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Ep.12 /
epilogue |
9月になった。新学期が始まるとまた、以前と変わらない日々の繰り返しだ。
教室の窓に映る風景もまだ夏の気配を残していて、夏休みに入る前とそれほど変わりないように見える。
それでも変わったこともある。
夏休み以降、由貴は夜中に家を抜け出すことをしなくなった。真之が引き起こした傷害事件に由貴が深く関わっていたことが両親に知れてさすがに監視の目が厳しくなったこともあるが、学校側でもそれが問題になって、結局夏休み中自宅謹慎という処分を受けたからだ。
そして何より、一緒に馬鹿なことをしていた友人が由貴の隣から消えてしまった。
真之は最終的に保護観察処分という所に落ち着きそうだということを、今朝担任から聞いた。それは京吾の傷が重傷ではあったが命に別状は無く、偶発的な傷害事件として扱われたことと、何より被害者である京吾側がより強く和解を求めたことに因る。
もしかしたら夏彦がそうするよう京吾に頼んでくれたのかも知れないが、それを確かめる方法を由貴は知らない。
あれ以来由貴と夏彦は一度も顔を会わせることは無かった。夏彦からの連絡も無く、由貴も部屋を訪ねようとしなかった。
一度だけ京吾が運び込まれた救急病院を訪ねてみたが、すでに京吾は転院した後で、関係者どころかほとんど知り合いですらない由貴が転院先を教えてもらうことは出来なかった。
人がまばらになった放課後の教室はどことなく寂しい。何かが抜け落ちてしまったような喪失感がある。
以前はこんな風に感じたことは無かった。真之が使っていた机が主を失って所在なげに見えるのも何だか不思議な気がした。
俺の中の、何がどんな風に変わったと言うのだろう?
狂ったように過ぎて行った時間をぼんやりと思い返す。浮かんで来るのは、目を閉じたまま首を傾けて由貴を見上げる夏彦の顔ばかりだ。
綺麗だった。無垢で官能的で驚くほど純粋に夏彦は由貴を求めた。
愛していたのだと思う。由貴もまた心から夏彦の全てを望んだ。
叶えられなかったのは、ほんの僅かなすれ違い……過ぎてしまわなければ気がつかないほど小さなきっかけをお互いに掴みきれなかったから。その分岐点が一体いつだったのか、正直なところ由貴にはまだ良く解っていない。
「なんや、まだここにおったんか」
声がした方向を振り返ると、岩居が由貴の真後ろに立っていた。
「お前か。もう帰る?」
「やから誘いに来た」
顔を見合わせて少し笑んで、由貴はゆっくり椅子から立ち上がった。
夕方の鴨川沿いは人が多い。犬を散歩に連れている親子連れやベンチに座って楽しげに話すカップルなど、毎日変わり映えのしない光景が今日も繰り返されている。
由貴と岩居は人の多い河川敷から外れて、川面に近い斜面に腰を降ろした。
「これ、さっき原先から聞いたんやけど……」
「ん……?」
「あの、鷹木……っていうの? 夏休みの間に正式に転校届出したって。東京の私立に替わったんやって」
岩居がポツリと言う。どことなく歯切れが悪いのは、由貴が自分と夏彦の間に起こったことを岩居に全て話したからだ。
「卒業まであともう少しやし、ストレートで進学するの諦めるんならどっちみち一緒やから最後までウチにおれって、3年の学年主任とかもだいぶ引き止めたらしいけどな。…本人、絶対東京へ行く言うて聞かへんかったんやって」
よく由貴と真之の3人で騒いではいたが、岩居が全ての事情を聞かされたのは、事件が起こって、真之が警察に連れて行かれたずいぶん後だった。
由貴から詳しい事情を聞いた時、岩居は声を上げて泣いた。泣きながら由貴を一発殴り、また驚くほど大声で泣いた。なぜ自分に何も言わなかったのかと、真之と由貴の態度をひどく責めた。そして由貴を責めながら、岩居もまた何も見えず何も出来なかった自分を責めているように見えた。
それ以来岩居は事あるごとに由貴を気に掛け、真之や夏彦のことをそれとなく由貴に伝えてくれるようになった。友人関係など塵よりも軽いと思っていたのは、結局自分だけだったのだ。自分の目が何も見ていなかったことを、岩居の態度の変化によって今さらに気づかされた気がした。
