クリアスカイ 【1】




 最初に目を引いたのは、およそ成長期の少年と思えないその華奢な体躯でもなければ、見ているだけで息苦しくなるほど丁寧に描かれた細密画のような顔立ちでもなかった。
 白く透き通った背筋に沿って浮かび上がるほの紅い痕。求名尚哉は場違いな場所に張り付くその生々しい徴に目を疑った。一瞬桜の花びらかと思った。
 そんなはずがある訳がない。二学期が始まって最初の一週間、暦の上では秋になっているはずが、暑さは一向に衰える気配を見せていない。何より体育の授業のために着替えに入った更衣室で、そんな光景を目にするはずがなかった。
(湿疹……って感じじゃないよな。結構でかいし、ものすごく規則正しく意図的に並べられてる気がする。それに何て言うか……)
 艶めかしい。そうだ、その言葉が一番ぴったり来ると尚哉は思った。見てはいけないものを見てしまった気がする。その背中はそんな尚哉の困惑をを全く意に介していないかのように、余りにも無防備に衆目に晒されていたのだが。
「な、アイツ……なんかすげぇくない? アレってひょっとして……」
 隣で着替えをしていた一条圭吾が、慎重に声を落として尚哉に話し掛けて来た。一条が何を見てそう言っているのかは聞かなくても目線で解る。
「ひょっとして、なんだよ?」
 肝心なところで言葉を切ったまま自分と同じものを見ている一条に焦れて、尚哉が性急に先を促す。一条はほんの少し息を吸い込むと、一層声を低くして後を繋いだ。
「……キスマーク、ってヤツ?」
 なるほど、あれがそうか。そう言われればなるほどそんな感じだ。キスマークなど実際に目にしたことがなかったから、尚哉は妙なところで納得してしまった。
 気が付くとその場にいるクラスメイトの大半が、尚哉と同じ背中を凝視している。大勢の人間が息を詰めてただ一点に視線を集める様は、ひどく異様な光景だった。ここにいる誰もが、自分達の知らない場違いな雰囲気を醸し出すその背中に否応なしに目を奪われている。
 気にならないのか、彼奴は。
 そのことにも尚哉はかなり驚いていた。これだけ一斉に注目が集まっているのだ。視線を全く感じないなどということがあり得るだろうか? けれど本人の様子は最初から全然変わっていない。
 無遠慮に注がれる好奇の視線に動じる様子もなく、機械のような緩慢な動作で着替えを済ませると、件の同級生は何事もないように静かに更衣室を後にした。
 後には甘く匂い立つような空気だけが残された。
 その生徒の名は羽柴凛。あらゆる意味で入学当初から意味ありげな噂の絶えない少年だった。


