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俺の肺炎はお母さんの予告通り一週間で全快した。 斎の家にどっぷり世話になってメシとか食わせてもらって、いくら感謝してもし足りないくらいだ。 斎とお父さんは早くに出掛けてしまうから、俺はずいぶん長い時間をお母さんとふたりっきりで過ごした。 洗濯や掃除を手伝ったりメシを作ったり……母と呼ばれる人とこんなことをしたのは小学校の時以来かも知れない。母親が再婚して俺は自分から、二人で過ごす時間を手放したから。 「あー、終わった終わった!」 最後の洗濯物を干し終わって、お母さんがわあっと腕を拡げてソファに体を投げ出した。 「ね、お昼なに食べよう? 焼きそばでもしようか、それともどこか食べに行こうか?」 優しい笑顔を向けてくれるお母さん。本当に感謝してもし足りないと思う。だから。 「俺……マンション戻って荷物まとめてきます」 「珱くん…………」 「一週間、何にも聞かずに置いていただいて、ありがとうございました」 気持ちが伝わればいいと、それだけ願って頭を下げた。それだけでいい。 お母さんは小さく頭を動かして俺に目を合わせた。 「お家に帰る決心ついた?」 「いえ……」 正直に言わなくちゃいけない。たぶん、それが俺に出来る精一杯。 「家には……戻りません。元々中学を出たら家を出ようって決めてたから」 「どうしてって聞いたら、答えてくれる?」 「それは、」 どうして話す気になったのかはわからない。 迷惑を掛けたからせめて自分のことくらい正直に話そうと、そう思ったのは間違いない。でも一番大きな理由は、たぶんこの人が斎のお母さんだったから……だと思う。 それは斎にもまだ話していない……俺の一番最初の躓き。今でも終わらせることの出来ない、心の中の小さな悲しみ。 「それは俺が、母を傷つけてしまうから……」 「お母様を? ……どうして?」 幼いころの最初の記憶。今でもはっきり憶えてる。 「母、は……俺のこと『かわいそうな子』て思ってるんです」 「かわいそう?」 「俺の一番最初の記憶は母が俺の頭を撫でながら誰かに、『この子は可哀相な子やから』って言うてるとこなんです。俺はそのころ多分二つか三つくらいで、母の言葉の意味なんか分からんくて……でも思ってた。俺は可哀相やないよ、って」 俺の母親は学生のころに外国人留学生と出会って恋に落ちた。 まだ二十歳かそこらで周囲に反対されて……恋人を追って一緒にアメリカに行って一年で日本に戻ってきた。産んだばかりの俺を連れて。 家族は何も言わず母を受け入れたけれど、母を捨てた男の面影を持ってる俺を見るのは辛かったんだろう。物心ついたときには母の実家に俺の居場所はなかった。 母は俺のために家を出て……俺の記憶に間違いがなければ俺が幼稚園に上がるくらいのころ、小さなアパートを借りて働き始めた。 「今から思うとすごく大変やったと思う。俺を幼稚園に預けて夜遅くまで働いて、俺はいつもアパートの隣の部屋の人に面倒を見てもらってました」 母が仕事を終えて帰ってくるのが嬉しかった。『お母さん』って飛びついて母の腰に抱きつくのが大好きだった。隣のおばさんがお母さんは疲れてるんだから、って止めるのも聞かないでずっと母の腕にぶら下がってた。 そんなとき決まって母は俺を抱きしめて、 「この子には可哀相なことしてるから」 って言った。 可哀相ってなに? 俺は可哀相なんかじゃない。 こんなに好きなのに。お母さんのこと好きなのに。 「ガキのころ俺、ずっと思ってました。大きくなって、大人になったら絶対母のこと幸せにしようって。俺は可哀相なんかやないってこと、教えなあかんって」 あるとき母に再婚話が持ち上がった。 相手は今の義父。俺が小学校3年に上がってすぐのころだ。 「義父は真面目で優しい人で、血の繋がらへん俺をすごい可愛がってくれて、俺はホントの父親を知らへんから……父、いうてもあの人のことしか思い浮かびません。感謝……してると思います、自分でも」 そのころ俺は学校で初めていじめというものを経験していた。 何がきっかけだったのか、自分では解らない。気がついたら俺はクラスの中で孤立していた。 