違うな…。確か最後に夏彦も同じ事を言っていた。
夏彦との恋がなかったら、今でもおそらく気づいていないに違いない。死に物狂いで夏彦を求めたことが、結果的に由貴の中に眠っていた何かを呼び起こした。それは夏彦からの切ない贈り物だ。
「京吾さんのそばを離れたくなかったんやろ…きっと」
今まで夏彦が京吾に対してどうしても出来なかったこと…相手を信頼することとか、素直に心を預けることとか…そういったごく普通の感情を取り戻そうと必死なのだ。
夏彦はすでに歩き始めている。そう、『京吾から逃げるな』と夏彦に言ったのは、他でもない由貴自身だった。
「一回も会えへんかった?」
「ん、……勇気が、なかったな…………」
由貴は素直に頷いた。
事情聴取のあと京吾のいる病院に戻る時、由貴が一緒に行くのを夏彦は許さなかった。それが夏彦の選択なのだと、強く感じた。それを払いのけて強引に奪い去ることが出来なかった。あれが夏彦との最後だ。
「本気やったんやけど、届かんかった…………」
あれから何度も後悔した。追い掛けてもう一度腕の中に抱き締めたら、もしかしたら夏彦は自分の所に戻ってくるかも知れない。そんな事も考えた。でも結局由貴が夏彦に会いに行くことはなかった。
自分の目ではっきり終わりを見るのが怖かったからだ。もう「終わった」のだということをこれ以上はないほど知っていて、それを目の前に突き付けられることに耐えられないだろうと思った。
これが今の自分なのだ。足りなすぎ、見えなさすぎて、たったひとつの大事なものを掴み続けることも出来ない。
「そっか…………」
少し黙ってから、岩居がわざと明るい声で言う。
「真之な、家裁済んだらおかんの田舎に行くんやって。四国の、……なんて言うとこやったかな……大洲とかいうとこ。保護司もそっちで手配したって」
「ん」
「会いに行こか、ちょっと落ち着いたら。春休みくらいに、旅行がてらさ」
「そうやな」
涙を零さないようにするのに苦労した。
手を離さなくて済むものは、まだ沢山残されている。
失ったものはあまりに大きく、残されたものもまた、目一杯腕を広げなければ受け止め切れないほど大きい。
もっと長い時間が過ぎたら、離したくないと切望するものを離さずにいられるようになれるだろうか。もう一度そういう人に出逢えるだろうか?
答えは今よりもっとずっと遠い未来にしかない。『今』を通り過ぎなければその先は見えて来ないのだから。
見えないからこそ探し続ける。
夏彦が由貴の前から去った今も、……これからもずっと、永遠にだ。
「そういえばお前さぁ、もう進路表出したか?」
急に岩居が話題を変えた。
「原先が俺に言いよんねんぞ。お前の進路表まだかって。そんなん知らんちゅうねん」
「ああ、悪ィ……」
由貴が苦笑で返す。
「HRん時渡した。びっくりしとったわ」
「何で?」
「俺が大学の写真科希望したから」
「そりゃまた……初耳」
「ちょっとな、本格的に写真のこと勉強してみよかなって。…俺が一番ビックリしてるって」
思わず笑った。そういえばこれも夏彦が由貴に残してくれたものの一つだ。
胸の奥がチクリと痛む。
掌を重ねて掬い上げた砂の、最後の一粒が指の間からすり抜けていく。もう一度同じ場所に掌を埋めてもそこにはきっと違う色の砂が混じる。永遠に続けばいいと願った時間も、過ぎてしまえばただの一瞬でしかない。
そして日々は少しずつその形を変えていくのだ。
見上げると、飛行機雲が一筋、空を縫って鮮やかな軌跡を描いて行くのが見えた。
空が近い。昨日まで力強く腕を広げていた雲も心なしか弱々しく散らばって見える。
そうか、秋が近いのか。確実に季節は変わっている。少しずつ日が短くなり、灼け付くような日差しもやがて弛み始めるだろう。
夏の終わりが、すぐそこまで来ていた。
◎ end ◎
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