 |
(9) |
その夜由貴はなかなか寝つけなかった。気を失うようにうつらうつら目を閉じては引き戻されるように目を開ける。そんなことを繰り返した。
眠ることを諦めて、隣で眠る夏彦の表情をそっと窺う。
由貴の隣で夏彦は静かな寝息を立てながら、安心しきった子供のような顔で滾々と眠りについていた。淡色の前髪がフワリと額に掛かって、由貴の気配を感じてか夏彦が少し身動ぐと、それは滑らかな軌跡を描いて滑り落ちた。
その顔を見つめていると、なぜか涙が出そうになった。何故かは分からない。もう一度夏彦を揺さぶり起こして、激しく抱き合いたい衝動に駆られた。
それは性的な欲求というより、焦燥感とでも言った方が合っている気がする。どうしようもなく感情が揺れている。これじゃまるで鬱陶しくて由貴が自分から別れて来た女たちと同じだ。
手に入りかけているのに実感が湧かない。由貴を好きだと言い、全身で由貴を求めながら、その一方で夏彦の瞳は全く別の方向を見つめている。
いつか壊してやるから。待ってろ、いつか自分と夏彦を隔てる京吾という厚い壁をこの手で叩き壊してやる。由貴の中に強烈な感情が沸き上がる。
低い温度で燻っていた水がいきなり大きな泡を立てて沸騰する。
言い様のない怒りが由貴の中心を貫いていく。
これは紛れもなく嫉妬という感情だ。
翌日は1日中ずっと二人で過ごした。
昼前に起き出して遅い朝食を済ますと、由貴はカメラを手に夏彦と一緒にマンションを出て鴨川へと向かった。
もうすぐ梅雨が明けるからか、日射しはもうすっかり夏の気配に満ちてTシャツから覗く腕や首筋を痛いほど照らしている。夏彦は強い光を遮るように片手を顔の前に掲げた。
「なんかもう夏っぽいな。あっつ…」
「祇園さんすんだらいきなり夏になるしな。毎年のことやろ」
「夏休み、どっか行こうか」
「どっかって?」
「海とかさ、何処でも良いけど由貴とどっか行きたい」
夏彦が振り返って由貴をじっと見つめる。
「ここやないとこ。…由貴と俺しかおらん所。わがまま?」
そう言って笑う顔を見ていると、手を伸ばして夏彦の細い体を抱き締めたい衝動に駆られる。人のいる場所でさすがにそんなことは出来ないから、抱く代わりに由貴は無言でカメラを構えた。
「…その時だけは俺のもの?」
「ずっと由貴のもの。その時だけやないよ…」
夏彦はそうやって嘘をつく。
聞こえなかったふりをして、由貴はゆっくりとシャッターを押した。
電話のベルの鳴る音で夏彦は眠りから引き剥がされた。無機質な機械音が甲高い音を立てて自分を呼んでいる。時計に目をやると、午前3時を回ったところだった。
ナンバーディスプレイは否応なしにそれが誰からの電話なのかを教える。出ないわけにはいかなかった。
「もしもし…京吾?」
「すまない、起こしてしまったね」
「ううん平気…。俺が眠りが浅いのは知ってるだろ? 別に眠らなくても平気だから心配しないで」
少しだけ嘘をついた。以前は典型的な不眠症で医者に掛かったこともある夏彦だったが、最近は自分でも信じられないくらいよく眠れるようになっている。きっと精神が安定することで体も楽になってきているのだ。
「どうしたの、こんな時間に?」
「いや…、用事は特に無いんだけど、何となく夏彦と話をしたくなって」
珍しいことを言う。京吾が夏彦に向かってこんなことを言ったのは初めてのことだ。胸が、捻れるような痛みを訴えた。
「変なの。今まで京吾が俺にそんなこと言ったこと、ないよ」
「当たり前だろう? わざわざ心配させるようなことを、僕が君に言うわけがない」
「そうなの?」
「そうだよ」
声が震えないように、夏彦は唇を固く結んだ。
受話器から流れる京吾の声はいつもと同じように穏やかで優しい。この声に縋りながら夏彦は今まで何とか自分を保ってきた。京吾がいなければ自分があのままどうなっていたか、考えるだけで体が凍りつくような恐怖が蘇る。
けれど今、自分を楽に眠らせてくれているのは電話の向こうの声じゃない。
「ちょっと今、嫌な仕事を抱えていて、…こんなこと聞いても大丈夫か?」
「平気だって言ってる。言って」
夏彦がそう言うと京吾は小さく息を吐いて、ゆっくり話し出した。
「買い上げが決まった土地絡みで揉めてるんだ。他はスムーズに進みそうなんだが、一軒だけ問題があって。…と言うよりすごく嫌な気分なんだよ。小さな貸ビルなんだが、中に女の人がひとりでやってる店があってね。調書を読んで気になって行ってみたら古臭いけれど良い店でね。そこのママと話をした。
