| (11) |
授業が終わると夏彦はいつものように地下鉄の改札前で由貴を待った。由貴が来るかどうかは分からないが、電話が通じない以上夏彦には他に思い付く方法が無い。
忙しなく目の前を通り過ぎる人の流れをぼんやり眺めながら、柵に凭れて地下から聞こえてくる電車の音に耳を澄ませる。電車が到着すると手摺りから身を乗り出して、階段を上ってくる乗客の顔をひとりひとり探した。
どれくらいそうしていただろうか。何本の電車を見送ったかよく分からなくなるくらい待って、夏彦はようやく駅を後にした。
ポケットから携帯電話を取り出してディスプレイを確かめる。液晶画面に表示された時刻は7時を回っている。由貴からの着信やメールの到着を知らせるアイコンは出ていなかった。
由貴が突然自分を避け出したのは、どう考えても昨夜の電話が原因としか思えない。それ以外、夏彦に思い当たることは一つも無かった。
京吾と過ごす時間より由貴との時間の方がうんと多いからか、こうして由貴の顔を見られないことが不安でたまらない。いつのまにかこんなにも由貴を頼りにしていることに改めて気づかされて、夏彦は愕然とした。
甘えすぎたのか、とも思う。由貴が何も言わないのを良いことに、由貴の気持ちを考えなかった自分がいちばん悪い。
俺はいつでもそうだ。
差し出された腕に簡単に自分を委ねる。そうしてすっかり安心して、考えることを止めてしまう。
それでも由貴に会いたい気持ちに変わりはなかった。顔を見たくて堪らなくなる。由貴の存在に引きずられて行く。
鉛を括り付けられたような足を引きずってひたすら歩いた。マンションはもう目の前だ。ふと顔を上げて、―――――足が止まった。
そう……前にもこんなことがあった。俯き加減で無造作にポケットに手を突っ込んだまま、ブラブラと通りを歩いてくる、スラリと背の高いシルエット。
間違いない、あれは。
「由貴っ」
思わず叫んだ。声が届いて、由貴がパッと顔を上げる。夏彦の姿が目に入って驚いたように足を止めた。夏彦が由貴に向かって駆け出す。一瞬でも早く由貴に届くように、限界まで腕を伸ばした。由貴の腕もまっすぐ夏彦に向かって伸びている。
もう少し。もう少しで由貴に届く。
指が由貴の腕に触れた瞬間、夏彦の心臓が撥ねて、鋭い痛みを訴える。
これは他の誰でもなく、自分の心の痛みだ。
由貴の暖かい腕に飛び込んだ瞬間、聞き慣れない声が夏彦を呼んだ。
「やっと見つけた。由貴、と…ほら、俺のこと憶えてる?」
ニッコリ微笑みかけられて夏彦の足が竦んだ。
由貴の腕が痛いくらいギュッと自分を抱きかかえるのが、ハッキリ解った。
マンションのガレージの陰から顔を覗かせた少年は、由貴の腕に収まった夏彦に向かって上目遣いで頭をヒョイと下げて見せた。
「今日も話したよな、教室で。前も会うたことあるしね」
四角張った口元をニッと引き上げて、由貴もよく知った少年―――――古谷真之が笑う。
「鷹木…夏彦、さん」
名前を呼ばれて夏彦が顔を向けるのを見て、フム、と首を傾げた。
「やっぱそうや、夏彦やんな」
真之が嬉しそうに繰り返す。どことなくおぼつかない足取りで一歩前に踏み出した。夏彦が体を震わせて由貴にしがみつく。
真之と夏彦を向かい合わせてはダメだ。咄嗟にそう感じて、由貴は夏彦を抱えたまま自分の背後に押しやった。
「…夏、部屋に入れ」
夏彦は弾かれたように顔を上げて、嫌だと言う代わりに激しく首を振る。のんびり説得している時間は無い。由貴の心にじわじわと焦りが広がって行く。
「ええから、入れ! 俺が電話するまで絶対部屋から出んなっ。早く!!」
嫌がる夏彦の腕を強引に引きずってマンションのエントランスに辿り着くと、由貴は夏彦を突き飛ばすように中へと押し込んだ。少し離れて、オートロックがしっかり閉まるのを息を詰めて待つ。立ち止まったままその場を動かない夏彦を睨みつけて、「早く行けっ」とガラス戸を蹴り上げた。