それでも最初のころはケンカしたり言い返したり、自分で出来る範囲でそういうものに抵抗してた気がする。よく血だらけになって家に帰ってた。 母が心配する顔を見たくなくて、ケンカのことは一言もいわなかった。クラスの奴らと上手くいってないことも黙ってた。 泥まみれで帰宅する俺を見ても母は何にも言わなかった。黙って俺の服を脱がせ、きれいに洗濯して破れたところを繕って……それからしばらくの間家を留守にした。 俺は母が帰ってくるのをずっと待って、飯も食わずに待って、母が帰って来ると本当に嬉しかった。 いつの頃からだろう―――――母のしてることに気がついたのは。 母は俺がケンカした相手の家を一軒一軒回って頭を下げに行っていた。 俺のしてることに母はとっくの昔に気がついていたんだ。 「……ショックでした。母が俺のためにそんなことしてるいうのもショックやったけど、一番堪えたのは……母が俺に何にも聞いてくへんかったってこと」 「珱くん」 「なんでケンカするのか、どんな理由があるのか、俺に聞いてくれてたら俺はきっと答えていたと思います。俺は自分が正しいと思て抵抗してるんやって。でも母は聞いてくれんかった。なんでやろうって考えて……解ったんです、母がまだずっと俺のことを『可哀相な子』と思ってるんやって」 父親のいない可哀相な子。友達と上手くいかない可哀相な子。 それを親に言えない可哀相な子。 冗談じゃない、と思った。 「俺が初めて家出したのはそのときです。小学校5年の、冬でした」 「どこに行ったの?」 「電車とか乗る金ないし、歩けるとこまで歩いて……どっかの公園で一晩過ごしました。寒くて腹が減って、もう死ぬかな、なんてまじめに考えたりして。で、明け方近くくらいに保護されたんです、警察に」 「そう……」 もう終わったことなのに斎のお母さんは泣きそうな顔をしていた。泣かすつもりはないのに俺はこんな顔しかさせられない気がする。 ―――――母に対しても。 俺はいじめに対して一切の抵抗をやめた。 俺がケンカしてやり返したら、母はまた俺に何も言わずに同じことを繰り返す。それだけは絶対に嫌だった。文句を言う奴には言わせるまま、殴る奴には殴られるまま、たまに何もかもが嫌になると発作的に家を飛び出した。 「俺はことあるごとに家出を繰り返すようになりました。近所でも『家出の常習犯』とか陰口叩かれるようになって」 そんな生活は中学に上がっても変わることはなかった。当然かも知れない。そのころにはもう、俺はすべてを諦めていた。他人と上手くやっていくなんて、俺にとっては苦痛でしかなくなっていた。そんなヤツに反感を覚えこそすれ、仲良くなろうなんてヤツはいるわけがない。 中2の四月に転校した東京の学校はすこぶる居心地の悪い学校で、俺は最初からクラスメイトと上手くいかなかった。 担任の教師も事なかれ主義なのかぼんやりしているだけなのか、クラスの中で一人浮いている俺になんの関心も示さない。出席日数が極端に少ないと進学するときに困ったことになる、と言われたことはあったけれど、成績が良かったからか無視し続けたらそのうち諦めて何も言ってこなくなった。 いつの間にか母は俺の顔色を窺って話すようになっていた。 俺を怒らせないように? せめて家を空ける回数が少しでも減るように? 背中に向かって話しかける母の顔を想像するのは簡単だ。少し眉を顰めて目を伏せて、笑顔なのにどこか寂しそうで、小さい頃その顔が俺を見て温かい表情に変わると嬉しかった。母の笑顔を変えるのは俺の役目だった。今は違う。 俺は母の笑顔を曇らせる存在になった、そう自覚したら母の顔を見るのが嫌になった。 それでも俺と話をしようとする母を無視するのも胸が痛んだのは最初だけで、慣れてしまえばどうということはない。顔も見ずに適当に返事をするのが当たり前になってしまった。 俺はほとんど家に寄りつかなくなって、最初の頃は義父がずいぶん気に掛けていろいろ言ってきたけど全然聞く耳持たなくて、学校も休みがちになった。 しばらくしたら俺のいつも使ってる鞄に携帯電話と金が知らない間に入ってて、電話のアドレス帳にはうちの番号が登録されてた。 俺に何かあったときせめてうちに連絡が来るように? そうだよな、アンタはどうせそんなことしかしない。 