 |
(4) |
足を踏み入れた部屋は広々としていた。正面に大きく取られた開口部から外の光が惜しげなく注がれていて、夕方だというのにまるで昼間のように明るい。市内の中心部に建つマンションとは思えない空間だ。
「広いやろ?」
「ああ。贅沢やな」
「オッサン臭いこと言う奴やな」
思わず溜め息を吐いた由貴に、夏彦が目を細めて笑う。
「適当に座ってて。服取って来るわ」
「あ……、うん」
曖昧に頷いて、由貴は手近のソファに腰を落ち着けて周りを見渡した。
良い部屋だな。そう思った。どういう部屋がいい部屋かと言われるとハッキリとは言えないが、この空間はスッキリとしていて気持ちが良い。余計な装飾品や家具がほとんど無く、とても簡素な印象を受ける。
ふと壁際の飾り棚に目が留まった。由貴はソファから立ち上がると、そばに寄って棚の上を一心に眺めた。
そこには驚くほどたくさんの種類のカメラが並べられていた。ほとんどがおそらく使われることのない古い物だ。今はもう修理のための部品も手に入らない年代物もいくつか並んでいる。
「何? カメラ好きなん?」
「や、……そういうわけやないけど」
別の部屋から戻ってきた夏彦が不思議そうに聞くのに、ぼんやり答える。
「親父がな、写真が好きで……ガキの頃暇があると持ってるカメラ全部並べて手入れして、って言うてもそんなに数は持ってへんかったけど……、俺も隣でよう弄ってた。レンズとか平気で指紋つけて怒られたりして」
「へぇ……。なら、あんたもカメラ弄れんの?」
「いや、全然。親父の仕事がめっちゃ忙しなって全部処分しよったから、家にはもう一台も残ってへんの違うかな」
そのころからだ。家族が少しずつバラバラになり始めたのは。
いつのまにか父と母が並んでいる姿を見ることが少なくなり、気がついたらいくつかあったカメラは父の部屋から一台も無くなり、父の姿も家の中から消えてしまった。
「カメラの重み、結構好きやったな。イタズラでファインダー覗くと世界が妙にクッキリするねん。探り探りピント合わせてるといきなり視界がハッキリして……、あの瞬間はカメラでしか見えへんような気がしたな」
夏彦が近づいて由貴の隣に並んだ。
「触って見る?」
「ええのか?」
「構へんよ。落としさえせえへんかったらな」
「アホ」
苦笑いしながら、由貴は目の前にある一台に手を伸ばした。かなり古い形の二眼レフだ。昔父の部屋で見たオールドカメラのコレクションブックで、似たような形の物を見たことがある。
現代のカメラに比べると冗談のように重い。三脚でしっかり固定して使うタイプだ。
「俺はよう知らんけど、安物もアホみたいに高いのも一緒に並んでるみたい」
「そんな感じやな。俺もそんなに詳しいわけやないけど、本に載ってそうなのもあるもん」
「へぇ。そうなんや。知らんかった」
「お父さんの?」
「いや、……一緒に住んでる、親戚の」
夏彦が少し言葉を切った。
「親が両方海外に行ってて俺はここで留守番してんねんけど、東京の親戚が仕事で時々こっちに来るねん。で、なんか知らんけどどこかでカメラ買ってはココに運んでくるの。自分ちに持って帰れ言うのにどんどん持ってくる。しょうがないからこれ以上増やさんように、見せしめにここに飾ったってん」
「そんなことしたら、そいつ余計に喜んだんちゃうか? コレなんかめっちゃ格好いいーとか言うて」
由貴が思わず振り向いてそう言うと、夏彦の表情が呆れ顔に変わった。
「カメラ好きってみんなそうなん? 京吾と発想がおんなじ。大失敗やな……」
口を尖らせながら溜め息を吐く。
「京吾っていうの、親戚の人」
「そう」
仕返しのつもりでしたことが失敗だったことがよほどショックだったようで、夏彦の返事は心ここにあらずといった感じだ。
その様子はまるで子供のように幼くて、由貴は吹き出しそうになった。
「使えるカメラないの。それとフィルムも」
「探せばあると思うけど……なんで?」
爆笑しそうになるのを何とか堪えて、由貴が横目で夏彦を見る。
「今の顔めっちゃ可愛かったなー思て。写真に撮って残しときたいくらい」
「ふざけんな」
からかわれたと思ったのか、夏彦があからさまに顔を顰めて言い返した。そのままクルリと由貴に背を向けると、夏彦はキッチンのカウンターの向こうに消えた。どうやら怒らせてしまったようだ。
「いやホント、マジだって」
「うるさい」
大きな声で怒鳴り返す夏彦の顔を眺めながら、由貴はとうとう堪えきれずに爆笑した。
由貴は素人でも何とか扱えそうな一般的な一眼レフを手に取ると、ソファに戻った。座面に片足を載せて、体を捻ってカメラを構える。
キッチンで飲み物を用意する夏彦をファインダーに収めた。黒く切り取られた小さな空間に、夏彦の細い背中が映し出される。
なんだか変な気分だ。一点に凝縮された視線が夏彦の姿を捉えると、世界が一瞬で消滅して、ここに自分達だけが取り残されているような気がしてくる。糸に引かれるように夏彦を追うと妙に心が浮き立つ。由貴は軽く呼吸を止めて、残されたその小さな世界に意識を集中させた。
