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 4



 4時間に及ぶ長い長い話し合いを終えて、俺は斎の両親と一緒に両親の家を後にした。

 お母さんが先に乗り込んでいたタクシーに体を滑り込ませると、待っていたようにドアが閉まって車はゆっくり走り出した。お母さんが俺の手を軽く握り締めながら、ウィンドウ越しに見送りに出た義父と母に向かってもう一度頭を下げる。
 迷いに迷って車が走り出したとき一瞬だけ振り返ったら、遠ざかるタクシーに向かって深く頭を下げていた母が、崩れ落ちるようにその場に蹲るのが見えた。





 『家を出たい』と両親にやっとの思いで言ったあと、これからのことを親同士で話し合うあいだ俺は自分の荷物を纏めるために部屋に引っ込んで、それから母が用意した昼食を皆で一緒に食べた。
 
 一人で部屋にこもってとりあえず必要そうなものを手当たり次第そこらのバッグに詰める間、いろんなことを考えた。
 これからこの家とは違う場所で暮らしていくんだと思ったら、何だか不思議な気分だ。
 今までだってここにはほとんど寝に帰るって感じで一日の大半を斎のマンションかバイト先か学校かその他の場所で過ごしてたから、『ここが自分の家』なんて意識は俺の中に無かったはずだ。それどころか『ここは俺の居場所じゃない』と思ってさえいた。
 なのになぜだろう。ここにこうして座っていると―――――家を出るんだなってハッキリ感じる。
 俺は家を出て行く。母と、義父と暮らしたこの家を。それと同時に斎のところに『帰るんだな』とも思う。どれが本当の自分の気持ちなんだか、正直なところ自分でもよく分からなかった。俺は今までずっと、どこに居るつもりでいたんだろう。それともどちらにもいなかったんだろうか?
「珱ちゃん……荷物入れるの、これ使い」
 振り返ると母が小さなボストンバッグを手に、ドアの前に立っていた。少し躊躇う素振りを見せたあとゆっくり部屋に足を踏み入れた。
「いちばん大きいリュック持ってったし、あと大きなカバンいうたら学校行くとき使ってたのしかないやろ。そんなんじゃ必要なもの入らへんよ。冬物はまた取りに来たらええけど、Tシャツとかジーンズとかいっぱいいるやろ?」
 俺の隣に肩を並べて腰を降ろすと、きちんと畳んで綺麗に引き出しに並べられたTシャツを何枚か掴んで手際よく手元のバッグに詰め始める。俺がリュックにくしゃくしゃにして詰めたシャツやパンツも引っ張り出して、それも畳み直してバッグに入れた。せわしなく動かしていた手を止めて、
「このTシャツ、珱ちゃんよう着てたからお気に入りなんかなって思ってた。よう似合ってたけどもう小さいかな。一応入れとこうか……」
 2,3日ですぐ帰ってくるって思ってるみたいな何気ない口調で少し笑った。
 息遣いまで分かるほど近くで喋っているのに、母の声はなぜかうんと遠くから聞こえてる。音の輪郭がぼんやりとしていて、まるで独り言でも言ってるみたいだ。
 それは本当に独り言だったかも知れない。母はこうしてずっと俺に対して答えの返って来ない会話を続けてきた。
「あいつは、……秀樹は?」
 ふと、隣の部屋で泣き続けていた弟の声が聞こえないことが気になった。
「お父さんとこにおるよ」
「そ……」
 義父の腕に抱かれて笑うか眠るかしている弟のことを想像して何だか安心した。もう泣き止んだんだな。それならいい。
 それからしばらく黙ったまま母の用意したバッグに荷物を詰めた。話すことを思い付かないのは俺だけじゃなくきっと母も同じなんだと思う。

