タイトルロゴ


 3



 助手席のドアを開けて外に出ると、目の前に母が立っていた。少し緊張しているように見える。唇を固く結んで黙ったまま、俺が体を起こすのをじっと見つめていた。
 こんなふうに正面から母の顔を見るのは何年ぶりだろう。そんなことすら思い出せないくらい長い時間が経ってしまったってことだ。
 
 実家に無事を連絡した翌日、斎の両親と一緒に家に帰った。大事なことだからと言って、お父さんも仕事を休んでまでついてきてくれた。
 斎は絶対一緒に行くと最後まで頑張ってくれたけど、大事な補習があるらしくお母さんがどうしてもウンと言わなかった。
 遅刻しそうな時間になっても俺のそばにぴったりくっついたまま離れないから、瀬田兄が無理矢理車に乗せて学校に引きずって行った。斎は少し泣いてるように見えた。俺も体を半分もぎ取られたような気がして、涙が出た。
 それでも俺は自分の足で立たなきゃいけない。支え合うためには甘えてちゃいけない。お母さんが言おうとしてるのはきっと、そういうことなんだろう。
 久し振りに見る母の顔は俺にそんなことを思わせる。
 ふいに母が口を開いた。
「元気そうやね……」
 こんなときなんて言えばいいのか、全然分からない。自分が何を言いたいのかすら分からない。
 少し間を置いてお母さんが後ろから声を掛けた。
「はじめまして。昨日は電話で失礼しました。瀬田沙織と申します。この度はうちの斎がご迷惑をお掛けしてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
 そう言って深々と頭を下げる。それから俺たちより遅れて車を降りたお父さんを振り返って母に紹介した。
「うちの主人です。ご挨拶に伺うなら揃っての方が良いかと思って」
 お父さんが穏やかな口調で丁寧に頭を下げた。
「瀬田俊之と申します。私たちが至らないことで、本当にご心配をお掛けしました。突然お電話差し上げてびっくりなさったでしょう? 大事なお子さんのことですから、一刻も早くと思いまして」
「珱、の母の麻衣子です。そんな、ご迷惑をお掛けしたのはこちらの方です。わざわざ出向いて下さって……ホントにありがとうございます…………」
 母の声は震えていた。
 俺がどんなに酷いことを言っても、何日も帰ってこなくても、母が俺に涙を見せたことは一度もなかった。その母が、他人を目の前にして泣いている。そのことに少し心が動いた。『なぜ』かはよく分からないけど。
「斎は抜けられない補習があって、どうしても来たがったんですけど、やめさせました。近いうちにひとりでこちらに伺わせますから」
「そんな……」
 母が戸惑う表情を見せる。お母さんの突き放したような言い方に驚いたんだろう。
「珱ちゃんとそんなに変わらないぐらいのお子さんだとばかり……」
「変わらないどころかまだ中学に行ってますわ。珱くんよりひとつ年下なんです」
 お母さんが快活に笑った。
「詳しいことはあとでお話しさせていただきますけど、約束したんです、あの子と。だからひとりで来ます。その時は……話を聞いてやって下さい」
 母は黙って頷いた。もう泣いてはいなかった。
「どうぞ、お入りになって……。小さな子供がいますから、主人は中でお待ちしてるんです」
 そう言うと母はもう一度振り返って、真正面から俺の顔を見つめた。





 部屋に入ると義父が弟を抱いてリビングの入り口に立っていた。ずっとそうしていたのか、まだ幼い弟は少しぐずっている。義父と斎の両親が一通り挨拶を交わす間、母は弟をあやしながらその様子をじっと見ていた。

 リビングに入ってソファに腰を下ろすときに、迷った。どこに座ったらいいのか分からなかったからだ。
 思わずお父さんを振り返る。お父さんはいつものように穏やかな瞳で俺を見ていてくれて、それで少し気が楽になって、結局お父さんの隣に腰掛けた。
 それを合図にするように、長い長い話し合いが始まった。

