永遠の花 1/2/3/4/5/6/7/8








「来週の日曜、兄貴の家に行こうと思ってんだけど、あんたも行く?」
 夕食が終わってテーブルの上を片づけていたヒカリに、朋和が声を掛けた。
「そろそろ向こうの部屋も整理しなきゃなんないみたい。…ひろちゃんがこの間そんなこと言ってた」
「僕も…一緒に行っていいんですか?」
「変なこというヤツだな。あそこはあんたの家でもあるんだろ? なんでそんなこと聞く?」
 本当に真顔でそんなことを聞いてくる朋和のことが、ヒカリは逆に不思議で仕様がない。物事に拘らないという類の反応ではない、と思う。まるで兄と自分は何の関係もない、むしろ全くの他人であるヒカリの方が、よほど兄と深く関わっていたと思っているような印象さえ受ける。
「僕はただの居候です。秀和さんに住まわせて貰ってただけで。僕の家なんかじゃありません、あそこは秀和さんの…朋和さんのお兄さんの部屋です」
 自分でも驚くほど、語尾に力が入った。突き放したような朋和の口振りが、心のどこかに引っ掛かったからだ。朋和は秀和のことを良く思っていなかったのでは、という考えが頭を過ぎる。
 そんなはずはない。それなら秀和の世話になっていた自分のことも気に入らないはずだ。あの時朋和は確かに自分のことを「兄貴に頼まれた」と言った。それがどういう意味かはよく分からなかったが、少なくともあの時の彼の眼差しは、快く思っていない相手に対するものではなかった。
「何を怒ってるのかは知らないけど…別に深い意味で言ったんじゃない。気に障ったんなら悪かったよ。一緒に住んでたんだからあんたの荷物もあるだろうと思ってさ」
 ヒカリの勢いに少し驚いたのか、朋和は困ったような表情を浮かべた。
「すみません…つい」
「謝んなよ。俺の言い方はどうもきつく聞こえるらしい。よく友達に言われるんだけど、自分じゃ気がつかなくて」
 意味もなくカッとなったのは自分の方だ。朋和が悪い訳じゃない。
「僕の方こそすみません。…ずっと気になってたことを思い出してしまって」

