(5)

 

「今度の週末はちょっと行けそうにないんだ」
 受話器の向こうの声が穏やかに告げた。
「仕事が上手く片付かなくてね。そっちに寄る時間はきっと取れない」
「そう…………」
 夏彦は喉まで出掛かったため息を辛うじて堪えた。
「仕方ないね。京吾、忙しいから」
「土地の買収が思うように進まなくて手こずって……と、これは夏彦にする話じゃなかったな。忘れなさい」
「……分かってる」
 今週はどうしても京吾の顔を見たかった。会って話をして、隣にいて欲しかったのに。けれどそれを夏彦が口にすることは無い。
 俺はたぶんそれをずっと言えないままなんだろう。
 幾らか自嘲気味に考える。
 何度も何度も自問して、ようやく最近諦めがついた。というより無理矢理自分を納得させたと言う方が正しい。
 それでいい……。それで十分だ。
 父親の片腕として早くから役職に就き、いずれは政界進出も視野に入れて精力的に活動する京吾にとって、夏彦の存在はある意味命取りだ。
 今はまだ京吾自身が表に出ていないから問題になっていないが、未成年である夏彦と肉体的な関係を結んでいるという事実は、どう考えても京吾にとってマイナスになることはあってもプラスの方向に向くことはあり得ない。
 それでも京吾はその危険な一線に踏み込んでくれた。
 崩れ落ち、自分を見失いかけていた夏彦を、文字通り体ごと掬い上げた。それが夏彦にとってどれほど大きな意味があったか、おそらく当の京吾本人ですらその重みを知らない。
 だから多くは望まない。京吾が夏彦にくれるつもりの無いものを、自分の方からは決して。
 触れてくる指がどんなに冷たく感じられても、要はそれを感じ取れなくなるくらい自分が熱くなればいいのだ。俺にはそれが出来る。
 そう思い込むことで夏彦は自分を支えている。
「……この埋め合わせは高くつくから」
「どれくらい?」
「今度ここに来たら、一晩中ずっと抱いてくれよ。俺が動けなくなるまで離させないから」
「怖いな……。夏彦のそういうところ」
 耳元で響く声に、ほんの少し憐憫の色が滲む。わざと口にする言葉の意味がそんな風にしか伝わらないうちは、京吾はずっと対岸にいるのだろう。夏彦は固く目を瞑って、遠く離れたそのイメージを心の中から追い払った。


 会話は短時間で終わった。通和音が躊躇無く途切れる。それを確かめてから夏彦はゆっくりと受話器を戻した。京吾との会話はいつもこんな風だ。一方的で付け入る隙が無く、曖昧に優しい。
 根本的なところで京吾は夏彦に冷たく出来ない。自分はそれを逆手に取って、甘えているのだと思う。それと同じ意味で京吾は決して夏彦を懐まで近づけない。一方的に欲して、一方的に与えられる行為に温もりは無い。
 夏彦の端正な顔に苦い笑みが浮かんだ。 
 長い間望んで、気が狂うほど望んでやっと叶ったというのに、これ以上俺は何を望むのだろう?


 




 翌日の放課後、夏彦は学校の近くの写真屋にいた。フィルムを預けておけばものの数十分で現像から焼き付けまでしてくれる便利な店だ。
「……それと、こっちは随分長い間放っておいたんですけど」
「じゃあ、もしかしたらもう感光してるかも知れないですけど、どうします? お預かりしますか?」
「お願いします」
「今は混んでませんから、30分くらいでお引き渡し出来ます」
「じゃ、その頃また取りに来ます」
 差し出された伝票を受け取って店を出る。遮るものが無くなっていきなり照りつけてくる日射しに夏彦は思わず目を細めた。
 梅雨の晴れ間なのか、ここ三日ほどは珍しく天気が良い。明日にはまた天気が崩れるらしいが、とりあえず今日の夜まではこの調子が続きそうだ。
 空いた時間をどこで潰そうかしばらく考えて、夏彦は道路を隔てた向かいのカフェに入った。気軽なセルフサービススタイルだから制服のままでも咎められることは無い。何となく外の空気に触れていたくて、店の前に張り出したテラスに席を取った。
 このカフェは学校から最寄り駅までの途中にあって、暁星の生徒がよく利用する。今も夏彦と同じ制服を着た生徒が数人、目の前を通り過ぎてレジに向かって行った。
 ここなら向かいの写真屋まですぐだし、受け取りに行くのが面倒でなくて良い。適度にざわつく周囲の音を聞いているだけで、何となく気が紛れるような気もする。夏彦は席に腰を落ち着けて鞄から文庫本を取り出すと、ページも確かめずに適当に開いた所を読み始めた。

