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おかしな成り行きではあったが、和義は結局恭一の部屋に住み着くようになった。 最初は三日ほど続けて一緒に寝起きしては必要な物がある時に自分のアパートに帰るという生活を続けていたのだが、連休を過ぎる頃にはそれもだんだん面倒臭くなってほとんど自室に帰らなくなっていた。 元より大学に通うためだけの間借り住まいで、大した荷物があるわけでもない。数回に渡ってお互いの部屋を往復するあいだに、和義は生活に必要な物のほとんどを恭一の部屋に置いておくようになった。 出会った時から薄々感じていたことだが、実際寝起きを共にしてみると恭一の生活は和義の理解の範疇をはるかに越えるものであることがよく解った。 食事をまともに摂らない、いつ起きていつ眠っているのかもはっきりしない、授業に出る素振りも見せない。 そんなことはまだ良い方で、和義を最も呆れさせたのは、滅多に外出するわけでもないくせにたまに外を出歩くと、恭一が必ずベッドで一緒に眠る相手を拾って帰ってくることだった。 今日もそうだ。和義が大学の授業を終えて珍しくどこにも寄らずに部屋に帰ると、少なくとも和義の知り合いではない男が身支度を整えて帰ろうとする所だった。 鉢合わせとはまた間の悪いことだ。和義にとっては苦笑で済むくらいの事だが、男にとってはかなりショッキングな出来事だったらしい。階段を上がってくる和義の姿を認めると扉の前で一瞬ギクリと足を止めて、顔をまじまじと見つめてきた。 「どうも」 和義は吹き出したいのを何とか堪えて、男に向かって頭を下げて見せた。すると男の表情がますます情けないものに変わる。 気の毒なことだ。だがこんなことでいちいちビビるくらいなら、悪い遊びは最初から控えた方がいい。 「は。あ、ど…も」 「あいつ、生きてます?」 「は?」 男の声が情けなくひっくり返った。 「はい? あ…、何、ですか…」 「や、…何でもないですよ」 和義の頬が僅かに弛んだ。 見ず知らずの男をからかったところで面白くも何ともないくせに、我ながら相当意地が悪い。 余計なお節介ついでに、もう一言付け加えた。 「ここへの道順、早く忘れた方が良いっすよ。骨まで喰われる覚悟がないんならね」 男は小さく息を吸い込むと、無言で階段を駆け下りて行った。一目散に表に転がり出る様子が目に浮かぶようだ。 笑いを堪えるのが一苦労だった。 自分でも呆れるほど無粋なやり方だが、人助けくらいにはなるだろう。 部屋に入ると恭一はだらしなくベッドに体を投げ出して、煙草に火を点けるところだった。 「寝煙草するなら俺のいない時間にしろ。アタマに来ることを言われたくないんならな」 和義が声を掛けると、恭一は面倒臭げに身体を捻って和義の方に顔を向けた。軽く微笑む表情に意味ありげで気怠い余韻が香る。 「ひさしぶりだな」 「起きてる顔を見るのは、確かに丸1日ぶりくらいか」 「そうだっけか? 憶えてねぇよ…」 クスクスと薄い笑いを漏らす。恭一は火を点けずに銜えていた煙草を口から離して、手の中で軽く握り潰した。 掌を開いて、ただのゴミ屑と化した茶色い破片をパラパラとばら撒く。細かく砕けた紙屑はシーツの上を転がるように滑り落ちて、やがて白く波打つ布の合間に吸い込まれるように見えなくなった。 しばらくじっと自分の掌を見つめたあと、恭一は静かに口を開いた。 「カズ、お前ヒマ?」 「お前と会話できるくらいはな」 「なら…続き、してくんない?」 何の、と訊き返すまでもなかった。身体を覆っていたシーツをはだけると、恭一は和義を見据えたまま無造作に足を開いた。そのまま自分の指を項垂れている自身に這わせ始めた。恭一が何を欲しているのか、全くそういう素養がないか余程の馬鹿でもない限りは一目で分かる。 ゾッとするほど淫猥な光景。