ホテルの玄関を出るとそこは広い前庭になっている。けれど門を一歩足を踏み出すとすぐ幹線道路に行き当たって、車を使わなければどこにも移動できない。こんな場所からフラリといなくなるなんて、あのヒカリという男は何を考えているのだろう。
「あの」
正面玄関で車の誘導係を捕まえて尋ねてみた。
「さっき、かどうかは分からないんですが、俺と同じ年くらいの細っこい、えっと」
植物みたいな雰囲気の少年、などと言っても通じるわけがない。
「…そういう感じのヤツが出ていきませんでしたか?」
当然の事ながら、ボーイは少し考える素振りを見せたあと、「申し訳ないが知らない」と慇懃な態度で微笑んだ。
確かにこんな曖昧な説明で見掛けたかどうかと言われても、答えようがないだろう。今日は日曜で、ホテルの中は宿泊客やその他の人間で信じられないほど賑わっている。よほど目立つ格好でもしていない限り、ボーイが横を向いているあいだに通り過ぎれば、おそらく全く気が付かれないに違いない。
朋和は舌打ちしたい気持ちを抑えてボーイに礼を言うと、駐車スペースをまっすぐ突っ切って一直線に正門を走り出た。
猛スピードで目の前を通り過ぎる車のライトに目を細めながら、周囲を見渡す。この辺りは自宅から離れているためあまり土地勘がない場所で、どこをどう探せばいいのかさっぱり分からない。
とりあえず交差点にでも行ってみるしかないだろう。
(なんで俺、こんなに必死になってアイツを探してるんだろ?)
言いようのない焦燥感に、どうしようもなく背中を押されながら。
ヒカリだけが、兄が過ごした京都での歳月を埋める術のような気がしてならない。朋和の知らない6年という空白の時間を埋める何か。何より今手離してしまったら、二度とヒカリに会えなくなるような気がする。
地平線の向こうにゆらりと立ち上る実体のない影。蜃気楼のようにあやふやな、存在自体が曖昧な少年―――――結城ヒカリ。朋和は知らず知らず走り出していた。
ホテルの正門から右に50メートルほど進むと、そこは四車線の道路が縦横に走る交差点になっていて、さらに東に向かって緩い坂道が続いている。交通量が多く信号がないため、まるで空を切り取るように歩道橋が四方に掛けられている。その一つに目が留まった。
朋和の立っている場所から一番近い歩道橋の上に、華奢なシルエットが見える。
ヒカリだ。遠目からだが間違いない。朋和は慌てて手近な階段を駆け上がった。
歩道橋の上は心地よい風が吹いていた。強くも弱くもなく、両腕を前に組んで手摺りに凭れながらぼんやりと前方を見つめていると、髪が緩やかに風に舞う。その感触に少しだけほっとした。まだ生きている。そんな気がする。
ここは人が多すぎる。人間の数が多い分だけ、ひとりひとりの存在が小さくなってしまう気がする。必死で目を懲らさないと見つからない。誰も―――――何も、大事なものは何一つ。それとも見つかるかも知れないと思ったこと自体、錯覚だったのだろうか?
人が近づく気配を感じてヒカリはゆるりと首を巡らせた。階段を駆け上がってくる足音。どんどんこちらに近づいてくる。目を細めてその人物を見つめた。
「どうして……?」
駆け寄ってくる朋和を認めて、初めてヒカリの淡色の瞳に表情が戻った。ほとんど動かない唇から漏れる言葉は、ひっきりなしに行き交う車の排気音にかき消されてしまいそうだ。
ふと、目の前の腕に飛び込みたい衝動に駆られた。初めて出会った時のように。
「行くトコないくせに……フラフラすんなよ」
小さく息を吐き出しながら、近づいてくるシルエットがが呟いた。その声は不思議なくらい兄と似たところがない。
行くところがないのなら。
あの人も……秀和もたしかそう言った。
『行くところがないのなら、僕と一緒に暮らさないか?』
そんな風に手を差し伸べてくれた人は、秀和が初めてだった。その言葉に救われるように新しい生活へと飛び込んだ。
秀和は優しい人物だった。
何も聞かない。強制しない。覚悟していた体の関係を迫られることもなかった。
疑問に思って聞いたことがある。
『なぜ、僕をここに置いてくれるんですか?』
不安な顔を見せるヒカリに、秀和は困ったように表情を歪ませて、こう言ったことがある。
『僕も、……君と同じだから』
それ以上の答えを、ヒカリはついに聞くことが出来なかった。
「探したぞ」
低い声で短く言うと、朋和は乱れた息を整えながらヒカリの横に並んだ。
「すみません。人の多さで、ちょっと参ってしまって」
「いいけどさ。来たばっかでうるさいとこに引っ張り出したしな。ただ、どっかで迷子にでもなってんじゃないかと思って、焦った」
「すみません」
ヒカリが見つかったことで安心したのか、朋和が初めて笑顔を見せた。
「謝ってばっかだ、お前」
「すみませ……」
言いかけて、ハッと口を噤む。その様子にまた朋和が低く笑った。
「謝んなくてもいいって」
似ていないと思ったのは間違いかも知れない。朋和は秀和とどこか似ている。言葉から滲み出る雰囲気―――――相手を包み込むような、穏やかな気配のようなものが。
「会は終わったんですか?」
「ああ、いや、まだみんな帰ってない。兄貴は好かれてたんだな。来るヤツ来るヤツ、惜しい人を亡くしたって言ってくれる」
「優しい人でしたから」
「そうかもな。俺はよく知らないけど」
朋和の口調に、自嘲するような響きが混じる。
「知らないのにご会葬ありがとうございます、とか言って頭だけ下げて、なんかすげえウソっぽいよな。いやんなる」
「……知らないって、どういう意味ですか?」
「知らないんだよ、兄貴がどんな人間だったのか。早くに別々に暮らしはじめちまって、だから友達とかより兄貴のこと、俺は全然知らないと思う」
「そんな…」
そんなことがあるのだろうか?
