分出せるはずだ。しかし問題は金額のことではない。
新幹線のホームで見送ったあの日から、もう兄は戻って来ないつもりだったのかも知れない。東京には…………朋和のいるあの家には。
主を失ってが実質的にがらんどうになった広い部屋に立って、朋和はぼんやりとそう感じていた。
ここは終の住処だ。もしもここからまたどこかへ移動することがあったとして、その先は過去に置いてきた懐かしい場所ではない。確かに人が生活していた痕跡の残るマンションの一室は、朋和にそのことを無言で伝えていた。
リビングの真ん中に立ちすくんでぼんやりと部屋を見回す朋和の横に、ヒカリも肩を並べて立った。
(……なんだかすごく久しぶりのような気がする)
考えてみれば秀和が亡くなったという知らせを受けて慌てて飛び出してから、約2ヶ月ここを離れていたのだ。それが長い時間なのかそうでないのかは分からないが、すでにこの場所を懐かしいと感じる自分がいる。
当たり前だけれど、部屋の様子は以前とまるで変わっていなかった。部屋中が妙に静かなことを除けば、何もかもあの日と同じままだ。
でもここに秀和はいない。帰ってくることも無い。
(たったひとつあの日と違う、決定的に違うそのことで何もかも違って見える……)
秀和と暮らした1年という月日が夢だったのかとも思う。小さなことのひとつひとつはハッキリ憶えているのに、現実だったはずの思い出の輪郭は何故かぼやけていた。
こうして自分はまたひとつ、大事なものを失うのだ。
朋和と二人で手分けをして、遺品の整理に取り掛かった。大きな家具は後で人の手を借りるとして、今やらなければならないのは秀和の個人的な持ち物を整理することだ。
まずはリビングにある秀和の遺した細々としたものを集めて、あらかじめ用意してもらった段ボール箱に丁寧に詰めた。
朋和と過ごすことが多かったリビングには、ヒカリにもよく見覚えのあるものもあれば、初めて目にするものも沢山あった。
蔵書や普段朋和が使っていた文房具、机の上に置きっぱなしだった書きかけの書類、音楽CDやDVD。開封されていない親書やダイレクトメールの束は一纏めにして、自室に近い棚の上の箱に放り込まれていた。掃除のたびに気になってはいたのだが箱を開けて中を見たことがなかったから、ヒカリは今日初めてその箱の中身を知った。几帳面だとばかり思っていた秀和の意外な一面を見た気がする。
秀和は堅苦しい人物ではなかった。彼には居候でしかないヒカリに「今度テレビを買い換えようと思うんだけど、君はどれがいい?」などと相談してくるほど気さくなところがあり、むしろヒカリの方が秀和の人の好さに戸惑ってしまったほどだ。
大切にしてもらった思いがある。元は見知らぬ他人だったと思えないほど、秀和はヒカリを懐に迎えてくれていた。
(それでも、秀和さんのことで知らなかったことって、いっぱいあるんだな)
思えばそれはごくあたりまえのことだ。一緒に暮らしていても、知らないことは当然ある。むしろ知らないことの方が多いのだろう。
相手のすべてを知ることなどたぶん出来ない。知りたい、知って欲しいと心から望まなければ尚更だ。
「兄貴の部屋って初めて来たんだ」
黙って造り付けの棚の上を片付けていた朋和が、ふと手を止めた。
「兄貴も家に帰って来なかったしな。電話はよく掛かって来たけど。俺たち兄弟ってほとんど他人みたいだったんだな」
「それは……どういう意味ですか?」
見上げる視線の先で、朋和の横顔が微かに歪んだ。
「お互いにお互いのことを必要としてなかったっていうか、どうしようもなく繋がってる部分って無かった気がする。家族って普通はそういうんじゃないだろ? 俺は兄貴のことを何にも知らなかったし、この部屋も他人の部屋みたいに感じる……」
朋和の言葉はおそらく真実で、だからこそとても悲しい気がする。
「どうして離れてしまったんですか?」
「なんでだろ。わかんねぇ、『行くな』って……言えなかった」
人と人との関わりはそんなものなのかも知れない。強く望まなくても、なりふり構わず誰かを求めなくても生きては行ける。言い出すきっかけを掴めないまま離れてしまえばそれっきり。何処かに酷い傷を負っても忘れた振りをしてやり過ごせば、そのうち痛みそのものを忘れていく。
それは…………ひどく寂しいことなのだろう。
ヒカリの胸の中にじわりと影が広がった。
忘れた訳じゃない。そういう振りをしているだけだ。抉り取られた傷の痛みもそこから逃げ出した自分もすべて憶えている。
「秀和さんに行くなって言っていたら、何かが変わっていたと思いますか?」
もしもあの家から出て行かなければ、僕は今ごろどうしていたんだろう?
