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(6) |
日々が足早に過ぎていく。由貴と夏彦の距離は急速に近付いて、急速に絡まり始める。まるであらかじめ録画されていたビデオテープを倍速で飛ばして、急いで先を先を知ろうとするように。
梅雨が明けるか明けないかという境目の季節、京都の街は俄然活気づく。
京都三大祭りの中でも特に有名な祇園祭のクライマックスがすぐそこに迫って、四条通は長刀鉾のしつらいを見に来た観光客やテレビカメラでいつもより人が多く、流れが緩やかだ。噎せ返るような湿った空気に紛れて、聞き慣れたお囃子の音色がオープンスピーカーから流れていた。
毎年同じ音色を聴いているはずなのに、この音を聴くと「夏が来た」と特別に感じるのは京都に住む者の習性かも知れない。
地下鉄の階段を上りきると必ず耳にするから、由貴はここのところ毎日のようにこの音色を聴いている。
朝から降り続いていた雨は止んでいた。
「傘いらんかったな。捨てよか」
「何言うてんの。帰りに降るかも知れへんやろ」
由貴の他愛ない冗談に夏彦は少し笑顔を見せた。
由貴と夏彦は今日も夏彦のマンションに向かっている。二人が初めて会ってから一月経たないうちに、それはまるで日課のようになってしまった。
特に用事が無ければ放課後の同じ時間に地下鉄の改札あたりで落ち合って、まっすぐ部屋へと向かう。そして終電ギリギリの時間まで一緒に過ごした。
夏彦の部屋にいる間、由貴は初めてこの部屋を訪れた時に手にした、未だにそれしか使えない一眼レフを片手に、必ず夏彦の写真を撮った。時間を忘れて夜中までシャッターを押し続けることもあればほんの2、30分で飽きることもあるが、それでもほぼ毎日続いている。
撮ったフィルムは必ず現像に出して、二人でそれを眺めた。
初めは構図も距離も考えられていないただのスナップ写真でしかなかったが、出来上がった写真を前にああでもないこうでもないと思いついたことを話すのは楽しかった。それだけであっという間に時間が過ぎて行った。
そのうち由貴がカメラの機能を理解し始めると徐々に様子が変わって、だんだん自分たちが気に入る写真が撮れるようになって来る。すると今度は『撮る』こと自体が俄然面白くなって、今では由貴は自分の家でも日に一度はカメラを手にするようになっていた。
ファインダー越しに夏彦を眺めるのは好きだった。普段何気なく見ているときとは違う、つい見過ごしてしまうような夏彦の繊細な表情を、レンズは面白いほど正確に捉えた。
一枚のガラスを介して見る夏彦の姿は、どういうわけか由貴に『開く』という単語を連想させた。
息を潜めて夏彦が『開く』瞬間を待つ。同性に対して『開く』とは一体何だ、と思わないでもないが、それ以外のちょうど良い言葉を由貴はどうしても思いつかない。
目を伏せる。顔を上げる。由貴に呼びかける。その表情のどれひとつを取っても夏彦は魅力に溢れている。神経を尖らせて見つめていないとそれはあっという間に掻き消えて、また別の表情が現れる。
そのひとつひとつを由貴は真剣に吟味する。
今の顔は油断してた。さっきのは女が見たらキャアキャア声を上げそうだな……。コイツ、眠くなって来てるのか。笑った。夏彦が俺を見てる。何か言いたそうな顔をして、見えないはずの俺の目を見てる…………。
それはたぶん夏彦の内側―――――肉眼ではきっと見えない。
「なんか喋れよ」
「何を」
「何かやって。何でもええから」
夏彦が少し考える素振りを見せる。
「由貴はお祭りって行く?」
「そうやなぁ。別に面白くもないけどなんか行くよな、宵山とか。そんで雨とか絶対降られるの」
「俺、宵山って行ったこと無い。めっちゃ人多いし」
「今年は行こうや。連れて行ったるし」
「ウン」
取り留めのない会話を交わしながら由貴がシャッターを切る。カシャリとカメラが瞬間を掴む。
不意に夏彦が身を乗り出してレンズを覗き込んだ。
「由貴、担任に現像教えてもらったんやって?」
「よお知ってんな」
