OPERA 1




 この世に突然終わりが来たとしたら、俺は誰を思い出すだろう?
 遠い過去に離れてしまったあの人。
 昔からずっと傍にいてくれた人。
 思い出すのは……俺をこの世に引き戻した、『痛みを抱えても生き続けること』を教えてくれた、
『彼』のことだと思う。



「なぁ、アンタ」
 いきなり呼び止められて、真中和義はびっくりして足を止めた。
 2回生になったばかりの浅い春、久しぶりにキャンパスに戻ったある日。
 振り返って声の主を捜した。その様子に、アッケラカンと明るい声が笑った。
「俺。俺、こっち」
「……ああ」
 もう一度声を辿って振り返ると目の前に見知らぬ青年が立っていた。
「ダレ?」
「うわっ、噂以上にアイソ無ぇ」
 面白そうに言って、青年は右手を差し出した。珍しいことをする。
 へぇ、と和義の唇の端がわずかに引き上がる。
 同じくらいの年の男がこんなにスマートに握手を求めてくるのは、ちょっと意外で格好良かった。差し出された右手を軽く握り返して一瞬湧いた好意を込める。
「悪いな、急に声掛けて。俺、城っていうの。あんた真中さんだろ? ちょっと話あんだけど、時間ねぇ?」



「バンド?」
「そ。俺ンとこのバンド、ギターがいないのヨ。いなくなったっちゅうか……」
「それで?」
 前のギターが辞めた理由を聞いても仕方がない。和義は目の前の男……城克彦の話を途中で遮って先を促した。
 御幸町通沿いの小さなカフェ。ガラス張りの店内を避けて道沿いのオープンスペースに席を取った。平日なので人もまばらで、静かに話をするにはちょうど良い。
 話を途中で切られたことを気にする様子もなく、克彦は改めて話を再開した。
「で、先輩にアンタのこと聞いてさ、スカウトに来たってわけ」
「スカウト……ねぇ」
「ナンパっちゅうよりかマシだろ?」
「どっちも大して変わんねェよ」
「ま、そう言われりゃそうか」
 そう言うと城克彦は和義がびっくりするほど豪快に爆笑した。
「アンタ、ホントに面白れぇな」
 肩を震わせてひとしきり笑ってから切り出した。
「とりあえずうちのバンド見に来ねぇ? お前みたいなヤツ、探してたんだ」
 克彦はレシートの裏に携帯電話の番号を走り書きして和義の前に差し出した。電話しろという意味なのだろう。
 和義がレシートを手にとったことに満足したのか、克彦はそれじゃ、と言って席を立った。
 
 克彦が指定したのは御所の東側にあるビルの一階の小さなライブハウスだった。
 どこかの倉庫にうち捨てられていたような古い木のドアを開けると、10坪ほどの店内は一目で見渡せた。
 よく磨き込まれた古いピアノが一台あるきりの小さな空間。床もカウンターも古材で作られていて、壁に直付けされた今は珍しくなった船舶用のライトが古ぼけた店によく似合っている。ライブハウスというよりたまにライブも聴けるバーといった方が近いかも知れない。
 カウンターに一人、若い男が座っている。こちらに背を向けているので顔は分からないが、克彦でないことは背格好で分かった。
 克彦はまだ来ていないらしい。和義はカウンターを避けて、三つあるテーブル席の一番奥に腰掛けた。
(呑気な店だな、ココ)
 少し面食らって和義はもう一度店内を見渡した。
 席に落ち着いて初めて、カウンターの中に誰もいないことに気が付いたのだ。そういえば『いらっしゃいませ』とも『こんばんは』とも言われなかった。
 それどころか客が入ってきてきたというのに店の人間が出てくる気配が全くない。
( ……面白れぇ)
 あの変わった男がここを選ぶわけだ。初対面の時の克彦の印象を思い出して、和義は妙なところで納得した。
 まあいい。別に急いでいるわけじゃなし、そのうち誰か出てくるだろう。和義は普段決して気の長い方ではなかったが、今日に限ってはあまり気にならなかった。
 店の雰囲気がそうさせているのかも知れない。何もかもが古くてよく手入れがされていて、ここだけ時間の流れが違っているように見える。こういう空間は嫌いじゃなかった。
 カウンターの方で席を立つ音がした。
 和義が見るとも無しに目を上げる。一人だけいた客がスツールから降りてユラリと顔を和義の方に向けた。