朋和がゆっくりとヒカリを振り返った。
「変わってた……のかな。兄貴は京都に来なかったかな。そしたらここにも住んでなくて」
「僕と秀和さんが会うこともなかった。秀和さんの家に置いてもらうことも……」
朋和の腕がスルリと伸びてヒカリの腕を取った。そのまま静かに引き寄せる。
「でも、こうして会ったんだよな…………」
両腕で全身を包み込まれる感触がヒカリの脳裏に鮮やかに蘇る。
そう思うだけで意識より先に体が前に出る。腕の中に倒れ込みたい衝動を抑えられない。
朋和の腕が背中に回されるより早く、ヒカリは朋和の肩に頬を押しつけてしがみついた。
感情は時として不思議な色を見せる。それはときおり自分で思ってもいなかった色で輝くことがある。その輝きの鮮やかさに圧倒される事もある。
朋和はずっとヒカリを抱いたまま、それ以上何もしなかった。ときおり軽く体を動かすと朋和の浅い息遣いが耳元を移動して、その度にヒカリは身を縮ませて朋和の胸にいっそう体を擦り寄せた。
本当は皆、自分のことも他人のことも知っていると思い込んでいるだけで、実は全然解っていないのだ。
そんな考えが心を過ぎる。そう言う自分もついさっきまで気が付いていなかった。
背中に回っている腕に力が込められるたびに息を吐く。ホッとするからだ。まだ終わらない。突き離されることはない。もう少しこのまま…………
「ヒカリ……?」
「なに?」
「……恐いのか?」
何を言われているのか、一瞬解らなかった。
「あんたの体、震えてる……。止まんないんだ、ずっと。寒い……ワケじゃないよな」
頭上で朋和の笑い声がした。穏やかな声だ。低くて静かで思わず耳を澄ましてじっと聴いていたくなる。
「やっぱ俺が恐いのかな。こんなことするの変だよな。それに、……したし」
耳の後ろから届く声はひどく頼りなくて、朋和の困惑しきった表情が見えるようだ。『キス』という言葉を朋和が口に出来ないことにも心が揺れた。
朋和は戸惑っている。こんなふうにいきなり近づいてしまったお互いの距離に。
それはヒカリにとっても同じ事だ。でも……
(こうしたいって思う気持ちは、きっと僕の方がうんと強い)
そう思ったら胸が刺すように痛んだ。自分から言わなければ、また失ってしまうかも知れない。
もっと近くに来て。抱いていて欲しい。浅ましい何かが自分の中から溢れ出すのが分かる。もう一度腕を離されるくらいなら、代わりに何でも出来る気がした。
「朋和さんが恐いんじゃない。怖いのは……腕を離されることだよ。ずっとこうしてて欲しいって思う。ここにいたい。キスして欲しい、……ずっと抱いてて…………」
言い終わらないうちに涙が溢れた。これで朋和に伝わらなければ、ヒカリは同じ場所に逆戻りするしかない。聞き返されたとして、もう一度同じ事を口に出来るとは自分でも思えなかった。
心の底から望んでも、いつも与えられることはなかった。ヒカリの願う形では。
「なんか不思議。ずっとこうしてるのに何でそんなこと言うの。まだ足りないのか。これ以上どうしたらいいか分かんねぇよ……」
朋和の声が体中に響いた。その声を探してヒカリの身体が伸び上がる。背中を仰け反らせながら、ヒカリは夢中で朋和の唇を探った。
唇にキスが落とされて、その感触がゆっくりと頬に移る。涙の跡を拭うような動きで舌先が触れる。その途端、ヒカリの喉から嗚咽が漏れた。
胸が苦しい。息苦しくて窒息してしまいそうだ。しゃくり上げる自分の声が、まるで他人のもののように遠いところから聞こえてくる。
「このままでいい。ずっと、このままでいいから…………」
口を開くたびにまた涙が頬を伝って流れ落ちた。
こんなふうに泣いたのは昔、大事なものを失った時。あの時も、込み上げてくる涙を自分でどうしようも出来なかった。近くにいた誰かの腕に縋って、涙が枯れて出なくなるまで泣いた。
あの時が最後だ。何の心配もなく、ただ悲しみに埋もれていられたのは。
「心配しなくてもいいから、ここにいろよ。ずっと抱いててやるから……離さないから」
糸が切れたようにヒカリの体がガクリと頽れる。朋和がさらに力を込めてその体を支える。
「絶対、離れんなよ…………」
朋和の声を頭の隅で探しながら、ヒカリは急激に遠のいていく意識に追いつけないまま自分を手放した。
次にヒカリが目を覚ましたのはベッドの上だった。身体を丁寧に包み込むように毛布が掛けられている。意識を失って倒れてしまった自分を、朋和がここまで運んでくれたのだろう。その朋和の姿は見える所にはなかった。
(ここは秀和さんの部屋だ……)
ヒカリは目を凝らして、見覚えのある懐かしい風景を眺めた。家具らしい家具といえば書き物をするための簡素なテーブルだけで、この部屋で最初に目を引くのは、壁一面を埋め尽くす本棚に並べられている大変な量の書籍だ。初めてこの部屋を覗いた時、さすがに呆気に取られた覚えがある。
(そう言えば全部読んだのかって訊いたこと、あったな……)
『すごい……。これ全部読んだんですか?』
『まぁ、一応は。全部研究に必要な本ばかりだよ。つまらない本棚だ』
『どうして? 難しそうだけど面白そうな本がたくさんあるのに』
『本当に読みたいもの、欲しいと思うものはこの中には一つも無い。こんなにたくさん本が並んでるのにだ。それって寂しいことだと思わないかい?』
そう言って笑う秀和の顔が不意に目の前に現れた。
『自分が本当に望むものは、ここには何も無いんだ』
あれは一体どういう意味だったんだろう?