 俺は今さら事の重大さに気がつき始めていた。
 大の大人が4人、それも俺とはなんの関係もない人たちを巻き込んで、何かが動き出そうとしてる。それは俺が学校に行かなくなったこととか、家に帰らなくなったこととか、そういうことよりももっと、ずっと重大で引き返せないことのような気がする。引き返すつもりは絶対にないけど、踏み出すには相当の覚悟が必要だって事だ。
 急に肩の辺りが強張って、足に震えが来た。

 俺……緊張してるんだ。スゲー緊張してる。泣きそうだよ、どうしよう、斎? 
 目を瞑って大きく息を吸い込んでみる。斎の笑ってる顔を思い出しながら深呼吸した。傍にいること。絶対に手を離さないこと。一番大事なことを忘れないように、心の中で何度も何度も繰り返す。

 長い沈黙の時間が過ぎたあと、とうとう義父が静かに話し始めた。

 義父は思っていたより落ち着いているように見えた。最後に俺とまともに顔を合わせる頃には、難しい顔しか見せなくなっていたのに。今日の義父の表情はとても穏やかで、何だか初めて見る人のようだ。
「……何からお話ししましょうか。自分たちの至らなさをお話しするようでお恥ずかしいんですが」
 お母さんがいたわるような表情を義父に向けた。
「珱くんが正直に話してくれましたから、そちらのご事情は少しですけど存じてます。珱くんは珱くんなりに苦しんで、ご両親もそれは同じなんじゃないかと……珱くんの言葉からそんなふうに感じました」
 お母さんの目が今度は俺に向けられる。目が合うとにこっと微笑んでくれた。
「うちの斎が珱くんのことをすごく心配してるんです。大事な友達で……それで行き過ぎたことをしてしまったんですけれど。今日こちらに伺ったのは他でもありません。うちの子が珱くんにしてあげたかったことを、親が代わってさせていただけないかと、お願いするために来たんです」
「それは、どういう……?」
 お母さんは少し言葉を切って、
「珱くんをうちで預からせていただけないでしょうか?」
 その途端、義父と母の顔色が変わるのが手に取るように分かった。義父がようやくといった様子で口を開く。
「すいません、あんまり突然で……なんと言ったらいいか…………」
 お父さんが慌ててフォローに入る。
「申し訳ない、この人はどうも単刀直入すぎて。ちゃんとはじめからご説明しないとご両親もなんのことかサッパリ分からないだろう? 困った人だな」
「そう、そうよね。ごめんなさい! あたしってどうも紋切り型というか、気が回らないっていうか……。緊張してるんです、これでも。とてもそうはお見えにならないと思いますけどっ」
「いえ……、そんなことないです。私も…………」
 母がゆっくりとかぶりを振った。
「私たちも同じです。こんなふうに……珱ちゃんのことを考えて下さる方がいらっしゃるなんて、思ってもみなくて。足が、震えて……」
「麻衣子」
「お話を聞かせて下さい。お願いします。珱ちゃんのこと、私たちに教えて下さい。お願いします……っ」
 そう言ってテーブルに手をついて深く頭を下げる。
 その光景を目にした瞬間、一瞬で体が硬直した。声を上げたんじゃないかとさえ思う。

 見ていられなかった。……どうしていいか分からなかったからだ。
 俺はまた同じ事を繰り返すのか。こうして自分のしたことでまた母に頭を下げさせて。なんにも変わらない。これじゃなんにも変わってないだろ?