「今日偶然聞いた。昼休みに由貴のこと探したら、写真部ちゃうかってクラスの奴に聞いてさ。俺、写真部の部室なんてどこにあるか知らんから、結局携帯鳴らしたけど」
「アイツ写真部の顧問やからな。ちょっとカメラのこと聞いたら勝手に盛り上がって、無理矢理拉致されたんや。モノクロなら特別な機材が無くても、暗室さえ作れば家でも出来るって。ちょっと面白そうやったし、ついでにモノクロフィルムも集ったった。今撮ってるのがソレ」
「すごいな、本格的。ハマってんなぁ」
夏彦が半ば呆れたように溜め息を吐く。
「まぁな」
適当に返事をして、由貴はまたファインダーの中の夏彦を切り取った。
はまっているのは、写真にじゃない。
由貴が本当に惹かれているのは夏彦自身だ。
ほんのつい最近まで退屈にまみれてどうでも良い時間を過ごしていたはずの由貴が、まるで何かに取り憑かれたようにこうして夏彦のマンションに通っている。それを面倒だと思う気持ちも湧いて来ない。
今までの由貴なら、例えば彼女が出来て同じように会いに出掛けたとしても、1週間もすれば例外なく面倒臭くなっていたのだからおかしな話だ。
第一女と比べること自体がどうかしている。夏彦は女じゃない。同じ学校の先輩で、男で、―――――比べるものが無いほど綺麗だ。
夏彦を綺麗だと感じるなんて、そもそもそれもどうかしている。
たぶん俺は恋をし始めている。
ゆっくりと、でも確実に由貴の心は夏彦に向かって走り出している。
岩居がそれを指摘したのは、昼休みに由貴が教室に戻ってきた時だ。真之は何故か昨日から学校を休んでいて、岩居が連絡を取ろうとしても電話が繋がらないらしい。それで由貴に、放課後一緒に様子を見に行かないかと誘って来たのだ。
その時由貴は咄嗟に夏彦のことを考えた。考えて、一瞬返事が遅れた。そこを岩居に指摘された。
「お前最近変わったなよぁ。夜もあんまり遊んでへんみたいやし、付き合い悪なった。まぁ、んなこったろうと思ってたけどな」
岩居の口調に責めるような響きは無い。むしろ面白がっているようだ。
由貴が夏彦と放課後の時間を一緒に過ごすようになると、当然岩居や真之に付き合う時間は少なくなる。それを二人は勝手に、由貴に新しい彼女が出来たからだと思い込んでいるらしい。
「何かオモロイよ。どんなカワイイ子と付き合うてもいつもやるだけやってバイバイやったのに、ホンマどうしたん。お前がそんだけ飽きんと付き合う女ってどんなんやろって真之と話してたんや。目の色変わってるもんなぁ」
「マジか? 格好悪ィ……」
「別に。んなこともアリでしょ。なんも無いよりかよっぽどマシ」
岩居の口からそんな台詞を聞くとは思わなかった。
由貴が適当な遊びを繰り返して誰にも本気にならなかったのは、人ひとりの存在がとてつもなく重かったからだ。適当に引っ掛けて一度寝たぐらいですぐに馴れ馴れしく擦り寄ってくる女にも、由貴が冷たいと言ってメソメソ涙を流す女にもウンザリだった。自分を縛り付けられそうな気がしてゾッとした。
同じように岩居も真之もそういう面倒臭いことを極力避けて、退屈の中で安心しきっているのだと思っていた。本当はそこが一番安全だということを自分達は良く知っている。
誰かや何かに自分の一部を注ぎ込むことは、それなりの覚悟がいるのだ。誰に教えられなくても、そのステージに立てば誰もが自然にそれを知る。
「惚れたんかなって思うけど、よう分からん。きっかけも別に無かったし、何よりアイツに惚れる理由が無い」
岩居がよく分からないと言うように首を捻った。
「会いたいと思うから会うてんねやろ? それって一番正直やん。お前が言う理由ってのがよう分からんけど、とりあえず俺にはお前が本気に見える。自分で気が付いてへんだけと違うの」
「ホンマにそう思うか? 本気で行くのって、マジ怖ェよ」
思わず本音が口をついて出た。
自分が夏彦に惹かれているのは本当だ。岩居が言うように、夏彦に会いたいと思う気持ちの他に会いに行く理由は見当たらない。けれど一方で特別な感情を背負い込むことに躊躇う自分も確かにいる。
「踏み込んだら終わりて気がする。とことん行くまで戻って来れへんかも知れん。どこまで行くかも分からんのによ」
