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(キョウイチ……、) 誰だ、呼んでるのは? (恭、…… いち…………) 懐かしい声がする。何度も聞いたことがある。大好きだった。この声に呼ばれると胸が締め付けられるように苦しくて、でももっと呼んで欲しくて耳を澄ませた。 何故忘れてしまったんだろう。 忘れたくなったはずなのに。そのことだけは何となく、ぼんやりと心の隅に引っ掛かっている。 違う。忘れたわけじゃない。名前だって仕草だってハッキリ覚えている。ただ……思い出すのが怖いだけ。 「……恭ちゃん」 もう一度軽く揺さぶられて、恭一はゆっくり目を開けた。 眠っていたのだろうか。何となくそんな感じだ。頭の中にはドロリと溶けた液体が詰まっていて、目の前が灰色に霞んでいる。瞳を凝らしているつもりなのにどうしても視界が晴れなくて、それが何故なのか恭一には分からなかった。 頭上で誰かの話し声がしている。はっきりとは聞き取れないが、数人の人間がいるようだ。ボソボソと話す聞き慣れない低い声に混じって、少年のように軽やかな声音が耳をくすぐった。 「ミ、オ…………?」 「恭ちゃんっ。……気がついた……?」 今にも泣き出しそうな表情が目の前を塞いだ。ミオの、吊り気味の大きな瞳が恭一を上から覗き込んでいた。 「ナニ、どうした……? ここ、どこだ……?」 「……病院だよ。大丈夫、命には別状ないって、先生が…………」 命って、……誰のだよ? 「な、んのハナシ? ゴメ、ン……俺、頭ボンヤリしてて、はっきりしねぇ……」 「麻酔はとっくに切れてるんだけど、ずっと眠ったままだったんだ。きっと疲れてたんだね。無理しないで」 麻酔? なんで俺は麻酔なんか打たれてるんだ? 恭一の心に素朴な疑問が浮かぶ。多少無理をしてはいるけれど、病院に担ぎ込まれるような覚えはない。 「なんで麻酔……? なんだよ、ソレ……、っ!」 体を起こそうとして、左腕に息を飲むほどの痛みが走った。懸命に声を殺してその衝撃をなんとか堪える。と同時に、体の自由がきかないことにも気がついた。 「っ、なん、だ……コレっ…………!」 「動かないで、点滴してるんだよ」 「んなわけねぇだろっ。点滴がこんなに痛いわけ、あるかっ……」 何か白いものが視界を掠める。それの正体に気がつくまでに、数秒かかった。 恭一の腕、正確に言うと左腕の肘から下、掌の半分くらいまでが真っ白な包帯で覆われている。 しばらくのあいだ、恭一はその白い棒のような塊をただ呆然と見つめていた。指を軽く動かすだけでズキン、と手首に痛みが走る。試すように恐る恐る、一本ずつ動かして見る。思わず声が漏れるかと思うほどの痛みだ。 「俺、何した……?」 ミオが軽く息を吸い込む音が聞こえた。 「恭…………」 答えを望んだ問いかけではない。見れば分かる。これは、 「切った、のか。なんで……?」 ミオが曖昧な表情で微笑んだ。 「眠って、ね? 今は眠ろう。まだ体が参ってるんだから」 「うるせぇよ!」 いきなり頭に血が上った。 「俺は、なんでこんな怪我してんのかって聞いてんだよ! オマエ、知ってんなら隠すな。何があっ…………」 何が、―――――あった? 自分の洩らした言葉が、恭一の記憶の端切れを掴む。 「俺が……やった、のか? 自分で…………」 ―――――自殺未遂。そんな単語が唐突に浮かんだ。 誰が? ……俺が? ミオの顔は紛れもなくそうだと言っている。 馬鹿馬鹿しい。何で俺が自殺なんてしなきゃならない? ふざけるな。俺は今、シアワセってヤツの絶頂なんだよ、悪いけど。 誰に向かってでもなく心の中で悪態を吐いたあと、今度は急激に気持ちが落ち着いて行く。 やっと分かったんだ。大事な気持ちってヤツ? 心の中がフワッと暖かくなるような、優しい気分になるんだ。 あの人といると。 恭一の心が、また一点で引っ掛かった。ゆらゆらと空中を漂うように巡っていた思考がプツリと途切れる。 あの人って、誰………… 「恭ちゃんっ、」 呼ばれた方向に恭一はゆるりと目を向けた。眼球が眼底に張り付いてしまったような気がする。視線を動かすとき、何かがビリビリと剥がれる音がした。 「兄さん、ダメだった…………」 声が出ない。喉が急に腫れ上がってしまったんだろうか? ミオが何を言っているのかもよく分からなかった。 「救急車が駆けつけたときにはもう……息が、なかったって…………」 ぼんやりと見開いた恭一の視線の先で、ミオの唇がみるみる震え出した。 今まで必死で堪えていたんだろう。ミオの瞳から堰を切ったように溢れ出した涙は、厳重に包帯でくるまれた恭一の腕を濡らして、淡いグレーの染みが細い手首の上をどんどん浸食していく。それでも止まらなかった。 「恭ちゃんの首……、その痕は兄さんがやったんだね?」 止まらない涙を拭うこともしないまま、ミオが恭一の首筋にそっと手を伸ばした。指でほんの軽く何度もさする。ミオが何を言っているのか、恭一にはやはり理解できなかった。 「息を吹き返したあと自分で手首を切ったんじゃないかって、警察の人が言ってた」 だから訳が分かんないって言ってるだろうが? 苛立ち始めた心の隅にふと、別の何かが浮かんだ。