OPERA 3
気を失ったように動かない恭一を残して和義は静かにベッドを降りた。
喉が渇いて仕方がなかった。何か飲むものを探して不思議な場所にぽつんと置かれた冷蔵庫を開ける。
中身は見事に空だった。飲みかけのミネラルウォーターが一本、種類の分からないチーズの箱、萎れかけたライムの切れ端……そんなところだ。
冷凍庫も同じようなものだった。期待してはいなかったが、ウォッカの瓶が数本無造作に突っ込まれているだけで思った通り氷すらなかった。
(……コイツ一体、何食って生きてんのかね)
和義は溜息とともに冷凍庫を閉めて部屋を出た。今はウォッカを飲みたい気分じゃない。
別の酒を探そうと一階の店に降りて、階段の最後で人のいる気配に気が付いた。
立ち止まって中を覗くと、克彦が一人、カウンターでグラスを傾けていた。いつから来ていたのか、全然気が付かなかった。
克彦がおもむろに顔を上げた。
和義は自分の格好を思い出した。引っかけただけのシャツ。おざなりに穿いたジーンズ。克彦が片方の眉だけ器用に引き上げる。一目で何があったのか察した顔だ。
その表情を見て……急に全てのことに合点がいった。
誰もいない店。和義のことをギタリストだと言い当てた恭一。
そうか、コイツわざと遅れて来やがったのか。
ハメられたってわけか……と、妙な感想だけが頭に浮かんだ。
不思議と怒りは湧いてこなかった。
和義はきれいに拭いて伏せられているグラスをひとつ手に取ると、克彦の隣に腰掛けた。克彦は黙って和義のグラスにウイスキーを注ぎ入れた。
「何なの、アイツ」
独り言のように和義が呟く。訊く気はなかったのに、勝手に口が動いていた。
「あれ……フツウじゃねぇよ」
和義の脳裏に恭一の肢体がフラッシュバックする。
霰もない嬌声を上げて知らない男の下で大きく足を広げる、昏い目をした淫猥な獣。
見開かれた蒼い瞳は極まっていく快感に潤んで、虚ろに宙をさまよい続ける。
その視線の先に映るものは……何もない。
克彦がわずかに顔を和義の方に向けた。
「かもな」
抑揚のない声であっさりと言い放つ。和義の顔に苦笑が広がった。
「で、俺にどうしろって?」
「ん?」
「わざわざ面倒臭ぇ手間掛けてセッティングしたんだ。一回突っ込んでハイ終わり、ってそんなオイシイ話じゃねぇだろう」
克彦が面白そうに聞き返した。
「フーン……、オイシかったわけだ」
「茶化すなよ」
不快な気分が和義の心を暗く覆う。こういう展開は性に合わない。事情も分からないまま巻き込まれるのは御免だった。
「俺を無理矢理引きずり込んだ責任は取れよ? 俺はまだあいつが何者かも解っちゃいないんだ。誰に何を訊いたか知らないが、俺は頭のイカれたヤツの面倒を見る気は無いぜ」
和義の辛辣な言葉を聞きながら、克彦は黙ってグラスを口に運んだ。
頭のイカれた奴。……確かにそうかも知れない。克彦の口の中に酒の味とは別の苦い何かが広がった。
「あいつは何ていうか……ちょっと不安定なトコがあって、誰かが傍にいないと何するか解らんようなとこ、あんだよ。メッチャクチャな飲み方して、誰彼構わずセックスして、……放っといたら三日くらい飯食わないなんてザラだ」
「不安定、ね……」
都合のいい言い方だが、確かにそれはよく解る。あの男の壊れかたは半端じゃない。だが和義が訊きたいのはそんなことではなかった。
「で、ご親切なご友人が男を宛って慰めさせてるって?」
アホらしい。心底そう思った。
和義のあからさまな非難の口調に気付いているはずが、克彦はそれに対して反論も言い訳もしなかった。ただ淡々と話を繋いでいく。
「前のギターが全然役に立たなくってな。三日でココ、追い出されちまって」
面白くもないのに和義の顔に笑みが零れた。アイツらしいと思ったからだ。で、次は俺かよ、と人ごとのような感想が浮かぶ。
「ぶっちゃけた話、あいつが気に入る相手なら誰でも良いんだ。お前がダメならまた次を探す。それだけだ」
不意に言葉を切ってしばらく考えて、ただ……と切り出した。
「お前を初めて見たとき、なんか違うって思った。もしかして恭一はお前みたいな奴を探してたんじゃねぇかなって、何となく。よく、分かんねぇけども」
和義は返事をしなかった。
克彦も言いたいことを全部言い終えたのかそれ以上口を開かない。グラスを傾ける度に氷が当たる微かな音だけがしばらく続いた。
不意に和義が立ち上がった。とうに空になっていたグラスを黙って向こうに押しやるとそのまま階段に向かって歩き出した。
さすがの克彦が面食らって声を掛けた。
「おい、どこ行くんだ?」
「……上。アイツ、死んでるかも知れねぇ。ちょっとやりすぎたからな」
克彦の目が大きく見開かれる。
固まっている克彦に背中を向けたまま、和義が小さく呟いた。
「さっきも言ったが、俺は面倒臭ェことに巻き込まれンのはうんざりだ。俺が嫌になったらすぐ出て行く。それだけは覚えとけ」
背中越しに克彦が低く笑う。
「……サンキュ、とか言ったら俺、まるで馬鹿だよな。……でも、よろしく頼むわ」
しばらく考えて、ま、その気があったらでいいけど、と全然期待していない口調で付け足した。
それにも答えず和義は階段を上り始めた。
面白れぇ。……どいつもこいつも壊れてやがる。
三階の恭一の部屋に戻る頃には空は白み始めていた。和義は薄いカーテンが引かれただけの窓に近づいて、窓ガラスを開け放った。
まだ早い朝の空気がひんやりとしたすがすがしい香りを運んでくる。目を閉じて、昨夜のセックスの残り香を追い払うように大きく息を吸い込んだ。
恭一は死んだように眠り続けている。決して狭くないベッドの上の、ほんの小さな部分だけを支配して、子供のように丸めた背中を無防備に晒しながら。
肩が震えた気がして、和義はベッドに近づいて恭一の顔をのぞき込んだ。
ベッドの端にそっと腰掛けると振動が伝わったのか恭一が少し身動いだ。
「ん…………」
小さく声を漏らして寝返りを打つ。長い前髪がまるで絹糸のように滑らかに額から滑り落ちた。
ついさっきまでの痴態とは似ても似つかない穏やかな寝顔。和義の顔に思わぬ笑みが広がる。
(自分の寝顔を自分で見られないのは、果たして良いのか悪いのか、な……)
ふと恭一の華奢な手首に目が留まった。
白い肌に強いコントラストで張り付く赤黒い痕。痣ではない。生々しく盛り上がって今にも口を開きそうな、グロテスクな傷跡。
和義は瞬きもせずに長い間それを見つめた。それからゆっくりと体を屈めて、精液にまみれて放心する恭一の、血が滲みそうな傷痕にそっと唇を寄せた。
|