ようやく諦めて夏彦が部屋に戻るのを確かめてから、由貴はゆっくり後ろを振り返った。
真之は黙って腕を組んだまま二人のやり取りを見ていた。由貴がなぜ血相を変えて夏彦を部屋に帰したのか、分からない訳ではないはずだ。その証拠に由貴をじっと見つめる真之の表情がフッと弛んだ。
「冷たいなぁ、由貴。紹介してくれたってええやろ。俺に自分のカノジョ見せるの、そんなに嫌か?」
クスクスと笑いながら、彼女、という部分をことさら強調する。真之がその単語をどういう意味で使っているのかは、由貴にも疑いようがなかった。
「ふざけんな…」
「ふざけてんのはどっちや」
真之の声音が固く尖る。
「由貴…お前、やっぱ知っとったんやね。あの鷹木とかいう奴がおかんの店潰しに掛かってる奴らと関わりあるって、知ってて黙ってたんやなぁ。ほんま由貴は友達思いで涙が出るわ…」
由貴が心配した通り、夏彦が京吾の関係者だということが、とうとう真之に知れたのだ。それについて由貴には言い訳のしようがない。黙って認めるよりほか無かった。
「ったく、堪らんわ。俺がどれだけ驚いたか、分かるか? まさか由貴があんな、誰にでも尻貸してやるようなアホに引っ掛かるとは思ってもみんかった」
次に続いた真之の痛烈な一言に、由貴の鳩尾が冷えた。
真之は何を知っている? それを一体どこで聞いた?
夏彦の何をどこまで何人の人間が知っているのか、考えるだけで胸が悪くなってくる。その話を知っている人数に比べて、そのことで夏彦がどれだけ苦しんだかを知る人間はずっとずっと少ないのだろう。
誰もが抱え込んだものの重みにひとりで耐えている。
打ちのめされ、何度も地面に膝をついては、またのろのろと立ち上がって次の一歩を踏み出す。夏彦も真之も、そして由貴も誰も彼もだ。その中の誰がより苦しいかなど、測る道具も比べる基準も無いはずだった。
「由貴ー」
真之が急に声を張り上げた。口では由貴を呼んでいるのに、視線は全く別の方向を向いたままだ。嫌な感じがする。由貴は黙って次の言葉を待った。
「アイツだけはやめとけって、悪いことは言わんから。俺がどうして何日も学校休んでたと思う? …調べたんや、おかんの店買い叩こうとしてる奴らのこと。俺が探ったくらいじゃ詳しい話はなかなか出て来えへんかったけど、こないだ店に来た連中はここらで派手に動いてるから、ちょっとは分かったよ。関東方面の不動産関係の会社でな、こっちの大手と手ェ組んでここ2、3年くらいでいろんな土地を買い捲ってるらしい。ばしっとスーツ着た偉そうなオッサンがおったやろ? あれがそこのナンバーツーやて」
やっぱり…と心のどこかで思う。店の前で耳にした話の断片から京吾の仕事の内容は何となく予想がついていたから、由貴にさほどの驚きは無い。むしろ学校に来ない真之が一体どこで何をしていたのかを、ちゃんと確かめなかった自分の呑気さに腹が立った。真之はそれを調べるために、ずっと学校を休んでいたのだ。なぜ今までそのことに思い当たらなかったんだろう。
由貴が返事をしないのを気にも止めない様子で、真之はすぐに言葉を続けた。
「さっきのカノジョも結構な有名人やで。初めて会うた時アイツの名前、タカギって言うたやろ。あれ、ナツヒコやーって言うたよな? それふっと思い出してさ、あのオッサンのこととか色々教えてくれた人んとこ、さっき電話して聞いてみたんや。最近の由貴はなーんかおかしかったしな。もしかしてあの美人が原因かなーって」
真之が少し言葉を切る。