…感じの良い人だったよ。今まで何とか頑張ってきたけど、こんな不景気じゃしょうがないって。こういう仕事をしていると、時々感受性が鈍くなるような気がする。人の痛みを感じられなくなるって言うのか、怖いね……」
「京吾、大丈夫?」
京吾が本当に参っているのが、受話器を通して遠く離れた場所にいる夏彦にも痛いほど伝わってくる。
そうだ、なぜ忘れていたんだろう。京吾は昔からこんな風に優しい人だった。子供だった俺と遊んでくれた京吾はとても優しかった。強くて優しくて、だから夏彦は京吾を心から愛した。
ふいに由貴の顔が心に浮かんだ。由貴は全てを知っていて、それでもなお夏彦に自分を与えようとしてくれる。由貴という存在はこんなにも夏彦を落ち着かせ、支えてくれている。
欲しがるだけでは何も生まれないのかも知れない。
「京吾」
「ん? …なんだ?」
好きだよ。言葉にしなくても、伝わるものもあるような気がした。
「京吾ね、俺が今、何を考えてるか分かる?」
「分からないな…」
「どうして急にそんな話をしてくれる気になったのかなって。不思議。俺、もしかして変わった? …大丈夫になって来たように見える?」
穏やかな声は少し黙り込んで、
「そうだね、そうかも知れない。今までだったら、こんなことを君に言ったらまたおかしな事を考えるんじゃないかって思っていたから、怖くて絶対に言わなかった。そうか、君が変わったのか。そうか……」
京吾は確かめるように何度もそうか、と繰り返す。何かを堪えているような、抑えた声だ。その声は夏彦の耳に音もなくひっそりと流れ込んだ。
「明日、こっちに来られる? 会いたい。京吾ともっと話がしたい」
「わかった。ちょうどそっちに行かなきゃいけないから。少し時間が掛かるけど構わないか?」
構わない、と返事をして電話を切った。初めて言えた。あれ以来京吾に、会いたいと自分から。
夏彦の胸の中を二人分の影が過ぎる。そのどちらも他に換えられるものがないほど大きく、胸が締め付けられるほど愛おしい影だった。
「真之な、どうも最近家に帰ってへんらしいで」
昼休みに由貴のクラスに顔を出した岩居は困惑した顔で早口にそう言うと、由貴の目の前の席にドカッと腰を降ろした。
「昨日も電話したけど、アイツ携帯切っとった。ママんとこに電話してもまだ帰ってへんって言うだけでなんや事情がさっぱり分からんわ。お前、アイツから何か聞いてへんか?」
「いや、…最近俺も真之とここ以外で会うてないから」
ここのところ真之は3日に1回は学校を休むようになっている。顔を会わせると別に変わった様子もなく明るくしているからきっと夏休みに入る直前で浮かれているんだろうなどと、由貴はそのことについて軽く考えていた。家にも帰っていないと聞くと、さすがに心配になる。友達のことを放り出して自分のことだけにかまけていることに、少し胸が痛んだ。
自分でも不思議だが、夏彦と真剣に向き合うようになってから、由貴は時として岩居や真之の存在を心からありがたいと感じるようになった。別に何を話すわけでもなくちょっとした冗談を交わすくらいのことで、おかしいくらい心が落ち着く時がある。以前の由貴には無かった感情だ。
「悪い…、俺ちょっと今、余裕なくて」
こんなことを口にするのはとんでもなく照れ臭いのだが、岩居には以前心の内を話してあるから、少しは気が楽だ。岩居が軽く頷きながら苦笑する。
「まぁ、由貴の場合しゃあないやね。大事な彼女のことで手ェいっぱいいっぱいやもんね。分かる分かる」
「くっそ……」
岩居の言葉にまた恥ずかしくなって耳が熱くなる。でもそれは間違いなく本当のことだ。
あれから由貴と夏彦は以前よりももっと頻繁に会うようになっている。というより毎日欠かさずと言った方が正確だ。平日は時間の許す限り一緒にいて、休みの日も事情が許せば必ず会いに行く。まるでお互いに顔を見なければ息も出来ないと思い込んでいるみたいだと思う。そして会うと必ずどちらからともなく求めては抱き合った。
会えないときは苦しかった。由貴と夏彦が会えない事情。それは夏彦が別の人間と過ごす時間だからだ。
京吾が部屋に泊まりに来るとき、夏彦は必ず京吾を選ぶ。
「ごめん、明日と明後日はあかん…。ゴメンな……」
昨夜も身支度を整えて帰ろうとする由貴を引き止めて、夏彦はそう言った。京吾が来るから、とは言わなくても分かる。それ以外に夏彦が由貴と会わない理由はないからだ。
