(10)

 

 京吾と夏彦を乗せた車は、しばらくそこに留まったあと、ゆっくりと姿を消した。京吾の周囲に付いていた男達の中にはまだ腑に落ちない態度を見せる者もいたが、結局散り散りに駐車してあったそれぞれの車に乗り込んでその場を去った。残されたのは固く拳を握り締めて動かない真之と、その腕を掴んだまま離さないママと、足が竦んで動けなくなっている由貴と岩居だけだ。
 外れのビル街を行き交う人間は少なく、いたとしても周辺の事情を良く知る人間がほとんどで、目の前の揉め事に全く興味を示さずに目の前を通り過ぎて行く。似たようなことはしょっちゅうある。そのひとつひとつに目を向けてもキリがないことを皆知っているのだ。
 色が無くなるほど握り込んでいる真之の手の甲は切れて、僅かに血が滲んでいる。こんな場面なのに、由貴は真之の拳が血を流していることに何となく安心した。
 人を殴り慣れていないと大抵の場合相手だけでなく、こんな風に自分も一緒に傷つける。そして人は痛みを知る。真之は決して心の底から相手を傷つけようと思った訳じゃない。そう信じたかった。
「由貴、岩ちゃんも…どうしてここにいるの」
 突っ立ったまま声も掛けられなかったふたりに、ママがようやく気づいた。
「見てたんか、今の? …怖かったやろ。大丈夫?」
 唇こそ僅かに震えたが、それ以外はほとんどいつもと変わらない顔で笑おうとする。努力の甲斐あって、ママの顔は少なくとも泣いているようには見えなかった。
 ママこそ声がまだ震えてるくせに、本当にこの人は。ホッとするのと同時に情けないくらい全身から力が抜けて、由貴は危うくその場にへたり込みそうになるのを何とか堪えた。由貴のすぐ横で岩居が妙な音を立てて鼻を啜る。
「真之、大丈夫か? 手ェ怪我してる」
「ああ、ほんまや…」
 また少し笑って、ママは真之の手を取ると、傷に触らないように上からそっと撫でた。
「アホやろこの子、こんなんして。…もうええて言うてんのに」
 まっすぐ前方を見据えたまま、真之が低く唸り声を上げる。
「ええことあるか……おかんの店、潰されんねんぞ。何が借金や。何も知らん金持ち連中が金にあかせて、人のこと良いように弄くり回しよって。絶対許さへん、俺が絶対何とかしたる…」
「まぁちゃんな、お願いやからアホなこと考えんといて。潰されるんやない、こっちから手放すんや。そこんとこ絶対間違うたらあかん。そこ間違うたら行く道も間違う。…大事な事やで」
 ママは硬い表情で、それでも子供達に含むように言って聞かせる。何処までも強く、地に足のついた女の姿だ。
「何とか出来るならとっくにしてる。…まぁちゃんが学校辞めなあかんようになる前に、あたしが何とかした。せっかくまぁちゃんが頑張って良い学校に入ったのに、辞めさしたくないもん…」
 今度は上手く行かなかった。笑おうとしているはずのママの頬は、涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。
「くそっ!」
 真之は足下に置いてあったポリバケツを力一杯蹴り飛ばすと、そのまま店と反対の方向へ走り出した。
「ちょっ、ちょお待てや! どこ行くねん、真之っ」
 岩居が慌ててその後を追う。
 バタバタと騒がしい音を立てて遠ざかっていく二人分の足音を、由貴は聞くともなしに聞いていた。と言うより、音がまっすぐ耳に入ってこないのだ。
 気がつくと吐き気は治まっていた。代わりに胃に氷を詰め込まれているような圧迫感を覚えた。凝縮された恐怖感。背筋が粟立つような重く冷たい感覚だ。
 この氷がすべて溶けて水に戻った時、体の中から溢れ出した水はどこに流れて行くんだろう。

 もしかしたら夏彦には届かないかも知れない。なぜ自分がそんな風に感じるのか、由貴にはどうしても分からなかった。
 



 