「ええやん。そんなんお前だけやない、怖いのは誰かって一緒やで。先が見えてたら誰も燃えへん。見えへんから必死になるんやろ?」
岩居は由貴の心を占めているのが誰なのかを知らない。だからこんなに軽い口調で当たり前のことを言えるのだろう。それでも岩居の言葉は由貴の心に染み込んだ。
誰もこの感情の行き先を知らない。
溢れそうな想いは体のどこかで濁流となって渦巻いていて、指先が確実に触れ合った時、堰を切ったようにお互いの内側に流れ込む。
夏彦の中にもそれは流れ込んで行くのだろうか。
「行こう思ったときは思い切り行っとき。タイミング逃したら後からそうしよう思っても絶対上手く行かへんで。クサく言うとエネルギーを出し惜しみするっちゅうの? 嫌やろ、そんなん。面白いコトがひとつも無くて、生きてるか死んでるか分からんようなのが楽しいヤツなんて、おらんて……」
見つかっただけ儲けものやって。岩居が独り言のように呟く。それから岩居は冗談とも本気とも取れるどっちつかずな表情で曖昧に笑った。
「……き。なぁ、ゆき…………?」
気が付くと夏彦が由貴を見ていた。
「あ、ああ、ごめん。なに? 聞いてへんかった」
「今日ここ泊まらへんかって、聞いた」
聞き間違いかと思ったがそうではないらしい。夏彦はひどく真剣な顔で由貴を見上げている。
「何やねん、急に……」
ああ、この感じは初めてだな。由貴はぼんやり考える。昨日まで何の意味も持たなかったものが、急に重大な事に思える時。カメラのピントが合った時の感覚と少し似ている。
「困る?」
夏彦は切羽詰まった表情でなおも詰め寄ってくる。あまりにも必死なその様子はどう見てもただ事では無い。胸が締め付けられたような気がした。
「構へんよ。明日も別に予定もないし、1日中写真撮ったろか?」
「そんなにフィルムの買い置き無いよ。あと3本ぐらい。足らへんやろ」
困ったような顔つきで夏彦が笑う。
「心が通じる瞬間って絶対あると思う。そこ見逃したらあかんで」
最後に岩居はそう言って笑った。
だから夜中に夏彦が急に由貴の隣で寝たいと言い出した時、驚きはしたが変だとは思わなかった。
どうしても眠れないと言う。由貴が半分明け渡してやった布団にゴソゴソと身体を滑り込ませて、照れ臭いのか夏彦は一人で喋り続けた。
ゴメンな、狭くさせて。ベッドのが広いし、あっちに移ろか。
わざわざベッドに行く方が変か。変やよな……。
一人で寝るのは慣れてるんやけど。そんなことも口にした。
もう恋は始まっている。そしてお互いにそれを知っている。
夏彦に感じる甘やかな感傷や激しい欲求を残らず巻き込んで、由貴の心が急速に傾いていく。それを止める理由はもうどこにも無かった。
「そんなに離れてたら布団から出るやろ。ええからもっと寄れよ」
目を合わさないまま由貴が肩を抱き寄せると、夏彦は少し間を置いてから、小さな溜め息と共に由貴の胸にそっと身を寄せた。
「なぁ、夏彦」
「ん?」
「キスしようか」
「うん、しようか……」
それは問い掛けではなく答えでもない。始まりの合図だ。
由貴はゆっくり体を起こすと、心臓の音を重ね合うように唇を夏彦の唇に重ねた。夏彦の額に掛かる柔らかな髪を掻き上げて、そこにも唇を押し当てる。
触れ合う感覚に手足が痺れた。内側から熱いものが滲み出して、皮膚が熔けて剥がれ落ちていくような。やがて重なっているお互いの唇の境界線すら判らなくなった。自分を見失いかけている。そんな感じだ。
「……由貴、俺のこと抱ける?」
唐突に夏彦が呟いた。由貴は少し考え込んでから静かに答える。
「多分な……。でもせぇへんよ」
「なんで? やっぱ俺とするのって気色悪いか?」
「アッホ……」
由貴は思わず笑ってしまった。そんなことを考えているなんて、夏彦は本当に自分のことを分かっていないのか、と改めて思う。
夏彦には有無を言わさず人目を惹きつけるような、一種独特の雰囲気がある。それは性別や嗜好を超えた根本的な魅力のようなもので、そんな夏彦に真正面から切り込まれて陥落しない人間がいるんだろうか?
