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クリアスカイ 【2】
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| クラブを終えて校舎に戻る頃には、もう辺りは暗くなり始めていた。時間は7時を回っている。明日の授業に使う教材を忘れて取りに戻ったのだが、早く済ませて下校しないと教師の巡回と説教と校門閉鎖の憂き目に合う。面倒臭いそれらを回避するべく尚哉は急いで2年の自分のクラスへと向かった。 教室の前に到着して扉を開けようとして、尚哉の手が止まった。 ごそごそと何かが動く物音と、声。 確かに声が聞こえる。そう思って意識を集中させると、微妙にトーンの違う複数の声が、苛立つような不規則なリズムで扉を隔てた廊下に漏れている。しばらく耳を澄ませていると、ボソボソと不明瞭に響いていた音はやがて言い争うような強い口調に変わった。 「―――じゃ―――のか?」 「―――わけじゃ……い、けど」 誰だろう、こんな時間に? 舌打ちしたい気分になる。こんな時間までぐずぐずしている彼らのことは自分には関係ないとして、急がないとこっちまでどんどん帰宅が遅くなる。 知らない振りをして堂々と中に入って、さっさと目的を実行して立ち去るか? イライラしながらも尚哉がそうしなかったのは、より大声で話しているらしい男の声の調子が何となく切羽詰まって聞こえたからだ。深刻な場面に割って入るのは出来れば遠慮したかった。 どうしたものかと扉の前で立ち尽くしてしまった尚哉の思考は、鋭い叫び声に引きちぎられるように停止した。 「…堂っ」 何かがどこかにぶち当たる物音。机だと分かったのはそれが派手な音を立てて倒れたからだ。続いて、二度三度と何かがぶつかり合う鈍い音が聞こえた。 「…羽柴!」 「…っや…、……!」 次の瞬間、尚哉は考えるより早く教室の扉に手を掛けていた。わざと大きな音を立てて勢い良く引き戸を開け放った。扉が開く音に驚いて、日が陰って暗いシルエットになった人物がギクリと動きを止める。尚哉と背の高い誰かと、女生徒のように華奢な体格の羽柴凛―――――居合わせる三人を取り巻く空気がシンと凍りつく。 先客の二人は縺れるように体を寄せて抱き合っていた。 ひとりが両腕をもう一人の人物の背中に回して抱き寄せている。抱かれている羽柴の腕も微妙な角度で持ち上がって、見ようによってはもうすぐ相手の背中に回されるようにも見えた。そして二人の顔は触れ合う寸前の所でピタリと止まっている。尚哉は自分の運の悪さを呪った。 羽柴を抱き締めているのは、昼間一条の話題に上っていた藤堂だった。 本当のことは後から踏み込んだ自分には分からないし分かりたいとも思わないが、漏れ聞こえてきた声から判断すると、これは羽柴が自分から望んだ状況ではなさそうだ。どうやら尚哉は羽柴の危険な場面にちょうど良いタイミングで遭遇してしまったらしかった。目を瞑って天を仰ぎたい衝動を何とか押さえ込んで、尚哉は教室内に足を踏み入れた。 「嫌がってんの?」 尚哉の問い掛けに二人からの返事はない。気まずい空気だけが音もなく湿度を増していく。全部を無視して何事も無いように踵を返してしまいたかったが、こうなったらそんなことを出来るわけもなかった。 一条の下らない情報もたまには役に立つこともあるらしい。嘘か真実かは別として事前に二人の話を聞かされていたことで、藤堂の姿をはっきり認識しても動揺しないで済んだのはこの場合幸いだったかも知れない。心中はどうあれ表面的には何事も無いような平然とした顔で踏み込んでくる尚哉の行動は、藤堂の強引な行為を留まらせるには十分だったようだ。