永遠の花 1/2/3/4/5/6/7/8









「いつから、兄貴と一緒に?」
 ヒカリがゆっくりと顔を上げた。何を訊かれたのか分からないのか、わずかに眉を寄せて視線を合わせたまま、無言で朋和を見つめている。
 もう一度同じことを訊いた。
「いつから兄貴と暮らしてた?」
「……去年の、春、ごろ」
「ヒデちゃんは君のこと、ともちゃんにも言ってなかったから、僕らは何も知らなかったんだよ。……知らせてくれてありがとう」
 比呂斗が穏やかに話しかけると、ヒカリの表情が少し和らいだ。
「秀和さんがよく話してくれてました。弟さんが東京に住んでるって」
「恋人だった?」
「ともちゃん」
 比呂斗が朋和をやんわりと窘める。それに軽く笑顔を見せて、ヒカリがまた口を開いた。
「いいえ、そういうのじゃないです。行くところがない僕を秀和さんが親切で置いて下さって、僕がそれに甘えていたんです」
「じゃ、うちに来いよ。俺もどうせ広い家にひとりで住んでるんだ。あんたの分ぐらい部屋は余ってる」
「でも、あの」
「……兄貴に頼まれたんだよ。あんたを頼むって」
「ともちゃん?」
 比呂斗が怪訝な顔で朋和の顔を見上げた。不思議はない。叔父には聞こえなかったはずだ。兄の最後の願いは朋和だけに伝わった。
 そう、たった今。朋和は確かに兄の声を聞いたのだ。あれは空耳なんかじゃない。
『彼を頼む』
 最後の家族の最後の願い。
 それだけは何があっても叶えてやりたい。もう一度、声に力を込めて繰り返した。
「来るか?」
 ヒカリの紫がかった瞳に微かな表情が宿るのを感じて、朋和は目を凝らした。それは一瞬目の前を掠めるように通り過ぎて、朋和にはそれを読みとる猶予すら与えられない。
 不思議な色彩。不確かな存在感。何もかもが今にもかき消えてしまいそうな気がする。

 気がついたときには、腕を伸ばしていた。

 柔らかい髪が頬に触れる。
 あっけないほどあっさり倒れ込んでくる架空の花を、朋和は両腕でしっかり抱き留めた。折れてしまわないように気をつけながら、回した腕に少しずつ力を込める。
 背中に細い腕の感触。恐る恐る試すような緩やかな動き。やがてそれはしっかりと、朋和の身体を確かめるように交差する。ヒカリの躊躇う感情が流れ込んでくる。
 つなぎ止めたい。
 兄が残した、たったひとつの。
 そしてきっとヒカリも同じように感じている。根拠はないが、なぜかそう思った。
 自分とヒカリは同じ場所に立っている。取り残されて呆然と見上げた視線の先に、お互いがいる。
「連れて、行ってください。側に…………」
 ヒカリは『居たい』と言いたかったのだろうか?
 
 
 警察での必要な手続きを比呂斗がすべて引き受けてくれたお陰で、朋和は新しい同居人を連れて東京へ戻れることになった。自宅に戻って葬儀の手配やら関係者への連絡やら、やらなければならないことが山のようにある。
 人がひとり亡くなると家族には悲しむ時間すら与えられないことは、両親の葬儀のとき、嫌というほど見て知っている。
 あのときは長兄である秀和が、その煩雑なことをすべてひとりでこなした。自分はただ呆然と、話しかけても目を開くことのない両親の姿を長い間見つめていた記憶がある。
 悲しくはなかった。一緒に暮らす人の数が半分になる、そのことを寂しいと思った気はする。本当の意味で両親を失ったと実感したのは、もっとずっと後のことだ。
 秀和が自分の手を離して、遠くへ行ってしまってから。

 兄は決して器用な方ではなかった。何に対しても真正面から物事に取り組む性質で、それは朋和も、秀和に近しい人間もよく知っている。
 その兄がヒカリを大切にしていた。
 それがどういう感情から来るものかは別として、秀和にそれほど強い思いを抱かせる結城ヒカリという少年に興味が湧いた。
 それが本音だろうと、自分で思う。
 叶わなかった兄への思慕。失ったものを満たすために必死で差し伸べた手を振り払われた絶望。
 いつまでも朋和を捕らえて離さないものから逃れるために、すべて忘れた。亡くなった両親のことも、秀和その人も。何より、自分の世界からそれらを追い出すことで楽になろうとした自分自身。
 ――――俺は、彼から何かを知ることが出来ると思っているのか? 
 空港から自宅に向かうタクシーのリアシートに黙って並ぶ少年を横目で窺う。
 結城ヒカリは暗く閉ざされた夜の高速道路に映し出される無数のライトを、ただぼんやりと眺めているように見えた。
 透き通って抑揚のない、虚ろに輝く瞳で。



