OPERA 4





 呆れたことに恭一は昼を過ぎても眠り続けていた。
 昏々と、という言葉がこれほど似合う眠りにはお目にかかったことがない。和義はため息をついて朝から何度目か、恭一のくるまっている毛布の脇に腰を降ろした。
(一体、どういう生活をしてるんだか……)
 克彦は学生だし、恭一もそれほどかけ離れた年齢には見えない。
 部屋には家具もほとんど置いていないのに、無造作に積み上げられた蔵書の山があちこちにあるところを見ると、おそらく恭一も学生が本分なのだろう。
(真面目に学校に通ってるようには……見えないけどな)
 音楽と酒とセックスしか存在しない生活?
 そんなことが本当にあり得るのだろうか。60年代じゃあるまいし。
「厄介なヤツ」
 言いながら笑っている自分にまた笑った。厄介なものを背負い込んだという自覚はあるが、それ以上に恭一に興味を覚えている自分がいることもまた事実だ。
 削られていない岩石の中で鈍く光る蒼い原石のような、あの視線の先に映るものを見てみたい。
 恭一が自分を本当に受け入れるのかどうかにも興味があった。
(俺ってひょっとして、とんでもないアホなのかもな)
 和義はおもむろに腕を伸ばして毛布を引きずり上げると、無防備に晒された恭一の剥き出しの肩に掛けた。空気が入らないよう、毛布を肩口に押し込むようにしてくるんでやる。
 満足がいくまで布団を整えると、和義はベッドから腰を上げて、ゆっくりと部屋を後にした。


 目を開けると見慣れた壁が見えた。
(今、何時だ?)
 時計を探そうとして、恭一は自分の体が動かないことに気がついた。
 体がすっぽりと毛布でくるまれている。体の下に毛布を巻き込んで眠っていたのだ。
 こんな苦しい体勢で目が覚めないなんて、余程ぐっすり眠っていたに違いない。眠りの浅い恭一にしては本当に珍しいことだ。
 頭を巡らせて部屋を見渡す。目が覚めると必ず最初に部屋の中を点検するのは、3年前のあの日から癖になった。
 とりわけ今朝のように、隣に眠るはずの人間が見当たらないときは。
(どこに行った、あの男……?)
 昨夜の男のことは珍しくはっきり記憶に残っている。克彦が見つけてきた、新しいギタリスト。名前は……カズ、だ。何度も呼んだ覚えがある。もうとっくに目が覚めて、自分の世界に戻ったのかも知れない。恭一は小さく息を吐いてもう一度ベッドに体を沈めた。
 こんなことはよくあることだ。
 目が覚めたら相手の男はすでに部屋を出ていった後。別れの一言もなくあっさり背中を向ける、一晩だけの快楽の対象。今度道ですれ違って、お互いの顔を思い出すかどうかも怪しいものだ。
 そういうのが、いい。引きずられることも引き裂かれることもなく、ただ純粋に欲望だけを満たしてすれ違う…………
(何だか、変な男だったな)
 カズと名乗った男の瞳の、強い光を思い出す。恭一のことを正気じゃないと言い放った、見るものを射抜く矢のような光。あれだけ翻弄されてしっかり焦点を合わせられるはずもないのに、なぜかその印象だけは強く残っていた。
 恭一の、自然に色付く形のいい唇が奇妙な角度で吊り上がる。
 馬鹿馬鹿しい。そんなことを憶えていて何になる? もう戻ってこないかも知れないというのに。
 記憶の数が増えれば増えるほど、自分を縛るものが多くなっていく。そんなのはご免だ。
 もう一度眠ろう。眠って、目覚めたときには、あの男のこともきっと記憶からきれいに消えている。
 まどろみながら眠りに落ちる寸前、恭一は視界の隅にあの鋭利な光彩がきらめくのを見たような気がした。

「なんだ、起きたんじゃなかったのかよ」
 コンビニのビニール袋を床に放り出して、和義は大きくため息をついた。
 部屋のドアを開けた瞬間、和義は確かに恭一の視線を感じたと思ったのに、近づくにつれてそれが錯覚だったことを知った。
 見下ろす視線の先に横たわる造作の整った青年は、どこから見ても眠っていた。せっかく食料を調達してきてやったというのに、これでは昼食どころか夕食になってしまう。
「しゃぁねぇか…………」
 独りごちて和義はもう一度ため息をつくと、青年のくるまっている毛布におもむろに手を掛けた。
「起きろよ」
 言いながら勢いをつけて毛布を引っ張り上げる。思いがけなくあっさり毛布が引き剥がされ、透き通るような肢体が目の前に投げ出された。
 瑞々しい若枝のようにスラリと伸びる手足。染められていない絹糸を思わせる髪。
 ゆっくりと見開かれるあり得ない色の瞳は、二度瞬きしてようやく表情を宿しはじめる。
「、んだよ……………」
 その声は思わず聞き惚れるほど心地よく、笑いが込み上げるほど不機嫌そのものだ。
「起きろ。昼も過ぎた。メシを食え」
「いらねぇ」
「ふざけてないで、さっさと起きろ。作ってやるから」
 左右に伸びる形のいい眉が大袈裟に真ん中に寄せられる。
「……ナニ、あんた? もしかしてマメ夫? 気色悪ィ」
「吠えんな、犬じゃあるまいし。俺は昼過ぎまで寝こけてるようなダラシのねぇヤツは嫌いなんだよ。メシをまともに食わねぇヤツもな」
 恭一がいきなり体を起こした。和義の言いぐさが気に入らなかったのだろう。怒りに染まった瞳が青白い光を放っている。
「うるせぇよ! アンタに関係ねぇだろっ」
「関係ない、ねぇ……」
 和義が呆れたように唇の端を引き上げる。そのままくるりと恭一に背を向けて、今入ってきたばかりのドアを出ていった。

