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「……という事で、明日からの中間試験期間中クラブ活動は一部休止になるが、時間はあくまで試験のためにある。君等もよう解ってると思うが、決して昼寝をしたり映画を見に行ったりするためにあるんやないぞ。本番は再来年や−なんて気ぃ抜いてたら痛い目見るんは自分らやからな」
頬をなぶる柔らかな風の感触に、由貴は伏せていた目を上げた。
開け放した窓からふわりと吹き込む風は、ここが教室だということを一瞬忘れさせてくれる。良い季節だ。
もうすぐ夏が来る。夏は由貴の好きな季節だ。
教壇では由貴のクラス担任がいつものように大声を張り上げていた。
「ほんなら、そういうことで今日はこれで説教は終わり。あとは寝るなり遊ぶなり好きにせい」
「原先、言うてること全然違うやん!」
クラス一のお調子者で盛り上げ役の真之が素っ頓狂な声を上げると、つられてクラス中がドッと沸く。原というその教師はさも面白そうに唇を歪ませたあと、声のトーンをわざとらしく低くして付け加えた。
「俺はお前らを信用してるからな。この暁星の名に恥じん生徒や思ってる。
……大体俺が何言うても聞かんやろうが、お前ら」
「それもそうやな」
真之の絶妙な間の手にまたクラス中が爆笑した。
「由貴っ」
HRが終了すると同時に真之が由貴の席まで駆け寄ってきた。
「今日、また俺んち来えへんか? おかんが由貴はちゃんと毎日飯食ってんのか言うてうるさいねん」
「悪い。今日はあかん、用事あんねん」
「なんや、女か」
「ちゃうよ、今日はお袋が家におんねん」
由貴の言葉に真之は目を見開いて嬉しそうに頷いた。
「なんや、そういうことか。ほんなら大丈夫やんか。よしよし」
「ああ、……サンキュ」
「いやいや」
じゃあな、と言い残して教室で真之と別れた。
母親は昨日から泊まり込みの仕事で美山に出掛けていて、当然家には誰もいない。帰宅は明日の夜遅く……つまり由貴が真之に言ったのはとっさの出任せだ。
由貴は小さく深呼吸してリュックを肩に掛けると、まだざわついている騒がしい教室を後にした。
由貴が公園に着いたのは4時半だった。この時間になるとこの辺りも学生やデパートの買い物客などで人通りが多く、昼間は静かな公園内にもまばらに人影が見える。老人や親子連れ、カップルなど様々だが、昨日の少年の姿はどこにもなかった。
しばらく外から眺めたあと、由貴はのろのろと公園に足を踏み入れた。
もう一度会えると思ったわけではない。そもそも昨日彼とここで会ったのはもっと早い時間で、しかも単なる偶然だった。
由貴がもう一度ここに足を向けたのは、少年の洩らした「ここに座っていて声を掛けられたことはない」という一言を思い出したからだ。
確かにそういう言い方をした。ということは彼は初めてこの公園を訪れたわけではないということだ。
昨日と同じベンチに腰掛けてぼんやり辺りを見回す。
目に映る誰も彼もが由貴と同じように、有り余る時間をどうしていいか解らず持て余しているように見える。そのあとそれは自分だけかも知れないという考えがすぐに浮かんだ。
人を待つなんて本当に久しぶりだ。それももう一度会えるかどうかも分からない人間を。真之の誘いを嘘をついてまで断ってここに向かったのが自分でも不思議なくらいだ。
それほど切実に『会う』つもりでいるわけでもない。
けれど由貴はここに座って少年を待っている。
昨日ここで少年が一瞬だけ見せた表情―――――それがずっと由貴の目に焼き付いて離れなかった。
受け入れることを拒まないかのような、無防備に伏せられた瞳。
あれは一体何だったんだろう。
ポケットにしまったタバコを取り出そうとした途端、斜め向かいのベンチに座っていた老人と目が合って、由貴は仕方なくポケットに突っ込んだ手を引っ込めた。