 京吾の口元に滲んだ血の痕を濡らしたタオルで丁寧に拭き取ってから、夏彦は小さなプラスティックケースの蓋を開けて、消毒用の薬瓶を取り出した。清潔なガーゼに薬液をたっぷり含ませて傷口をもう一度丁寧に拭う。
「染みる?」
「いや、大丈夫だよ、心配ない」
 心配そうに顔を覗き込む夏彦の背中に京吾の腕が回されて、そのまま軽く抱き締められた。傷の手当てを途中で諦めて、夏彦は素直に京吾の腕に身体を預けた。
 まだ動悸が収まらない。殴り飛ばされてよろける京吾の姿を見た時、叫び声を上げるかと思った。車から絶対に降りないようにと京吾に強く言われていなかったら、自分はきっと車から飛び出して京吾の元に駆け寄っていただろう。
「また君に心配をさせた。昨日と言い今日と言い、いつもなら絶対君にこんな所を見せないのに。情けないな…」
「バカ、何を言って…」 
 京吾の呟きがとても頼りないものに感じられる。京吾の態度がいつになく弱気なのは、京吾が自分の意識や動向に安心し始めているからだ。そう思ったらまた胸が苦しくなった。京吾の痛みを自分のことのように感じる。殴られた傷の痛みではなく、これは京吾の心の痛みだ。
 人は痛みを分かち合うことで、少し楽になれる。ギリギリまで張りつめている心を緩めることが出来る。それを夏彦に教えてくれたのは由貴だ。
 夏彦を柔らかく抱いている京吾の腕が、由貴の腕の感触と重なる。
 無性に由貴に会いたくなった。会って、自分がこんなにも落ち着いて京吾と向き合っていることを伝えたい。
 それは夏彦の中に初めて生まれた、感謝にも似た不思議な感動だった。


 京吾が今日の出来事を関係者に知らせる間に、夏彦は由貴に電話を掛けた。
 コールを3回待ったあと「もしもし」と由貴が電話を取った。
「あ、俺やけど。ゴメン、こんな時間に。寝てへんかった?」
『ああ…。今外にいるから』
「そっか…」
『何? …なんか用か?』
「や、別に用は無いんやけど、」
 会いたいといきなり言うのは何となく気が引けて、夏彦が別の言葉を探す。
「今日、会えへんでゴメンな」
 由貴は返事をしなかった。
「…由貴?」
『言うてもしょうがないこと、わざわざ言うなよ』
「え…っ」 
『まだおるんやろ、あの人。俺に電話なんかしたらあかんやろ。切るぞ』
 夏彦の背筋がヒヤリと震えた。思いがけない由貴の態度に、一瞬言葉を失う。夏彦が黙っている間に、由貴は「じゃあな」と言って電話を一方的に切ってしまった。ブツっという破裂音のようなノイズが夏彦の耳を貫いた。
「待っ…、由貴っ」
 呼び止める声は間に合わない。ツー…という表情のない通和音と、取り残されて行き場を失った自分の感情が、夏彦の掌に冷たく残った。



 掛かってきた電話をあっさり切って、由貴はカウンターの向こうのママに話し掛けた。
「真之、大丈夫かな。かなりアタマに来てたみたいやけど。岩居が追いついてたら連絡くれよるやろうけど」
 ママが大声でアハハと笑った。
「大丈夫、大丈夫。なに心配してんのかいな、由貴は。まぁちゃんはああ見えてもあたしに似てアホやないから、そのうちケロッとして戻ってくるよ。ろくでもない父親に似んかって、ほんまに良かったわ…」
 少し時間が経って落ち着いたのか、ママはいつもの調子で戯けながらサラリと息子を自慢する。どんな場面でもこんなふうに信じてくれる人がいる真之のことを、由貴は心の底から羨ましいと思った。
「それよりどうしたの、由貴らしくないな。えらい冷たいこと言うて」
 さっきの電話の相手に対する、あまりにもそっけない由貴の態度を怪訝に思ったのだろう、ママが咎めるように由貴を見た。
「そうか? …そうかな」
「そうよ。誰かは知らんけど、人にあんな言い方したらあかん。相手も傷つくけど、由貴はもっと傷つくやろ? わざと自分に刃物向けるような真似したらあかんよ。泣きそうな顔して。情けない」
「…俺、泣きそうか?」
「そりゃもう、ベソかく寸前やな」
 煙草と酒で灼けてしまっているママのしゃがれ声は穏やかでとても温かく、ガチガチに尖った由貴の神経の切っ先を少し削り取ってくれるような気がした。
 由貴は小さく息を吐いて手の中の電話の電源を切った。ママが問い掛けるように細い眉を片方引き上げる。
「今日はちょっと喋らんほうがええみたい。自信ない。優しくしてやれる自信っていうか…小さいな、俺。情けねぇ……」
 苦い笑みママにを向けて、由貴が言い訳のように呟く。
 由貴が本当に言い訳したいのは、目の前にいるママに対してではない。
 落ち着いて考える時間が欲しかった。このまま夏彦を手離してしまいたいわけじゃない。ただ自分の中から恐ろしいほど噴き上がってくる、嫉妬という慣れない感情を持て余しているだけだ。こんな些細なことですぐに気持ちが揺らぐほど夏彦に惹かれているのだと、改めて思い知らされる。
「明日ちゃんと話するから。心配せんといて」
 由貴がそう言うと、ママは満足そうにウンウンと頷いた。
「由貴はええ子や。それに優しい。まぁ、向こうもそれくらいちゃあんと知ってるわな。明日会うたら、うんっと優しくしたり。誰かに優しくするのは、決してその人のためだけやないよ」
「そうやね」
 由貴の頬に思いがけない笑みが零れる。全く飾り気のないママの言葉は、他の誰に言われるより由貴の心にストレートに響いた。
 言われてみればそうかも知れない。由貴が腕に抱き締めると、夏彦は本当に嬉しそうな顔をする。その顔が見たくて、また由貴は夏彦に向かって腕を伸ばす。夏彦の細い肩を腕の中に収める。そして由貴自身、夏彦の体温を全身で感じてホッと息を吐くのだ。
 俺たちはお互いの体温で、相手と自分の存在を同時に確かめているのかも知れない。そう思った途端、瞼がじわりと熱くなった。それは少し寂しくて、とても暖かい行為のような気がした。