 櫻井家での生活はヒカリにとって、心理的にも実質的にも思ったよりもずっと楽なものだった。
 ハツという手伝いの女性のおかげで家の中のことは隅々まで行き届いていて、ヒカリがすることと言えば、彼女がいない日に朋和と自分用に二人分の食事を用意することぐらいだ。秀和の部屋で暮らすようになる以前から食事の支度などには慣れているから、ヒカリにしてみればそれは大した負担ではない。むしろその他に出来ることが何もないのが申し訳なく思えるほどだ。
 そしてハツはもちろん朋和も、根掘り葉掘りヒカリを質問責めにするわけでもなく、何も話さないヒカリを黙ってこの家に置いてくれている。そのこともあって、このまま櫻井家で世話になり続けていいものかどうか、本当に朋和がそれを望んでいるのか、ヒカリには全く分からなかった。
 この話はいいきっかけになるかも知れない。思いきって言ってみることにした。
「あの……今度、比呂斗さんに会ってもいいですか?」
「いいけど、なんで?」
「仕事を紹介して貰えないかと思って。…僕、働こうかと思うんです」
「……って、どこで?」
「まだ決めてませんけど探します」
 朋和はテーブルを挟んだ反対側から、ヒカリの顔をまじまじと見つめた。
「働くって、あんた幾つだよ。働ける年なのか?」
「もう16になりました。雇ってくれるところさえあれば働いてもいい年齢です」
 何を思ったのか、朋和が急に笑い出した。
「あの……?」
 ヒカリが顔を覗き込むと、掌をこちらに向けてひらひらと振る真似をする。
「ごめんごめん。今初めてホントの年が分かったなと思ったら、なんか笑えてきた。別にどうでも良いとか思ってたけど、やっぱ安心するもんだな。少しでもあんたのこと分かるとさ」
 瞬きをするのも忘れて、ヒカリは目の前の少年を食い入るように見つめた。
 ―――――なんて優しい顔で笑う人なんだろう。
 そう思った途端、なぜか視界が滲んだ。
 朋和がもう一度目を細めて笑った。
「ずっと家にいると気を使う? 兄貴のトコにいるときはどうしてた?」
「何から何まで秀和さんに頼りっぱなしでした。まともに働けるところがなかったし…」
「兄貴はそれでなんにも言ってなかったんだろ? じゃ、別にいいじゃん。ここでも同じようにすればいい」
 重大なことを簡単そうに言う朋和のことが、ヒカリはどうしても信じられなかった。兄の知り合いと言うだけの他人に、朋和がここまでする理由がどこにあるだろう?
「そんなわけには行かないでしょう。あの時は朋和さんの言葉に甘えてしまったけど、本当なら僕はここまでついて来ちゃいけなかったんです。それくらい分かります。だからせめて迷惑にならないようにしたいんです」
「それってさ、ここに居たいってこと?」
「…そう、です」
 ヒカリは素直に頷いた。
 認めるしかない。自分には他に行くところなど無いのだから。
「甘えてるのは自分でも分かってます。でも……」
 朋和が突然立ち上がった。驚いて顔を上げたヒカリを見据えたまま素早い動作で部屋を横切って、あっという間に近づいてきた。
「立って」
 穏やかな表情でヒカリを促す。視線を外せないままヒカリもゆっくりと腰を上げた。
 じっと見つめてくる朋和の瞳は、警察署内の暗い霊安室で初めて会ったときのことを思い出させる。
 部屋に入ってきた朋和は表情というものが無く、初めは秀和とはまるで無関係の他人が迷い込んできたのかと思った。後の話から彼が秀和のたったひとりの弟と知って、ヒカリは驚きを隠せなかった。
 冷たいのか、それともまだ事態が飲み込めなくて呆然としているのかと思ったが、そう言うことでもないらしい。現にヒカリを認めて声を掛けてきた朋和の瞳は、抱き締められることを躊躇わせないほど深く、澄んだ色をしていた。
 ぼんやり思い返していると、目の前で朋和が小さく頭を振りながらため息を吐いた。
「悪い、またヤな言い方したな俺」
「…いいえ」
 嫌な言い方だとは思わない。むしろ言葉を濁さずハッキリ問われたからこそ、ヒカリは正直に答えることが出来た。
 どうしても惹かれる。目に見えない朋和の内側を見てみたいという衝動が消えない。櫻井秀和がヒカリに残した唯一の手掛かり。ふいに差し伸べられた見知らぬ暖かい手の理由が、ここにあるような気がしてならなかった。
「理由が要んのかな」
「……え?」
「ここに居て欲しいって理由」
 朋和がポツリと口を開いた。誰に話しかけているのかもハッキリしないような、曖昧な口調。それでも瞳はヒカリの顔に据えられている。
「そんなものあっても無くても、どっちでもいいだろ。俺が居て欲しいと思ってるんだから」
 そんないい加減な言い方でそうですか、と納得するわけには行かなかった。
「理由も無いのに、他人の僕にいて欲しいなんて変です」
 朋和が言葉を詰まらせて、困ったように眉を顰めた。
「気になるんだよ、何て言うか。…見えるところに置いときたい」
 今度はヒカリが絶句する番だった。これではまるで告白でもされているみたいだ。そんな訳はないと分かっていても、返す言葉に困ってしまった。
「…不思議な人ですね、朋和さんは」
「なにが?」
「そういう台詞は、僕みたいな人間に言う言葉じゃないと思います」
「全然わかんねぇよ。どういう意味」
「ここに居て欲しいとか……そういうのは友達とか彼女とか、もっと大切な人に対して口にするものじゃないですか?」
「そうなのか?」
「そうなのかって…そんなこと、聞き返されるのがすでに不思議……」
「そう言われてもな……、本当にそう思ってるんだからしょうがないだろ」
 少し考えるような素振りを見せたあと、朋和は緩い動作で腕を持ち上げた。両腕を少し伸ばし気味に拡げると、そこにたったひとり分だけ空間が出来る。
 吸い込まれるようにヒカリの身体が前のめりに倒れていく。
 その空間にぴったり閉じ込められても、ヒカリはそれをおかしいことだとは思わなかった。戸惑いもない。自分でも驚くくらいに。むしろそうすることが当然のように思える。朋和はヒカリの華奢な全身をしっかり支えながら、
「……こんなことを面と向かって誰かに言うの、俺も初めてなんだよ。っていうか、考えたこともないかも。自分でも不思議、どうなってんのかな……」
 その呟きが自分に対して向けられているものではない、ということは何となく感じられた。声に出ていることすら自分で気がついていないような、漠然とした響きがある。
 ヒカリは軽く目を閉じると、頬を朋和の肩に乗せた。背中に朋和の腕が触れている。これ以上力を込めたら折れてしまうとでも思っているのか、二本の腕はヒカリの存在をフワリと包み込むように回されたままそれ以上動こうとしない。そのことにどうしようもなく心が騒いだ。
(抱き締めて欲しいと思ってる。僕は、この腕の中に居たいと思ってるのか……)
 今まで誰からもこんなふうに触れられたことはない。触れてくる腕はいつも震え上がるほど冷たく、望まないところにも無遠慮に触れてきた。ようやく見つけた暖かい腕は決して自分に触れてくることはなかった。
 もっと強く抱き締められたい。このまま朋和の腕の中で眠ってしまえたらどんなにいいだろう。ここなら夢を見られるだろうか? もうずいぶん長い間、目を瞑っても夢を見ることなどなかった。
 そんなことを考えながら朋和に縋りつく自分自身を、もうひとりの自分が遠くから眺めているような気がした。



