OPERA 6





「あ、誰かいんのか」
 玄関の向こうから屈託のない声が聞こえてきた。ドカドカと遠慮無く上がり込んでくる足音に、ミオがあからさまに顔を顰めた。
「克彦だ。あの脳天気っ……」
「と思ったら、やっぱお前かよ」
 ドアの向こうからミオの姿を見つけて大声を張り上げる。ミオがもう一度深々とため息を吐いた。頭を振りながら顔を見せた長身を鋭く睨め付ける。
「この、考えなしのバカ男っ」
「あァ?」
「ったく、お前はホントにロクなことしないんだから!」
「なに怒ってんだよ」
「……分からないって言いたいわけ?」
 辛辣なミオの視線に動じるふうもなく、克彦はこれ見よがしに相好を崩してミオと隣に並ぶ恭一を代わる代わる眺めた。そういう態度を見せることでミオの機嫌がさらに悪化することを充分知り尽くしている顔だ。
(ったく、コイツらよく飽きねぇな……)
 10代の頃に知り合ってずいぶん経つというのに、このふたりは寄ると触るとケンカが絶えない。深刻ではないただの口喧嘩なのだが、いつもこうだといい加減にしろと言いたくなる。恭一は瞼の奥に残る微かな痛みを堪えながら口を開いた。
「喧嘩ならどこかよそへ行ってやれよ。いつもいつも俺んとこ上がり込んじゃ大声で騒ぎやがって。気分悪ィんだよ、お前ら……」
「具合悪いのはコイツのせいだろ?」
 拍子抜けするほど軽い口調で、克彦が親指で自分の背後を指した。
「なんで俺なんだ……?」
「ああ、ソイツね……」
 呼ばれた青年とミオが同時に呟く。ミオの怒りの矛先が一瞬にして方向を変えた。
「一応戻ってくる気があったわけだ。病人を放ったらかして逃げ出したのかと思った」
 克彦に続いて部屋に足を踏み入れた和義がミオの言葉に一瞬足を止めた。チラリとミオを一瞥して口元を歪ませる。恭一も見覚えのある顔だ。
 人の悪い、射るような強い視線。その鋭さは受け止める人間を一瞬竦ませるほどの、圧倒的な威力がある。
(戻ってきたのか……)
 心持ち身を屈めてドアをくぐる和義を、恭一は不思議な思いで改めて見つめた。
 掴み所がないというのはこういうことを言うのだろう。普通の神経を持つ人間ならどうしていいか分からないような場面で、この男は驚くほど平然としている。その前は「正気じゃない」と言いながら自分を抱いた。そこにはまるで恭一が吐き出す言葉のひとつひとつを面白がっているような響きさえあった。
 こんなおかしな奴は見たことがない、と思う。少なくとも今まで自分と関わった憶えてもいない男達の中に、和義ほど強烈な存在感を持つ人間はいなかった。大抵は一晩付き合って二度と会わないか、しばらく一緒にいたあと恭一の方が飽きて追い出すかのどちらかで、いったん出て行ってまた平気な顔でこの部屋を訪れた奴などいない。
 言いがかりとも言えるミオの噛みつくような毒舌になんの反応も見せずに、和義はそのすぐ脇をすり抜けて恭一の目の前に立った。
「よお。生きてるな」
「なんとかな」
「飯は? 食ったのか」
「飯、飯ってアンタこないだっからそれしか言わねぇな」
「言っただろ? 飯をまともに食わねぇヤツは嫌いなんだよ。……食ったのか?」
「いや」
 和義が初めて笑顔のような表情を見せた。
「……しょうがねぇな」
 それだけ言い残すと、和義はじっと自分を睨みつけているミオに目もくれず、さっさと階段を降り始めた。さしものミオも和義のあまりの無頓着ぶりに驚いたのか、呼び止めようとはしない。克彦がさも可笑しそうに肩を揺すって笑い出した。
「上手く行ってんじゃねぇの」
「呆れてものが言えないね……」
「あのさ……」
 なんとも形容し難い空気の流れる空間に頼りない声が聞こえてきた。
「とりあえずみんな、彼に自己紹介くらいした方が良いんじゃないかな……?」
 恭一が顔を上げると、その存在をすっかり忘れ去られていたもう一人のメンバーである島津祐也が、ドアの向こうから恐る恐る顔を覗かせていた。



