(7)

 

 口内に受け止めた由貴の迸りは、喉の奥を圧迫する質量に比例するように熱く、多量だった。夏彦は嘔吐感に喉を詰まらせながら、由貴の生温かい体液を全部飲み下した。飲み切れなくて溢れた透明な液が唇の端からツ…、と伝う。
 少なくとも由貴はこの瞬間を自分にくれようとしている。それが解った時、夏彦は心の底から幸福感に包まれた。京吾が無意識に残していく温もりの残骸を少しずつ拾い集める様に過ごしてきた夏彦にとって、こうして自分が欲しいだけを望む相手から自由に奪い取ることを許されたのは初めてだった。
 それは自我を揺るがすほどの快感だった。由貴の精が口の中に広がった瞬間自分も達したんじゃないかと思うほどに、身体の感覚ではなく心が上り詰めたような気がした。
 お互いの荒い呼吸がさっきからずっと耳について離れない。そして恥ずかしさから夏彦は顔を上げることも出来なかった。
 由貴の顔をまともに見られない。飢えた動物のように瞳をぎらつかせて夢中で由貴を貪る自分を、由貴はどんな思いで見つめていたんだろう。胃が縮むようにキリキリと痛んだ。
「由、貴…………」
 名前を呼ぶだけで眩暈がした。身体の中心が熱く滾ってそこからドロドロと溶けて流れて行きそうだった。応えるように由貴が夏彦の頬を両手で包んで、ゆっくりとそのまま引き上げる。
「夏、……」
 溜息と共に唇を塞がれる。重なり合う唇を伝って、由貴のしなやかな肉体に宿る想いが、戸惑いながらもまっすぐ夏彦に向かって注がれる。
 由貴の暖かくて力強い存在感が、そばにいることを教えてくれる。
「ゆき、好き…。俺、由貴が好き、なん」
 どうしても我慢できなかった。好きという言葉以外に、この感情の高まりを由貴にどう伝えたらいいのか解らない。自分がこれほど由貴を求めていることを知って欲しかった。
「そんなこと、言わんでええから」
 由貴が驚くほど穏やかな、でもキッパリした口調で言う。こめかみに鉄杭を打ち込まれたような衝撃が走った。夏彦の体が由貴の腕の中でギュッと強張る。夏彦はくっきりと目を見開いて、怯えるように由貴を見つめ返した。淡いブラウンの瞳の中に由貴が柔らかく微笑み返す。
「解ってしもた、あんたにこんなことさせる奴。…京吾って、東京から時々来るって言うてた人やろ?」
 由貴が僅かに眉を寄せて首を振る。その仕草は何かを堪えているように見える。独り言のような呟きが続いた。
「あんたはソイツのこと好きなんかな。…たぶんそうなんやね。俺に対しても止まらんようになるくらい」
「違っ…」
 夏彦が慌てて由貴を遮る。
「京吾と由貴は違う。俺はっ……」
 京吾とのことは由貴には関係ないと思いたかった。そうでなければ自分はあまりにも情けなく、浅ましすぎる。けれどどこが違うのかと由貴に訊かれたら、夏彦には答える自信がない。涙が出そうだった。

 俺はまた同じ事をしようとしているのか。
 恐怖に体が凍って行く。全身がガクガクと震え出す。
 由貴が気が付いて抱き締めると、夏彦は拒むように腕の中で小さく震えた。


 




 『京吾と由貴は関係ない』
 そう口にすることで自分から京吾との関係を肯定してしまっていることに、今の夏彦は気が付かない。それがまた由貴の胸にギリ、と食い込んだ。
「…俺も京吾さんも同じように好きっていうつもり?」
 声に出ているのが不思議なくらいだった。すぐに触れられるほど近くにいて視線は確かに夏彦の姿を捉えているのに、その輪郭はぼやけていて全く現実感が無い。由貴は夏彦の幻に向かって話し続けた。
「京吾さんとは俺と知り合う前からやろ? いつからかは知らんけど、俺がそこに割って入って、あんたはどっちも好きって言うてる。そんなんあんまりやない?」
 最後の一言は夏彦に対するものというより、自分に向けた自嘲だ。夏彦が答えられないことを知っていて、それでも言わずにいられない。情けないが堪えきれなかった。
「辛ェな……、チクショ…」
 恋を自覚した瞬間に、それが叶わないことだと知らされる。笑い出してしまいそうだった。
 辛いのは……きっと夏彦も同じだ。
 腕の中の夏彦が急に身動いだ。夏彦はゆっくりと体を起こすと、目を閉じたまま由貴に頬を寄せた。柔らかい唇が吸い付くように由貴の唇を覆う。夏彦の睫毛に留まっていた雫が由貴の瞼の上にポタリと落ちた。
「話したら許す? 俺のこと。全部言うから…。由貴に離されたくないから」
 夏彦が静かに息を吸い込んだ。
「聞いて。俺がどんな奴か。……どんなことしてきたか」
 終わりの来ない無意味な螺旋の、すべての始まりを。