地下鉄の階段を上がると、途端にムッとする空気が全身にまとわりついてきた。梅雨に入る前から毎年大抵こんな調子で、こういうところが京都の夏は厳しいと言われる由縁かも知れない。額が少し汗ばんで来たことを意識しながら、少年は行き交う人の間をすり抜けるように歩き出した。
ここから昨日の公園までは歩いて5分もかからない。何となく歩いているうちに、迷う暇もなくあっという間に着いてしまうだろう。
CD屋の店先に貼られた誰かのニューアルバムのポスターに見入る振りをして、少年はその場に少しだけ足を止めた。心の中に浮かんでくる迷いをねじ伏せる時間が欲しかった。
彼が公園にいなければそれで良いのだ。
もう一度あそこで会う約束をしたわけでもないし、どこの誰かも全く知らないのだから。ここに来るまでにもそうやって何度も自分に言い聞かせた。
彼があの公園にいないことを確かめたらまっすぐ部屋に戻って、そしてすぐに忘れてしまおう。
彼のことも自分のことも、緩やかに形を変え始めたすべてのことを。
手元の時計に目を落とすと公園に着いてからすでに1時間が経っていた。
随分長い時間ここに座っていたものだ。すっかり強張ってしまった肩をゆっくり動かしながら、由貴はベンチから立ち上がった。
当てもないまま待っては見たものの、少年はやはり現れないようだった。
それは別に不思議でも何でも無い。
冷静に考えたら見ず知らずの人間から半分押し付けらるように借りた服を、わざわざ返しに来るとも思えない。
少なくとも自分が同じ立場なら絶対しないに違いない。そう思ったらこれ以上ここにいるのが急に馬鹿馬鹿しくなった。
―――――帰るか。
そんなにがっかりするほどのことじゃない。要するに最初からそういう巡り合わせだったってことだ。
もう一度公園の中を一通り見渡してから、由貴はゆっくりと出口の方角へ体を向けた。
CD屋の角を左に折れて雑然とした路地をまっすぐ進む。デパートの西側に当たるこの道は、食べ物屋やパソコンショップなどが建ち並ぶ騒がしい通りだ。
少し歩くとすぐ、古い町屋を改造した店の真向かいに公園の入り口が見えてきた。遠目からなのでハッキリしないが、パッと見た限りでは昨日より人の数が多いようだ。
中をもう少しよく見ようと心持ち歩く速度を落として目を細めた時、手前の角から背の高い人影がこちらに向かって歩いて来るのが見えた。
両手を無造作にポケットに突っ込んでゆっくりと角を曲がる。少し俯き加減なせいで長い前髪が顔を覆うように被さっていた。
心臓がいきなり倍の速さで走り出す。
胃の中から何かが迫り上がって喉を塞がれたような錯覚を覚える。
視線はそのシルエットにぴったり張り付いたまま、逸らすことも出来ない。
―――――彼だ。
誰かに呼ばれたような気がして、由貴はふと顔を上げた。
「あ、」
ポカンと口を開けたまま、由貴はその場に立ち止まった。見覚えのある華奢な少年が少し離れた位置から由貴をじっと見つめていた。
俺は幻を見ているのか? そんな考えがふと頭に浮かぶ。
そんなはずはない。今はまだ昼間のような明るさで、人も空気もちゃんと動いてる。
自分と同じように目を見開いたまま突っ立っている少年に近づいて、上から顔を覗き込む。
「なんや……、めっちゃ偶然やん」
違う。俺はここであんたを待ってた。
少年は頼りなげな表情で数回瞬きをした。
「またここで会うとはなぁ」
まさか会えると思わなかった。
一瞬伏せられた睫毛が震えて、その奥に淡いブラウンが覗く。心なしか瞳の焦点が合わないような表情が、やがて微かな笑みを形取る。
「ちゃんとパーカ返しに来たんか? めっちゃ律儀やな。俺なら絶対どっか捨ててるね」
―――――会いたかった。
もう一度この顔が見たくてここに来たのだ。