 恭一のために軽い食事を用意して戻って来た和義を囲んで、改めて全員が顔を合わせることになった。
「何だか妙な具合になったけど、まぁとりあえず顔合わせってことで」
 和義がこの場に引っ張り出される原因を作った張本人である克彦が、くるりと皆の顔を見回しながら口を開いた。
「コイツがドラムの島津祐也。気は弱いが腕は確かだ」
「よろしく、島津です。城……気が弱いってのはひどいと思うなぁ」
 祐也は新しいメンバーにニッコリと微笑みかけてから、口の悪い仲間の身も蓋もない紹介にささやかな抗議の視線を向けた。穏やかな性格が素直に滲み出る表情だ。和義が僅かに首を傾けて軽く頭を下げた。
「そしてこの恐〜い兄ちゃんが、」
「克彦」
「ピアノ担当の家仲ミオ。可愛い顔して言うことはかなりえげつない。さっきの一発で分かったと思うけど」
 ミオの非難をサラリと流して何事もないように後を続ける。この二人にとってこういうやり取りは本当に日常茶飯事なのだ。ミオも口の減らない克彦を無視することに決めたらしい。それ以上何も言わずに和義の方に顔を向けた。
「さっきはいきなりきついこと言ってごめん。あれは八つ当たりだったよね。改めてよろしく、家仲ミオです」
「いや……別に。真中和義、……カズでいい。よろしく」
 意外なほど素直に頭を下げるミオに対しても、和義の態度は変わらない。淡々とした様子でそれに応える。克彦がまた大きな声で豪快に笑った。
「な、面白れぇヤツだろ?」
「確かに……すごいね。ミオがしてやられてる……」
「……祐也っ」
「ご、ごめん」
 慌てて首を竦める祐也の姿に全員が笑った。硬直気味だった場の雰囲気がようやく少し解け始めた。
「バンドっつっても別にライブするわけでもねぇし、活動らしい活動はしてねぇんだけど、週に1、2回ここに集まって適当に音鳴らしてんだよ」
「演ってる内容は?」
「オリジナルがほとんど、だな」
「へぇ……」
 和義が驚いたような声を上げた。
「なんかのコピーでもしてんのかと思った。誰が書くの」
「曲は全員。詞は恭ちゃんが担当してる。……面白いよ、恭ちゃんの書く詞」
 ミオが恭一を振り返りながら言葉を挟んだ。ずっと黙ったままの恭一を、目を細めて「ね、」と促す。
「誰も書かねぇからだろ、……好きでやってんじゃねぇよ」
 恭一はさも面倒臭いと言いたげな表情を隠そうともしない。ミオは苦笑を漏らし、祐也は困ったような顔つきで全員を順番に見回した。
「仲良さそうだな」
「ま、こんなもんでしょ」
 焦点のずれた感想にニヤリとしながら克彦が和義を振り返る。
「祐也とは大学に入ってから知り合ったんだけど、他は高校の頃から付き合いがあるんだ。最初っからずっとこんな感じでな。俺はこういうヤツらと特に気が合うらしいぜ」
「そんな感じだな」
「だからお前とも馬が合うと思うなぁ。……っつうことで、まぁよろしくな」
 黙ったままほんの少し笑ってみせる和義の横で、恭一が堪えきれない、というふうに吹き出した。何かがプツリと切れたような笑い声を上げる。
「変なヤツら……」
「恭ちゃん?」
 ミオが驚いて顔を上げた。
「何だよ?」
「あ……ううん、なんでもない」

 ミオの心を強く捉えたのは他でもない。恭一の態度。それは明らかな違和感を伴ってミオの心に食い込んだ。
 ―――――ずいぶん素直な反応だ。
 恭一が他人に対してこんなふうに和らいだ表情を見せることは滅多に無い。今でこそ普通に接しているが、祐也と打ち解けるにもずいぶん長い時間が掛かった。
 それが当たり前だと思ってきた。以前の恭一がどんな声で笑っていたかすら、もう忘れてしまっている。おそらく克彦も憶えていないだろう。
 ミオはもう一度視線を巡らせて、克彦の軽口を黙って聞いている和義に目を向けた。
 確かに一風変わった男だとは思うが、和義は取り立ててどうと言うことのない普通の青年だ。恭一が不思議なほど打ち解けているということ以外は。
 自分ではなく、克彦でも祐也でもない、カズという男。
(恭ちゃんはこの男に何を見たんだろう)
 たった一度体を合わせただけの、見知らぬ他人に?

 心に浮かび掛けた想像を形になる前に否定する。
(―――――そんなことは、) 
 あり得ないことだ。


 
「んじゃ顔合わせも無事済んだことだし、俺、帰るわ」
「あ、じゃあ僕も……」
 ヒョイと腰を上げた克彦につられて、祐也も慌てて立ち上がった。置いて行かれてはたまらないと思ったのだろう。この場面で自分から帰ると言い出せるほど、祐也は度胸が据わっていない。
「ミオは? ……一緒に帰る?」
「そうだね。とりあえず心配ないみたいだし」
 ミオも素直に頷くと床に手をついて勢いよく体を起こした。
 先に部屋を出て行く二人に続いてゆっくりと玄関に向かう。ドアに手を掛けたまま、見送りに出た和義を振り向き様にまっすぐ見上げた。
「食事……」
 言いかけて、一瞬口を噤む。それから思い直したように言葉を続けた。
「恭ちゃんにご飯……食べさせてくれてありがとう。とりあえずそれだけでもいいから、……頼むよ」
 対する和義の答えは簡単だ。
「餓死することはねぇだろ、多分」
「……充分」
 部屋を出て行く寸前、ミオはもう一度首を巡らせて、誰もいなくなった部屋の片隅で膝を抱えて蹲る恭一をじっと見つめた。