秀和と朋和はたった二人の兄弟のはずだ。離れて暮らして長いとは聞いていたが、朋和のことを話す秀和の口振りから、朋和の言うような決定的な距離を感じたことはない。
「秀和さんはよく、あなたのことを話してました。年の離れた弟がいるって。素直でしっかりしてて、自分がいなくても東京でしっかり生活してるって」
「しっかりね…………」
朋和は体を捻ってヒカリから視線を外すと、足下を流れる車の群をみつめながら、独り言のように呟いた。
「しっかりってのはどういうことを言うんだろうな? 泣かないこと? 追いかけて、駄々を捏ねないことか?」
「朋和、さん」
「兄貴は、……なんにも分かっちゃいない。……いなかったんだな」
そして、朋和自身も。
そんな言葉が続いて出そうな気がした。
ヒカリの中に朋和への興味が急激に沸いた。秀和の弟だという、そのこととはかけ離れた、櫻井朋和その人への強烈な感情が。
その言葉の意味を知りたい。朋和自身の素直な感情を。
「あなたにとって、秀和さんはどんな存在だったんですか?」
「……帰ろうか。叔父に終わりの挨拶を代わってもらうよ。俺も家に帰りてぇ」
朋和からの答えはなかった。
兄の葬儀と追悼会を終えて、朋和は一週間ぶりに学校へ戻った。
「元気か?」
「おうよ」
校門の手前で朋和の姿を見つけた瀬田斎が駆け寄って、心から嬉しそうな笑顔を見せた。歩調を合わせて校門をくぐる。
「いろいろサンキューな。助かったわ」
「別に俺はなんもしてねぇだろ? 大変だったのはお前なんだから」
「んなことねぇよ。マジで助かった。追悼会でおまえらの顔見て、マジで泣けた」
斎はほんの少し唇の端を引き上げて、愛嬌のある表情を見せる。それ以上何も言わない親友に、朋和は心の中でもう一度礼を言った。
「アイツも元気? 結城……ヒカリ?」
「ああ、」
朋和の家で生活し始めて1週間がたった今も、ヒカリは相変わらず自分のことを詳しく語ろうとしない。こちらから訊かないせいもあるだろうが、言いたくないことを無理に言わせるのも気が引けて、お互いに口を噤んだまま今日に至っている。
考えれば考えるほど、ヒカリという少年の存在が不思議に思えてくる。身軽に東京まで付いてきたということはおそらく学校には通っていないのだろうし、そもそも本当の年齢すら分からない。
追悼会の夜、ヒカリは唐突に「朋和にとって、秀和はどんな存在だったのか」と訊いた。その真意を測りかねて朋和はその質問を無視してしまった。
訊きたいのはこちらの方だ。でもなぜか朋和はそれを言い出せないでいる。
教室に足を踏み入れる寸前、斎がポツリと言った。
「家出、かもよ?」
「家出? ヒカリが?」
「なんか……昔の珱と似てるんだ、アイツ。どこって上手く言えねぇけど。ていうか俺らの年齢じゃ、フツーに考えて、そうだろ」
珱が様々な理由から家を飛び出して斎のところで暮らしていることは、斎から聞いて知っている。離れて暮らしながら、少しずつ両親との関係を修復しようとしているのだという。斎はそんな珱を全面的に支えてきたから、そう言う事情のある人間に敏感なのかも知れない。
「そうかも……。そう考えるのが妥当かもな。兄貴のとこに来て1年になるっていうし、東京に来てから誰かと連絡を取ろうとかしたことも一度もないし」
「無理に聞き出さない方がいいのかもな。そのうち本人のほうから言いたくなるかも知れねぇし」
「だと良いけど」
ざわめく教室内に始業のチャイムがけたたましく鳴り響いて、いつもと変わらない日常の始まりを否応なしに告げた。
櫻井家の庭先は見事な花々で埋め尽くされている。季節は春。冬の厳しい寒さを乗り切るために丹精された成果が一斉に咲き誇る瞬間だ。
梅宮ハツは薄いピンク色を纏って健気に咲く大輪のバラを、丁寧にいくつか摘み取った。蔓を傷つけないように気をつけながら花鋏を差し込む。パシッと気持ちのいい音がして、柔らかい花びらを湛える塊が掌に落ちた。
「花はね、応えてくれるんですよ」