金は俺が登校するために家に戻ったときに鞄やポケットに時々入れられるようになった。 「お父様にも相談しなかったの?」 「聞いたことないけど、多分母が義父を止めてたんやないかと思います。仕事も忙しかったし、あんまり俺とは顔合わせへんようになってました」 「珱くん、兄弟はいる?」 「弟が一人……」 弟は俺が中学3年になる直前に生まれた。弟が生まれる頃には俺はもう完全に義父や母と口を利かなくなっていた。 原因は……………義父と母の会話を聞いてしまったことに因る。 それは俺がしばらく家を空けて戻ってきたある日。たぶん中2の夏、くらいだったと思う。大阪にいた頃と同じように、学校に嫌気がさすと俺はしょっちゅう家出をした。 そのころにはもう、二、三日家を空けても誰も俺を探さなくなっていた。俺も捜索願なんて面倒臭いものを出されるのはご免だったから、気が済んだら適当なところで家に戻ってまた学校に通うという日々を過ごしていた。 家に入ると平日の昼間だというのに珍しく義父がいて、母と何か話し込んでいた。顔を合わすのが面倒でさっさと部屋に引き上げようとして……会話が耳に飛び込んできた。 『赤ちゃん、出来たって』 赤ちゃん? 俺の…………兄弟? 「びっくりしました。兄弟が出来るなんて思っても見んかって。14とか15とか年の違う兄弟なんてなんかヘンな気がして、でも……嬉しかったと思います」 その場から動けなくてずっと突っ立っていた。二人の会話に耳をそばだてた。 『ホンマは言おうかどうしようかすごく迷ってん』 『どうして?』 『だって珱ちゃん、ひとりぽっちになる。そんなん可哀相やし、産むの迷ってん。けど……』 母の言葉が信じられなかった。 『あたしももう35やし、今まで子供出来へんかったし、これ逃したらチャンスないかも知れへんて思ったら諦め切れへん。あたし、正樹さんの子供、産みたいよ…………』 そう言って母は義父の腕の中で泣いた。 『好きな人の子供が産みたい』 そして母は俺を産んだ。父親を失った俺は母の中で『可哀相な子供』になった。 今度は弟か、妹を産む。なんだ、そんなことか。アンタが悩んでたのは。 ―――――全部自分がしたことじゃないか! その瞬間、俺と母を繋いでいた何かがプツリと切れた音を聞いた。 それは多分……俺だけが必死に繋ごうとして、本当はどこにも繋がってなんかいなかったもの。 もう自分から無理に繋ごうとは思わない。 安心しなよ、母さん。今度生まれて来る子はかわいそうな子供じゃない。父親も母親もいて家族の一員で。 じゃ、俺は何だったんだ? どうすればかわいそうな子供じゃなくなるの? それを教えてくれる人は誰もいない。 そのあとすぐあの事件があって……… 俺は本当の意味で、自分を取り巻くすべてのものを捨てた。 「弟が生まれるころには、家中のどこにも俺の居場所なんか無かった。というより自分で壊してしもてて。もうなんか、全部がどうでも良くなって、勝手にせえや、て思いました。誰にも何にも期待なんかしてへんかったし、だから弟が出来たことはあんまり関係ないです」 俺のすべてを叩き潰した出来事。 荒んでささくれ立って、何もかもを拒み続けていた俺と真剣に向き合ってくれた斎に、あのことを話すのは辛かった。 でも話して良かったと今は思う。何もかもを一人で背負い込まなくてもいいのだと、斎は俺に教えてくれた。 だから…………お母さんにも正直に話す決心がついた。 「…………学校で痛い目遭うたことのほうが、俺にとってはキツかって。これは斎にも話してあ」 「待って!」 お母さんが突然大声で俺を遮った。 「あ、あのね、斎が言うの。珱くんが学校でどんな辛い思いをしたか、自分が全部知ってるからあたしは聞くなって。珱くんが言おうとしても言わせないでって」 お母さんの言葉は俺より幼い子供のようで。一生懸命俺に伝えようとしていた。 「思い出させたくないって、泣くの。だから、思い出さないで………」 「斎が、そんなコト……………」 「子供なのにね。あの子まだ子供なのに、大人みたいでしょ?」 お母さんの顔が不意に歪む。見覚えのある表情。 それは卒業式の前の夜、話を終えた俺を抱きしめて、大声で泣いた斎の顔とよく似ていた。 