 




 母方の親戚で家庭に少し問題があった京吾は、中学と高校の6年間を京都にある夏彦の祖母の家で過ごした。祖母の屋敷は夏彦が当時住んでいたマンションとも近く、夏彦はずっと京吾にお守りをしてもらうようにして育った。
 大学に進学するため東京に呼び戻された後も、京吾は機会があれば京都に飛んで帰って夏彦に会いに来てくれ、それは大学を卒業して父親の事業を手伝い始めてからも変わらなかった。
 夏彦は子供の頃から京吾に惹かれていた。最初は兄のようなつもりでずっと後を追い掛けて、周囲の友人が年相応に子供らしい恋愛をし始める頃、京吾に対する夏彦の思いも本物になったように思う。
 それは自分でも思いがけないほど強い感情だった。夏彦は初めから京吾を心だけで求めたわけでは無かった。異性に感じる欲求と同じような感情を京吾に抱くこともあって、それが少し恐ろしかった。
 そのうち京吾の仕事が忙しくなりあまり頻繁に会えなくなると、寂しさと比例するようにその欲求は次第に大きく膨れ上がって行った。

 中学3年のある日のことだ。友達の紹介で何となく仲良くなった2つ年上の男に「好きだ」と言われた。同時に「抱きたい」とも。
 愕然とした。その時は自分が同性からそういう対象として見られていたことに、心底驚いたと言うのが夏彦の感想だった。そうか、そういう関係がこの世にはあるのか。腑に落ちたと言った方が近いかも知れない。
 そして夏彦は最初の経験をした。セックスという行為自体は最悪だったが、得るものはあった。その先輩とは2ヶ月付き合ってすぐに別れた。
 それは夏彦が常識と思い込んでいたことを覆される体験だった。京吾を求めることは、そう不自然なことじゃないのかも知れない。そう気付いたら、一気に自分が解放された。思いも付かなかった一本の線が京吾に向かって伸びていくような気がした。
「今思ったらアホとしか思えへんけど…、必死やったしな、俺。どうやったら京吾を振り向かせられるか、あの頃は1日中そんなことばっかり考えてた気ィする……」
 夏彦が高校生になると京吾も夏彦を大人として扱ってくれるようになり、仕事関係の席でも、差し支えない所には一緒に連れて行ってくれるようになった。
 嬉しかった。京吾の内側に少し近づけた気がして、夏彦は有頂天になった。夏彦の目を見張るような美しい容姿は京吾の友人や仕事仲間にもかなり受けが良く、夏彦はすぐにどこにでも呼んでもらえるようになった。
 自分という潤滑剤のお陰で京吾の交友関係が上手く運ぶのを見ているのは鼻が高かったし、自分よりもうんと年上の大人達の間でちやほやと可愛がられるのも悪い気分ではなかった。
「よう遊んだよ。わずか16、7のガキが…って言うても、ほんの1年くらい前の話やけど、大人が庇ってくれるのを良いことにやりたい放題やったな」
「ツレから聞いたことある。つい最近やけど、うちの学校の鷹木って生徒が派手に遊んでるって。それってあんたのことかなって、名前聞いた時に思った」
「それって情報がスゴイ遅れてる。俺が外で遊ばんようになって、1年近くは経つよ」
 由貴の言葉に夏彦は自嘲気味に返した。クスクスと薄い笑みを零すその表情は、冷たく凍り付いて凄絶だ。それは取りも直さず、夏彦のそれからの体験を物語っているように見えた。
「そのうち京吾の仕事関係の人間から誘われて、そいつらと寝るようになった。俺がそいつらに付き合うたら、京吾の仕事が上手く行くとか何とか言う奴がいてさ。何人と寝たか思い出しただけでゾッとするよ。若い奴もおったし親父より年上の男もおった。気がついたら俺、アタマもカラダもおかしなってて、自分で自分が止められへんようになってた。自律神経がブッ壊れたみたいな感じ。セックスせぇへんかったらまともに眠れへんみたいになって、軽いクスリとかもやった……」
 急に胸がむかついて、由貴は堅く目を瞑った。夏彦の口調が平坦であればあるほど、その傷の深さは手に取るように解った。何故こんなことを聞かされなければならないのかと、重苦しい怒りが頭を擡げてくる。けれど夏彦にそうさせているのは自分なのだ。複雑な思いが由貴の胸を衝いた。
「辛かった?」
「や…、その時はそうでも無かったな。京吾のためって真剣に思ってたし、役に立ってるかもって思ったら、別に自分のことはどうでも良かった」
 そう言って夏彦が少し笑顔を見せる。笑うしかできないのだと感じた。