それだけでもこの際良しとするべきだろう。 「そいつが嫌がってんならやめれば。…俺には関係ないけどさ」 もう一度虚しく言ってから、尚哉はわざと二人から顔を背けてさっさと自席に向かった。 藤堂は一言の抗議も言い訳もすること無く、呆然と尚哉の動きを目で追うだけだ。完全に気勢を削がれたのだろう。それなら尚哉がしなければならないことはもう無い。これ以上この場にいたいはずが無いのだから、尚哉がさっさと用事を済ませて立ち去ればそれでこの件は終わりになるはずだ。 間抜けな格好のまま動かないふたりの脇を通り過ぎようとした瞬間、羽柴が急に尚哉に向かって手を差し出した。 弱々しく、それでも必死で尚哉の腕を掴もうと長い指が空中で揺れる。つられて手を伸ばすと無表情にうつろう瞳と目が合った。 『痛いって、声が聞こえた………』 痛いのはお前の方だろ。聞こえたのはお前の声だよ。自分だけじゃなく、はねられた子犬の分まで傷ついたんだろ? お前はそれを知らないのか。 ―――――解らないのか? 尚哉が手を取ると、羽柴はその手を強く握り返してきた。そのまま自分の方へ引き寄せると、羽柴の細い身体は自然に尚哉の腕の中に収まった。肩が微かに震えている。上手く呼吸が出来ないのか、羽柴は急に背中を丸めると苦しそうな音を立てて咳き込んだ。 「大丈夫かよ、歩ける?」 嗚咽のような咳が少し治まるのを待ってから、尚哉は教材と羽柴を両手に抱えて教室を後にした。 左腕と脇腹の間に腕を入れて、空気が抜けてしまった人形のような羽柴を引きずりながら扉へと向かう。藤堂に背中を向ける時、少しだけ恐怖を感じた。ドアは閉めなかった。両手が塞がっていて出来なかったこともあるが、藤堂の視線を遮ってはいけないような気がしたからだ。 延々と続くリノリウムを踏みしめてようやく階段に辿り着く頃、藤堂が怒号と共に机を思い切り蹴り飛ばす派手な音が、二人を追い掛けるように静まり返った廊下に鳴り響いた。 校門をくぐってからかなりの時間が経っても、羽柴の震えはなかなか治まらなかった。 足取りものろく、出来る限りゆっくり歩いてやっている尚哉の歩調についてくるのもやっとという有様で、時々思い出したように立ち止まっては引きつった音を立てて息を吸い込む。結局尚哉は通学路の途中の公園まで、羽柴の身体をほとんど抱えるようにして連れて行ってやらなければならなかった。 ようやく公園に辿り着いても、羽柴はまるで蝋人形のように固く体を強張らせて尚哉の腕にしがみついたまま動こうとしない。軽く肩を揺すって促すと、羽柴はようやく俯いていた顔を上げた。 「後で家まで送ってやるから、とにかくちょっと休めよ」 いらないと言われても最初からついて行くつもりだった。尚哉が手を離したら羽柴の体は今にもその場にバタリと倒れてしまいそうだ。こんな状態の羽柴をこのまま帰せるわけがなかった。一年前のあの日、羽柴を一人で帰してしまったことを、尚哉は少し後悔していたのだ。 「座ろうか」 言いながら少し離れたベンチを視線で指し示す。抱え込んだ姿勢で腰を支えて座らせると、羽柴は消え入りそうな震える声で小さく礼を言った。 「よく会うよね」 「…なに?」 「俺たち、変な場面でさ」 「何を呑気な…」 呆れるよりも驚いた。真っ青な顔色で何を言い出すかと思ったらこれか。見ると羽柴は噎せながら笑っている。そして笑いながら、頬には涙が伝っていた。その一粒が尚哉の制服の膝の上にポトリと落ちて転がった。 「ゴメン、悪い……」 羽柴が呟く。泣いていることを言っているのだろうか。 一年前もそうだった。あの時も羽柴はこういう泣き方をした。 何の前触れもなく表情も変えず、まるでどこかのスイッチが入ったように、羽柴は突然尚哉の目の前で大粒の涙を零した。