俺より傷ついた顔をして、それでも抱きしめくれる腕は暖かくて、ここにいれば大丈夫って、本気で思った。離れたくないって。 「生意気なこと言って、……あの子、珱くんのこと自分が守るって…………」 それからお母さんは声を詰まらせて、ぼろぼろ大粒の涙を零した。 腕を伸ばして俺を引き寄せる。本当は頭を抱き寄せたかったのかも知れないけど、俺の方がうんとデカくて、だからお母さんの方が俺の胸で泣いた。 俺も泣いた。 声を上げて。 「ね、珱くん」 「…………はい」 「お母さんに会いに行こう」 どれくらい時間が経ったんだろう、日差しが少し翳りはじめた頃……お母さんが静かに言った。 「お母さんに会って、家を出ますってちゃんと言おう。やっぱり黙って出ていくのは良くないよ。あたしはお母さんだから珱くんのお母様の気持ちも解る、気がする。珱くんには解らないかも知れない。解らないのは悪いコトじゃない。だから………」 「俺は……母ともう一度やりなおしたいかどうか、解りません」 「でも珱くんはお母さんが傷ついてるって言ったよ?」 お母さんは俺から一度も目を逸らさない。俺をしっかり見据えたまま、その目はとても優しかった。 「自分がお母さんを傷つけるからって言ったよ? それを知ってるのは……珱くんがお母さんのこと、ちゃんと見てたからだと思う。気持ちが通じなかったときもずっと、お母さんのこと見てたからじゃないのかな? 距離を置いて時間を掛けて、いろんなこと見えてきてから結論を出したら、もしかしたら違う答えが見つかるかも知れないよ? 距離と時間は…………手伝ってあげられると思う。その後のことは珱くんが自分で見つけるものだから」 「なんで、俺にそこまで………?」 お母さんはゆっくり目を伏せて………… 「斎がね、あんまり一生懸命だからびっくりしちゃって……。まだ自分のことすら何にも出来ないくせに言うの、『珱には俺しかいないんだ』って。珱くんのこと守れるのは自分しかいないんだって…………突然10年も年取ったみたいなこと言って」 びっくりでしょ?って目を細めて笑う。 「少し距離を置こう、お家ともそれから斎とも。珱くんがどうなっちゃうか解らなくて不安なのよ、あの子。不安で不安で、だから慌てて大人になろうとして、出来ないことまでしようとしてるみたい。……それが心配なの、正直言って」 それは俺も同じ。 離れたくないってその気持ちだけで他は何も見えなくなる。だから後のことなんて考えないで夢中で斎の手を取った。 「親ってね、大人に見えて実は不安だらけなんだよ。あなた達にどうしてあげるのが一番良いのか実は全然解って無い。心配で、嫌われたくないのに、余計なコトして怒らしたりして」 勝手だと思うけど、ってお母さんは済まなそうに笑う。 「でもね、あたしは斎のお母さんだから、斎の大事なものを一緒に大事にしてあげたい。珱くんに会って解ったの。大丈夫、斎は間違ったことしてないって。……見つけただけなんだって」 膝の上で固まってる俺の手に重ねられたお母さんの掌。大きさは全然違うけど、暖かさは斎と同じ。 「少しだけ口出しさせてよ、ね? 自分たちだけで思い詰めないで。……明日、一緒にお母さんに会いに行こう」 俺はもう何も言えなくなって俯いて肩を震わせて……何度も何度も頷いた。 大丈夫。 ココにいる。 『俺、オマエのこと好きなんだよ』 俺たち、ちゃんと出会えるようになってたんだよ………… その夜遅くにお母さんはお父さんと話し合って、それから俺の家に電話を掛けた。 斎が勝手に俺を住まわせてたことをまず謝って、『明日、珱くんを連れてそちらに伺います』って言った。 俺はその一部始終をずっと見つめていた。斎も俺の隣でじっとしてた。何にも言わないで時々、机の下でそっと手を握ってくれた。 俺は思う。 もしもあのとき斎が俺に声を掛けなかったら。 俺が斎を無視して立ち去っていたら。 俺は今頃どこか知らないところで野垂れ死んでたんじゃないかって。 自分のことなんかひとつも大切じゃなくて、どこにも行くとこなんか無くて。 お前に出会わないまま死んじゃったりしなくてよかった。 好き。好きだよ、斎。 一緒にいるために必要なこと、何だってしよう、残らず、全部。 次の日…………斎の両親に付き添われて、俺は3週間ぶりに家に戻った。 |