 俺の様子に、隣に座っているお父さんが一番最初に気がついた。
「珱くん、」
 肩を緩く揺すられて一瞬どこかに飛んで行った意識が引き戻される。耳の中には何か嫌な音がひっきりなしに聞こえてる。
「……どうした? 言いたいことがあったら、我慢しないで言ってごらん」
 お父さんは辛抱強く何度も肩をさすってくれた。その顔を見つめながら口を開いた。
「そ、……」
 やっと声が出た。と同時に目の周りがカッと熱くなった。
「そう……やって誰にでも頭下げたりとか、んなこと、すんなっ……。アンタがそんなこと……すんのが、」
 悔しい。言い終わらないうちに泣き出すことだけはしたくなかった。
「珱ちゃ」
「そういうことされんのが、俺は、いちばん嫌なんや………!」
 
 お父さんの力強い腕が肩をしっかり抱いてくれて、安心して泣いた。ここでなら泣ける。斎がそばにいるみたいに思う。そばにいて欲しいと思う。
「アンタが俺のためにそんなコトするから、俺はここにおられへんねやろ…………」
 これが俺の正直な気持ちだ。
 信じて欲しかった。俺を見つけたときの斎みたいに、真正面から俺のことを見て欲しかった。怒っても殴ってもいいから話を聞いて欲しかっただけなのに。

 母は俺のために。俺は母のために。自分が思いつく中の一番いいと思うことをした。最初はきっとそういうことだったはずだ。それがいつの間にかお互いの負担になっていった。
 母はどうしていいか分からなくなり、俺は母の顔を見るのが辛くなった。見たくないものから目を背けて、俺は逃げ出すことしかしなかった。