 夏彦が現像に出したフィルムは、昨日由貴が撮ったものだ。
 久しぶりに手にしたカメラに興味を引かれたのか、部屋にいる間中由貴は飽きずにシャッターを押し続けた。最初のフィルムが終わってもカメラを手放したがらなくて、結局夏彦は新しいフィルムを探し出して渡してやる羽目になった。
 取り留めのない会話を交わしながら、由貴の視線が夏彦を追いかける。
 どうしても自分の方を向かない夏彦を由貴が何度も呼ぶ。夏彦が仕方なく振り向くと、由貴はすかさずシャッターを切る。シャッターの落ちる摩擦音が室内に響く。
 不規則なリズムで繰り返されるシャッター音と、由貴の呼ぶ声。しばらく待って目を上げるとレンズが夏彦を見ていて、その向こうから由貴が夏彦を見ている。焦点が合う。シャッターが落ちる。緊張の糸が途切れる。少し話をしていると、由貴がまた夏彦を呼ぶ。夏彦が顔を向ける。お互いの視線を確認する。シャッターが落ちる。由貴が呼ぶ。繰り返し、繰り返し、繰り返し…………
 それは何かの儀式のようだった。
 ほんの1時間くらいのあいだが途方もなく長く感じられた。そこには由貴と夏彦の二人しかいなかった。
 由貴が残したフィルム。その中に由貴の目に映ったはずの自分がいる。そう思ったら無性に由貴の撮った写真を見てみたくなった。


 ふと周囲が騒がしくなって、散らばっていた夏彦の意識が現実に引き戻された。
 手元が暗くなって、開いている本に影が落ちる。すぐ目の前に誰かが立ったのだ。影が一瞬動きを止めてじっと夏彦を見つめた。錯覚じゃない。この気配には覚えがある。
「やっぱ、夏彦だ」
 思った通り聞き覚えのある声が頭の上から聞こえて来た。
「やっぱ目立つな、あんた。一発で分かった」
 顔を上げると、由貴が昨日と同じ屈託のない顔で笑いながら夏彦を見下ろしていた。
「……由貴」
「何してんの、こんなとこで」
 お前のことを考えていたんだ……。
 そんなことを言えるわけがなかった。待ち伏せでもしていたところを見つかってしまった気分だ。自分でも可笑しいくらいに狼狽えてしまった。
「あ、ちょっと待ち……」
「マチ?」
「写真出来るの……待ってる」
「ふーん」
 写真と言う単語に由貴は何の反応も示さない。夏彦は少し驚いて、同時に何となく失望した。
 由貴は昨日のことをもう忘れている。と言うよりきっと始めから大した意味は無かったのだろう。由貴にとってあれはただのちょっとした悪戯だったのだ。それを大袈裟に捉えた自分が急に恥ずかしくなった。
「由貴、知り合いか?」
 由貴の隣に並んでいた少年が伸び上がって、遠慮無しに夏彦の顔を覗き込んだ。由貴に輪を掛けて人懐っこそうな笑顔だ。
「あー、なんか知らんけど偶然で。鷹木っていうの」
 由貴がいかにも適当に返事をする。慣れているのか、そんないい加減な説明でも少年は充分納得したようだった。
「へえぇ、珍しいな。お前が人見知りせぇへんなんて」
「人見知り?」
 ビックリして、夏彦が思わず声を上げる。
「って、由貴が? 似合わねぇ……」
「コイツって見た目は強面やけど気ィ小さいねん、結構」
「黙れや」
 由貴が憮然とした顔で友人の頭を軽く小突く。
 見るからに仲の良さそうな二人のやり取りに、少しだけ居心地の悪さを感じた。自分と由貴は知り合ったばかりで、こんな親しげな雰囲気はまだ無い。当たり前のことだが、由貴には由貴の生活があるのだ。
 馬鹿げているが、夏彦はそれを寂しく感じた。
 ここでも俺は取り残されている。世の中にはこんなに沢山の人が溢れているのに、自分のことを一番に考え、真っ先に思い出す人間は一人もいない。
「もう行くわ」
 それだけ言うと夏彦は椅子から立ち上がった。これ以上この場にいたくなかった。こんなことを考えるのはいかにも被害妄想的だし、何より惨めだ。
「じゃあ」
「あ、……ウン」
 由貴が曖昧な口調で返すのに、振り向かずに歩き出す。舌に血の味が滲んで、自分が唇を噛みしめていることにようやく気付く。
 点滅を始めた信号に目をやって、急いで横断歩道を渡り切った。信号待ちで立ち止まるのは嫌だった。由貴の目の前で背中を無防備に晒していたら、心の中まで全部裸にされるような気がした。