「…顔がええってこういう時は損やな。名前言うて見た目はこんな感じってちょっと説明したら、みんなすぐに思い出すもん。最近は雲隠れしてたらしいけど、とりあえずええ噂はひとつも無かった。ああいう世界で有名になるのは止めといた方がええな。そいつがどこの誰で誰のツレやとか今まで誰とつき合うたとか連絡取りたきゃ誰に言えとか、そっりゃみんなびっくりするくらいよう知ってるよ。住んでる家までバレバレやもん。ところで聞きたいか? お前のカノジョがその辺で何て呼ばれてたか」
聞きたいわけが無い。夏彦がさんざん苦しんだ過去だ。
「…聞かんでも知ってる。本人から聞いたからな」
「へぇ…」
真之が笑みを含んだ声を漏らす。あからさまな嘲笑。真之にこんな笑い方が出来るとは思ってもみなくて、由貴は手足が怒りで徐々に冷たくなっていくのを感じた。一見無邪気な表情で、真之が不思議そうに首を捻る。
「ほんならお前、自分のオンナがあのオッサンのオンナやってこと、知ってるわけ? 誰に聞いても多分そうやろって言うてたぞ。…びっくりやな。さすが噂のオンナって感じ? めっちゃキレイなカオして、お前もあのオッサンもどっちも銜えて大したもんやな。そんなにアレがええんかなぁ…」
その瞬間、由貴は平手で真之の頬を張り飛ばしていた。パンッと皮膚が弾ける音が舗道に響く。ちょうどふたりの真横を通り過ぎようとしていた中年男性がその音にビクッと肩を強張らせて、振り返りもせずそそくさとその場を走り去って行った。
そんなことは今の由貴にはどうでも良いことで、ただ必死に首を振って、何処かへ飛んで行きそうになる意識を引き戻す。拳で殴らなかったのが不思議なくらいだったが、ここで自分が真之の挑発に乗るわけには行かなかった。
由貴は夏彦がどうしてそういう言われ方をするようになったのか、その理由も京吾との関係もすべて聞かされて知っている。そして悔しいけれど、真之が夏彦のことを良く思わない気持ちも解らなくは無かった。どちらの事情も知っているのは由貴だけなのだ。
由貴は目を閉じてゆっくり呼吸を整えると、出来る限り穏やかに言った。
「噂だけで物言うな。俺はあいつの、お前が知らんようなことも知ってるし、俺が知ってるあいつがホントのあいつやって信じられる。お前が俺に何を言うてもそれは変わらんよ」
過去を全てさらけ出してまで由貴を求めた夏彦の手を取ったのは、他でもない由貴自身だ。今さら後へは引けない。誰に何を聞かされようと、自分の足下を見失うわけにはいかなかった。
真之が急に目を見開いて、由貴の顔をまじまじと見つめた。まるで由貴のことを心から気の毒がってでもいるように、頼りなく眉を顰める。
「…しゃあないね。俺が何とかしたるから大丈夫、大丈夫」
ポツリとそんなことを口にする。真之の顔はゾッとするほど真剣そのもので、冗談を言っているようには到底見えない。
「俺だけは見捨てたりせえへんから。由貴は俺の友達やし、な?」
場違いなほど明るい笑顔を見せてから、真之は胸の前で由貴に向かってヒラヒラと手を振った。そのまままっすぐ後ずさりすると、角を曲がって行ってしまった。…どう考えても普通の行動じゃない。
由貴と真之を繋いでいた歯車が微妙な角度でずれていく。目には見えない僅かな誤差は微かな違和感と共にじわじわと由貴の周囲に広がって、やがて取り返しのつかない大きな亀裂となる。由貴の足下でアスファルトがピシリと音を立てた。由貴にはそれがただの空耳とはどうしても思えなかった。
嫌な予感がする。由貴は慌ててポケットから携帯を取り出した。電話が通じた途端、相手も確かめずに叫んだ。
「今、京吾さんてどこにおる?」
『なんやの、いきなり。あいつどうしたん?』
「ゆっくり説明してる時間がない。嫌な感じがする。京吾さんに電話して、外におるなら気をつけろって言え。今すぐやっ」
由貴の剣幕に気圧されたのか、夏彦も訳が分からないなりに考えを巡らせているのが伝わってきた。