 
(なんだ、アイツは!? ふざけやがって。えらそうな口を叩いて、まるで恋人か親父気取りだ。頭おかしいんじゃねぇのか?)
 腹の底から怒りが込み上げる。恭一は手元にあった枕を掴むと、力任せに壁に叩きつけた。
 気分が悪い。頭に来たせいだけじゃなく、本当に具合が悪いのだろう。馴染みのある不快感が鳩尾の辺りにジワリと拡がる。
「クソっ……」
 目の前が揺れた。吐き気と共に、下肢を伝う震えの来るような粘ついた感触に初めて気がついた。
「マジかよ」
 体を覆うシーツをはだけて足許に目をやって…………思い切り後悔した。
 当たり前だ。昨夜散々抱き合ったあと、なんの処置もしていないのだから。太腿から膝下辺りまで精液が流れて、白く乾いてこびりついている。それはまだ流れ続けているらしく、醜悪な眺めの跡をなぞるように鈍く光るものが見えた。
「最っ悪…………」
 ぼやいてみても始まらない。とりあえずバスルームに向かって歩き始めたはずが、恭一はその場にがっくり膝をついていた。
 足が思うように動かない。体に錘をくくりつけられたように、一歩も前に進まなかった。吐き気はどんどん酷くなる。
「おい、なにやってる?」
 誰だ? 
「気分、ワリ……」
 誰でもいい。助けてくれるなら誰でも良かった。
「恭一? 吐くのか? ちょっと我慢しろよ」
(なんだよ、情けねぇ声出しやがって。こんなのには慣れっこなんだよ、心配ない……)
 体がフワリと浮き上がる心地よい感覚。恭一はホッと息を吐いて強張った手足からそっと力を抜いた。
 大きくて広い手のひらの感触。恭一をしっかり抱え上げる優しい腕。愛し合った次の朝、あの人は必ずこうしてバスルームに運んでくれた。
(鴻史なのか?)
 そんなはずはない。そう思うのに体に染みこんだ記憶は消えない。体を支える腕はそれを勝手に引きずり出して恭一にあり得ない幻を見せつける。
「鴻史…………」
 意識がブツっと途切れる寸前、恭一は自分の口から失ったはずの記憶が零れ出すのを、確かに聞いた。

 次に目を覚ましたとき辺りはすでに真っ暗で、窓辺に取り付けた小さな白熱灯がひとつ、ぽつんと寂しげに灯っていた。
 その脇に人影が見える。恭一は思わずそのシルエットに目を凝らした。
 ずいぶん背が高い。腰高の窓枠に取り付けてあるライトは、その顔の半分から下しか照らしていなかった。
「オイ」
 ボンヤリしたままその人物に呼びかける。寝起きの掠れた声でもなんとか届いたらしく、手元の分厚い本から目を上げて、青年はゆっくり立ち上がった。
 ベッドに近づくと大きな背を屈めるように、恭一の顔を上から覗き込んだ。
「気分は?」
「ン……、マシ、になった。あんたずっとここにいたのか?」
 さすがに驚きが声に滲む。あの男……和義がまだここにいるとは思っていなかったからだ。
「俺は人が好いんでな」
 言いながらニヤリと笑う、その表情は意外に子供っぽくて、恭一もつられて笑い声を上げる。
「あんたおかしいよ、マジで」
「なにが?」
「克彦からどこまで聞いた? ……俺に惚れたの?」
 和義の目が面白そうに輝いた。
「惚れるほどお前のこと、知らねぇよ」
「だな」
「メシもまともに食えねぇような奴を放っておけねえだろ。あとで飢え死んだなんて聞かされたら寝覚めが悪い」
 大真面目な顔で言い返すのが、たまらなく可笑しい。変な奴だが、不思議なほど居心地が良かった。
「……腹、減った」
「食えるのか?」
「軽いもんなら入りそう。作れる?」
「オッケ、ちょっと待ってろ」
 和義は恭一の頬を軽く手の甲で撫でてから立ち上がった。
(おんなじだ……。コイツ、あの人と同じことをする)

 静かに部屋を出ていく広い背中を目で追いながら、恭一はまた目を閉じた。
 不思議だ。思い出すのが痛くない。懐かしい感じさえする。
(やっぱ、変な奴…………)

 奇妙な同居生活が始まった。



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