OPERA 9
ミオが自宅に帰ると、母親の聡美が部屋の奥からそっと顔を覗かせた。
「お帰りなさい。遅かったのね。城くんと一緒だったの?」
眉間を抑えたくなるのを堪えながら、ミオは玄関の扉を静かに閉めた。鬱陶しいと感じるのはかわいそうだが、勘弁してくれとつい思ってしまう。母親の小言をまともに受け止めるには疲れすぎている。
「そうだよ、いつものことだろ。あいつに付き合わされたら絶対遅くなるから、先に寝てればいいっていつも言ってるのに」
短く言うとミオは母親の脇を通り過ぎて自室へと向かった。
兄が亡くなった日を境に、家族との会話はお決まりの台詞で始まって、必ず決まった所で閉じられるようになっている。こういう会話も当然今日が初めてではない。ある時期から幾度となく、イヤになるほど繰り返されてきた同じやり取りだ。次に母が口にする台詞もすでにミオは知っている。案の定聡美はさっと眉を顰めると、一段と声を低めて呟いた。
「あの子は? 一緒だったの? あの……」
「恭ちゃん? …一緒だったよ、当然」
ミオはため息を吐くのを抑えられなかった。
「母さんは本当に、毎回同じ事を訊かなきゃ気が済まないんだね」
聡美の声が少し大きくなる。
「当たり前でしょう? あの子のせいで、鴻史は…。あの子とはもう付き合わないでって言ってるのに、あなたはお母さんの気持ちを全然解ってくれない。あなたが鴻史と同じように……」
「母さん」
次第に大きくなる母親の声を、ミオは背を向けることで遮った。
「何度言ったら解るんだよ。兄さんが死んだのは恭ちゃんのせいじゃないし、兄さんと僕は違う。そんなこと、わざわざ言わなきゃならないようなことじゃないだろ。それに、」
それに僕が恭ちゃんに関わるのは、そうしなければならない理由があるんだ。
その言葉をミオは苦々しい思いで飲み下した。それ以上母を責める気にはなれなかった。
同じなのだ、自分も母も、そしておそらくは恭一も。抱いている思いの本質は同じだ。
将来を嘱望されていた兄の死はミオやミオの家族にもまた深く、拭い去れない違和感を残した。悲しくないわけはない。ただそれとは別の、心に引っ掛かったまま取り除くことの出来ない思いがあるだけだ。
どうして今ここに兄がいないのか。
なぜこんなことになってしまったのか。
何度も繰り返し考えて、けれどいくら考えても納得が行かないひとつの問い。肉親を失った喪失感や悲しみとは全く違う部分を鈍く抉る、ぶつける対象を失ったもどかしい思いだ。
何事もなく穏やかだった日々はどこに行ってしまったんだろう。探し当てられるものなら探してやりたいと思う。せめて、母のためだけにでも。
「僕は大丈夫だから心配しないで。早く寝ないとまた体調を崩すから。無理するとまた父さんに心配させるよ」
「どこにも行かないでね。あなたはずっとここにいてね」
「分かってる。大丈夫だって言ってるだろ」
両手で顔を覆ってすすり泣き始めた母親の肩をゆっくりと抱き締める。また痩せたな、と思うと胸に切ないものが込み上げた。
どうしてこうなってしまったんだろう?
どこをどんなふうに探ってみても、すべての痼りを取り除いてくれる魔法のような答えなど、絶対にあるはずがない。諦めにも似た脱力感。母からも同じ澱みを感じる。吐き出す方法を知らないそれは消化できずに体の奥底に溜まっていき、いつかミオの喉を塞いでしまうかも知れない。
結局は誰もがそこに蹲ったまま、同じメロディを永遠になぞり直しているだけなのだ。後に続く旋律は聴こえて来ない。それどころか、ついさっきまで口ずさんでいたはずのメロディすら思い出せなくなっている。そう思うと少しだけ涙が滲んで来た。
ミオが初めて恭一と引き合わされたのはまだ兄が大学に在籍していた頃、兄の住むマンションの部屋だった。
『お前と同い年の子を教えることになってさ。人付き合いがあまり上手な子じゃなくて心配だから、お前に話し相手になってもらえないかと思って』
ミオの兄である鴻史は当時一般に名の通った大学に通い、卒業を次の年に控える時期だった。そんな多忙な時期にわざわざ時間を割いているくらいだ、ただの教え子と家庭教師というだけではないだろう。最初に兄が言った『心配なんだ』という言葉の意味に、深い愛情のようなものを感じてもいた。だから恭一が少年だと知った時はさすがにミオは驚きを隠せなかった。
ある日兄に呼び出されてマンションを訪ねるとそこに彼、恭一の姿があった。兄は少し照れたような笑顔を見せて、ミオに恭一を紹介した。