『たぶん今ごろ携帯切ってると思う。今日明日と得意先に会う予定が入ってるし、ちょうどそんな時間やと思う』
「場所は?」
『今日は相手先が若いから、たぶん先斗町辺り…』
「探しに行くわ。いつも使ってる店とか知ってるやろ? 教えて、俺が行く」
『由貴待って、由貴がなに言うてるか全然分からん。何があるの? 何があった!?』
「俺かて、何が何やら全然分からへんねや。説明なんてようせぇへん。でもあかん、このまま放っといたら絶対あかんねん!」
堪えきれずに、由貴はついに悲鳴を上げた。
橋の手前でタクシーを止めて飛び降りると、由貴と夏彦は石畳の引かれた細い路地に駆け込んだ。夜になると華やかな店の軒先に掲げてある門灯が映画のセットのような雰囲気を醸し出す、有名な通りだ。平日なのに思ったより人が多く道行く人の足取りが緩やかで、それがいっそう苛立ちを募らせる。
「どこら辺?」
「もうちょっと北、たぶん真ん中あたり…」
振り返って叫ぶ由貴に、夏彦が慌てて返事をする。由貴は夏彦の腕を掴むと、人波をかき分けてさらに通りの奥へと進んだ。
「たぶんこの辺…由貴っ、あれ!」
夏彦が急に立ち止まって前方を指差した。
「京吾っ!!」
京吾はちょうど店の前で客を送り出している最中だったらしく、駆け寄ってくる夏彦を見てあからさまに顔を顰めて見せた。
「どうした、…なぜ君がこんなところに?」
落ち着いているが、喜んでいないのは見れば分かる。咎めるような声が固いのも当然だろう。夏彦自身、由貴に急かされて飛んで来たはいいが、その理由をハッキリとは知らされていないのだ。京吾は夏彦と由貴の顔を見つめてため息を吐くと、「ちょっと待っていなさい」と言い残して背中を向けた。
傍にいた店の従業員に手短に何か言い含めると、接待相手に丁寧に頭を下げて見送ってから、京吾はようやく二人の元へ戻って来た。由貴と夏彦の顔を交互に見比べて、もう一度深々とため息を吐く。
「さて…、どうして君達がこんな所にいるのか、理由を聞かせて貰おうか」
ママの店で擦れ違って以来初めて面と向かった京吾は、とても落ち着いていて見るからにやり手といった印象だ。口調は穏やかだが隙がなく、少し威圧的な雰囲気がある。由貴は緊張しながら何とか口を開いた。
「いきなり押し掛けたことは謝ります。俺の、友達のことで…心配なことがあって」
「君は?」
「由貴。篠井由貴って、俺の友達。ほら、京吾がカメラを貸してくれた」
「ああ、君が…」
夏彦の説明に、京吾の口調が少し弛んだ。
「はじめまして、石坂です。夏彦と仲良くしてくれているんだってね。写真が好きな友達がいるって夏彦から聞いて、一度会ってみたいと思っていたんだ」
友達。こんな場面でそんな些細な言葉が気になる自分が、少し情けなかった。今がそんな場合じゃ無いことは由貴が一番よく知っている。由貴は呼吸を整えると、思い切って次を切り出した。
「ゆっくり話してる時間が無いんです。俺の友達が、なんかしでかすんやないかと思って、ここまで来ました。昨日の木屋町の…って言うたら、きっと分かりますよね?」
京吾だけでなく、夏彦も目を見開いて自分を見つめるのがハッキリ感じられた。由貴は声が震えないように、ギュッと拳を握り込んだ。
「あの店、友達の母親の店なんです。昨日あんたを殴った奴、さっき会うたらなんか様子がおかしかって。昨日もかなり頭に来てたみたいやったし」
殺してやる、と叫ぶ真之の姿が目に浮かんだ。「俺が何とかしてやる」と言うのは、そういう意味ではないのか。
「それで?」
「だから、あんたに…気をつけて欲しいと思って…」
言いながら、だんだん自信が無くなってくる。自分がとんでもなく馬鹿なことをしているような気がした。
