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OPERA 8 恭一の変化に最初に気がついたのは、ミオだ。 きっかけは些細なことだ。例えば恭一が少しずつではあるが大学の授業に顔を出し始めたこととか、部屋を訪れても眠っていることが少なくなったとかいう事で、何事もなく毎日を過ごしている人間ならどうしてそんなことをミオがそれほど気にするのか、全く理解出来ないに違いない。 けれどそれは、ある意味当然のことだ。 恭一がそういうあたりまえのことを出来なくなってしまってから、ミオはずっと恭一の傍らでそんな彼を見つめ続けてきたのだから。そしてミオ自身、恭一の一番近くにいる人間が間違いなく自分であることを自覚している。 以前から付き合いがあるとは言え、克彦も祐也も恭一とはある程度の距離を保って接している。が、ミオは実際恭一の身に起きたある事件の当事者に最も近い立場で深く関わっているのだから、それもやはり当たり前の事だ。 和義と初めて顔を合わせた帰り際に克彦と話をしたことで、その思いはさらに深くなった。 『俺らがしなくちゃならないのは、恭一をいつまでもあっちの世界に囲っておくことじゃないだろ』 ご立派な意見だ。有り難くて涙が出る。堂々としていて揺るぎなく、笑ってしまうほど無責任なきれい事だよ。 恭一の手を離せだって? 冗談じゃない。誰が恭一をあんな風にしたと思ってる? あの日からずっと自分の心に刻み続けてきた。 僕らが、―――――僕が、もっと早く彼らの変化に気づいていたら。 所詮は他人の話だと、ぼんやり眺めていたりしなければ。 あんなことは起こらなかったはずなんだ。 だから、克彦。お前はそこで見ていると良い。 みっともなく足掻きながら、這い上がる術も持たずに僕が転げ落ちていく様を。 落ちること自体は別に怖くも何ともない。始めからそこにいたと思えばそれで済むことだから。僕が本当に怖れているのは… 転がり落ちたその先に、恭一の姿が見えないことなんだ。 恭一が住まいにしている古いバーは、元々彼の伯父の持ち物だった。 音楽好きが高じてライブの出来るバーを持ったはいいが、一つ処に留まることを嫌う風来坊気質の上に実家が裕福な家庭であることも幸いして、その伯父は恭一の進学と前後してふらっと外国へ出掛けたきり戻って来ないらしい。そこで大学に近いと言う理由から、恭一は伯父の残していったこの店に住み着くようになったのだと言う。 和義が恭一と共にこのビルに住み始めてから、二月ほどが経とうとしている。 朝はお互いまちまちの時間に起き出して大学に通い、講義の時間が合えば昼間もたまに顔を見て、用がなければ夜も大抵ここに戻って寝る。恭一と同じベッドで眠ることもあれば、二階の倉庫に置いてある大きめのソファで眠る事もある。 それを同棲と呼ぶのか共同生活と呼ぶのかは知らないが、二人の暮らしは思っていたよりずっと順調に運んでいると言えた。同じ人間が二ヶ月もここにいた試しはないとバンド仲間が呆れ半分で言うのだから、それなりに上手く行っているのだろう。何より和義はビルの一階にあるこのバーの雰囲気を殊のほか気に入っていた。 和義は一枚板の杉材のカウンターに腕を預けて、灯りの少ない薄暗い店内を見渡した。 懐古趣味ギリギリの一見枯れた作り。虫食いだらけの扉といい、刷毛跡がくっきりと残る漆喰壁といい、薄暗い店内に煙るように立ち込めるどこか黴臭い雰囲気といい。けれどそのひとつひとつに、この店を建てた人間の深い思いが滲み出ているようだと思う。 こういう感覚は自分にもある。大切にしまってあるものを時々取り出しては眺めて愛おしむような感傷は、誰にでも当たり前にあるもののような気がする。 