夏彦が顔を上げる。カメラを構える由貴を認めて戸惑う表情を見せて少し笑って、また手元に視線を落とした。瞳が軽く伏せられて2、3度小さく瞬きをする。
透明のグラスを両手に持って近づいてくる。時折確かめるような視線がレンズ越しに由貴を捉えて、その度に夏彦は照れくさそうな顔で苦笑した。
由貴の指が無意識にシャッターを切った。
シャッターの落ちるカシャッという音が大きく響く。驚いて二人は同時に顔を見合わせた。
「……撮ったの?」
「みたい……。フィルム入ってるわ。カウントしてるもん」
汎用型だからか、素人目にも分かりやすいカウンターが付いているので、見れば分かる。
夏彦は冷たい飲み物の入ったグラスを無造作にテーブルの上に放り出すと、カメラを覗き込もうと由貴の胸の辺りに顔を寄せた。夏彦の体臭が微かに香る。お互いの体温を感じるほど近い距離だ。
「知らんかった。ずっとフィルム入れっぱなしやったんやな」
「なら風邪引いてるんと違うか?」
「そうかな」
夏彦がさらに身を乗り出す。柔らかい髪がフワリと由貴の頬に触れる。
由貴は身動きもしないでそれを見ていた。
由貴が立てた息を飲み込む音で、夏彦はようやく我に返った。
頬に由貴のカッターシャツの感触を感じる。それほど身体が密着しているということだ。
うっかりすると由貴の胸にしがみついてしまいそうで、迂闊に体を動かすことも出来ない。背中がじっとりと汗ばんで、指先から徐々に震え出すのが自分で分かった。
由貴は今どんな顔をしているだろう。驚いているか、呆れているか、それとも……
何かに憑かれたように、体が強張って指先すら自由にならない。目の前を掠める夏彦の動きに、由貴の瞳がわずかに反応してゆっくり揺れる。強い力で押されたように急に胸が苦しくなって、由貴は慎重に息を吸い込んだ。
夏彦が顔を上げて由貴の視線を探す。由貴がもう一度息を呑むのと同時に、夏彦の唇が緩く隙を作る。
ふたつの視線が絡み合う。
透き通る淡いブラウンがゆっくり消えて、また現れた。
心臓は捻り切れそうなほど痛んで、張りつめた空気に触れている耳はさっきから音を伝えていない。
首を僅かに反らせた夏彦が、静止画面の中でフッと瞬きをした。それが過去に見た映像なのか現実の瞬間なのか、混沌としていて上手く判別がつかない。
おそらく俺は今、ギリギリの境界線上に立っている。
待っているのかも知れない。俺は、吸い込まれるようなあの瞬間を。
夏彦が由貴を見上げながら目を閉じる。あの時とそっくりの表情だ。
躊躇いも羞恥もなく、相手に全てを晒すかのような無防備さ。それは思い違いでも誤解でもなく、だから余計に由貴の胸を締め付けた。
冷水を浴びせられたように、急激に頭が冷えていく。
夏彦もその瞬間を待っているのだ。
そしておそらくは、それに慣れている。
注意深く溜め息を押し殺す。片手で夏彦の肩を軽く掴むと、由貴はそれと分からないように夏彦の体をゆっくりと遠ざけた。
指が震えているのが伝わらなければいいと願う。それでは余りにバツが悪い。少し迷ってから、由貴はびっしりと水滴を纏って温んだグラスに手を伸ばした。
「喉渇いた。ジュース貰うわ」
「あ、あ……ウン」
夏彦がぼんやりと返す。
その声はどことなく頼りなくて、なぜかホッとしているように思えた。
結局1時間ほどここで一緒に過ごして、由貴は部屋を後にした。借りた服を返して、もちろん次の約束もしなかった。
誰もいなくなっていつも以上に広く感じるリビングに戻ると、夏彦はソファの上で膝を抱えて蹲った。
それで良いと思う。これ以上近づいたらどうなってしまうか分からない危うさが由貴にはある。
途中から自分でも何をしているのか分からなくなった。
由貴はおそらく気がついていたに違いない。だからわざと気を逸らせるようなことを言ったのだ。由貴がそれとなく自分を遠ざけてくれたことに感謝しながらも、砂に水が染み込むようにどこからかじわじわと広がる恐怖に似た戸惑いを、夏彦は打ち消すことが出来ないでいる。
誰かの体温をダイレクトに感じると、反射的に体が固まる。熱気を孕んだ意識が溶けて混じり合うイメージに心を奪われて動けなくなる。それを最初に自分に教え込んだのは京吾だった。
京吾。夏彦が望み、手に入れた唯一の現実。京吾は夏彦の全てだ。
あの瞬間、夏彦の意識を支配していたのは由貴ではなかった。自分の心の中を注意深く点検して、胸を撫で下ろす。
それなのに、由貴の掌の感触がいつまでも肩に残っている。夏彦は震えながら、そこにそっと自分の手を重ねた。
深い闇に落ちてしまったみたいに感じる。もうすぐ梅雨に入ろうかという季節だというのに、自分の周囲だけを寒々とした空気が取り巻いているような気がする。
由貴の手が触れた部分だけが痺れるように熱い。これは由貴の温度だ。
なぜこんなに心が騒ぐんだろう。昨日会ったばかりの、まだ友達とも呼べないはずの存在に。
京吾……。
呼び慣れた名前を心の中で繰り返す。
圧倒的な力でそれを否定してくれるはずの人は、遠く離れた場所にいる。