京吾は由貴の話を黙って聞いてくれている。が、半ば呆れているような気配はその表情からひしひしと伝わって来る。
「なぜ電話で済む所をわざわざここまで来た?」
「なぜって…、」
思いがけないことを聞かれて、答えに詰まった。
「それは君の友達が僕に危害を加えるかも知れないと思ったからかい?」
「…そうです」
「それならなおさらだ。危ない目に遭うかも知れないと分かっていて、どうして夏彦を一緒に連れて来た? 君も君だ。そんなところについてくるなんて、僕が心配するとは思わなかったのか?」
京吾が初めて声を荒げた。容赦無い叱責に由貴の全身が凍りつく。
言われなくても京吾の言うとおりだ。そんなことにも頭が回らないなんて。一言も反論出来ない悔しさに由貴はきつく唇を噛んだ。
「京吾、由貴はっ…」
「二人とも今すぐ家に帰りなさい。今ハイヤーを呼んで貰うから、先に彼の家に寄ってちゃんと帰してあげなさい。もう少ししたら僕も家に戻るから。念のため運転手に、マンションの玄関まで送ってもらうよう頼んでおくから」
父親の片腕として一人前に仕事をこなす京吾に、まだ未成年である由貴が太刀打ち出来るわけがない。分かっているが、由貴には何の慰めにもならない。有無を言わさない京吾のやり方は、由貴に夏彦を守る力が無いと初めから決めつけているようなものだ。情けなさで体が震え出しそうだった。
「君、すまないが車を」
大人しくなったふたりを見届けて、京吾が店の従業員に声を掛けた瞬間、
「鷹木っ!!」
いきなり後ろから声が聞こえた。京吾が真っ先に顔を上げ、遅れて由貴と夏彦が同時に振り返る。
見ると腕を体の両脇にぶらりと垂らした真之が通りの4、5メートル先に立っていた。何故今まで気がつかなかったのか不思議なほど、彼我の距離は近い。
夏彦が確かめるように由貴を見上げる。
「由貴、あれ、……」
「……ああ、」
真之の名前を口にするのを、由貴は一瞬躊躇った。
真之の様子は誰が見ても普通ではなかった。じっとこちらを睨め付ける真之の表情に、ふだん彼が見せる、人の好きのする明るい雰囲気は欠片も見えない。真之は全身に怒りを滲ませながら、仁王立ちで少し離れた場所から由貴たちを見ていた。
怒り。本当にそれだけだろうか? 苦しげに歪んだ真之の顔は、泣いているようにも見える。今にも顔を覆って、その場に崩れ落ちてしまいそうに。
不安を抑えながら、由貴は恐る恐る声を掛けた。
「おい、まさ…………」
突然真之が口から意味の通じない怒号を発した。大声で怒鳴りながら直角に曲げていた肘を前に突き出す。そのまま一直線に走り出した真之の手には、鈍く光る刃物が握られていた。
その時の由貴には、これから何が起ころうとしているのかが分からなかった。
後から冷静になって考えれば全て辻褄が合い、そこで起こったことの一部始終を正確に思い出せるのだが、それを自分の目で全て見ていたのだということが、由貴にはずっと後になってからも実感出来なかった。
気がついたら手を伸ばせば届くほどの位置に真之がいた。由貴と夏彦が並んで、京吾は夏彦のすぐ後ろに立っている。
真之の赤く染まった目は夏彦を見ていた。京吾でも由貴でも無く、真之を見ても何の反応も見せずに目を見開いている夏彦の姿を。
「鷹木ィー!」
「夏彦っ!!」
鋭い声が周囲を飛び交う。
真之の大きな体が由貴の肩を掠めて夏彦と重なる。スローモーションのようにぎこちない動作。夏彦は微動だにしない。影が動いて夏彦が不意によろけた。何かに押されたように細い体がグラリと傾ぐ。由貴は慌てて腕を伸ばしてそれを抱き留めた。
見ると、真之の腕が吸い込まれるように京吾の腹に押し付けられている。と言うより京吾の腹から真之の腕が生えているように見える。由貴はその不思議な光景をぼんやりと見つめた。
その先には何があった?