「知ってる? シンデレラの話」
 尚哉の目の前の空いている席に腰掛けると、一条は噂話特有のひっそりとした口調でそう言った。
「知らない」
 かなり上機嫌で今にも鼻歌でも歌い出しそうな一条を、尚哉は速攻で切って捨てた。
 一条は決して悪い男ではなく尚哉とも仲の良い方だが、他人にいらない興味を持ちすぎるのが玉に瑕だといつも思う。しかも本日の最新情報、これはレアだなどと言いながら、尚哉を捕まえてはどうでも良いような下らない噂話を延々と話して聞かせるから始末に負えない。尚哉は眉間を押さえてため息を吐きそうになりながら、読んでいた雑誌に視線を戻した。
 噂話は尚哉が最も苦手とするもので、しかも一条が現在興味津々でゴシップを探り回っているのは、シンデレラ―――――あの羽柴凛に関するものだ。
 羽柴はその特殊な家庭環境から、クラス内で密かに『シンデレラ』という呼び名を与えられていた。実父が再婚して血の繋がらない母親やその子供達と生活を共にしている、つまりはそう言うことだ。
「じゃあ尚ちゃん、聞きたくねぇ? シンデレラの最新情報」
「聞きたくない。それよりオマエ、いい加減そのシンデレラって呼び方やめれば? ガキっぽくて格好悪いぜ」
 尚哉と羽柴とは特に仲が良いわけではなく、それどころか話をしたこともほとんど無かったが、クラスメイトが彼に対して使うそのふざけた呼称は大嫌いだった。もし自分が知らないところで同級生にそんな呼ばれ方をしていたらと思うと、震えが来るほど腹立たしかったからだ。冗談にも限度というものは必ずある。
「なに正義感ぶってんの、尚ちゃんはぁ」
 一条がケロリと笑って言い返す。尚哉の嫌悪感は一条には全く通じていないようだった。確かに羽柴のことを『シンデレラ』と呼ぶ連中の誰もが、そのことについて深い考えを持っているようには見えない。むしろ愛称のようなつもりで使っているらしい様子まで伺えるくらいだ。無論そのあだ名が使われるのは本人の居ない所で、ではあるが。
「こないだのシンデレラのキスマークの相手、どうやらウチのクラスの藤堂匡利氏らしいよ〜」
 尚哉の返事を待たずに、一条はどこかで仕入れて来た情報を勝手に披露し始めた。誰かに言いたくて堪らないのだろう。
 こうなったら一条は北京ダックの如く腹一杯に詰め込んだゴシップをすべて吐き出してしまうまで絶対に口を閉じることがない。その情熱たるや尚哉が口を挟む余地の無い、と言うより出来れば関わりたくない凄まじさで、しかも一条は自分が仕入れた大事な情報を真っ先に知ることが出来るのは尚哉の特権だと思い込んでいる節があった。幸か不幸かニュースはいつも尚哉の耳に最初に入るのだ。
 もしもここで尚哉が権利を放棄すればその対象は自動的に不特定多数、単なる通りすがりの同級生に向けられる。そして噂は秒速より音速に近いスピードで全学年に広がっていく。今までどれだけそんな事があったことか。
 と言うことは尚哉のようにゴシップに興味の無い人間にでも気の済むまで話しておけば、羽柴の新しい噂がそれ以上広まることも無く世の中は平穏だ。少なくとも、今日中くらいは。
 尚哉は心の中で小さくため息を吐いてから、次々と頭に浮かんでくるやりきれない気持ちを飲み込みんで顔を上げた。一条が嬉しそうに身を乗り出す。
「例のキスマーク事件の前日まで、あの二人ってどうも付き合ってたんだってさ。それがいきなり藤堂氏がシンデレラと別れるって言い出して、当てつけに奴が付けたヤバいシルシを他の奴らがいる前で堂々と見せ付けたんじゃないかってのがもっぱらのウ・ワ・サ」
「馬っ鹿馬鹿しい…………」
 ほとほと呆れて、尚哉は正直にそう言った。真面目に聞いてやろうとした自分が馬鹿のように思える。一条の話したストーリーの何もかもが全部嘘臭く、どこかの誰かが悪意混じりででっち上げた匂いがプンプンする。そんな今時昼メロでも使えないような恥ずかしいシナリオを考えつく奴の気が知れない。
「いや、マジだって。シンデレラにちょっかい出してた先輩から直で聞いたんだもん、間違いないって。その先輩、シンデレラに未練タラタラでさ、ちょっとストーカーっぽいコトまでやってたらしいから」
「いい加減にしろ……」
 ほとんど机に囓り付く格好で尚哉はぐったりと頭を抱えた。
 本当に胸が悪くなってきた。いくら羽柴が常軌を逸した感のある美形だと言っても、所詮は男だ。面白がって話題にするには無理のある話だとは思わないのだろうか?
『A先輩と後輩のBが付き合っている』だの、『何年何組の誰々はウリをやっていて、客の中にウチの学校の教師もいるらしい』だの、何の根拠も無いその手の噂は男子校でも一つや二つ何処かに転がっていても不思議ではないし、アンテナを張り巡らせていなくても自然と耳に入ってもくる。が、大抵の場合それはただの噂でしかない。もしくは暇人の妄想だ。少なくとも尚哉はそう思っている。
「馬鹿かお前は。そんなことで浮かれて噂を撒き散らす暇があったら、家で大人しくガリ勉でもしやがれ」
「ちょっと、そういう言い方は無いんじゃねぇの? ちょームカツク。尚哉はいつもそうやって一人だけいい子ぶってんだよな。ホントは興味あるクセにスカしちゃって。そんなにカッコつけたいかよっ」
 さすがにこれは効いた。痛烈な嫌味だ。尚哉の頭にいきなり血が上って、気がついたら椅子を思い切り蹴って立ち上がっていた。
「誰がカッコつけだって? 何の証拠もないのに興味本位で変な噂を撒かれる羽柴の気持ちになって見ろよ! それが自分だったらと思ったら、お前は腹立たねぇのかよ!?」
 自分でもびっくりするほど腸が煮えた。
 なんで俺は何の関係もない羽柴のために友達とケンカまでしてるんだ?
 尚哉が羽柴をここまで庇う理由。彼のことを気にする理由。それはひとつしかない。
 友人の剣幕に驚いて目を見開いたまま固まっている一条の顔を見下ろしながら、尚哉は1年前の出来事を思い浮かべていた。