 夏彦の常軌を逸した行動が京吾に知れるのに、そう時間は掛からなかった。京都という街はそういう意味では余りにも狭い。知り合いでもない誰彼に聞こえるくらい噂になれば、関係のある人間の耳にも当然、あっという間にそれは伝わる。
「ぶん殴られた。京吾、泣いてさ…。馬鹿なことをって、めちゃくちゃ責められて」
 そして京吾の口から聞かされたのだ。自分のしたことはただの思い上がりでしかなかったということを。
「俺はオッサンらに良いように遊ばれてただけやったんやって。ガキが粋がって大人を手玉に取ってるつもりで、京吾の役に立つどころか、逆に恥かかせてたようなもんやったん」
 夏彦の掠れて抑揚のない声が妙に大きく響く。
「ショックやった…。もうあかんなって、その時思って。もう京吾は俺のこと見向きもせぇへんようになる。どうしようかなって思った。生きててもしょうがないかもとかも思って、そう言うた、京吾に。そしたら京吾がな、『助けてやるから』って言ったん。自分とこに戻って来いって」
 だから懇願した。自分を高いところから見下ろしている京吾に、夏彦は抱いて欲しいと身も蓋もなく詰め寄った。そして脅した。そうしなければ……
 夏彦の想いは最後の手段によって、最悪の形で成就した。


 
「…これで全部。似てるよな、今と。今も俺は由貴が離れていくのが怖くて、自分を全部見せてる。俺はこんな人間やから助けて欲しいって縋りついて。いつまでも経っても同じ。もういい加減にしたいのに…、どうしたらええかわからへん……」
 そうして夏彦は苦しいと啼く。