 腕の中に残るヒカリの体温を忘れ去るのは難しい。腕を放した時、朋和は自分の心の中に言い様のない空洞が出来たような気がした。それともヒカリの居なくなった部分がそのままの形で残っているだけなのか。
 なぜそんなところにヒカリが居るのか、それもよく分からない。
「なんで抵抗しないの」
 ヒカリは微かに眉を寄せて、よく分からない、と言いたげな視線を朋和に向ける。
「こんなふうに……されるの、嫌じゃないのか?」
 そんなことを訊ねる自分がなんとも間抜けに思える。誰もそんなことをいちいち相手に確かめたりはしない。
「…嫌がらないのは変ですか?」
 ヒカリはまっすぐ朋和を見返したまま呟いた。
「嫌じゃないんです。自分でも不思議なくらいそうして欲しいと思ってる。…そういうのっておかしいでしょうか」
「そういうことじゃ……」
「あなたのように抱き締めてくれた人は初めてなんです。こんなふうに抱いてくれる人は誰もいなかった。すごく不思議な感じがする……」
「…兄貴は? ほんとに恋人じゃなかったのか」
 ヒカリの表情がフワリと揺れる。柔らかな風を受けて、少しずつ開き始める花のように。
「始めに言ったでしょう? 僕は秀和さんの恋人じゃありません。そう思われても仕方ないけど…」
「じゃあ、一体何だったんだ、あんたと兄貴の関係って?」
「上手く……言えません。一緒にいたいと思ったのは間違いないですけど、恋愛感情というのとは違ってた。秀和さんは僕を通して、何か違うものを見ていたような気がします」
「…よく分かんねぇ」
「すみません、自分でも多分、よく分かっていないんです」
 分からない、というヒカリの気持ちは、朋和にも何となく理解できる気がした。

『ここにいて欲しい』
 確かに朋和はさっきヒカリにそう言った。自分がそんなことを口走ったのだということが信じられなかった。
 その一言がどうしても言えなかったのに。ここにいるヒカリとあの時の秀和と、一体どこが違うというのだろう。
 理由を尋ねられても、ハッキリとした答えなど無い。

 もう一度腕を伸ばしても、ヒカリはやはり嫌だと言わないだろうか。嫌じゃないとハッキリ言われたのに、まだ躊躇う自分が何となく滑稽に思えた。
 肩に軽く手を置くと、ヒカリは素直に顔を上げた。薄い紫色を湛えた透明な瞳が手の届く距離で静かに朋和を見つめ返している。
 初めて自分を見上げたこの瞳を見たとき、突き動かされるような衝動を覚えた。離したくないと思ったのだ。
 それは朋和が兄と離ればなれになることが現実になった時以来、感じることを放棄してしまった種類の感情。それを何と呼ぶかは忘れてしまったけれど。

 ゆっくり顔を傾けると、朋和が思っていたよりもずっと自然に唇が重なった。ヒカリの腕が朋和の首を抱き寄せるように回される。
 一瞬、体の中を何かが走った。あるのかどうかも分からない出口を求めて、それは狂ったように朋和の体内を駆けめぐる。体温が一気に上昇して朋和は軽い眩暈を覚えた。
 見えない手に背中を押されるように、ほんの僅かの距離すら無くなった唇の感触を何度も確かめる。
 それは朋和にとって衝動というより、衝撃に近い感情の揺れだったのかも知れない。


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