もう終わっていることを知っている。けれど時折思い出すその時感じた様々な感情が入り交じった思いは、いつまでも色褪せることがない。 それでも時間が巻き戻ることはなく、目を射るように鮮明な輝きが失せてしまったあとは、細かな澱となって少しずつ記憶の中に溜まっていく。 忘れていないのに忘れていく。思い出す方法が分からなくなる。 そうして人は、いつも自分に一番都合良く生きて行くのだ。 「―――――何だって?」 「だから、恭ちゃんの様子が変なんだってば」 「恭一が、何なんだよ?」 「何回も同じ事を言わせるなよ。しかもわざと」 ミオは嫌そうに顔を顰めて、上背のある克彦を怯む様子もなく睨みつけた。克彦も同じように、苦々しい視線をミオに向ける。 「お前な、つまんねぇことばっか良いやがると、いい加減ぶっ飛ばすぞ」 「やりたきゃどうぞご自由に。どうせ出来やしないんだから」 「この、クソったれ…」 「また始まった…」 困り果てた、と言うよりほとんど怯えたような弱々しい顔つきで、祐也が助けを求めるように和義を振り返った。 「カズ、悪いけどあの二人、止めてくれないかな? あれはちょっと二人ともヒートアップしすぎだよ」 和義は興味の無さそうな表情で首を竦めた。 そんなに止めたければ自分でしろと言わないのは、いがみ合っている二人が共に祐也の仲裁などはなから聞き入れるはずがないことを、祐也も和義も良く知っているからだ。 確かにここのところ、克彦とミオの言い合いはかなり辛辣なものになりつつある。今さら遠慮などしない仲と言えば聞こえは良いが、それにしても祐也の言う通り二人のやり取りは限度を超し始めていた。それに下らない罵り合いを傍で眺めているのはあまり気分の良いものではない。 「原因は? …恭一か」 「たぶんね。あの二人が揉めるときは、大概恭一が絡んでるから」 「あいつが一体何をしたって?」 さすがに訳が分からなくなって、和義は祐也を見つめた。和義が見る限り、最近の恭一は驚くほどまともだ。少なくとも最初に出会った頃と比べれば、随分と人並みに近い生活を送るようになって来ている。もちろんそれはあくまで和義の知る恭一と比べての話ではあるが。 祐也は自分は何も知らない、とばかりに頼りない口調で付け足した。 「恭一が何をしたのか、何をしなかったから二人が揉めてるのか、それをカズに聞いて欲しいんだけどなぁ」 「俺が、何?」 しばらく席を外していた恭一が、一階のフロアに戻ってきた。手には黒っぽいギターケースとスコアブックを抱えている。さっきから二階の倉庫に籠もって何をしていたのかと思えば、長い間放りっぱなしにしていたギターと楽譜を探しに行っていたのだということが、その場にいる全員の違和感を誘った。 「珍しいね…、恭ちゃんがギターを引っ張り出すなんて…」 「まぁ、たまには鳴らしてやらないと、コイツも俺も鈍んだろ。これでもお前らのいない時、時々だけど弾いてはいたんだぜ」 ミオの呟きに混じる戸惑った響きに気づいていないのか、恭一の声は白々しいほど明るい。 いつのまにか騒がしい言い争いが止んでいることに気がついたのは、おそらく和義だけだろう。ミオや祐也だけでなく、あの克彦までがギョッとした表情を隠せないで突っ立っている様子は、異様としか言いようがない。 ただの仲の良い音楽仲間と言うには、恭一の言動に対する克彦とミオの反応はあまりにも過剰だ。腫れ物に触るようにとは言い得て妙だと思う。 ここでつついたら深みにはまるな。分かってはいるが、興味の方がこの場合は勝った。 「恭一、お前ギターを誰に習った?」 ギクリと動きを止めて真っ先に和義を振り返ったのは、恭一でも克彦でもなく、ミオだ。固く尖って、ギリギリと締め上げるような視線がまともに背中に突き刺さってくる。