「そんなんと違う。あんたが知らんだけで、俺はしよう思たら結構酷いことも平気で出来るしな。だからせぇへんのは俺の意思、っていうか」
由貴の頬に血の気が上る。こんなことを自分が本気で口にするのが信じられなかった。
「本気な奴にはそう簡単に手ェ出せへんのがよう分かった」
キスだけでも頭の芯がズルズルと蕩け出すような気分にさせられるのに、それ以上触れたら自分を押さえられるかどうか自信がない。そしてこのままのめり込んでしまうのはやはり怖い。由貴の顔にまた新しい苦笑が浮かぶ。
自分がこんなに臆病だったなんて。臆病であるからこそ、腹が据わるまで相手から差し出されたからと言って、無造作に奪ってしまうようなことはしたくなかった。
夏彦は相変わらず不安げな瞳で由貴を見上げている。由貴の困惑はきっと夏彦には伝わらないのだろう。けれど夏彦に『拒絶された』とだけは思って欲しくなかった。
「どうしたらええの。俺は本気、やからせぇへん。あんたのこと抱く代わりにどうしたら俺のこと信じられるか言ってみ。なんでもしてやるから」
「じゃあ俺がするのは許す?」
「え……」
合っていたはずの視線が急に離れて、借り物のスウェットの上から夏彦の手が由貴の股間に触れた。何かを確かめるように数回掌で撫で上げて、夏彦はいきなり体を起こすと今度はその場所に文字通り噛みついた。
何が起こったのか理解するのにしばらく掛かった。その間にも夏彦は容赦無く由貴を引き返せない所に追い込もうと、服の上から指や唇で熱心に愛撫を続けている。膨張を始めてムクリと頭を擡げる自身の感覚で、呆然としていた由貴の意識が現実に引き戻された。途端に怒りにも似た気持ちが沸いた。
「やめとけって。そんなんしたら一緒やろうが」
「俺のこと嫌やなかったら黙ってて」
夏彦がきっぱりと言い放つ。言いながら器用に由貴の着ているものを剥ぎ取っていく。覆うものが無くなって無防備に屹立する由貴の性器を、夏彦は迷うことなく口に含んだ。
余りにも慣れた仕草。滑らかな舌がまるで別の生き物のように由貴の欲望に絡み付いて、その芯に潜む猛った熱を吸い上げようと動く。布団に押し付けられた由貴の背中がヒヤリと粟立った。
「由貴の言うてることは俺にとって、死にかけて苦しがってるのを放っておかれるのとおんなじ。みんな同じことを言う。キレイなコトばっか言うて、ホントはいつでも逃げ出せる場所に自分を置いておきたいだけやろ」
夏彦はわざと猥雑な音を立てて由貴を銜えなおすと、咽喉の奥の柔らかい粘膜に先端を何度も擦り付けた。由貴が思わず呻きを上げた。夏彦の丁寧な愛撫は、由貴の気持ちをあっさり無視して単純な欲求だけを煽り呻かせる。
「夏、もうええ、」
限界が近付いていた。先走った粘液はすでに夏彦の口内を汚しているはずだ。そんなことをしてもらいたい訳じゃない。何とかそのことを伝えようと、由貴が必死で声を絞る。
「もうええから離せ。出るっ……」
『黙れよ』
口には出さずに夏彦はさらに由貴を強く擦る。
「俺が死ぬほど欲しいものを知ってて目の前にぶら下げるくせに、いざとなったら絶対くれへん。おんなじや、由貴も……京吾も。俺だけが欲しがる。俺だけが欲張りで、どんどん汚くなっていくんやな…………」
目の前で苦しげに眉を顰めて奉仕する夏彦の表情が、不意に見覚えのあるそれと重なる。公園で何気なく顔を覗き込んだ時、夏彦が由貴に見せたあの顔。
甘く滴るような緊張感。その後も違う場面で何度も同じような印象が心を過ぎった。あれはやはり気のせいではなかったのだ。
顔を近づけると反射的に目を閉じる。お互いの体温を感じると、それと分かるほど身体を強張らせて、それでも請うような目で由貴を見上げる。そしてそれは夏彦にとって未知の感情ではない。
由貴は全てを理解した。それはほぼ確信に近い。そしておそらく間違いじゃないのだろう。
そうか、そういうことか。
震えが来るほどの怒りと切なさと、夏彦に対する気の狂うような思慕が由貴の中に同時に込み上げた。
由貴はゆっくり手を伸ばすと、夢中で由貴にむしゃぶりついている夏彦の頭を両手で掴んで強引に引き上げた。紅く色付く夏彦の唇が透明な雫を纏ったまま僅かに開いて、凄艶な表情をさらに彩る。
「んっ……」と息を詰まらせて抵抗するのを有無を言わさず上向かせて唇を重ねると、夏彦の舌に残る自分の精液の味がハッキリ感じられた。
キスを解いて、指で何度も夏彦の頬を撫でてやる。それから柔らかい髪に手を入れて梳きながら、もう一度夏彦を自分の中心へと導いた。
欲しいなら全部持って行けばいい。俺が持てるだけの全てを残らずあんたにやるから。そう口にする代わりに由貴はゆっくり体の力を抜いた。
夏彦がさっきまでとはうって変わった、戸惑った表情で由貴を見る。促すように由貴が頭を撫でてやると、夏彦はようやく安心したように頼りなく笑って目の前の欲望におずおずと舌を伸ばした。軽く目を伏せてその温かい口内に由貴を迎え入れる。ぴちゃり、と全身が疼くような音が鳴る。由貴の唇から熱い吐息が漏れた。
爆ぜる寸前までずっと、由貴は夏彦から目を離さなかった。淡いブラウンの瞳がその瞬間を待ちながら静かに閉じられるのを、由貴は息を詰めて最後までじっと見つめていた。