 死人の瞳だ。
 目が合った瞬間、そう思った。生気がないとか澱んでいるとかそういうことではなく、決定的に何かが違う……そう思わせるエメラルドの瞳。

(目が蒼い……日本人じゃ無いのか?)
 思わずまじまじ見つめてしまった和義の視線に、その男も気が付いたらしい。ユラユラとおぼつかない足取りで和義の座る席に近づいた。
 一目で酔っていることが分かる。それでも見つめ返す瞳は息を飲むほど綺麗だ。
「……何、飲む」
「は?」
 訳が分からなくて聞き返すと、碧の目をした青年は形のいい唇を片方だけ吊り上げた。
「オーダー。酒飲みに来たんだろ?」
「ああ……じゃあ、シーバス。ロックで」
「……オーケー」
 青年は微かに笑顔のような表情を見せてカウンターの中に消えた。
 思ったより酔っていないのかも知れない。
 青年の口調は意外なほどしっかりしていて、酒を作る手つきも別に怪しいところはない。さすがに慣れた様子で氷を砕き、その上からウイスキーをグラスに注いだ。
「ホラ、」
 酒の注がれたグラスを放り投げるようにカウンターに置いた。
(ようするに、自分で取りに来い、と……)
 冷静になって考えたらこの男はたぶんただの客だ。根拠はないがそう思った。
 偏屈なオヤジの店で追い返されそうになりながら飲む愉しみも知っているが、そういう人間にも接客業特有の匂いというモノは必ずある。気に入るかどうかは別として、不特定多数に向かって門戸を開く、みたいな雰囲気が。この男にはそういった気安さがまるで無い。
 入ってくるのは勝手だが入ってきても自分には関係ない、と言わんばかりの……プロの水商売なら思っていても絶対に相手には悟らせない種類の無関心さを隠そうとしない。
 苦笑しながら席を立って、グラスの置かれたところに腰掛けた。グラスを手にとって口に運ぶ。一口飲んで……また苦笑した。
 青年は自分の仕事は終わったとばかりに、酒の並んだ棚にもたれて煙草に火をつけている。出されたウイスキーを飲み干して、和義はその男に話しかけた。
「あんた、ここの人?」
 青年は片方の眉だけ器用に動かして、それから肩をすくめた。
「……いいけどサ、これシーバスじゃねぇよ?」
「切らしてんじゃねえの?」
「ある。そこの棚。アンタの立ってる真後ろ」
 和義はカウンターに手を付いて身を乗り出すと、青年の後ろを指さした。
 青年が振り返って棚を探す。ああ、と小さく呟いて目的の瓶に手を伸ばした。
 今見つけたらしい。ということは、さっきのタンカーは適当に出したということか。
 青年はシーバスの瓶を開けて和義が飲み干した空のグラスに注ぎ足すと、それを手にとって一気にあおった。
 さすがの和義も呆気にとられて、絶句した。
 その顔を見据えたまま青年は初めてニヤリと笑って、もう一度ウイスキーを口に含んだ。カウンターに体を押し付けて身を乗り出す。腕を伸ばして、呆然としている和義の頭を優雅な動作で引き寄せる。近づくエメラルドがフワリと軽く閉じられた。
 目線は確かに下にあったはずなのに、気が付いたら青年は和義に覆い被さるように体を預けている。
 一瞬の出来事。
 その仕草はまるで猫のようにしなやかで……だから避けなかったのかも知れない。
 重なり合う唇は焼けるように熱かった。
 アルコールの熱と青年の唇の熱さと、どちらが勝っているのか判別するのは難しい。
 ただ、否応なしに口移しで注ぎ込まれるウイスキーは信じられないほど、甘い。飲みきれなかった液体が顎を伝って襟元を濡らしてゆく。量はそんなに多くないはずが、飲み下すときにゴクンと喉が鳴った。
 唇を離して青年が和義に視線を合わす。その瞳は中身まで透けて見えそうなほど透明で、でも表情というものは全くなかった。
 もう一度碧の宝石が睫毛に遮られる。もう酒はくれないのか……なんてぼんやり考えながらまたキスを受けた。
 唇をほとんど触れ合わせたまま青年が声を掛けた。
「アンタ、ギター弾くヒト?」
「……どうして?」
「俺、ギターとセックスすんの、すげー好き……」
 和義は思わず軽く吹き出した。
 面白すぎて笑ってしまう。要するに初対面でいきなりキスしたあと、オマエがギタリストならこのままセックスしようと言っているのだ。
 なんという乱暴な誘い方だろう。そこには躊躇いとか羞恥などという辛気くさい感情は一切混じっていなかった。
 相手が応じたらそのまま寝る。そうでなければコレで終わり。
 そのあまりに即物的な物言いに、興味が湧いた。
 まだ込み上げてくる笑いの発作を堪えながら言った。
「エラく速攻だな」
「したいかしたくないか、一晩考えなきゃ分かんねぇの?」
 興醒めしたように眉を寄せる。
 確かに……言われてみればその通りだ。
 ニオイで分かっていたが、大袈裟に顔をしかめて見せてからからかうつもりで呟いた。
「お前に掘られるのはゴメンだぞ……」
 途端に、白い喉を思い切り仰け反らせて肩を震わす。思ったより低くて掠れた、惚れ惚れするような旋律が宙に舞った。
「スゴイ下っ品……いつもそんなこと確かめんの? イイケド……俺、突っ込まれないと感じねぇから」
 和義の言い方に合わせたのか、ヒトのことを下品といいながらかなりあからさまなことをサラリと言う。それから青年は人形のように整った顔を軽く歪めて、満足げに微笑んだ。


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