しばらくぼんやり体を横たえていると、朋和が入り口のドアから顔を覗かせた。
「起きたのか、……気分は?」
「すみません。僕、倒れてしまったんですね」
「疲れてたんだろ。ごめんな、京都まで引っ張り出した俺が悪かった。別に急ぐワケじゃないんだからもっと先にすれば良かったんだな」
朋和はヒカリの寝ているベッドに近づいた。
「まだ顔色が悪い。もうちょっと寝てろよ」
「あ……」
ヒカリが夢中で腕を伸ばす。指が朋和の腕に触れると、ほんの少し遅れてその手が軽く握られた。
「なに?」
朋和が握り込んだ手に力を込める。
「僕は……」
ようやく形になりかけていた言葉は、表情のない機械音に容赦無く遮られた。
静まり返った部屋に、いきなりドアチャイムが鳴り響いた。
こんな時に、しかもフロントを通さずに訪ねてくる人間に心当たりが無いのだろう。思わず顔を見合わせても、ヒカリは怪訝そうに首を振るだけだ。もちろん朋和にも思い当たる事はない。仕方なく立ち上がりかけると、ヒカリは朋和の手を強く握って、引き留めるような素振りを見せた。
「どうした?」
「一緒に……」
「寝てろって。すげぇ顔色して何言って」
ヒカリは激しく首を振って、どうしても手を離したがらない。
「しょうがねぇな」
朋和は仕方なく、ヒカリを抱え上げてリビングに戻った。静かにソファに寝かせてから、インターフォンの受話器を取り上げる。
「どなたですか?」
「朋和くん? よかった、もう着いてたんだ」
「失礼ですけど……」
「あ、失礼しました。僕、笹岡です。秀和くんのお葬式の時お会いした」
「笹岡……?」
思い出した。笹岡雅治。秀和の大学時代からの友人で、通夜と告別式の両方に参列してくれた時、朋和とも顔を合わせた人物だ。学部は違ったが秀和とは仲が良かったらしい。
「憶えてます、笹岡さん。ええと、確か弁護士の……」
「そう、正確に言うとまだ見習いだけどな。覚えてくれてたんなら良かった。誰ですか、なんて追い返されたらどうしようかと思ったよ」
インターフォン越しに笹岡の明るい声が大きく響いた。
エレベーターのチャイムが軽やかに鳴って、来客の到着を告げた。朋和が玄関のドアを押し開くと、見知った顔が目の前に現れた。
「お久しぶりです。その節はありがとうございました」
「こちらこそあれから連絡もしなくて申し訳ない。せめて君たちの力になれればと思いながら、何も出来なくて」
「そんな……、葬儀に来て下さっただけで充分です。また会えて嬉しいです。どうぞ上がって下さい」
「ありがとう。それじゃ遠慮無く」
笹岡は屈託のない笑顔を朋和に向けて、軽く頭を下げた。
秀和の葬儀で初めて会った時から、笹岡という男はこんな感じだ。朋和が親友の弟というのもあるだろうが、気さくで気取らない雰囲気が滲み出ていて感じが良い。どことなく斎のことを思い出させる気楽さだ。
「わざわざ僕らに会いに来てくださったんですか?」
「そう、君の叔父さんから君たちが今日こっちに来るって連絡を貰ってさ。こんな機会でもないとなかなか顔を見られないからな。ヒカリくんも一緒なんだろう?」
「ええ。あいつの方が俺よりこの家のことには詳しいし」
「まぁ、それはそうか……」
フム、と言った表情で笹岡が軽く頷く。
「ヒカリくんは元気か? 君が家に呼んであげたって聞いてホッとしてたんだよ」
「元気ですよ。……ほらそこ」
リビングから顔を覗かせていたヒカリが、笹岡に向かってゆっくり頭を下げる。部屋に通されると笹岡はヒカリに近づいて、静かに肩に両手を置いた。
「久しぶりだな。元気そうで、良かった」
「笹岡さんも……。お元気そうで安心しました」
「いつまでもだらしないと、秀和に笑われるからな。あいつは心配性だから、俺たちがメソメソしてたらいつまでたってもゆっくりさせてやれないだろ?」
「そうですね…………」
笹岡の言葉には、秀和に対する深い思いが感じられる。