 事故の知らせを受けてから一週間後、都心のホテルを会場にして叔父 比呂斗の主催による「櫻井秀和を偲ぶ会」がしめやかに執り行われた。
 京都で本葬を済ませて地元の東京でこういう形の会を設けるのは、仕事関係その他のバランスを取るためにやむを得ないことだ。
 知らせる人間を厳選したにもかかわらず、参列者は朋和が想像していたよりはるかに多く、兄のバランスの取れた優しい性格が誰からも好かれていたことが忍ばれた。

 追悼会には朋和の通う高校のクラスメイトも数人来てくれた。その中の一人、瀬田斎とは高校に入ってから知り合ってまだふた月にもならないのに特に仲が良く、彼は朋和もよく知る友人と一緒に早くから会場に顔を出した。
「……平気か?」
 遠慮がちに顔を覗き込んでくる親友の心が胸に染みた。
 ふだんの斎は人懐っこくサッパリした明るい性格で、どちらかというと一匹狼的な朋和とは正反対のタイプだ。それが逆に良い効果を生んでいるようで、二人はつき合いが浅いと思えないほど気が合っている。
「ん……、なんとか?」
「寂しくなるな」
「そうでもないよ。俺、十くらいのころから一人で暮らしてたし、あんまり変わんねぇかも」
「……んなこと、いうな。家族が亡くなって、平気な奴なんかおらん」
 斎の友人、――――恋人の窪塚珱が咎めるように言う。
「平気な顔せんでええから。気ィ済むまでお兄さんの顔、見たか?」
「通夜の時、ずっと一緒にいたけど……見たっけかな? 覚えてない」
「他人やないって大きいよ? 忘れたらあかんやろ……」
 ポツリと呟く少年の瞳に、ほんの少しだけ影が過ぎる。

 その言葉で、ふいに思い出した。
 大学に合格して京都に向かう新幹線のホームで振り返った兄の顔。
 まだ小学生だった朋和を何度も振り返って、発車のサイレンが鳴り出しても固まったようにその場を動こうとしなくて、仕方がないから自分のほうから「早く行け」と促した覚えがある。
 本当は行って欲しくなんかなかった。
 けれど言い出せなかった。
「置いていかないで」とは、どうしても言えなかった。
 兄のシルエットが遠ざかって行くのを、朋和は何も出来ずにただ見送ったのだ。

 あの時は確かに悲しかったのだろう。切っ先の鋭い刃物で何度も斬りつけられる錯覚を感じて、そのあと何度も怖い夢を見た。
 喉を振り絞って叫び声をあげても、兄の顔は浮かんでこない。泣き叫びながらナイフから逃れようともがく朋和を、秀和は一度も助けに現れることはなかった。
 まるでもうこの世にいない人間のように。

(あのときみたいな気持ちなのか? 失うってことは)
 見えない糸を手繰りよせるように、薄れていた記憶をなぞる。

 思うように身体が動かなかったこと。
 何度唇を開いても声が出てこなかったこと。
 兄の記憶を何処かに閉じこめることで、やっと解放されたような気がしたこと。

「朋和、」
 名前を呼ばれて、いきなり現実に引き戻された。ここは兄の追悼会の会場で、亡くなった人を悼む気持ちの沸いてこない自分がいる。
 秀和が亡くなってから初めて、朋和の瞳から涙が溢れた。

「ゴメ、ン、辛いこと言うた。なんか言わなどうしていいか分からんくて、……ホンマに、ごめん……」
 慌てたように珱が朋和の肩に手を掛ける。
 ふだんの珱を少しでも知る人間なら、信じられない状況だろう。突然涙を零した友人を目の前にして、いつものぶっきらぼうな口調がどこかに消し飛んで、まるで子供のように無防備な表情がまともに現れている。
 珱は自分から積極的に話しかけてくるタイプではなく、斎に恋人だと紹介されたときも本人はむっつりと黙り込んでいたぐらいで、その珱からこういう言葉を掛けられると余計にズシリと胸に響いた。
 謝るのは自分のほうだ。珱のせいじゃない。
「違う。お前のせいじゃねぇよ。今はじめて涙が出た……。家族が死んだってのに俺、悲しくないの。っていうか悲しいっての、よく分かんなくて、俺って冷たいのかなとか思ったら泣けてきた」
 本当はそうじゃないけれど、照れくささに助けられて素直な言葉を少し口に出来た。こんなにも心を砕いてくれる友人に、この気持ちを正直に伝えられないのがひどく寂しい。
「ワリ、……ちょっと、まずい」
 自分でも可笑しいくらいに、涙があとからあとから頬を伝って流れていく。不思議な気分だ。今流れている涙は悲しみのそれではなく、朋和に暖かさを教えてくれる。
 珱の傍らで黙って事の成り行きを見守っていた斎が、唐突に口を開いた。
「お前にも肩、貸してやろうか?」
「いらねぇよ」
 苦笑しながら見上げると、斎は当たり前のように珱の頭を抱き寄せてやっていた。
「声出してもいいぞ」
「うるせぇよ…………」
 これはこの男流の慰め方だ。他の人間ならふざけているように聞こえる台詞も斎の口から出るとそんなふうに感じないのは、人好きのするおおらかな性質のなせる技だ。
「コイツがもう一回謝ったら、お前がちゃんと言い聞かせろよ? このお人好しは俺の担当じゃないからな」
「やらねぇよ。俺のだもん」
「いらねぇ、キレイだけど怖いもん、珱って」
 斎が言うのに、朋和が即答で言い返す。
「おまえらな……」
 少し顔を赤らめて、珱がもぞもぞと身体を捻った。斎の腕から逃れようとしているのだが上手くいかないらしい。何度か試したあと、「クソっ」と呟いてとうとう大人しくなった。
「アホ斎……」
 恨めしそうに恋人の名前を呼ぶのに、当の斎はどこ吹く風で、朋和を横目で見ながら何とも言えない表情でニヤリとする。
 その様子が可笑しくて泣きながら笑った。
 それで少し気が晴れた。