 ここに二人で座って何十分かを過ごすことがたぶん最初の一歩。こんなところから始めなきゃならないほど、俺と母とは遠く離れた場所にいた。
 
 何かを思い付いたように母が急に顔を上げて、どこかのショッピングバッグみたいなナイロン袋をぎゅっと俺の手に押しつける。それは少し膨らんでいて何か固いものが掌に当たった。
「これ、保険証のコピー。お医者さん行くときはこれ持って、珱ちゃんは扶養家族やから自分の保険証ないから、あとでちゃんとしたの持ってくるって病院の人に言って。それからこれは……通帳と印鑑。珱ちゃんが中学に入ったらあげようと思ってたお小遣い、ずっと貯金してたん。瀬田さんのお母さんに預けとくから」
 母は驚くほど早口で、どちらかというとおっとりとした話し方をするふだんの母とは別人のような喋り方だ。まるで早く言わないと二度と言えないとでも思ってるみたいに。
「いらん、……そんなん、もらえへんやろ……」
「使わんでもいいから持っとき。それと電話も。置いて行ったやろ、携帯。あれも持ってて。瀬田さんとこにお世話になるんやから電話くらいお世話になったらあかんの。それだけはお願い。珱ちゃんにはまたしんどいかも知れんけど、……それだけは聞いて」
 返す言葉はなかった。
 母の真剣な口調はここに来たとき感じた通り、問題が俺の家出とかいう単純なものじゃ済まなくなってることを俺に教えていた。俺や斎が思いもつかないようないろんなことを親同士で何とか解決しようとしてくれてるのだと、それだけは分かる。
 生活ってのは幻想では出来ない。家を飛び出したとき、正直言って俺はそこまで考えてなかった。早くから家を出る覚悟はしてたつもりだけど、それが世間に通用する保証なんかどこにもないのだ。
 黙ったまま固まってしまった俺に、母が軽く微笑みかける。
「いつか自分で何もかも出来るようになるから。それまでちょっとだけ……」
 後に続く言葉はなかった。

 それは『我慢して』かも知れないし『手助けしたい』だったかも知れない。そのどちらも、母は言えないのだと思った。

「珱ちゃんな、」
「……ん?」
「いつか……」
 言葉を切って黙り込む。俺は黙って母の言葉を待った。いつも斎が俺にしてくれることだ。しばらく待ったあと、母はようやく続く言葉を口にした。
「いつか聞かせてくれるんかな。珱ちゃんがなんでしんどくなったんか。なんで家にいるのが辛くなっちゃったか。お母さんが知らんこと、分からへんかったこと……いつか教えてな、今じゃなくて良いから」
 今にも泣き出しそうな顔だったけど、母は涙を見せなかった。
「お母さんもそれまでいっぱい考えとく。もう一回珱ちゃんのお母さんやり直したいから、一生懸命考えるわ。それでいい? すぐには分からへんかも知れへんけど、……待ってくれる?」
 どうしても言葉が出てこなくて、俺はまた母に返事を出来なかった。
 心の中にはちゃんと「それでいい」って答えがあるのに。そうじゃなく、俺も「そうしたい」って思ってるのに。
 なんとか首だけ動かして、辛うじて頷く真似をしたら母にはそれで伝わったらしい。やっぱり一瞬顔を歪ませて泣きそうな表情を見せたあと、母は少し笑って、それから聞き取れないくらい小さな声で「ありがと……」って呟いた。




 マンションの影が見えなくなってから体を正面に戻すと、お母さんが手を軽く握って俺を呼んだ。
「珱くん……お母さんが心配?」
「そういうのと……違う、と思う」
 でも何かが心に引っ掛かってる。それは本当だ。
「かわいそうやなって、思った……なんかすごく、かわいそうな人やなぁって」
 居間のテーブルの向こうで泣きじゃくる母を見たとき。
 母が昔俺に対して言ってた言葉の意味が少しだけ解った気がする。

 母は最後まで俺の前で泣くのを我慢していた。涙を見せたのは最初だけ、それにさっきチラッと振り返ったとき……頭をこちらに向けたまま道端に蹲る母はきっと泣いていたと思う。誰にも寄りかからずにひとりで肩を震わせている母は痛々しくて……止まっていた涙がまた溢れそうになって、俺は慌ててその姿から目を逸らした。
 せめて隣に並んで座ってやれれば、母も少しは楽になるかも知れない。傍に行けないなら、せめて言葉だけでも掛けることが出来たら。
 でも俺は何も出来なかった。今の俺に、母にしてやれることはないんじゃないかって思った。それはとても悲しいことのような気がした。
 かわいそうって思うのは、母のことを考えると自分の心も一緒に痛むから。同情とか負い目とかそういうのじゃなく、何もしてやれないことがこんなにも悲しい。
 母も同じだったんだろうか。
 俺を見るたび胸が痛くて、苦しかったんだろうか。
 こんな気持ちが、人にはあるんだ…………。
「母が言ってた、もう一回お母さんやり直したいって。なんか変な感じ。ずっと、……今までずっと俺、お母さんが『お母さん』じゃないって思ってなかった……」