思い出すまでに数秒掛かった。
京吾の肩に凭れ掛かかったまま、真之が由貴を振り返った。顔がくしゃくしゃに歪んでいる。お調子者の真之がしょっちゅう見せる戯けた表情。由貴にはよく見覚えのある顔だ。
しくじっても堪えていないような明るい声で、
『こないだのテストどうやった? 俺、ヤマ全部外した。失敗失敗……』
今にもそんなことを言い出しそうに見える。
次の瞬間、二人の距離が少し離れると同時に、いきなり作り物めいた鮮血が噴いた。
全てが夢の中の出来事のようだった。
その後の警察での事情聴取で、真之はなぜ京吾ではなく夏彦を狙ったのかどうしても説明出来なかった。母親の夢を叩き潰した京吾の恋人で、さらに親友の由貴をひきずるように攫っていく夏彦の存在は、真之にとって諸悪の根元のように感じられたのかも知れない。
だが真之はどうしてもそれを上手く説明することが出来なかったと、由貴はママ―――――真之の母親からそう聞かされた。
結果的に真之は夏彦ではなく、夏彦を庇った京吾を刺した。真之はその場で警察に連行され、京吾はすぐに病院に収容された。
由貴と夏彦は茫然自失のまま病院に付き添い、警察で事情を聞かれ、翌早朝、保護者同伴でようやく自宅へ帰された。
夏彦とは警察署の前で別れた。
自分も病院について行くと言い張る由貴を夏彦は静かに拒んだ。
「俺一人で行かせて。これは俺と京吾の問題だから……」
それは由貴が越えようと必死でかじり付いた壁だ。
ぶち壊してやりたかった。壁の向こうから夏彦を抱き締めて引きずり出したかった。
出来ると思ったのは、自分の青臭い錯覚だったのだろうか?
まだどことなく明け切らない薄明るい夏の早朝の空気は、思ったよりずっと冷たく心地良い。中で待つようにと係員に再三言われたが、由貴と夏彦はそれを断って、改装して近代的になった警察署の建物を背に植え込みの縁に並んで腰を降ろした。目の前の広い道路も車の影はまばらだ。
そうして長い間、黙って二人でそこに座っていた。
夏彦は長い睫毛を半分伏せて、じっと自分の手元を見つめていた。
不思議な顔つきをしている。一度に色々なことがありすぎて考え込んでいるのだろうか、誰も知らない顔まで見たと思っていたはずの夏彦は、まるで見知らぬ少年のように見える。
考えが上手く纏まらなくて混乱しているのは由貴も同じだ。そんな訳はないと知っているのに、夢を見ているような気分がずっと抜けない。
「…大丈夫か?」
そっと声を掛けると、夏彦は初めて気がついたように由貴を見上げた。目が合うと、花がふわりと綻ぶように微笑む。夏彦はこんな表情もすごく綺麗なんだな…と由貴はおかしな所で感動した。
しばらく待って、ようやく夏彦がポツリと呟く。
「迷惑掛けてゴメンな。俺、最後までずっと由貴に甘えっぱなしで、結局大変なことに巻き込んじゃった…」
「何言うてんの…。あんたは何にも悪ないやろうが」
夏彦は何を言い出すつもりなんだろう。由貴が慌ててその先を遮る。
「病院、戻るんやろ? 俺も一緒に行くから」
夏彦はゆっくりかぶりを振った。
「俺ひとりで大丈夫。由貴はお母さんが迎えに来るんやろ? …ええからウチに帰って」
「アホか、あんたひとり置いて帰れるか。…大事なんやから」
それだけはどうしても伝えたい。伝えなければいけないと思った。なおも食い下がる由貴をを見つめながら、夏彦がもう一度ゆっくりと首を振る。
「もう由貴には甘えないって…もう決めたから、俺一人で行かせて。これは俺と京吾の問題だから」
夏彦が穏やかな顔で由貴を見上げる。わざと言葉遣いを変えたのは、夏彦の心の表れだ。