克彦が伺うような視線を和義に投げて寄越した。 「中学ん時、勉強…教えてもらってた人。高校に合格したらご褒美にギター買ってくれって強請ってさ、アコギを貰ったんだよな。それが最初」 当の恭一は意外にもすんなりと口を開いた。 「結構練習したけど俺、そこそこしか上達しなくてさ。そのうち曲書く方が面白くなって、あんま練習とかしなくなったな…」 「最初に演った曲は?」 「そんなの憶えてねぇよ」 「照れ臭くて言えない、の間違いだろ」 和義のからかうような視線に恭一が僅かに眉を顰める。 「そんなの…誰でも同じじゃねぇの? 思い出そうとしても思い出せないことって、あるだろ」 そして、思い出したくないことも。そう言うことなのだろうか。そのまま黙って目を伏せてしまった恭一の表情から、和義は何も読み取ることが出来なかった。 別に隠しているわけではなく、恭一は本当に忘れてしまっているのだろう。それが大して重要なことでないからか、重要だからこそ忘れてしまったのかは、恭一自身にしか分からないことだ。 恭一は手近のスツールに腰掛けると、身体を屈めてケースから取り出した古いギターを抱えた。 好きで練習していたと言うだけあって、さすがに様になっている。長い間放ってあったというだけあってギターの音はかなりへたっていたが、恭一の方は簡単にチューニングしただけで指の動きが滑らかになるあたり、自分で言うほど下手な腕前ではないらしい。 「カズ」 顔を上げずに、低い声で和義を呼ぶ。 「ん?」 「合わせろよ。ひとりで弾くのはつまんねぇから」 「オッケ、何が良い?」 「…『ロンドン キャン ユー ウェイト?』」 途端に和義の表情が弛んだ。笑いを堪えるように数回小さく首を振る。 「ジーンのか? 何でいきなりそんなマイナーなもの、選ぶかな…」 「フェイスのサントラ持ってるだろ? 未だにあんなの聴いてるの、お前くらいだからな」 「…そりゃどうも。適当でいいんだろ? 細かいとこまで憶えてねぇよ」 それには答えず恭一がフロントを軽く叩いてカウントを始めると、二本のギターの音色は驚くほど鮮やかに重なった。 音もテンポも微妙にずれるイントロに和義が思わず、というふうに唇を引き上げる。恭一は軽く息を吸い込むと、頭の中に最初の旋律を思い描いた。 目を閉じて、忘れていた感覚が戻ってくるのをじっと待つ。喉から自然に込み上げる流れを堰き止めないように、耳と意識を解放する。心地よい緊張感が全身を包んだ。 けれど声が出た瞬間、―――――それまでの思惑はすべて飛んだ。 もう一本のギターの音色がわずかに途切れたことに、恭一は気づいていない。 初めて聴く恭一の歌声は、細く掠れて不安定で、滑らかに流れる和義の指を一瞬止めるほど―――――美しいものだった。 ひさしぶりの練習を終えて三人が店を出たのは、12時を回ってからだった。気温の下がりきらない初夏の風が、人も車もまばらになった広い道路を吹き抜けていく。 ビルの正面に駐車したそれぞれの車に乗り込むまで、克彦もミオも終始無言だった。お互いに何を考えているのか、わざわざ口にしなくても読み取れるからだ。 「…俺、恭一がギター持つとこ初めて見たよ」 少し離れて先を歩いていた祐也が、二人の顔色を窺いながら口を開いた。 「そりゃ作曲するんだから当たり前といえば当たり前なんだけどさ、ギターはもう弾かないんだと思ってたから」 「そうだね」 ミオの簡単な返事に、祐也がグッと言葉に詰まる。言って良いものか一瞬迷って、やがて決心したように顔を上げた。 「恭一がさっき言ってたギターをくれた人って、その…ミオの、お兄さんだろ…?」 「祐也、…やめとけ」 克彦が静かに割って入る。これはミオのためではなく、あくまで祐也のためだ。ミオがクスリと笑みを洩らした。 