 大した意味の無いことで簡単に傷つく。
 感情も身体も同じように持て余して行き場を失う。
 ほんの少し分け与えられただけの優しさに期待する。
 ずっとそれの繰り返しだ。

 自分では嫌と言うほど知っている。
 けれどそれを他人に知られたくはなかった。
 

 予定より少し早く受け取りに行ったにも関わらず、預けた写真はすでに出来上がっていて少しホッとした。店員の手に札を押し付けるように支払いを済ませると、夏彦はまた走るような早足で地下鉄の入り口へと向かった。
 遠くへ。出来るだけ遠くへ。由貴の視界から早く消えてしまいたい。
 由貴はもうとっくに自分を見ていないかも知れないというのに。
「夏彦っ!」
 後ろから大声で呼び止められる。
「ちょ、ちょおストップ! 待てっ、止まれっ」
 バタバタと大きな足音が近づいてくる。
 ぐいっと腕を掴まれて、体ががくんと前につんのめる。
「なんちゅう足早いの。この俺が追いつけへんかと思った…………」
 荒い息の下でクスクス笑う。―――――人の気も知らないで。
 ゆっくりと振り向かせられて、夏彦は抵抗出来なかった。見慣れた制服が目に入るだけでグラリと視界が揺れる。表情を繕うことも出来ずに、何かに操られるように唇だけが勝手に動いた。
「由貴……。なんで…………?」
「ん?」
「友達、……」
「ああ、真之か? 心配せんでもあんなの放っといてもどうなとしよる。それより写真見せて」
 一瞬何を言われたのか分からなかった。
「写真。昨日撮ったヤツ現像したんと違うの」
 由貴はごく当たり前のような顔で、もう一度同じ台詞を繰り返した。
「あ、ウン…………」
「お前んち行ってもええ? それともどっか入るか」
 由貴の腕が自然に夏彦の肩に回される。そのまま何事も無いように歩き出すから、お互いの間にほんの少し距離を置くのに夏彦はひどく苦労した。
 由貴の口調はあっさりして、それでいてどこか強引で、拍子抜けするほど自然だ。これじゃただのナンパだろと思ったら、急に笑いが込み上げた。
 本当に馬鹿みたいだ。こんなことで涙が出そうになるなんて。

 思わず笑ってしまった夏彦を見咎めて、由貴が不満そうな顔を向ける。
「何? もしかして俺の勘違いとか言うなよ。せっかく必死で追っかけたのに、それってめっちゃカッコ悪いやん」
「違うけど、いつもこんな風にナンパしてんねやなと思って」
「アッホ……、ナンパって何。俺があんたをナンパしてどうすんの」
 由貴が少し言葉に詰まる。それから照れ臭そうな顔で夏彦の髪をクシャリと掻き回した。
 確かに由貴の言うとおりだ。それでも動悸はどんどん速くなっていく。
 痛いほど胸を押し上げている鼓動が由貴に伝わればいい。伝わって欲しいと心から願った。
 少し緊張しながら体を寄せると、由貴はもう一度腕を伸ばして夏彦の肩を抱え直した。
 照りつける夏の日射しが暑くて、由貴が触れている肩が熱くて、心が熱い。
 自分の体がこのまま跡形も無く溶けてしまいそうな気がした。