消え入りそうな声で呟く夏彦を見ていると、嫌だとは言えない。元よりそれを許したのは由貴自身だし、夏彦が本当に申し訳なく思ってくれていることもよく解る。それでも心が苦しいことに変わりはなかった。
こんな中途半端な関係はいつまで続くんだろう。まだ始まったばかりなのについそんなことを考える。
夏彦は迷っている。選べないでいる。そこから抜け出せないでいる。
腹を括ってとことん待つか。それとも狂ったように喚き散らしながら夏彦を壁の向こうから引きずり出すか。
足音が近付いてる。その時は確実に来る―――――いつか、たぶん近いうちに。そんな予感がした。
その日の夜、由貴と岩居は一緒に木屋町に向かった。賑やかな通りの中心から少し外れたビルの間を縫うように、真之の家へと歩く。休日を控えた町中は相変わらず雑然としていて、様々な年齢や格好の人間がひっきりになしに行き交っていた。
「帰れ言うてんのがわからへんのかっ!!」
突然、聞き慣れた声が二人の耳に飛び込んできた。由貴と岩居が思わず顔を見合わせる。二人とも同じ事を考えているのが手に取るように分かった。真之の声だ。慌てて二人同時に走り出した。
「わざわざこんなとこまで顔出しよって、人を馬鹿にしやがって。金で何でも買えると思ったら大間違いや。今度店に顔出したらただじゃ置かへんぞっ。殺したる! 絶対生きて返さへんからそう思え!!」
あのお人好しの真之がそんなことを口走るなんて、どう考えてもただ事じゃない。転がるように角を曲がった途端、血相を変えて怒鳴り散らす真之の姿が目に飛び込んできた。その後ろにママの姿もある。いつも明るい気丈な顔を思い切り歪めて、真之の背中に縋るような格好で必死に何かを叫んでいる。
真之は数人の男と言い争っていた。その中の何人かはひと目でまずい世界の人間と分かる風体をしている。そんな連中を相手に喧嘩を売ったら、真之の方こそただでは済まない。恐怖から、由貴の鳩尾の辺りに冷たい痛みが走った。
「ガキやと思って大目に見とったら、なんや偉そうに言うやないか。いっぺん恐い目に遭わな、賢うならへんのか、このボクはァ?」
下卑た笑い声が上がる。さすがに高校生をいきなり袋叩きにするほど血の気の多い連中ではないようだ。けれど頭に血が上った真之にとって、男達の冷笑は火に油を注ぐ事にしかならない。
「黙れやっ! とっとと失せろ、そこらのゴミ喰って生きてるような蛆虫がァ!」
真之を取り囲んでいる空気がいきなり膨張した。真之の痛烈な罵声がとうとう男達の怒りを買ったのだ。
馬鹿野郎ッ、そんなことを言ったら今度こそ本当に連中が切れる。胃がキリキリと痛んで吐き気が込み上げた。こんな場面に飛び込んだら由貴も岩居も同じように酷い目に遭うだろう。それでも止めないわけには行かない。
強張る体を支えながら飛び出そうとした途端、
「いい加減にしなさい。子供相手にそんなことを言わないでくれ」
よく通る穏やかな声が、血気に逸った場の空気を静かに抑え付けた。
その人物は少し離れた所から真之達のやり取りを見ていた。男はゆっくりと荒っぽい連中と真之の間に割って入ると、静かに真之を見た。
「すまない、君の神経を逆撫でするようなことを言ってしまったことは謝る。でもこれは正式な取引だから、実際に君にはもう出来ることはないんだ。お母さんもさっきそう言っただろう? …やり切れない気持ちは分かるが」
ゴッ……
鈍い音がして、男の体が突然よろけた。真之が男を拳で殴り飛ばしたのだ。少し勢いの削がれた数人がまた血相を変えて身を乗り出すのを、男が首を振って制す。そのまま踵を返して、後ろに控えている黒塗りの車に戻り始めた。
優雅な身のこなしで立ち去る男の横顔を穴が空くほど見つめて、由貴はようやくその男に見覚えがあることに気がついた。あの男だ。以前ママの店の前で擦れ違った、身なりの立派な青年。間違いない。店の雰囲気にあまりにもそぐわなくて奇妙だったから、一度会っただけだがよく憶えている。
何か大変なことがママや真之の身に起きている。一体何があったのか。どうしたらいいのか。思考がバラバラに解けたまま、視線は男が乗り込んだ車が動き出すのをぼんやりと追っていた。
リアシートに滑り込んだ男に誰かが顔を寄せて、懸命に覗き込んでいる。真之に殴られた傷の心配をしているのだろう。その人物がふとこちらに顔を向けた時、横顔が外灯に照らし出された。
自分の目がどうにかなったのかと思った。
―――――夏彦だ。あの顔を見間違えるはずがない。
頭の芯がヒヤリとした。まずいな、ホントに吐き気がして来やがった…。
あれが京吾か、…………なんてこった。