(2)

 

 固まっていた手足をどうにか動かして、少年はよろける足取りで公園の門をくぐった。
 一瞬で跳ね上がった心臓はまだ痛いくらい激しい速度で脈打っている。手に掴まされたスウェットパーカを羽織ることも思い付かなかった。
 背中に彼の視線が突き刺さっている。
 首筋がピリピリと粟立って背中に一筋冷たい汗が流れる。
 立ち止まっちゃいけない。

 何か別のことを考えなければ。まっすぐ向けた視線の先にあるどこかの店先の看板のことでも、その中でつまらなさそうに頬杖をついて居眠りをしている店員のことでもいい。
 何でも良い。彼のこと以外なら―――――
 違う!
 考えてはいけないのは彼が身を乗り出して顔を近づけてきたとき、反射的に目を閉じて『次』を待った自分のこと。

 見えない手で両耳を覆われたみたいに感じる。さっきからずっと体内から絶えず響いてくる、ギリギリと神経を捻り上げる気味の悪い摩擦音しか聞こえていない。それは恐怖の自覚症状だ。
 変わっていく自分への。
 頬を張られて強引に振り向かせられるような、純度の高い誘惑への。

 もう逃れられないのかも知れない。
 足を踏み出してしまったのだから。


 




 木屋町沿いの細い路地を曲がって似たような扉の前をいくつか横切ると見えてくる古びたビルの最奥にその店はある。築40年を過ぎようかというぼろぼろの建物にあまり流行っていない小さなバーが何軒もひしめき合う、この辺りでは特に珍しくもない店のひとつだ。
 由貴がドアノブに手を掛けるのとほぼ同時に、扉が内側に引っ張られた。
「ああ、……失礼」
 わずかに開いた扉の隙間から背の高い男が顔を覗かせた。タイミング悪く由貴とドアの前で鉢合わせしてしまったことを素早く詫びる。こんな場末のバーに似つかわしくない、洗練された物腰だ。身なりも上等そうで、何より見た目がぱりっとしている。きっと金持ちの部類なんだろう。
 華奢な銀色のフレームの奥の表情は今ひとつ読み取れないが、相当整った顔立ちをしていることは、スッと通った鼻筋や形の良い顎の線を見るだけで由貴にも何となく想像出来た。
「いや、別に……」
 少し面食らって、由貴にはそんな言葉しか返せなかった。我ながら青臭い反応だ。見ず知らずの相手に見栄を張っても仕方がないと思いながらも、何となく自尊心を傷つけられる気がするのは男の性分なのだろうか。
 無言で体を斜めに向けて先に出ろと促すと、男は由貴の顔を一瞥してから軽く会釈してその場を後にした。
 どこまでも気障な奴だな。しかもそれが板に付いてやがる。
 コンクリートの床を打つ革靴の音を意識から無理矢理閉め出すと、由貴は店に体を滑り込ませた。


 ドアを後ろ手に閉めると、カウンターの中から明るい声が聞こえてきた。
「いらっしゃ、……なんや由貴かいな」
「なんやはないやろ、なんやは。それが客に対する態度か」
「誰が客やて? 金も払わんとタダで飲み食いするうえに未成年のくせさらしよって。ガキがいちびってこんな時間に飲み屋なんか来るんやないわ」
 およそ女とは思えない口の悪さがこの店のママの特徴だ。売りと言ってもいいかも知れない。この気っぷが良く歯に衣着せない豪快な性格ゆえ、長引く不況で閑古鳥の飛び交う店の土台を辛うじて支えていけるぐらいの客を何とか繋ぎ止めていられるのだ。
「真之は?」
「クソガキなら3階や。メシも食わずに何してんねやろ、アホタレが。あんたちょっと行って、耳たぶ引っ掴んで引きずり下ろして来てぇな」
「しゃあないな。……俺、クリームソースのペンネがええな」
「ったくどいつもこいつも、ほんまどうしようもないクソガキやわ」
 由貴が薄暗い店の雰囲気にそぐわないメニューを口にすると、ママは作り物めいた真っ白な歯を思い切り剥いた。