 由貴は目を閉じて慎重に呼吸を整えた。自分でも不思議なくらい、心の中の全てがクリアに見えている。落ち着いて、ゆっくりと言葉を繋いだ。
「それがどうした」
 夏彦がこれ以上ないほど目を見開いて、自分を見つめているのが分かる。由貴は夏彦の手を取ると、少しずつ力を込めながら胸の前に引き寄せた。
 昼間の岩居の言葉が由貴の頭の中に浮かんでいた。怖いのは誰でも同じ、見えないまま必死で目を凝らしながら生きている。見えないからこそ、人はその先にあるものに夢中になるのだ。
「自分でしたことから逃げんな。そんな話俺が聞いても、何もどうも変わらへんし、どうしてやったらいいのかも思いつかへん。あんたが京吾さんのこと、おかしなるくらい好きってのが解っただけ」
「由貴…、待っ」
「待ったは無し。待てとか言うのは卑怯やろ。あんたさっき言うたよな、俺のこと好きって。どうして京吾さんにもちゃんとそう言わへんの。言うてへんねやろ、どうせ」
 図星を指されて夏彦の顔がきつく強張る。痛々しい表情だ。寂しい気分が由貴の心をシンと冷やす。
 俺は夏彦にこんな顔をさせたいわけじゃない。目を閉じて、安らかな表情で眠らせてやりたいのに、夏彦はそれをすら許さない。だから。
「好きならそれなりの覚悟しろよ。俺のことも京吾さんのこともどっちも欲しいってちゃんと言い張れ。よく分からんとか言うてフラフラ逃げるのはいい加減にしろ。分からんはずが無い。このままのほうが楽やから、分からんままでいたいだけやろ」
 夏彦の心を抉るための言葉は、そのままの形で由貴に跳ね返る。由貴だって今まで知らなかった。考えることを放棄してきたのだ。
 だが今は違う。自分のどこにこんな強い感情が埋もれていたのか、自分でも不思議に思う。
「楽なままでなんかいさせへん。誰かを本気で好きになったら、すげぇ嬉しかったり幸せになったりするのと同じくらい心が苦しいと思う。嬉しいだけとか楽しいだけなんて絶対嘘やろ。それでも欲しい。気が狂いそうなくらい必死でたったひとりを求める。それが『好き』とかいう気持ちなんと違うか? 好きってなに。拗ねながら待ってるだけで手に入ると思ったら大間違いやろ」
 夏彦が大きく息を吸い込んだ。
 追いつめられて、虚飾が剥ぎ取られていく。
「一人でないとダメなん? 俺は望んで望んでやっと京吾を手に入れた。だから京吾とは絶対に離れたくない。でも……お前と一緒にいるの、すげぇ楽しい。ホッとする。こうして手ェ握って貰うだけで安心するねん。これも『好き』っていうのやない? 俺はお前のこと好きなんと違うのか?」
「メチャクチャやろ、それじゃ言うてることが」
 由貴は穏やかにそう言うと、夏彦の細い体を包むように抱き締めた。腕の中の夏彦が狂ったように首を振る。皮膚や筋肉が剥がれ落ちて骨が露わになるように、瞳は徐々にその内側を正直に映し出す。
「メチャクチャでもええ。『好き』に正解なんて無い。俺はお前のことが好き。お前にも好きになって欲しい。俺のこと好きになって。我慢なんかしたくない、俺はっ……」
「ほら言えた。見てみろ、ちゃんと言うたらちゃんと返ってくるやろ?」
 言いながら由貴が夏彦の唇を唇で塞ぐ。
 こうして初めて触れ合ったのはついさっきのことで、そのとき触れた夏彦の唇の感触までハッキリ思い出せる。
 由貴が唇を強く押し付けると、もっと先を求めて夏彦が僅かに喘ぐ。重ねた唇を擦り合わせると、夏彦は薄く開いた歯の間から舌先を覗かせた。それを舌で丁寧に絡め取って啄む。揺らすようにあやしてやると、それに応えるように由貴の口内に夏彦の温かい舌が深く侵入して来た。
 ただのキスだけでこんなにも昂揚する。このまま全てを持って行かれる錯覚を起こしているのは、由貴だけではないのだろう。
 唇を離して覗き込んだとき、夏彦はこれまで見せたことのないほど不安な表情を由貴に向けた。
「……嫌ならここでやめよう」
 声が震えないように我慢しているのか、夏彦の低音はさらに聞き取りにくく掠れている。それとは裏腹に細い肩は由貴の腕の中でずっと震え続けている。
「俺が諦められるうちにやめて。俺はいったん欲しがったら止まらへん……」
「アホやね、まだ言うか…」
 由貴の表情が微かに弛んだ。
 腕の中で身動ぐ夏彦の存在を、心から愛おしいと思う。心が決まりかけている。いや、きっと最初から迷ってなんかいなかった。
「嫌ならもっと上手いこと言い訳して止めてる。止まらへんのは俺も一緒」
「俺が半分半分でも?」
「手に入らへんより、ずっといい」
 それは由貴の精一杯の虚勢だ。半分だけでは足りないと言わなかったことを後悔するかも知れないと思ったが、今ここで夏彦の手を離したくなかった。
 正直まだ迷っている。けれどその迷いは夏彦を突き放すのではなく、必死で掴み取る方向へ動いている。
 ゆっくりと、それでも確実に動き出す。求める者へとまっすぐに、正直に、そして目が眩むほど官能的に。こんな気持ちを感じたのはまるっきり初めてで、その強烈な感情は由貴をひどく戸惑わせる。特別な感慨もなく欲求を満たすためだけに、おざなりに抱いてきた今までの相手とは全然違う。
 心から夏彦を欲しいと思った。全てを手に入れて、知らないところがないくらい手に入れて、夏彦の体温を感じたい。それは空腹に似た飢餓感だった。
 俺はきっと自分が満足するまで夏彦を離さないだろう。 
「んっ…………」
 もう一度口づけると、夏彦は喉を反らせて由貴の首筋にしがみついた。