見る者をホッと安心させる穏やかな瞳が、背後に立つ少年に向けられる。少年は少し首を傾げて、黙って次の言葉を待っているようだ。その顔にハツは軽く微笑みかけて話を続けた。
「大切に、根気よく手を掛ければ、それだけ一生懸命咲こうとする。自分に与えられる愛情というものを、植物は自然に受け入れているんです」
「愛情…………」
ハツの言葉を少年―――――ヒカリはまるで初めて耳にする呪文のような、曖昧なニュアンスで繰り返した。
朋和が京都からヒカリを連れ帰ってから、1週間が経とうとしている。初めは戸惑ってぎこちなかったヒカリもこの家の生活にようやく馴染んで、ハツとも親しげに会話を交わすようになった。
彼が秀和の元で1年ほど暮らしていたということは、朋和が帰宅する前に叔父の比呂斗から聞いていた。見ず知らずのヒカリを東京の自宅に連れて帰ると言い出したのが、朋和の方だということも。
秀和が亡くなって路頭に迷う少年を、朋和は放っておくことが出来なかったのだろう。だからここに住まわせることにしたのだ。小さい頃から朋和の身の回りの面倒を見てきたハツは、彼の優しさを誰よりも知っているからよく解る。解るが、ハツは自分の心に影のように浮かび上がってくる不安をどうしても拭い切れないでいる。
ハツが櫻井家で家政婦として働き始めてから、30数年が過ぎようとしている。以前は朋和の叔父 比呂斗の家に住み込みで働いていたのだが、朋和と秀和の両親が相次いで亡くなり、兄の秀和もここを離れて京都で暮らすことが決まったときから、朋和の世話を主に任されるようになった。今は朋和が自分のことをある程度出来るようになったので、両方の家を週に三日ずつ、交互に行き来して家事一切をこなしている。
朋和がヒカリを伴って京都から戻って来ると知った時は、正直言って驚いた。いくら京都で秀和が一緒に暮らしていたとはいえ、素性も解らない他人を、しかも朋和とほぼ同世代に見える少年を同居させるなどとんでもないことだし、朋和にもはっきりとそう言った。どんな事情があるにせよ、すぐに事実関係を調べて、一日も早く然るべき所へヒカリを送り届けるのが常識だ。だが、朋和はなぜかハツの意見を頑なに拒絶した。
「少しの間でいい。ここに置いてやりたいんだよ」
ここにいて欲しいんだ。そう言っているように聞こえた。少なくとも、自分には。
ハツの脳裏に、幼い頃の朋和の記憶が蘇る。
遠くへ行ってしまう兄を見送りながら、涙ひとつ見せない10歳の朋和。ここに来て心を決められないように弟を何度も振り返る秀和を、細い顎をキュッと上げて「早く行かないと、電車が行っちゃうよ」と、突き放した。
その姿は身も世もなく泣き叫ぶより、はるかにハツの心を打った。何かを堪えるというより最初から見ないように目を塞いでいる―――――そんな風に感じた。
あれから6年。とうとう朋和はたったひとり、この世に取り残されてしまった。成長した朋和は傍目には立派な少年で、年よりもずいぶんしっかりしている。兄の死について、自分を見失うほどショックを受けているようには見えない。
けれど、とハツは思う。
朋和は何かを得られないまま大人になってしまうのではないか?
小さい頃、誰もが当然のように受け取って、当たり前のように失ってゆく大事な何かを、誰からも与えられないで。
だからこそ、このヒカリという少年に殊のほか拘るのではないか?
ハツの目から見て、朋和とヒカリはどことなく似ている。人の目から外れた庭の片隅で誰にも気づかれずにひっそりと咲く、忘れられた花のように。
「風が、出てきましたね」
ぼんやりしているハツに、ヒカリが静かに声を掛けた。5月だというのに、今日の風はいやに冷たい。ブルッと身を震わせてハツはヒカリを振り返った。
「そうですね。中に入って体を温めましょう。温かいお茶を淹れますから」
その言葉にヒカリは素直に頷いてゆっくりとした動作で身を翻すと、まるで初めからそこにいなかったかのように、家の中へと消えた。
|