「……由貴、俺に言ってくれたよな、好きになるって楽しいとか嬉しいとかばっかりじゃなくて、苦しいこともあるって。俺、ずっと苦しかった。京吾と一緒にいるの苦しくて、でもこれ以上重荷に思われたくなくて苦しいって言えなかった。…思ったんだ、俺って今まで京吾の何を見てきたんだろうって。俺はずっと京吾のことが好きだったけど、結局自分のことしか考えてなかった。由貴と会って、由貴のコト好きになって、由貴に甘えながらやっと京吾のこととか自分のこととか、落ち着いて考えられるようになった…」
遠くを見るような瞳だ、と思う。夏彦の目は目の前にいる由貴を通り越して、別の人間を見ていた。
「なんか、解って来たような気がする…今まで俺が出来なかったことは何かとか、これからしなくちゃいけないことは何だろうとかさ…。ひとりで考えなきゃいけなかったんだよな、ホントはこういうこと。逃げてばっかじゃなくて、…もっと早く、たぶん、由貴と出会う前に」
言ってから、「違うか…」と呟く。
「由貴に会ってなかったら、こんなこと思いつきもしなかったよな、きっと。誰かに助けてもらうことばっか考えて、ずっと寂しいままだった……」
聞き慣れないアクセントで話し続ける夏彦は、もう由貴の知っている少年では無くなっていた。目の前に立っているのに夏彦の存在は悲しいほど遠く、その心の中はここにいない人のことでいっぱいに埋め尽くされている。
他人の心の中なんてそう簡単に解るはずがないと思うのに、なぜこんな時だけ嫌というほど解ってしまうんだろう。
「好きなだけ甘えたらええやろ。俺がええって言うんやから…」
ありきたりな言葉しか浮かんでこない自分が情けなかった。
こんな上っ面の言葉では、心を決めかけている夏彦を思い留まらせることは出来ない。自分がこのまま夏彦を引き止めたいと思っているのかどうかすら、よく分からなかった。苦しさと愛しさがない交ぜになった由貴の心の中は、由貴自身にも解らないことが多すぎる。ただ、心を決めるための時間がもう残り少ないことだけは、何となく分かっていた。
目の前で夏彦の整った面差しが軽く歪んだ。唇が、泣き出す寸前の子供のように頼りなく震える。
「あかんよ、許して…俺がしんどい。由貴の傍におったら俺、頭がぐちゃぐちゃになって何にも考えられへん。すげぇ自分勝手やけど、それくらい本気で好きなんやから、由貴のことも」
穏やかな口調であるだけ、夏彦の言葉は切実に由貴の胸に響く。
いきなり由貴の目から涙が溢れた。
なりかけの恋は終わったのだ。少なくとも、夏彦の中では。
夏彦は壁の向こうへ帰って行く。
由貴は心の中で叫ぶ。もういい。もう解ったから最後まで言わないで。
無言で細い身体を引き寄せると、夏彦は肩を少し強張らせて、額を軽く由貴の肩に預けた。
「俺って結局、ふたつにもひとつにもなれへんかったんかな…………」
そうじゃない。由貴は思う。
あんたはきっと最初からひとつのままだったんだよ。
由貴がそっと夏彦の手を取ると、夏彦も素直に握り返して来た。ゆっくりと指を開いて絡ませ合う。夏彦は重ねた手を自分の口元に引き寄せると、静かに唇を押し付けた。
目を閉じたまま、夏彦の唇がゆっくり動く。温かい息が手の甲をくすぐる。
アリガトウ。
声は出ていないのに、そう聞こえた。それはサヨウナラと同じ響きで由貴の胸に深く染み込んだ。
フッと力が抜けて、指が離れる。温もりは徐々に遠くなり、夏彦は通り掛かったタクシーに向かって手を挙げる。由貴はそれを引き止めることが出来ない。夏彦をここに留めることが出来ないように。
行くんだ、夏彦は。ここではない、自分のそばではないどこか別の場所へ。
―――――ひとりで。
車に乗り込む夏彦の細い背中を、由貴はその場に突っ立ったまま見送った。
風が吹いて頬に当たると少しひんやりした。
生暖かい真夏の空気は、由貴に涙の跡が乾き始めたことを教えてくれていた。