「別に止めなくてもいいだろ。祐也には兄さんのこと、…話してあるんだし」 祐也が慌てて二人を遮った。 「ゴメン、余計なことだったよな。何でもない」 「もう良いから止めとけ。お前までこんなややこしい話に首を突っ込むんじゃないって」 「何がややこしいって?」 運転席のドアに手を掛けたまま、ミオがピタリと足を止めた。振り返って二人を見ることはしなかった。 「何もややこしい話じゃないだろ。三年前僕の兄さんは恭ちゃんを巻き込んで、無理心中を図った。そして命を落とした。恭ちゃんは自分で自分を傷つけて、そんな兄さんの後を追おうとした。…ややこしいことなんか無い、メチャクチャ単純だろ。これ以上判りやすい話があるか?」 「やめとけっつってんだろうが」 いくら外に出ているとは言え、恭一の部屋は真後ろだ。克彦の声に非難めいた響きが混じるのは当然だろう。これでも克彦なりに精一杯抑えているのだ。 「俺らが同じとこにはまっててどうすんだって、言わなかったっけか? 学習能力ゼロかお前は」 「同じ、か……」 笑い出すかと思ったが、ミオには笑うことも出来なかった。語尾が僅かに震えている。絞り出すような声が後に続いた。 「確かに克彦の言う通り、同じかも知れないな。さっきの恭ちゃんの顔、見た? ひさしぶりにギター抱えて、お気に入りの曲をセッションしてさ。…克彦は見たことあるよね? 恭ちゃんのああいう顔…」 「ミオっ!」 克彦がミオの肩に手を掛けて揺さぶっても、ミオの呟きは止まらなかった。 「同じだよ、あの頃と。恭ちゃんの隣にいるのが、一瞬兄さんかと思ったくらいだ。僕が初めて兄さんから恭ちゃんを紹介されたとき、恭ちゃんはやっぱりさっきみたいにギターを抱えて歌ってた。声が良いから一緒に歌もした方が良いって兄さんに言われたんだって、すごく嬉しそうな顔をしてさ。だけど兄さんがああいう死に方をしてから、恭ちゃんは僕らの前でもほとんど歌おうとしなくなった。僕らが勝手に集まってバンドだ、練習だって騒いでただけで、恭ちゃんは黙って横から眺めてるときの方が多かったじゃないか。ギターのことだって、時々弾いてたなんて絶対嘘だよ。鳴らすことぐらいはあったとしてもね」 ミオはゆっくりと振り返ると、目を細めて、祐也と克彦の顔を交互に見つめた。 「なのに…一体どういうことだよ?」 誰に聞いているのでもない。その問いに答えられる人間は、この世に誰もいない。 その証拠に、目の前にいる二人の男からも答えは返って来なかった。 少し前から、薄暗い部屋の中に微かな水音が響いている。地面に降り注ぐ雨音とは違う、アスファルトが叩き付ける水を吸い込まずに跳ね返すような、固くて寂しい音だ。少し考えて、恭一はようやく和義がシャワーを浴びているのだということに思い当たった。 (―――――何時だ?) 時計を見ようと顔を上げると、古い型のアコースティックギターが目に入った。店に集まっていた仲間が出て行ったのにも気づかないくらい熱心に鳴らしていたはずなのに、いつの間に手放したのだろう。憶えているようで何も思い出せないもどかしい感覚に少し苛立つ。手に馴染んだ恭一のギターは見慣れない数本のギターと一緒に、壁際にきちんと並べて立て掛けられていた。 閉じかけた瞼をもう一度上げて、恭一は左腕をゆらと宙に掲げた。 手の甲を天井に向けて指を開いては、また閉じる。意味のない動作を繰り返しながら、恭一は自分の掌を見つめると否が応でも目に入る、ケロイドのような線状の疵にぼんやりと見入った。ひさしぶりに動かした指には、まだスティール弦の固く切れるような感触がくっきりと残っていた。 懐かしい、のとは少し違うだろうと思う。弦の感触を懐かしいと思うほど、ギター自体に入れ込んでいたわけではなかった。