 嗚咽が漏れる。俺の。―――――母の。
 母が泣いてる。俺が泣かせた。また俺が。






「珱くん……しばらく別の部屋に行かせてもらおうか?」
 お母さんの優しい声が聞こえる。お父さんに支えてもらいながら、俺は必死で首を横に振った。頭を動かすたびに涙がボロボロ零れた。
 逃げちゃいけないと思った。どんなに泣こうが喚こうがここから一歩も動いちゃいけない。お母さんが、お父さんが―――――斎がそう教えてくれたから。
 引きつった音を立ててしゃくり上げる俺の背中をさすりながら、お父さんが話を続ける。
「差し出がましい事を言うようですが、珱くんには時間が必要なんじゃないかと思います。うちは幸い家内の父がマンションを持っていて、息子のために一部屋空けてもらっているんです。そこで珱くんに下宿してもらって、少しずつお会いになったらどうでしょうか。急にこちらに戻るには、珱くんの心の準備が出来ていないと思うんです」
「息子のことで、そちらにそこまでご迷惑をお掛けするわけには」
「それはご心配なく。うちに負担はありません。珱くんと相談して、ちゃんと家賃もいただくことにしました。ですから本当に、私たちは空いている部屋をお貸しするだけなんです。珱くん、ちゃんと働いてるんですよ。バイトして、自分で生活してます。大したものですわ。マンションがうちのすぐ近くなので、食事は一緒にしてもらいます。もともと実家に何も払っていない部屋ですから、いただいた分を食費にさせてもらって」
 それは昨夜遅くまで話し合って決めたことだ。出来る限りのことを自分でしたいと言い張る俺の気持ちを、お父さんとお母さんは受け入れてくれた。
「しかし……」
「正樹さん、待って」
 ずっと俯いていた母が急に顔を上げた。
「お願いやから、少しだけ待って」
 母がゆっくりこちらに顔を向ける。泣き腫らした目が俺を正面からまっすぐ見据えた。
「珱ちゃんは、……珱ちゃんがどうしたいか聞かせて欲しい。そういうこと自分で考えられるようになってるんやね。お母さん、そんなことも知らんかった……」
「麻衣子…?」
「瀬田さんとこの子供さん……斎くん? 仲良しなんやね。学校のお友達?」
 黙ったまま頭を横に振ってそれに答える。口を開いたら何を言い出すか自分でも分からないから。
「…………家を出たい?」
「麻衣子っ、やめなさい…」
 義父が強い口調で母を遮ろうとしたけれど、母は話をやめようとしなかった。 
「珱ちゃん、顔見せて。お母さんのこと、ちゃんと見て……言って」
 不思議だ。もう何年も聞いたことのなかった『お母さん』の声がする。
「うちを出て……瀬田さんのお宅に行きたい?」
 もう一度、夢中で頷いた。俺がそばにいたいと思うのはたったひとりだ。
「わかった…………」
 誰も何も言い出さない。ため息のような母の声だけが耳に響いた。
「……卒業式の次の日な、ここに戻ってまた出て行く珱ちゃんの足音をずっと聞いてた。今止めへんかったら、多分帰って来えへんのとちがうかなって……何となくそんな気がしたけど止められへんかった。ここにじっと座って珱ちゃんが出て行く音を聞いてるしか出来なかった。捜索願を出すって正樹さんが言うのをお願いしてやめてもらうぐらいしか、お母さんが珱ちゃんにしてあげられることはないと思ったん」
 義父が両手で顔を覆って小さく声を漏らした。肩が小刻みに震えている。こんな義父の姿を見るのは初めてだ。
 母は義父の膝に手を置いて軽く揺すりながら、
「もしかしたらいつもみたいに帰ってきてくれるかも知れへんやろ? 珱ちゃんが帰りづらくなるようなことだけはしたくなかったん。もうちょっとだけ待とう、明日まで待ってみよう、夜中にそおっと帰ってきてるかも知れへんって毎日部屋を覗いて、身元不明者のニュースとかあると震えながらテレビ観て、……無理に探し出して連れて帰るのがいいことなのかどうかさえ分からんくて、珱ちゃんを捜してもらう決心がつかへんまま毎日が過ぎたの。警察に頼んですぐに見つかるとも限らへんし、1年掛かるか、2年掛かるか……そのうち、本当に帰ってきてくれるって信じてるのかどうかもよくわからへんようになって」
 義父が頭を両手で抱えて弱々しく首を振る。もう母の言葉を止める気力も無いように見えた。
「こんなに早く珱ちゃんの元気な顔見られると思ってなかったから、昨日瀬田さんから電話をいただいたとき、お父さんとお母さん、今みたいに二人で泣いた。会ってもらえると思てへんかったから。ものすごく後悔して、ものすごく嬉しかった。だから、こうして会いにきてくれただけで、もう充分。ほんとに、もう充分なん………」
 母から言葉が溢れてる。それは永遠に続くような気がした。
「珱ちゃんがいちばんいいと思うようにして。これ以上しんどい思いはせんといて。生きててくれて、元気でやってるって、それだけ教えて、……時々でいいから」
 最後の言葉はひどく震えていてよく聞き取れなかった。
「珱ちゃんが一番楽になれるようにして…………」

 そのときようやく見えた気がした。今まで見えていなかった何か。
 言えない言葉を飲み込んだのは俺だけじゃなかった。
 言えばよかった。言えなかった。
 俺は…………
「時間を、ください…… ひとりで考える時間が、欲しい、です…………」
 声を詰まらせながら、何とかそれだけ口にした。
 何もかも諦めて全部捨ててしまおうとしたあのとき以来、俺は初めて両親の前で正直な気持ちを言った。
 そのあとは頭が真っ白になって涙が止まらなくて、一言も言葉にならなかった。

「珱、くん」
 義父の声だ。昔母に連れられて初めて会ったときから、義父は俺のことをずっと「珱くん」と呼んでいた。顔を上げると、真っ赤になった義父の瞳が、俺をまっすぐ見つめていた。
「しんどいなら無理せんでええよ。少し休憩しよう。ゆっくりで…少しずつでいいから、僕と、それから……お母さんに時間をくれへんか? 君と話をする時間を」
 義父は一瞬言葉を切った。何かを躊躇うように瞳が少し俺から外れる。それからまた、しっかりした視線が俺を捉えた。
 あとに続く言葉に―――――俺はどれほどショックを受けただろう。
「帰って来てくれて……ありがとうな…………」


 リビングのドアの向こうから、弟の泣き声が聞こえていた。




next