ACT.1  独白

Ep.03  窪塚珱の場合

 朝、目が覚めると気分が良かった。
 昨夜3時まで参考書と首っ引きで勉強していたのに、あんまり堪えてない。寝覚めがいいってのはこういうことかも知れない。なんて、年寄りじみてるよな、きっと。
 ここのところ夜にライブハウスでバイトをし始めてから、さすがに参考書を開く時間が激減して、仕方がないから睡眠時間を削ってるってのに、妙に元気な自分が不思議だ。
 今日から夏休み前の期末テストが始まる。
 普段半分は登校していないので、授業内容がどこまで進んだかなんて分からない。だから俺はいつもとにかくやれるところまで自力で進めて、点を稼ぐことにしている。これはただの俺の意地だ。それでも今までは毎日遊び歩いていたわけじゃないから、家にいる時間部屋にこもってテレビを見る代わりに参考書を開いて何となく勉強していたけれど、卒業まであと8ヵ月、かなり考えて時間を配分しないと成績が下がるのは目に見えている。
 中二の秋……くらいから俺は学校に行かなくなった。いわゆる世間で言う、登校拒否ってやつだ。
 義務教育には退学も留年もないし、別に行かなくったってそのまま背中を押されて追い出されるだけ。でも俺はいちおう自分なりの出席日数とかいうのを勝手に決めて、そのスケジュールで生活することにしている。
 月の約三分の一とテスト期間。それが俺の決めた中学卒業までの学校生活。
 中学を出たらもう学校社会にはおさらばだ。家も出て働いて、誰にも頼らないで生きてやると心に決めてる。
 もう一つ決めていることがある。それは中間、期末とやってくる定期テストで『それなりの点数を取る』ということだ。とにかく人が俺に対して真面目に学校に来ないから、とかムカツクことを言わさないために、それだけのために俺はテストをちゃんと受けてそれなりの成績を分捕ってくる。
 別に成績トップになることなんて興味はない。大体我流もいいとこでたまに大きく見当外れな勉強をしてることだってあるし、はっきりいって点数自体はそこそこだ。
 学校でまじめに授業を受けなくても、点数が必要なら、取ろうと思えば取れる。俺が毎日学校へ通う必要がない。定期テストはそのことを証明するための一つの手段だった。
 ぼんやりしていてもしょうがないので、俺はベッドから起き上がった。朝から下らないこと考えて時間を無駄にしてしまった。今さらテストを受け続ける意味なんて考えてどうするよ?
 ……どうも最近ペースが乱されてる感じがする。
 乱してるのは瀬田斎、あいつだ。遅い春辺りに俺の前に突然現れた、正体不明の男。
 年は見た目で言うとたぶん17、8歳。私立の高校生ってとこだろう。新宿のライブハウスでいきなりナンパしてきて、なんだか分からないうちにあいつの兄貴のバンドに引きずり込まれてしまった。ほんとに得体が知れなくて、奇妙なくらい人懐っこくて、会ったその日から俺のこと『珱』って呼び捨てにした。
 俺のこと呼び捨てにするヤツなんてこの世の中にいないから、何だか変な感じ。
 あいつが『珱』って言うと自分の名前じゃないみたいだ。何か別の、呪文みたいな響きになる。その微妙なニュアンスはたぶん俺にしか分からない。
 たとえば、
「珱ちゃん、……今日は学校行くん?」
 こんな声とはまるで違う。もっと伸びやかで溌剌としている。
 振り向くと母親が俺を見上げていた。
 俺は中学に入ってからいきなり背が伸びて、今175cmはあると思う。14になって半年くらいから家で飯を食う回数も少なくなって、栄養状態は決して良くないと思うのに、自分でも面白いくらいニョキニョキ伸びる。身体測定なんて参加したことないからホントのとこはわからないけど。クラスの中には俺より大きいやつもいるにはいるが、学年全体でもそう多くはいない。街を歩いてたら俺くらいのやつなんてゴロゴロいるから別にどうってコトないけど、学校の中じゃひどく目立った。たぶん義父の背もそのうち越すだろう。
 母親の背丈をいつ追い越したのかなんて、もう覚えていない。
 気がついたときには、こうして見下ろしていた。
 母親の顔は俺の目から見るとずいぶん遠くに見えて、それは背の高さの差というより心の距離のような気がする。
「今日からテストなんやね。先生が言うてた。珱ちゃん、きっと学校来るやろって……」
 相変わらず母は俺をどう扱って良いか分からないみたいだ。『先生』なんて役に立たないって、何度言っても分からないらしい。まぁ俺も二回言って通じなかったから言わなくなったけど。
 俺は母親の言葉には応えずにバスルームに向かった。
 マンションにしてはけっこう広い家の中で、母親は俺のすぐ後ろをついて回りながら、いつもと同じように返事の来ない会話を続けている。
「制服、クリーニングしてクローゼットに掛けてある。シャツは窓のほうの引き出しな。上から二番目よ? 今日は三科目だけやろ? お昼には帰ってくるん?」
 リビングの方から赤ん坊の鳴き声が聞こえてくる。弟の秀樹だ。母親を捜して泣いている。
「珱ちゃん、あのな、朝ご飯食べていってな。お風呂から上がったらあっためるから。珱ちゃ……」
「……あいつ、泣いてるで。早よ行ったり」
 それだけ言って俺は、母の目の前でバスルームのドアをバタンと閉めた。


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