 それは入学当初、ようやく季節が良くなり始めたばかりの、遅咲きの桜がほとんど終わろうとする頃のことだ。
 授業を終えた尚哉はいつものようにまだ今ひとつ通い慣れない道をブラブラと帰宅していた。用水路を挟んだフェンスの向こうは広い通りになっていて、車が猛スピードでひっきりなしに行き交っている。
 と突然、急ブレーキを踏む嫌な音と甲高い動物の鳴き声が辺りに響き渡った。思わず耳を覆いたくなる、痛々しい悲鳴。見なくても何が起こったのか容易に想像が付くような。咄嗟に振り向くと、少し離れた通りの向こうに小さな影が弧を描いて浮いていた。
 それは一瞬だった。浮いていると感じたのはほんの僅かで、小さな影はグシャッという音がここまで聞こえて来そうなほど、リアルな残像を纏っていきなり地面に落ちた。
 はねられたのか。尚哉は慌てて橋を渡って大通りへと向かった。
 犬か猫か、そんなような動物だ。轢いた車はスピードも緩めなかったようで、尚哉が橋を渡りきった時には白っぽい車の影が道のはるか向こうに小さく光って見えただけだった。全力で走ってもここからでは到底追いつきそうにない。ちくしょう、酷いコトしやがって!
 肩で息をしながら小さな塊が落ちたらしい場所にたどり着くと、そこには少年が一人、すでに蹲っていた。長めの髪が横顔を全部覆っていてよく見えないが、尚哉とそう変わらないような年格好だ。それに尚哉と同じ学校の制服を着ている。その姿に何となく見覚えがあった。
 轢き逃げされたのは子犬だった。かなり体格が小さいから、まだほんの子供なのだろう。きっと母親から離れてフラフラしているうちに大通りへ出てしまい、運悪く卑怯なドライバーの車の前に飛び出して轢かれてしまったのだ。ところどころ土色に汚れた白い毛色は血にまみれて、まだ乾かずに流れ続けていた。
 少年はしばらくじっと子犬を見下ろしたまま動かなかった。尚哉は少年が泣いているのかと思った。それとも子犬の状態のあまりの酷さに体が竦んで動けないのかも知れない。それぐらい惨い状態だったのだ、その死骸は。
 ふと少年が動いた。
 少年はゆっくりと血まみれの子犬の前に躙り寄ると、制服の上着を脱いでその上に被せた。そのまま静かに抱き上げる。
 その犬は少年の飼い犬だったのか。そうでなければとても出来ないような行為だ。白いシャツの胸元は子犬の朱で一瞬にしてべっとりと濡れて、辺りに漂い始めた生臭い体液の匂いがもろに尚哉の鼻を衝いた。それでも少年は嫌がる様子もない。そのままフラッと尚哉のいる方に向かって歩き出した。
 すれ違う瞬間、少年の顔がはっきり見えた。知ってる、コイツ確か同じ学年の、違うクラスの生徒だ。名前は…………
「羽柴っ」
 少年が顔を上げて尚哉を振り返る。彼は最初呼び止められたことが不本意であるかのように眉を顰めて尚哉を凝視していたが、やがてゆっくり口を開いた。
「病院……」
「え?」
「病院に連れて行った方がいいのか? もう息が無いんだけど、それなら保健所かな……」
「それならって……、あんたの飼ってる犬じゃないのか?」
「違う。目の前で死んだ。はねられて……ドンって痛い音がして」
 囁くような語尾がいきなり震え出したと思ったら、羽柴凛は目を見開いたままぼろぼろと涙を零した。
 表情は変わらず堅いまま、水道の蛇口を無造作に捻るみたいに、ただ涙だけが自動的に溢れ出したように見えた。あまりに突然に目の前の少年が泣き出したものだから、尚哉は最初何が起こったのか分からなくて、羽柴の顔をしばらくの間ぽかんと見つめていたくらいだ。止められないのか、自分では。ふとそんなことを思わせるほど、それは唐突だった。
「すごく痛い音がした。声が、イタイって声が聞こえた…………」
 雲ひとつなく抜けるような澄んだ空の向こうに、現実味の無い頼りない声が小さく震えながら溶けて散った。



 それから尚哉は子犬を抱えて離さない羽柴を連れて、事故現場から一番近い保健所を何とか探し当てて子犬の死骸を預けた。
 保健所の係員は羽柴の出で立ちに驚きながらも「君たちはとても立派だ」と優しく声を掛けてくれた。君たちの親切でこの子犬はきっと救われるよ。
 本当にそうだろうか? 例え子犬が救われたとしても、羽柴はきっと救われないだろう。保健所からの帰り道の途中で別れた羽柴の背中をぼんやり見送りながら、尚哉はそんなことを考えた。
 
 あの涙はしばらく忘れられないだろうな。そう思ったらここで羽柴と別れてしまって良かったのかどうか、迷う気持ちが湧いてきた。
 それくらい深く、心に食い込む涙だった。




 目の前では一条が目を白黒させながら尚哉の顔色を窺っていた。
「ど…、どうしたんだよ。尚ちゃんてば本気? 本気で怒ってるよぉ」
 一条の顔をぼんやり見ながら、尚哉は今日何度目かのため息を吐いた。得体の知れない羽柴のために自分がここまで腹を立てる理由はないはずだ。そう思っても胃の中に泡が噴き出して来るような気持ち悪さは誤魔化しようがなかった。
 誰も知らないのだ。羽柴があんな、見る者の胸をザクリと抉るような涙を流す少年だと言うことを。
「別に怒ってないって。いいからもう、下らないことを見境無く言って回るのは止せって。 その話はここだけで終わらせとけ。羽柴はともかく、勝手に藤堂まで巻き込んだとなると話がややこしくなるぞ」
「わかったよ……」
 しぶしぶという様子ではあったが一条が頷いたのを尚哉が見届けるのと同時に、午後の始業チャイムが教室中に鳴り響いた。


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