ここにも兄の死を真正面から受け止めようとする人がいる。誰もがそれぞれの思いを抱いてこの場所に立っているのだということが、朋和の胸に重く響いた。
「それに君も……」
笹岡の言葉にヒカリがパッと顔を上げた。その目がせわしなく瞬きする。後ろから二人のやり取りを見ていた朋和にも、ヒカリの様子が一瞬で変わったのが手に取るように分かった。
「あ、あの……笹岡さ」
「朋和くん」
急に明るい声で笹岡が朋和を振り返った。
「悪いけど水を一杯もらえないかな? 駅からずっと歩いて来て喉がカラカラなんだ。暑いねー、今日は」
「あ、俺、外でなんか買ってきます。電気とか全部止めてて冷蔵庫も空っぽなんですよ」
「そう? そうしてもらえるとすごくありがたい」
「いえ、気にしないで。行ってきます。笹岡さんは居間でゆっくりしてて下さい」
それだけ言い残すと、朋和は慌ててスニーカーを引っ掛けて玄関を飛び出した。
エレベーターで降りるのももどかしくて、非常階段を2段抜かして飛ぶように駆け下りる。右も左も分からない土地を、方向も分からないままでたらめに走り出した。
聞くなと言われたわけじゃないのに自分から席を外したのは、何となくその場にいてはいけない気がしたからだ。
笹岡はヒカリに会いにここまで来た。瞬間的にそう感じた。そうするだけの理由が笹岡にはあるということだ。
ヒカリには何かある。自分には想像もつかないような何かが。それを聞いてしまったらそのあと自分たちがどうなってしまうのか、朋和には全く分からなかった。
(何を怖がってるんだ、俺は…………)
朋和は固く手を握り締めると、いっそうスピードを上げて走り出した。
「しまったなぁ、朋和くん逃げちゃった……。怖がらせちゃったかな」
困ったように頭を掻きながら笹岡がヒカリの方に向き直った。その言い方が妙に子供っぽくて、ヒカリが思わず笑みを洩らす。軽く肩を竦めて笹岡はゆっくり居間に足を踏み入れた。
「朋和くんには?」
「……話していません。朋和さんは何も聞かないで僕を家に置いてくれてるんです」
「そうか…………」
笹岡が小さくため息を吐いた。
「秀和が君のことを俺に相談してたのは知ってるよな? 君の了解も得てるって言ってたから問題は無かった。だから俺は出来る限り調べて、どうするのが君らにとって一番良いか考えもした」
そこで一旦言葉を切って、でも……と続ける。
「秀和は亡くなった。これでまた何もかも振り出しに戻っちまった。正直言ってこれから君にどうしてやったらいいのか、俺にはさっぱり分からないんだ」
「笹岡さん」
「君の力になりたいと思ってる。それは秀和に対する俺の責任でもある。手向けって言った方がいいのかも知れないが、そんなふうには思いたくない。秀和はホントに君のことを心配していたんだ。幸せになって欲しいって思ってた……」
笹岡の声をぼんやりと聞きながら、ヒカリは目を閉じた。
瞼の裏側に秀和の穏やかな笑顔が蘇る。側にいると守られている気がした。秀和はヒカリに慈しむということを教えてくれた。
「もう少し待ってください。……もう少しだけ、」
解りかけていることがある。それを見つけるまでは。
「いずれ笹岡さんにすべてお願いすることになると思います。その時は……よろしくお願いします」
「わかった。もう少し調べておきたいこともあるしな。出来る限りのことをするから」
「感謝します」
その言葉に嘘はない。本当に感謝している。何の関係もない自分を何とか助けてくれようとする笹岡にも、今は亡き秀和にも。
だからこそいつかすべてを知られてしまうだろう。必死で振り払って来たはずの何もかもを、一番知られたくない人に。
それまで自分にはどれくらいの時間が残されているのだろう。いくら考えてもヒカリには全く見当が付かない。それを量る術はきっと誰にも無いのだ。
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