指が思い出したのは…夢中でギターを鳴らしていた時間の方だ。 毎日学校が終わると一目散で家に飛んで帰って、私服に着替えるのもそこそこにギターケースを掴んでまた家を飛び出した。息子が当初の志望校より一段格上の高校に合格したことで両親もあの人にはとても感謝していたから、あの人の部屋に行くと言えば止められることは無かった。 部屋についてあの人の帰りを待つ間、きちんと棚に並べられた大量のCDの山から気に入ったジャケットのものを引っ張り出しては、貪るように聴いた。耳で聴いただけの音を、まだ上手く動きもしない指で夢中で真似た。新しいフレーズを憶えるたびに、あの人はまるで自分のことみたいに喜んで、必ず褒めてくれたから。 そのうち飽きて眠ってしまって、帰ってきた部屋の主に優しく起こされるのが好きだった。『風邪を引くよ』と困ったように笑う顔が見たくて、わざと寝たふりをしたこともある。 一緒に食事をしながら色んな話をして、それから、壊れものを扱うような繊細さで、抱かれた。 生まれて初めて手に入れた大切な時間は、何もかもが本当に、暖かい色に満ちていて、気が狂うほどに愛おしかった――――― 和義がバスルームから戻ると、恭一はすでにベッドに横になっていた。眠っているのだろうか。和義の立っている位置から、恭一の顔はよく見えない。 足音を立てないようにそっと近づくと、無防備に晒されていた背中がふいとこちらを向いた。 「起きてたのか」 「…こんなに早く眠れるか」 言って、怠そうに数回瞬きをする。ぽつりと言う言葉とは反対に、恭一が眠りかけていたことはすぐに分かった。 「眠いんだろ? なら、眠ればいい」 恭一の薄く開いた形の良い唇から、微かな笑い声が漏れる。その音はさっき聴いた歌声に少し似ていた。 恭一は体を起こすと、腕を伸ばして和義の手を取った。その手を軽く引いて、自分の方へ引き寄せる。和義が目の前に立つと顔を近づけて、恭一は和義が穿いている寝間着代わりのコットンパンツの上から唇を押し付けた。 布地越しに和義の下腹を唇で啄む。僅かな脹らみに丁寧に舌を滑らせていく様は、まるでその形を確かめているようだ。 軽く目を伏せて舌を動かしながら、ウェスト部分に手を掛けてゆっくりと戒めを解いていく。やがてそれが顕わになると、恭一は迷うことなく手を添えて、和義のペニスを深く口に含み込んだ。 唇を柔らかく窄めて、裏側の粘膜で包むように擦る。先端からその先へ舌を自在に絡ませる。しばらくすると自分の口内の熱と受け入れている和義の熱とが、温く混じり合ってどろりと熔け出すような感覚が襲ってきた。 どういうやり方をすれば男が悦ぶかを、恭一はおそらく他の人間より少し多く知っている。単純に、そうしてやりたいと心から望んだ経験があるからだ。それは恭一にとって証のようなものだ。 必要とされる証。 必要とする証。 目に見えないものを感じたくて必死だった。 なんと無垢で、純真で、愚鈍だったことか。 本気でそんなことが出来ると信じていたなんて。 だからこそ、ここに独りで取り残されてしまったんだろう。 嵩を増し始めた和義の欲望をはっきり意識しながら焦らすように体を引くと、ため息と共に髪を掴んで引き戻された。 胸に、じわりと満足感が沸き上がる。 与えて、求められる。投げ出さなければ手に入らない。 失う前に学んだことは結局それ一つだ。その他に、自分には何も残っていない。 忙しなく動かしている舌先が軽い痛みを訴える。 唇が切れて血が滲んでいるんだろうか、気がつくと口の中に人肌とは別の、酸っぱい味が微かに広がっていた。 「恭一?」 声がして、思いがけず頬に和義の指が触れた。最初は指の腹で拭うように、今度は手の甲で何度もさする。 「どうした、泣いて…」 どうして泣いているかだって? そんなことを訊いて何になる。 