例え子供でも女の子でも、こんな泣き方をする人間を尚哉は見たことがない。 「泣くほど嫌ならはっきり嫌って言えばいいだろ。藤堂は確かに強引なところはあるけど、人の嫌がることをするような奴じゃないだろ。お前がキッパリやめろって言ったらあんな馬鹿なことはしなかったんじゃないのか?」 きつい言い方かも知れないと思ったが、これは尚哉が感じた正直な気持ちだ。 尚哉が教室に踏み込んだとき、羽柴は藤堂を拒絶しているようには見えなかった。少なくともただ事じゃない雰囲気の声が先に聞こえていなければ、文字通り自分には無関係の、恋人同士の甘い逢瀬の現場に遭遇したと思っただろう。 そう考えると藤堂が少し気の毒に思えて来た。偶然とは言え尚哉がその場に居合わせて羽柴を連れ出したことで、藤堂のしたことは図らずも重い意味を持つ結果になってしまった。当事者ではない尚哉と違い、彼の場合頭に血が上って羽柴に拒絶されたのが分からなかっただけかも知れないのだ。それだけ真剣に羽柴のことを思っているということだろうか。 それならそれでもっとやり方があるだろうとは思うが、もしそうなら崖っぷちに立った藤堂を尚哉は笑う気になれなかった。もっともいくら羽柴が学外でも噂になるほどの美形とは言え、男に我を忘れる心情までは理解してやれないが。 尚哉の言葉に、羽柴の瞳がぼんやりと空を泳いだ。 「俺のせいか…」 「そうは言ってないけどさ、嫌なことは遠慮しないで嫌だって言えってこと。その時何にも言わないで、今みたいに後から泣かれてもな。どうせ泣くならここじゃなくて、藤堂の前でワンワン泣きながら股間に蹴り入れるくらい暴れてやれば良かったんだよ」 「求名なら…そうする?」 「俺? 俺ならキスされる前に抱きつかれた時点で病院に送るね、鼻の骨くらいへし折って」 「されてないよ、キス」 「あ、そう……」 勢いがついて振り上げた拳を妙なタイミングで止められて、尚哉の肩がカクリと落ちる。その様子が可笑しかったのか、羽柴は思わずと言ったふうに顔を綻ばせた。口元に長い人差し指を押し当ててクスクスと肩を震わせる。 そういえばさっきと言い今と言い、尚哉が羽柴の笑っている姿を見たのはそれが初めてだった。同じクラスの連中もおそらく見たことはないはずだ。 羽柴の笑顔の写真があれば他校の女子生徒に高く売れるとか何とか、そんな低俗な冗談を言い合うくらいだ、それだけ珍しいのだろう。だからという訳じゃないが、尚哉はしばし呆然と羽柴の笑顔に見入ってしまった。 今も羽柴は笑いながら泣いていた。泣きながら笑っていると言うべきか。 羽柴の肩が揺れる度に流れ続ける涙が瞼から零れて、白い頬に幾筋もの透き通った線を描いている。不思議な光景だった。 「器用な奴だな。泣くか笑うかどっちかにすれば?」 羽柴が大きく目を見開いた。 「俺…泣いてる?」 「何を言ってんの? …泣いてるじゃん。さっきからずっと、ボロボロ…」 尚哉が驚いて言うと、ああ、と思い出したように小さく頷く。 「気がついてなかった。ゴメン、驚かせた?」 「気がついてなかったって何。それだけ盛大に涙が出てるのに、自分で解らないのか?」 「そう…知らないうちに泣いてるんだ。母さんに言わせると一種の病気じゃないかって。神経のどこかが壊れてるっぽいとか言うけど、よく分からない。何でもない時に涙が出る事があるんだけど、実は笑うのも泣くのも心情的には俺にとってそう大した差が無いんだ。悲しいとか嬉しいとかがどれも一緒の反応になる。だから泣くのはただの生理的な現象に過ぎないっていうか」 尚哉の心に次第に苛立ちが募る。 何と何に差が無いって? 何が生理的現象だって? 