自分が相手の目からどう見えているかなど、全く意に介さないからこそ出来る行為だ。欲求さえ満たされれば相手にどう思われようが、それは恭一の知ったことではないのだ。 『お前がダメならまた次を探す』 いみじくも克彦の言葉はそっくりそのまま、今の恭一を言い表していた。 「…役立たずだったらしいな」 「ここんとこ勘が鈍ってるみたいでさ、男のアタリが悪いんだよな。さっきの奴なんか、二回達ったらもう終わりだぜ? ったく、フザケんなっての…」 まるで今まで二人でテレビゲームでもしていたような気軽さだ。呆れる気も起こらない。ため息を吐く気にすらならなかった。 「悪いが俺は昼間っからサカるほどにはヒマじゃないんだ。邪魔だからさっさとシャワーでも浴びて来い。お前とあの役立たずが寝転がった同じシーツで、今晩も寝たくないんならな」 和義が表情も変えずに言い放つ。途端、恭一が吹き出した。 「アンタも役立たずには違いねぇよな」 「大抵の人間は役立たずだろ」 「…そういうこと」 和義に視線を合わせて軽く頷く。一瞬見つめ合ったあと、青みがかった瞳が動いてすぐに伏せられる。恭一はそのまま無言でベッドを降りると、和義の前に平然と素肌を晒してバスルームへと消えた。 恭一の背中が見えなくなったのを確かめてから、和義は肺に溜め込んだ息をゆっくり吐き出した。思い出したように、こめかみに鈍い痛みが走る。何とも言えず嫌な気分だ。 背中を向ける一瞬先に和義を見返してきた恭一のあの眼差しはどうだ。 (なんて顔しやがるかな、あいつ…) 遠い目をしている。 昏い、のではなく、遠いのだ。 ただ単に綺麗だからと填め込まれたガラス玉のように、恭一の瞳は目の前にあるものを何一つ映し込んでいない。 見えていなくとも構わない、ということか。 何もかも、おそらく今の自分の姿さえ、恭一にはきっと見る必要が無いのだろうと思った。 タイル張りの床に足を降ろすと、その冷ややかな感触に、全身に微かな震えが走った。ひんやりとしていて気持ちが良い。たいして酷使したわけでもないのに怠さの抜けきらない体が、僅かばかりだが軽くなるような気がする。恭一はスラリとした長身を心持ち屈めて蛇口に手を掛けた。 しばらく待って、湯気が立ち昇り始めた湯を頭から被る。まともに顔面に湯が掛かって瞼の奥が染みるように痛んだ。 なぜこんなに心が波立つのか、正直よく解らない。 満たされないのは誰のせいでもなく、満たされたいと思う方がどうかしているのだ。 そんなことは初めから解りきっているはずだろ? そもそも満たされるべき器など、自分の中に存在していないのだから。 器はとうに壊れてしまった。そこから零れて流れて行ったものは、もう二度と取り戻せないものばかりだ。 ―――――恭一… カタンと音がして、背後の扉がゆっくり開く。 『…いじょうぶかい? 出てくるのがあんまり遅いから倒れてるのかと……』 「な、にを…心配してんの、倒れたりなんか、するわけ…」 唇が動く。俺は望んでいないのに。 『心配なんだよ。恭一は体も細いし、あんまり食事も進まないしさ…』 「気ィ回しすぎなんだよ、―――――史は」 俺は誰と会話しているつもりなんだろう? 『恭一…聞いてる?』 いいや、聞いてない。聞こえているとしても、それは過去に埋め忘れたただの幻聴だ。それでも声ははっきり耳に届いて来る。砕かれた時間を呼び覚ます。笑いが込み上げて仕方なかった。 「もしかしてあんた、帰って来たいのか? 先に俺の手を離したのはあんたなのにさ…」 ―――――それとも、今度こそ一緒に連れて行ってくれるのか? それならいい。俺が今でもそれを望んでいるのかどうか、自分ではもう解らなくなっちゃったけどさ。 目の前が霞んでいるのは、中途半端な温もりを保った水が目の中にまともに流れ込んで来るからだ。 俺はいつも沈んでいる。 気がつくと、いつのまにか深い深い底辺に背中を押し付けて横たわっている。ここが何処か判らないのは、目を閉じているからだ。 