 





 一夜明けた月曜日、夏彦は昼休みに由貴の教室に向かった。
 昨夜一方的に電話を切ったあと由貴は携帯の電源を切ってしまったらしく、何度電話しても通じなくなった。由貴が自分に対してあんな冷ややかな態度を見せたのは初めてで、夏彦はどうしても納得が行かなかった。
 京吾と一緒にいることを知っているのに不用意に電話したことが、由貴を傷つけてしまったのかも知れない。それならなおさら、由貴と会ってちゃんと話をしたかった。
 開け放した戸口から体を乗り出して教室中を見渡した。けれど何度見回しても由貴の姿は見当たらない。また写真部に行ってるんだろうか。
「あれ、あんたこないだのー」
「ああ、…」
 ポンと肩を叩かれて振り返ると、いつだったか由貴と再会したときに由貴の隣にいた少年が夏彦の後ろに立っていた。
「なに? 由貴を探してんの?」
「そうやけど、どこに行ったか知ってる?」
「あー、ここにおらんかったら屋上かなぁ。ようあそこで昼寝しとるし」
 少年が難しい顔でうーんと首を捻る。笑顔の時は気がつかなかったが、夏彦を見下ろしている少年の角張った男っぽい顔立ちは、顔を顰めると別人のように迫力のある表情になる。夏彦は思わずアッと声を上げそうになった。
 その顔に見覚えがあった。俺はこの男を知ってる。由貴と一緒にいる時じゃなく、由貴とは何の関係もない場所で、俺はこの男に確かに会っている。
 心臓に刃物を突き立てられたような痛みが走った。昨日の今日だ、見間違いとは到底思えなかった。
「どうしたんや、あんた? 変なカオして」
 いつかのようにヒョイと覗き込んでくる少年の顔を、まともに見返すことが出来なかった。額が冷たくなって、足がガタガタ震え出した。
 少年が急に何かを思いついたように声を上げた。
「なぁ、あんたってもしかして…」
 少年が何を言い出そうとしているのか、聞くのが恐ろしかった。まさか見られていたんだろうか?
「もういいわ、サンキュ…。自分で探すから」
 辛うじてそれだけ言い残すと、夏彦は逃げるように少年に背を向けて駆け出した。

 

 昼休みが終わる直前、自席に戻ろうとした由貴を、真之が後ろから呼び止めた。
「さっきお前を探してたヤツがおったぞー」
「…誰?」
 聞かなくてもたぶん答えは分かっている。
「ほら、こないだ、いつやったかお前が俺を放ったらかして追っかけた、アホみたいにオットコマエの」
 やっぱり夏彦だ。由貴はため息を吐きそうになった。昨日あんな電話の切り方をして、それから夏彦とはまだ話をしていない。携帯も結局ずっと電源を切ったままだ。
「あの顔は一回見たら忘れへんな。由貴さぁ、なんであんなキレイドコロと知り合うたんやったっけー?」
 真之は昨日の出来事をすっかり忘れてしまったかのように、わざとらしいほど大袈裟にはしゃいでいる。というより、ただ単に気を紛らわせているだけかも知れないが。
「…偶然やて言うたやろ? なんで知り合ったかなんて、もう忘れたわ」
 夏彦のことを真之に話すわけには行かなかった。夏彦がママの店を取り上げようとしている人間と深く関わっているということは、真之にとって嬉しいニュースであるわけがない。
「フーン、偶然かぁ…」
 ポツリと呟いて、真之はゆっくりと由貴に背を向けた。
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