答えを得られない問い掛けほど苦しいものはないだろう? 抑えた呻きと共にいきなり強い力で揺さぶられて、飲み込んでいたものから引き剥がされた。 何が起こったのか、一瞬分からなかった。 呆然と瞳を上げると、和義の瞳がいつのまにか同じ高さで目に飛び込んできて、恭一は反射的に目を閉じた。急に鼓動が走り出して軽い眩暈がした。 「なんだ…?」 「喋んな」 言い終わるより早く唇が重なって、和義の温かい舌が歯列を割って潜り込んで来た。支えを失った体がガクリと崩れ落ちそうになると、和義の腕がそれをしっかり抱き留める。反動で仰け反った恭一の白い首筋に、和義が柔く歯を立てた。 「いいから、黙って抱かせろよ…」 耳の後ろで囁かれて、身体が正直に反応する。声を上げて、骨格の浮き出た背中を掻き抱く。意識が急速に濁って行く恐ろしいほどの陶酔感は、恭一の体内に燻る昏い欲望に火を点けるのにそう時間は掛からない。全身を舐め上げるような焦燥感が腹の底から噴き上がるのを感じた。 「…カズ、…和、よ・し……っ」 乱暴にベッドに投げ出されながら、自然に名前を呼んでいた。強引に下肢を持ち上げられて、もどかしげに着ている物を剥ぎ取られていくことにまた目が眩んだ。 「そんな声出すなよ。…抑えが効かなくなっても知らねぇぞ」 和義が低く笑う。その声に恭一の下腹がまたじわりと熱を持つ。どろりと湿って、それでいてとても清々しい気分だ。 何て浅ましいんだろう。何て正直なんだろう。霞んだ意識が訴える。敏感になった内腿にひたと掌が触れて、堪らなく吐息を漏らして身を捩る。 これが求めるということだ。他人の前であられもなく足を広げ、身体を開いて、奪い尽くされる恥辱に期待する。 「は、やくっ…、お願い、早く…」 お互いの兆したものを擦り合わせてその先を急ぐ。下腹から間断無く迫り上がってくる強烈な快感に堪えきれない雫を滴らせて、恭一は何度も早く、と繰り返した。 和義がゆっくりと、探るように押し入ってくる。ほとんど慣らされていないまま、恭一はその熱く滾ったものを少しでも深く受け入れようと腰を揺らした。 こんな性急なやり方は、どちらにとっても快感と呼ぶにはほど遠い。和義が少し体を進めるだけで、そこを刃物で切り裂かれるような痛みが走る。それでも構わなかった。 本当の痛みはこんなものじゃない。痛いのは血を滲ませ始めた体ではなく、別の部分だ。恭一の薄く白い皮膚に張り付く無惨な傷痕が呼んでいる。ぱくりと口を開く瞬間を息を潜めて待っている。開きたいなら開けば良い。自分の体内に今も残る澱んだ血液の、最後の一滴まで流れきって、早く空洞になれば良いと願う。 表面はとっくに塞がっているはずの傷口に自分の指を掛けて、わずかに綻びかけた箇所を探し当てる。ビリビリと傷口を裂き、広げる音が頭の中にリアルに響く。のし掛かられる重みに息が詰まった。狂っていると思った。 恭一が声を上げたからか、和義は急に動きを止めて恭一の耳元に顔を埋めた。 「どうせ鳴くんなら、もうちょっとマシな鳴き方しろよ…」 吐き出される荒い息にそぐわない静かな声で、人を食ったような笑い方をする。 なんて言い草だ、この野郎。恭一の頬に、思ってもみない笑みが零れる。 「マシって、どんなだよ…」 「さっきの…歌ってる時の声みたいな。アレはすげぇキた」 「バカかよ…?」 笑おうとして、瞳に涙が溢れてきた。 マジで大馬鹿野郎だ―――――俺も、お前も。 恭一が腰を持ち上げて、中に留まっている和義を誘うように、下から緩く突き上げる。それに気づいて軽く口元を歪ませた和義の頭を引き寄せて、唇を開いて深く重ね合わせる。 ゆっくりと、和義が動き始めた。 すぐに、今度は歌うような悲鳴が上がった。 |