もしかすると海の底かも知れないし、墓の下なのかも知れない。だがそんなことはあまり大した問題じゃない。海の底ならいつか息が続かなくなるだろうし、墓の下なら二度と外に出られないって、結局それだけのことだ。 どのみち帰ってこないんだから、どっちでも同じ事だろ? 早く俺を見つけてくれよ。 もう誰でも良いから、早くここから連れ出してくれよ――――― 「…あ、っ……」 立ち込める湯気に紛れてゆらゆらと漂っていた意識が急に戻ってきて、恭一は思わず声を上げた。何だ? ―――――何だろう? 音が聴こえている。頭上から勢い良く叩き付ける水音に混じって、懐かしいような、聞き覚えのある旋律が耳を擽る。耳を澄ませて意識を研ぎ澄ませると、明瞭な音が恭一の中から溢れ出してきた。 バスローブを引っ掛けただけの格好で、慌ててバスルームを飛び出す。小走りでリビングに戻ると、恭一をそこに引き寄せた音は僅かな余韻を残して鳴り止んだ。 「どうした、そんなに慌てて」 和義が驚いた顔で恭一を見上げる。ほとんど素裸に近い恭一の格好を見て人の悪い笑みを浮かべながら、抱えていたアコースティックギターをふいと手から離そうとする。何故か気恥ずかしさを感じて、恭一は急いで口を開いた。 「止めんなよ」 「何だ?」 「止めんなって、言ってる…」 頬に張り付いている自分の髪が鬱陶しくて仕方なかった。瞼の奥がズキズキと痛むのは、長い時間無防備に瞳を湯に晒していたせいだ。―――――それだけだ。 ああ、と和義が短く言う。 「好きか? この曲」 腰を僅かに上げて、ベッドの上に恭一が座れるだけの場所を空ける。恭一が隣に腰を降ろすと、和義はギターを抱え直して、さっきまでつま弾いていた曲の続きを弾き始めた。 流れるような旋律。時々弦を引っ掻くように音が揺れる、アコギ特有のピッキング。染み入るように音が体に流れ込んでくるのが解る。 「懐かしいな。あんたも昔ハマったクチだろ」 和義が小さく笑い声を立てた。 「ああ、アンプラグドは囓り付いて観たな。…痺れた」 「俺も」 いつのまにか目を閉じていた。 「これ、弾けるようになりたくてさ…ギター教えろって、暴れた」 「そんな年じゃないだろ」 「俺がギターを初めて持ったのは、高校に入る直前だったんだ」 「結構遅咲きなんだな」 和義が意外そうに呟いた。 「勉強ばっかしてたから、俺…」 「へぇ…そいつは驚きだ」 さも可笑しそうに肩を揺らして吹き出す。それでも音が乱れないのはさすがだと思う。 「高校に受かったらギター教えろって無理矢理頼んだは良いけど、結局あんま上手くなんなくてさ。曲書くには不自由ないからまぁいいんだけど、今でもギター上手い奴見ると悔しいんだよな。なんかすげぇムカついてさ」 「とんでもねぇな…。逆恨みだろ、それ」 「うるせぇよ」 曲が終わりに近づいている。終わりはいつも寂しいものだ。どんな事も、どんな時でも、終わりが見えた瞬間は思わず目を瞑りたくなる。 最後の一音が鳴り終わると同時に恭一は和義の膝に手を掛けると、背中を反らせて身を乗り出した。腕を回せないからひどく体が不安定で、何かに追い立てられるように唇を探す。 ゆっくりと唇が重ねられる。唇が触れ合う柔らかな湿り気を帯びた音が、頭の芯に心地良い眩暈を運んで来る。拒まれなかったことが、今は何故かありがたかった。 「リクエストは?」 和義が唇を動かすたびに、くすぐったい感触が触れては、離れる。そんなことまでが懐かしい。 手っ取り早く相手との距離を埋めるため以外にキスをしたのは、いったい何年ぶりだろう。そんな馬鹿げた考えが、恭一の脳裏を掠めて消えた。 「じゃあ、… "Across the Universe"」 恭一の選曲に、和義がまた笑った。 「お前…、渋すぎそれ」 「好きなんだよ」 一瞬の沈黙。部屋の中は時間が止まったように静かだ。 「俺もだ」 低く呟いた和義の声が、胸に響いて痛かった。 |