微かな兆しを、神経を研ぎ澄ませて夢中で追いかける。それは誰かの声のような気がした。 思い出した、俺、この声好きなんだ。優しいだろ? 俺の名前を呼んでくれるの。髪を撫でてくれて、息が止まるくらい強く抱き締めてくれる。 好きなんだよ………… 「どうして、……どうして、こんなこと、したのっ、…………」 どうしてって、それは。 誰にも壊されたくなかったから。だよな。離れるなんて出来なかった。あの人と一緒にいたかった。 聞かないで。 大事なことなんだ、俺にとって。―――――俺たちにとって。 今は思い出せないけど。 夢のように遠いところから不快な叫び声が聞こえる。耳障りな不協和音が幾重にも重なって、急に気分が悪くなった。 恭一はなぜか自分の喉が震えていることに気がついた。さっきは声が枯れてしまったように一言も喋れなかったのに。 怖い。体がガタガタ震えている。どうしても止まらない。止まらないよ。 助けて、―――――鴻史!! ぎゃあっという叫び声が聞こえる。耳を塞ぎたいのに腕が動かない。 鴻史、……鴻史! 助けて。そばに来て!! 体を両側から強く押さえつけられてる。だから苦しいのか? 何か別の、耳をつんざくような音もしている。泣いているみたいな音だ。 聞き覚えがあるような気がするけれどよく分からない。あいかわらず身体は何処かに縛り付けられたまま。 吐き気を催す嫌な響きからどうしても逃れられない。 身を引き裂くような悲痛な叫びは、病院のスタッフが慌てて鎮静剤を投与するまで、恭一の唇から長い間漏れ続けた。 俺を呼ぶのは誰? そんな声で呼ばないで。思わず姿を探してしまうから。 いないんだろ、もう? 知ってるから――――― ―――――恭一、…… 呼ぶなよ…… 「恭ちゃんっ」 「……っ、」 息を飲む自分の喉の立てる音で、恭一は突然目を覚ました。視界がハレーションを起こして白っぽく霞んでいる。瞼の奥がズキズキと痛んだ。 慣れた痛みだ。もう長い間、目を覚ます瞬間に頭痛のしなかったことはない。 「ミオ、か…………」 声の主は分かっている。家仲ミオ、大学の同級生でキーボーディスト。克彦と同じように、高校生の頃から恭一とつき合いのある男だ。 「今日は、……来るな、つったろ…………?」 体を動かすどころか話すのも億劫だ。嫌な夢を見た。ここのところ思い出すことはなかったのに。 ミオは盛大に顔を顰めながらベッドサイドに置いてあるカラフェからグラスに水を注ぎ入れると、恭一の目の前に差し出した。恭一が素直にそれを受け取ったのを見届けると、小さく頭を振ってため息を吐く。 「誰に来るな、って? 全くしょうがないんだから。今度の男は酷く薄情なヤツらしいね」 「……何言ってんだ、オマエ」 そうでなくても気分が良くないのに、ミオの小言につき合ってやる気はない。恭一の声音に苛立ちが滲む。 「うるせぇんだよ。帰れ」 「自分は授業に出るから死人が出ないように見張っておけって、克彦に電話してきたらしい。いったいどういう神経してるんだろ?」 繊細な造作を持つ青年は相当頭に来ているらしく、整った眉を額の中央に限界まで寄せて、さらに強い口調で捲し立た。恭一の掠れた呟きなど、どうやら全く耳に入っていないようだ。 どうにかシーツから体を引き剥がすと、恭一は体を丸めてベッドの上に起き上がった。 「だから、何の話をしてる……」 「昨日、恭ちゃんがここに連れ込んだ男のことだよ」 間髪入れずにミオがぴしゃりと言い放つ。 「恭ちゃんが誰とつき合おうと口出しする気はないけど、……相手を選ばないといつかもっと酷い目に遭うよ」 「酷い目?」 いきなり部屋に押し掛けてきて喚き散らして、挙げ句の果てがコレか? 恭一の胸に突然、昏い色をした火が灯る。―――――だめだ、笑い出しそうだ。 「酷い目ってどんな?」 「恭ちゃん……」 「ソイツと一昨日の晩、さんざんセックスしたぜ? 俺、ヒィヒィ言って喘いでさ、死ぬかと思うくらい達った。それが酷い目? アタマぶっ飛ぶくらい気持ちイイのが?」 恭一が乾いた笑い声を上げた。 「オマエも突っ込まれてみりゃ分かるんじゃねぇの? 何なら紹介してやるよ。アイツ……なんて言ったっけ、……カズ。すげぇよ、アイツ。ちょっとヤバいくらい…………」 「恭ちゃん!!」 ミオの、少年のように甲高い声が部屋中に響き渡る。 痛々しい顔をしている。あの時の眼だ、と恭一はぼんやり思った。 白い壁、眩む視界、消毒液の匂い。そんなものの記憶とミオの瞳は恭一の中で一括りの同じところに仕舞われている。 こんな目で見つめられるのは嫌だ。ミオが自分に対してこういう表情を見せるのも嫌だった。 「悪い、……ごめんな…………」 「分かってる。本気で言ってるんじゃないことは、……知ってるから」 ミオはベッドに近づいて静かに腰を降ろすと、そっと恭一の頬に手を伸ばした。 「僕だけは知ってるから。安心していいから……」 言いながら恭一の頭をそっと抱き寄せる。 されるままに目を閉じて、恭一は全身の力を抜いた。また揺らぎ始めた意識の中で、髪を撫でられる感触を追いかける。 ミオが何を知っていると言うのか、自分では全く想像も付かない。けれどそれを問い質す気は、恭一にはなかった。 そんなことは、どうでもいいことだ。 |