「お前の言ってることがよく分からない。悲しいのと嬉しいのが一緒だなんて、そんなことあるのかよ。全然違うだろ、正反対だよ」 「ああ、だから…」 羽柴は少し困ったように眉間を寄せた。 「感情の中身は正反対でも、反応は一緒だって事だよ。…ちょっと違うか。例えば興奮すると涙は出るけど自分であんまり気がつかないとかさ、意味がないわけ、涙自体には。つまり感情と体の反応が見事にバラバラって事らしい」 羽柴の説明は一見客観的で要領を得ているようで、結局尚哉をますます混乱させただけだった。 じゃああの涙にも意味はなかったのか? 血だらけになった子犬の死骸をまるで愛するもののようにしっかりと胸に抱えながら流した涙にも。 「あの時も泣いただろお前。ほら…その先の疎水沿いで犬がはねられた時。お前泣きながら『痛い音がした』って言ったんだ。あの時は本当にびっくりした、突然泣き出してさ…」 羽柴は困惑した表情で尚哉をじっと見つめている。尚哉は構わず先を続けた。 「藤堂といるときのお前を見て思ったんだ。またあんなふうに泣き出すんじゃないかって」 尚哉に向かって伸びてくる指先が震えていた。尚哉が手を取らなければ羽柴はまた表情も変えずに泣き出していたような気がして仕方なかった。 だから尚哉はこの男を、藤堂の腕の中から引き剥がすようにして連れ出したのだ。自分と無関係な子犬を大事そうに抱き上げた羽柴と同じく、文字通り、その細い体を両腕でしっかり抱き締めるようにして。 「…わからない。よく、覚えて、ない……」 羽柴が一語一語を切るようにゆっくりと呟く。『意味のない』涙が、尚哉の目前でまた頬を伝って零れ落ちた。 「時間あったらもう少し話して行かないか? ずっとお前と話をしてみたいと思ってたんだ、あの時から」 「あの時…」 「さっき言っただろ? 俺とお前はふたりで死んだ子犬を保健所に届けた。帰り道で俺と別れるまで、じゃなくたぶん家に帰るまでずっと、お前は泣いてたんだと思う」 「うん…。泣いてた、よね、俺。憶えてる……」 「俺も憶えてる。俺はそれがずっとずっと気になって、あんな泣き方をする奴なんて見たことが無かったから、すごく驚いて、泣いてるお前の顔がずっと頭から離れなかった。今日だって藤堂が羽柴って呼んだから教室に飛び込んだんだ。中にいるのがお前じゃなかったら、たぶん助けになんか入らなかった。これって俺がお前のこと気にしてるってことだと思うんだよな」 羽柴はさっきより更に困った表情で首を捻った。尚哉が何を言いたいのかよく解らないのだろう。尚哉は声に力を込めて、辛抱強く繰り返した。 「だからさ、お前と、…友達になりたいっていうか」 言い終える前に、突然照れ臭さが襲ってきた。 ロクに話もしたことがないとは言え、これは級友に言う台詞じゃない。 羽柴がどんな反応を見せるのか、考えただけで心臓が皮膚を突き破って外へ零れ出てしまいそうだった。まるで好きな女の子に対する告白みたいだと尚哉は思った。 無性に羽柴と話をしてみたくなったのだ。羽柴が藤堂と一緒にいる所を目撃して、不本意だが一条から聞いた話を思い出してしまったこともあるだろう。 白い背中に点々と散る紅い徴。羽柴を抱き締める藤堂の真剣な横顔。制服のシャツに吸い込まれる意味のない涙。 「俺は、お前のことを、もっと知りたいと思ってる」 どれか一つでも、羽柴は自分にその意味を教えてくれるだろうか。 尚哉の告白があまりにも唐突だったからか、羽柴は神妙な面持ちでゆっくり頷いたあと、ひどく頼りない笑顔を尚哉に向けた。もう涙は流れていなかった。 最後の一言は本当に告白めいていたな。自分でも真剣にそう思って、そのあと尚哉は何度もその台詞を思い出しては苦笑した。 |