「な、誰? あいつ。あそこにいる」
 斎が会場の隅を目で指し示す。視線の先を探すと、華奢なシルエットが目に入った。
「ああ、ヒカリ……結城ヒカリ。兄貴が京都で一緒に住んでたらしい」
「俺らと年、変わらないくらい?」
「多分な。まだあんまり詳しいこと聞いてないんだ。行くとこなさそうだから連れて帰ってきた」
「へぇ…………」
 壁を背にしてぼんやりと宙を見つめるヒカリの存在は、大勢の人間が行き交う煩雑な雰囲気の会場内でひどく目立った。浮いているといった方が近いかも知れない。短い時間のあいだに幾人もの人間が、引き寄せられるように彼を振り返ってまじまじと見つめる光景が何度も見られた。だからこそ目に留まったのだろうが、斎はそれ以上突っ込んで聞くことはしなかった。そこが斎のいいところだ。本質的にはおおらかだが、実は人一倍相手の事情に気を配る。
 少しだけ聞いたところによると珱の家庭に多少の問題があって、それをフォローするためなのだろう、斎には年齢よりも幾分大人びている一面がある。
 朋和はもう一度ヒカリを振り返って、見た。
 結城ヒカリは相変わらず、表情も変えずに弔問客でごった返す会場の隅に一人、佇んでいた。
 話しかける人もなく、そこだけが時間の波から取り残されたように静かだ。何を考えているのだろう。少し俯き加減でじっと一点を見つめたまま、身動ぎもしない。
 ヒカリの様子が気になるのか、斎が気遣う表情を見せる。
「あいつも、大丈夫なのか?」
「わかんねぇ。ずっとああなんだ、こっちに来てから」
「しんどいな、ああいうの」
「……どうして?」
 珱がぽつりと呟いた言葉の意味を測りかねて、朋和が思わず聞き返す。珱は少し躊躇うように言葉を探して、ゆっくりあとを繋いだ。
「なんとなく、……気持ちの持って行き場が無いような感じやな、思て」

 そうなのかも知れない。ヒカリも、……朋和自身も。
 兄の死は突然だった。
 あまりにも唐突に『この世からいなくなった』と聞かされて、最初に頭に浮かんだのは『このあいだ電話で言ってた論文の件はケリが付いてたのか?』なんてことで、それからしばらくそのことが気になって何度も大学に確かめようと思ったくらいで。
 自分でも冷たいと思う。思うがそれ以上、何の感想も出てこないのが正直なところだ。

 知りたい。ヒカリが今何を思っているのか。『恋人ではない』と言い切った彼が、どんな風に兄と心を通わせたのか。
 
 居ても立ってもいられなくなって親友二人に別れを告げると、朋和はヒカリを探した。
 振り返ったとき、ヒカリはすでに会場内にはいなかった。隅から隅まで目を凝らしても姿が見あたらない。どんな人混みの中でもあの姿は見失わないはずだ。
(どこへ行った? あいつ)
 時間は9時をとっくに回っていて、そもそもふらっと何処かへ出掛けるような場合じゃない。それにあの様子では、ヒカリに他に行く当てがあるとも思えなかった。
 慌てて会場を出ようとして、後ろから比呂斗に呼び止められた。
「ともちゃん。どこへ行くの」
「あいつ、どこ行ったか知らない? 兄貴の……」
「ヒカリくん? さぁ……、さっきまでそこにいたと思ったけど」
 やっぱり外に出たのか? 行くところもないのに? 詳しい事情を何も知らないはずが、なぜかそんな気がする。ヒカリの持つ、どこかしら空虚な雰囲気がそう思わせるのかも知れない。
「俺、探してくる。なんかあったら電話して」
「ちょっと、ともちゃ……」
 比呂斗の制止も聞かずに、朋和は会場を飛び出した。


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