 お母さんは繋いだ手を膝の上であやすように揺らしながら、ちょっとだけ赤くなった瞳を俺に向けて「よく頑張ったね」って笑ってくれた。
 


 タクシーの窓から見える風景はいつもと全然変わらない。どこも同じような都会の景色で、もうすぐ見える大通りをしばらく走って左に折れたらどこにでもありそうな何の変哲もない住宅街に入る。
 でもここは俺にとって特別な場所だ。公園の脇を通り過ぎたら見慣れたマンションが見える。そこに斎がいる。あそこは俺たちの家だ。
 車を降りてマンションの玄関に向かった。お父さんは仕事があるからと俺の家から自分の車で真っ直ぐ会社に向かったから、ここに戻ってきたのは俺とお母さんの二人だけだ。
 ボストンバッグとリュックを担いで、お母さんの後ろについて玄関を通ってエレベーターホールへと進む。
「斎はまだ帰ってないかもね」
「そうですね」
 でも補習が終わったら飛んで帰ってくるだろう。卒業式のときみたいに一瞬も止まらずに全力疾走で。
「明日斎と3人でお買い物行こうね。下宿してもらうんなら足りないもの揃えなきゃ。洗濯機とか乾燥機とか無いと困るよね。あ、そういえば珱くん、お鍋でごはん炊けるってホント? 斎が言ってた、すっごく上手だって。びっくりしちゃった。炊飯器とかお鍋とかも一応買っとこうか」
 ……いつの間にそんなことまで話してるんだ、あいつは?

 家に帰って両親と久しぶりに話をしていろんなことを考えたけど、大事なことはやっぱり変わらないみたいだ。
 俺はここにいたいんだ。斎の側に。帰りのタクシーの中で俺が考えてたのは斎のことで、早く顔が見たいなとか明日は一日中一緒にいられるかなとか、そんなことばかりずっと思ってた。
 肩が触れ合う位置にいたい。手を伸ばしたらすぐ届く場所に。
 もう一つ心に浮かんだことは自分でも思いがけないコトだったけど。
 何だかとても楽しそうに明日の予定を考えてるお母さんの顔を見て、やっぱり似てると思った。くるくる変化する表情とか鼻の辺りとか、笑ってしまうほどそっくりだ。

 何て言って切り出そうか? 『俺、斎のことが好きなんです』って突然言ったら、やっぱりびっくりされるだろうな。冗談と思って信じてもらえないかも。同時にもっと最悪の想像も頭に浮かんだ。
 それでもこの気持ちを知っていて欲しいと思った。―――――目の前にいる、斎といちばん関わりの深い人に。





 斎がマンションに戻ってきたのは夕方だった。帰ってきた途端泣き出しそうな顔で叫びながら俺の側に駆け寄って来た。
「もう最っ悪ーっ!! 一生帰れねぇかと思ったよぉ」
 お母さんの前だからさすがに抱きつきはしなかったけど、それとあんまり大差ないような情けない顔だ。補習のあと先生に捕まって何か用事を手伝わされたらしく、ひとしきり文句を言ってからすぐに真剣な表情に戻って俺の顔を覗き込んだ。
「大丈夫だったか? お父さんとお母さんは何て言った? ここにいても良いって?」
「ん、……家出るって、ちゃんと言うてきた」
 斎の肩からそれと分かるほど力が抜ける。
「そっか……。よく言ったな。……頑張ったな」
 そしていつもの『らしい』笑顔。
 あ、斎の顔だって思ったら帰ってきたんだなってやっと実感が沸いて―――――ホッとした。そこにお母さんがいてくれて良かったのか悪かったのか。そうじゃなかったら俺は思いっきり斎に体当たりして、大声を上げて泣いていただろう。
 それでいいんだよな。それがホントの俺なんだから。

 俺たちの様子を後ろから眺めていたお母さんがケラケラ笑う。
「なんて顔してんのかなぁ、二人とも。頑張るのはこれからよ。自分たちで考えて自分たちで選んだんだからね。斎も珱くんも人より何倍も頑張んなくちゃいけないんだよ? 出来る?」
「あったりまえだろ? 俺、今かなりマジなんだから」
 目の前で斎の視線がゆっくり動いて、お母さんの顔を真正面で捉える。
「何でも出来るよ。珱のためならなんでもするって、もう決めたって言ったじゃん」
 静かで力強くて優しい声が体中に響いた。迷いも躊躇いも全然無いみたいな。斎の声はいつだってこうしてまっすぐ俺の心に突き刺さる。
 それは簡単なコトじゃない。それは俺もお母さんも、誰よりそう言い切る斎自身が一番よく分かってるはずだ。でも斎が大丈夫って言うと、本当に何もかも上手く行く気がしてくる。たぶんそれは気のせいじゃなく、ホントにだ。
 斎がここにいるから、ここが俺の居場所だ。斎はそれを俺に何度でも教えてくれる。何がいちばん大切かっていうこともだ。
「うん、確かにそう言ったよね。……頑張んのよ」
 お母さんがそう言った途端、斎はニッと盛大な笑顔を見せて俺の頭を抱き寄せると、お母さんに向かって勢いよくVサインを突き出して見せた。




end



 珱編終了。BGMは久々の "snow drop"。

『REAL LIFE 5/斎編』へ続く