 階段を降りて一階に戻ると、克彦がミオを待っていた。祐也の姿は見当たらない。神経を使い果たして早々に退散したか、克彦が先に帰したかだろう。そんな顔をしている。
「……なに」
「言わなきゃ分かんねぇわけじゃねぇだろ」
 無理矢理抑揚を押さえているのがありありと分かる低音で、克彦は吐き捨てるように短く言った。今にも怒鳴り出しそうな表情だが、一応堪えているらしい。
「お節介はお互い様だろ?」
 ミオも負けてはいない。恐ろしいほど睨み付けてくる瞳を正面から見返したまま、強気な表情を崩さない。克彦もまた、ミオから一瞬も目を逸らさずに続けた。
「もうヤメだ。これで打ち止め。こんな馬鹿馬鹿しい助け合い運動はな」
「どういう心境の変化? そんなに彼に期待してるの」
「そうじゃねぇよ」
 違うんだよ、と口の中で呟いて、克彦は小さく頭を振った。
「カズがさ、恭一のこと『フツウじゃない』ってよ。返す言葉がなかったね。確かに普通じゃねぇよな、……恭一も、お前も、俺も。何やってんだ俺、って思った」
「何って?」
「やり方が間違ってたんだよ、俺ら、最初っから。つっても俺らに出来ることなんて初めっから無かったのかも知れねぇけど」
 ミオが場違いなほど明るい笑顔を見せる。
「諦めがいいね。驚いた」
「どうだかな」
 克彦の視線がどこか遠いところを彷徨うように揺れた。
「もう3年だ。いくらなんでも長すぎだと思わねぇか? 俺らがしなきゃならないのは、アイツをいつまでもあっちの世界に囲っておくことじゃねぇだろ。アイツにしても……忘れるのは無理だとしても、なんかもうちょっと違う方向に向くもんじゃねぇのか、普通」
「忘れてるよ、完璧に。おかげであのあと事情聴取がどれだけ大変だったか」
「……冗談はそれぐらいにしとけよ。俺が本気で怒ったら手が付けられねぇぞ」
 苦笑混じりのミオの軽口を克彦がギロリと睨んで黙らせる。ミオの方にもそれ以上言い争うつもりはなかった。こんなやり取りは今に始まったことではない。同じ所から抜け出せないでいるのは、何も恭一に限ったことではないのだ。
「……了解。で? もっと分かるように言いなよ」
 ミオが早々と折れたことで克彦の怒りも少し収まったらしい。一呼吸置いてまた話を再開した。
「恭一とおんなじ所にはまってちゃダメだろってことさ。俺らがあれに拘ってる限り、アイツも変わり様がない。忘れようがないってことだろ」
「恭ちゃんに新しい男が出来て、上手く行った試しがあった?」
「怒らせるなっつったろ……」
 ギリギリと歯噛みする音が聞こえてきそうな表情だ。
「カズのことは関係ない。俺が言ってるのは恭一自身のことだ」
「入れ込んでるようにしか聞こえない」
 ミオが言っているのは無論、和義のことだ。
「だからそうじゃねぇって言ってんだろうがっ……」
「なにがそうじゃないの。アイツなら何とかしてくれるかもって、恭ちゃんのごっそり抜け落ちた部分を埋めてくれるのを期待してるんだろ。克彦はそうやって眺めてればいい。あの時みたいに何にもしないで、なるようにしかならないって笑ってれば? その結果がどうなったか一番知ってるのは僕と、……お前だ」
 
 ざわつく舗道。まばらな人影。サイレン。開かない扉。なかなか進まないタクシー。胸が悪くなるような匂い。鼠色の制服。そして赤い…………
 忘れることなど出来るわけがない。
 床に横たわった細い体。白い手首から吹き出すように溢れる、鮮やかなまでに美しい、赤い血の海。ミオの心を捕らえて離さない、恭一の赤。 
 今でも夢に見る。血の気を失った恭一は信じられないほど重く、抱き上げようとして出来ずにミオは一緒に真っ赤な床の上に倒れ込んでしまう。起き上がろうとしても、床を濡らす粘ついた液体で手が滑って、恭一はおろか自分の体さえ支えきれない。嘔吐感に歪む視界の彼方で、血液という恭一の命はどんどん床に吸い込まれてゆく。
 ミオには何も出来ない。
 血は流れ続けている。流れ続ける………………

「……そのカズとやらが恭ちゃんの面倒を見てくれるらしいから、僕らは大人しく帰ろうよ。とりあえず飢え死にさせることはないってさ。面白いね、彼……本当に変わってるよ」
 克彦がまだ何か言いたげに口を開くのを待とうともせずに、ミオは足早に古ぼけた店先を後にした。


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