 3階で熟睡していた真之を叩き起こして店に戻ると、由貴は早速カウンターに用意されていたパスタに取り掛かった。演歌でも流れそうな古臭い造りのスナックで本格的なレストランのような美味いペンネが食べられるのは、ここが友達の母親が経営する店だからだ。
 真之の母親は若い頃に夫と離婚して、夜の街で働きながら一人で息子を育てた。若い女がなりふり構わず働くとなればその職業は推して知るべしだが、彼女はそれを真之にも真之の友達にも隠そうとはしない。
 長い間働いて苦労して、ようやく3年前この崩れかけたビルの一室に自分の城を持った。
「おばちゃん、やっぱ美味いわコレ」
「おばちゃん言うな。ママや。人聞きの悪い」
「マ・マ〜って、ウワ、きっしょぉ!」
「うはははっ」
 湯気の立つクリームソース仕立てのパスタを頬張りながら、由貴は目に涙を浮かべてしつこく笑い続ける真之を振り返った。
「ママってさ、なんでこんな格好ええもん作れんねや?」
「おかんの別れたオヤジがミナミでちっこいイタメシ屋やっとって、おかんも一緒に店手伝うてたんやもん。あっという間に借金作って、やっと時代がバブったときにはもう無かったらしいけど。なぁ?」
 真之が人事のようにあっさりと言う。顔もろくに覚えていない父親の話は、真之にとって本当に他人と同じ重みしかないのかも知れない。
 カウンターの向こうでママが派手な溜め息を吐き出した。
「料理は上手くても中身はアホそのもの。あたしがさっさと別れてへんかったら、まあちゃん今ごろこの世におらんよ」
「なんでや」
「子供子供して可愛らしいうちにどっかに売り飛ばされてバイバイや」
「俺めっちゃ可愛かったしな〜。高う売れたやろなぁ」
 真之が大げさに仰け反って大声で笑う。この手の話題は真之のお気に入りなのだ。ママが嫌そうに顔を顰めて小さく「アホ」と呟く。 
「しょうもない男の話なんかしてたら、せっかくのメシがマズなるやないの。ダラダラ喋ってんとさっさと食ってさっさと帰り。お母さん心配してるやろ」
「お袋は俺が家におらんことも知らんやろ。今日もどっかに泊まりや言うてメモが残ってた。親父は週末まで帰って来えへんしな」
 由貴が乾いた笑い声を上げる。
 そうでもなければこんな夜中に街をウロウロしているわけがない。
 由貴は改めて何日も顔を会わせていない両親の顔を思い出した。
 父親は典型的な企業戦士で、真面目で古いタイプの人間だ。いい加減いい年なのに会社の辞令を素直に受けて仙台支社に単身赴任して、もう2年になろうとしている。
 母親は建築関係の会社に勤める一級建築士だ。子供の手が離れてから建築士の資格を取った努力家で、だから仕事となると目の色が変わる。現場だ、完成パーティだと言っては家を空けることが多く、由貴とまともに顔を会わせるのは父親が帰省する週末ぐらいだ。
 誰も側にいないから、引き留めるものが何もないから俺はこうしていい加減に毎日を過ごして行けるんだ。
 こんなに楽で寂しい暮らしは他にない。
 だから俺は街に出る。何の目的もなくただ長いだけの時間を、出来る限り無駄に過ごすために。


「……由貴、そろそろ帰り。たまにはやんちゃはお休みしい」
 ぼんやり黙り込んでしまった由貴をカウンター越しにママがそっと促した。
「そやな」
 たとえ友達の母親でもママは由貴に優しい。
 自分で気づいてはいないが、由貴はママの言うことだけはなぜか素直に聞くことが多かった。
 実の親でも知らない自分の心の奥底を気遣ってくれる人がいる。そのことが由貴の中に埋もれる固く尖った感情を和らげているのかも知れない。
 由貴は勢いよくスツールから飛び降りると、さっと身を翻して出入り口へと向かった。振り返ってふたりを見ることはしなかった。今の自分の顔をママや真之に晒すのは何となく癪に触る。
「じゃあ、また明日な。遅刻すんなよ」
「ふざけんな」
 真之が由貴の背中に向かって笑いながら怒鳴る。
 それに片手で応えて、入り口のドアを開けた所で由貴はふと足を止めた。
「そういえばママさぁ、俺が来る前店におった奴って常連?」
「誰?」
「ほら、入り口で俺、鉢合わせしたやろ。えらい上等なスーツ着た賢そうな兄ちゃん」
 由貴がなおも食い下がると、ママはたった今思い出したという顔を見せた。
「ああ、あのお兄さんな。さぁ? フラッと入ってきただけ。……見たこと無い人や」
「ふーん……そうなんや」
 由貴が思わずカウンターを振り返る。
「物好きな奴もおるもんやなー。こんなしけた店に一見で入ろ思うなんて」
「放っとき」
 良くも悪くもお気楽な息子の一言を軽くいなして、ママはカウンターに並べてある乾いたグラスをもう一度丁寧に拭き始めた。


 




 空に近い場所から見下ろす夜の街はどこも同じように綺麗だ。今日のように何となく心がざわめく時は尚更そう感じる。
 窓に近づいて外の景色に目を向ける。あの辺りがたぶん祇園界隈、川沿いのいかにも京都らしい場所だ。そこから西へ、デパートの屋上の明かりが並ぶのが四条河原町。じゃあ、あの公園は………
「どうした……? 外に何かあるのか?」
 佇む背中に向かって、青年の声が静かに近づいて来る。
「京吾」
 強引に窓から視線を引き剥がして振り向いたとき、すでに青年の腕は後ろから柔らかく自分を抱き締めていた。
 首筋に暖かい息が掛かる。青年が口づけやすいように大きく首を傾けてそれを迎え入れた。
 鎖骨の中心に指が触って、やがてくすぐったい感触に変わる。胸板をまっすぐ下へ向かうその動きは、愛撫というより触診に近い正確さだ。
 身動きしないように気をつけていると、指が確実に目的の部分に辿り着く。
 掌を広げて触れたり離れたり、悪戯でも仕掛けているつもりなのだろうか。
 溜め息に聞こえないようにと願いながら口を開いた。
「ちゃんと触って」
「ん……?」
 解っているくせに気がつかない振りをする。その鋭利な表情に浅い笑みが零れるのが見なくても分かる。
 彼は望んでいる。俺が手の中に落ちてくるのを。
 そして俺もそれを望んでいる。
「服の上からじゃなくて、直接触ってよ。もっと強く……乱暴にして欲しい」
 項に触れる唇の形が変わった。
「夏彦の好きなように」
 ―――――違うやろ? あんたの好きなように、やろうが?
 ふと心に浮かんだ言葉は、音になる前に強烈な快感に掻き消された。
BACK : NEXT