少年は『タカギ ナツヒコ』と名乗った。由貴と同じ制服を着ているからもちろん暁星の生徒だ。
「あんたも暁星やったんか……」
由貴の制服姿をまじまじ見つめながら少年が呟く。昨日も見せた拍子抜けするような幼い表情が覗いた。
「私服着とったから大学生やと思ってた」
「同じ学校でもなけりゃ知らん奴に服貸したりせえへんよ。あのまま帰ってたらめっちゃ目立ってやばいやろ? まぁ、ちょっとした親切やな」
「俺やったらいくら暁星の奴でもそんなんせえへん……」
「うわっ、オニみたいやな、あんた」
「うるさいよ」
軽く言い合ってから、堪えきれずに少年と由貴はほぼ同時に吹き出した。
思いがけなくもう一度出会ったからか、不思議なくらいお互い自然に話をしている。まるで昔からの知り合いのような気楽さだ。
「顔を知らんいうことは、2年? まさかと思うけど1年やないよな。……いくらなんでも態度デカすぎ」
由貴がどうだとばかりに胸を張る。
「2年3組、篠井由貴。背は確かにでかいけど態度はそんなデカないやろ。そういうあんたは?」
「俺? 3年。俺のが1コ先輩やね」
「へぇ……、3年…………」
思わず声が途切れる。
ウチの学校の3年、タカギ…………
「なんや?」
「ん? や、……別に」
少年が怪訝そうに聞き返すのには答えず、由貴はことさら明るい声で言った。
「3年にしては若い、っちゅうか可愛い」
「蹴ったろか、コイツ。むっちゃむかつく……」
由貴がわざとらしく頭を撫でる真似をすると、少年は整った顔を軽く歪めて低い声で笑った。
由貴の目の前で少年はちょっと変わった、喉の奥で息だけ洩らすような掠れた笑い声を上げていた。顔を伏せて小刻みに体を震わせている所を見ると、かなり面白がっているようだ。表情にあまり変化がないように見えるのは、少年の顔の造作があまりに整い過ぎているからかも知れない。
なんだ、全然普通じゃないか。肩を揺らして笑い続ける少年は別にどうと言うことのない、何処にでもいそうな普通の高校生だ。
そのことに由貴は何となくホッとしていた。
「で、俺のパーカは?」
「あ……、ああ」
由貴が促すと少年はようやく大事なことを思い出した。
「ワリ、ここで今日も会うとは思てへんかったから家に置いて来てしもた」
「マジで? 全然あかんやん。また今度ってか」
「それもなぁ…」
少年が思い付いたように言い出した。
「なぁ、時間あるんやったら、これからウチ来るか? また今度とか言うのめっちゃ面倒臭い。な? そうしよ」
いきなりの申し出に由貴が面食らって聞き返す。
「ウチ来いて、そんな簡単に言うなよ。あんたの家てどこやの」
「堺町六角。……近いやろ?」
少年が思わずニヤリとする。―――――当然だ。
由貴の顔に苦笑が浮かぶ。要するにしてやられたって訳か?
「マジでふざけんな、歩いて10分もかからんやん。走ったら5分や。補導される暇なんか無いやないか。……パーカ貸して損した」
「俺のせい違うよ。オマエが聞かへんかったしやろ」
言うなり、少年は急に踵を返して走り出した。由貴も慌てて後を追う。
「待てよ、コラっ。……夏彦!」
深く考えずにそう呼んでからヒヤリとした。出会いが出会いだったせいであまり実感が沸かないが、相手は一応先輩だ。
「……って、呼び捨てはマズい?」
少年はピタリと足を止めて由貴を真正面から見つめた。
「ええよ、別に。オマエの好きなように呼んで」
「じゃ、決まりな。俺は、」
「ヨシタカ。さっき聞いた」
「や、ユキって呼んで。理由の由に貴族の貴やしユキ。幼稚園のときからずっとそう呼ばれてる」
「―――――ユキ」
夏彦が神妙な顔でその呼び名を繰り返す。
「由貴か……。格好ええ名前やな」
フワリと零れる笑顔は、昨日夏彦が垣間見せたのとは違う意味で無防備だ。
その顔がなぜか由貴の胸を衝いた。
綺麗だと、思った。