『彼が水谷恭一くん。恭ちゃん、これが僕の弟のミオ。君と同い年だからすぐに仲良くなれると思うよ』
『あ、そうなんだ。…よろしく、ミオ…くん? 恭一です』
『ああ、どうも、よろしく…』
初対面の恭一は自分と同い年と思えないほどとても幼く映った。どことなく不安げに片手を差し出す恭一を、ミオは不思議な思いで見つめたものだ。
くっきりと見開いた青みがかった大きな瞳と作り物の人形ような肌。じっと息を止めて見つめてしまう、怖ろしく冴えた美しさだと思った。際だって整った顔立ちはむしろ冷たい印象さえ与えるのに、恭一の掌はふわりと柔らかく温かかったのをよく憶えている。
けれどミオが恭一のことを子供っぽいと感じたのは、彼の顔の造作や佇まいからではなく、自然に滲み出る兄への思慕を隠そうとしないあどけなさからだった。
『鴻史…さんにはすごく優しくしてもらってる。高校に受かったのだってあの人のお陰だし、コレ、』
兄を交えて少し話をして安心したのか、兄が席を外したとき恭一は一本のギターを大事そうにミオの目の前に掲げて見せた。
『合格のお祝いに鴻史さんにくれって強請ってさ。習い始めたところだから、まだ全然上手くないんだけどな』
鴻史さんはギターがすごく上手んだ。だから、よく弾いてくれって頼んでる。好きな曲は……。兄の話になると恭一は驚くほど屈託なく嬉しそうに、際限なく話し続けた。
恭一は本当に兄の鴻史を頼りにしていて、兄もそれを迷惑だと思っていない。むしろ両腕で抱きかかえるようにして恭一を守ろうとしている。そんな印象を受けた。
『それってどう思う? やっぱり彼って兄さんの恋人、…だと思う?』
ミオは同級で仲の良い城克彦にそう話して聞かせた。恭一と出会ってすぐのことだ。世の中に同性の恋人を持つ人々がいることを知ってはいたが、ミオは自分の兄がそういう性癖であるなどと考えたことはなかった。
『さすがに驚いた。まさか兄さんがさ…。しかも仲良いんだよね、こっちが呆れちゃうくらいにさ』
本当のことを言うと、少し羨ましく思う気持ちもあったのだ。ミオに羨ましさを感じさせるほど、あの頃の恭一は確かに幸せそうだった。事実幸せだったのだろうと思う。
ため息を吐くミオを眺めながら、克彦は今と全く変わらない軽い口調で言った。
『男にしとくのもったいないくらい、すっげー美人なんだろ? なら別にイイじゃん。つうよりなんか自由っぽくて恰好よかねぇか?』
身近に起こった珍しいシチュエーションを単純に面白がっているのだろう、細められた克彦の瞳は興味深げな光を放っていた。
『今度は俺も連れて行けよ。俺も拝みたい、お前の兄貴がラブラブの美人!』
そう言って次の日克彦は強引に兄のマンションについて来た。驚いた恭一を持ち前の調子の良さで丸め込んですっかり打ち解けて、三人は急速に親しくなっていった。
『俺も恭一みたいな可愛い彼氏作るかなー。なんか女より面倒臭くなくていい気がしねぇか?』
『またお前はそういう、考え無しなことを…』
克彦は口癖のように冗談とも本気ともつかない不謹慎なことを言って恭一をからかっては、ミオが怒り出すのを面白がった。恭一はただ笑って、そんなふたりの言い合いを眺めていた。そんなに昔のこととは思えないのに、気づくと三年も経ってしまっている。じっと目を凝らして見つめてきたつもりだったが、よく考えるとすぐに思い出せることはだんだん減っているような気がした。
他人事だと思って軽く言うなよ。そんなことを言い合って笑っていたのだ。
そしてミオだってあの時までは確かにそう思っていたのだ。
見るからに幸せそうな恋人同士だったはずだった。少なくとも恭一は何一つ隠さないで、兄を全身で求めていた。兄もそれを受け止めようとしているように見えた。
どこで、何が間違ったと言うんだろう。リズムの狂った歯車がギシギシと擦れて、軋んだ音を立ててすり減っていく。すり減っていくのは、いつの時も後に残された者の心だ。
兄の奏でるギターの音色に乗せて、恭一はとても美しい声で歌を歌った。優しい表情で、時折愛する人を視線で探しながら。
流れてくる音に自然に身を任せて、ゆらゆらと漂うような恭一の歌声はいつまでもいつまでも紡がれていたはずだった。
気づいてる? あの声、しばらく聴こえてないだろ。そこは遠くて音が届かないからじゃないんだ。
あの声を奪ったものが何なのか、それは誰もが知っている。
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