
『愛してる』って気持ちはどこから来るんだろう?
最近ふとそんなことを大真面目に考えるようになった。珱に出逢ってから、俺はずっとそんなことばっかり考えてる気がする。
なぜってそれは、『好き』だけでは言い表せない感情が俺の中に溢れてるから。
大事にしたい、守ってやりたい、そういう気持ちがあとからあとから湧いて来て、少し戸惑うくらいに。
夜中にふと目を開けると、そばにいる寝顔。安心してぐっすり眠る長いまつげを見つめていると、昼間珱を見ている時とは違う感情が溢れてくるような気がする。
手を延ばして頬に触れたいけれど、起こすとかわいそうだから我慢する。ため息みたいに呼吸する、微かな音に耳を澄ます。
昨夜、珱の口から昔の話を聞いた。それは珱にとって、…俺にとっても痛くて悲しい話だった。
強気な表情の中に見え隠れする、珱のあまりにも不安定な感情の揺れ。
昨日聞かされた話が少なくとも原因の一つであることはたぶん間違いないはずで、だからこそそれを話してくれた珱の気持ちが本当に嬉しくもあった。
終わったことだと何でもないように言うけれど、そんなこと絶対あるはずなくて、抉りとられた傷口はきっとまだ赤い血を流し続けている。
俺には泣くことしか出来なくて、珱はそんな俺を見て、「今は幸せだから」って微笑んで…俺はやっぱりまた泣いた。
『ずっと好きでいてくれ』なんて切なくなることを言うくらいなら、大声で泣いた方が楽になると思う。
でも珱は泣けない。
珱が俺の前で泣いたのはたった一回、…一回だけだ。
泣かないことで崩れそうになる自分を支えているのかも知れない。そんな気がする。
珱のことを深く知れば知るほど、傷付きやすい、子供のように純粋な面が見えてきて、それを誰にも知られないよう固い殻に閉じこもって身を縮めて生きて来たのだと思うと、堪らなくなる。
俺が珱のためにできること、それがなにかはまだよく分からないけれど、見つけなきゃならない。俺はそれを、出来るだけ早く。
もしかしたらこれが『愛してる』ってことかも知れない。今まで感じていた体が浮き上がるようなドキドキとは違う、心のどこかから沸き上がる穏やかで、でも強い意志を持った感情。
俺はそういう気持ちを昨夜、初めて知った。
「もう、行くわ」
珱が俺を振り返る。
「待って、俺も起きる……」
少し笑って、ゆっくり首を横に振る。見下ろしてくる真っ黒な目は澄んでいて、それで少しほっとした。
「お前が起きたら、出ていかれへんかも知れん。もう一回、戻って来たなる……」
「なに?」
なにか言いかけたような気がして聞き返した。黒い瞳がゆっくり閉じられる。珱の口から言葉が出てくるのを息を止めて待つ。
珱は黙ったまま、指で俺の唇に触れた。
手を伸ばすと、俺の手を迷わず握り返す。あの珱が…そんなふう出来るようになったことが何より嬉しい。
「行ってくる……」
そう言って、俺の手のひらに口づけた。
珱はいったん家に戻るからと、朝早くに起きだして身支度をした。
迷ってるみたいに何度も俺のそばと台所のあたりを往復して、俺の顔を見てるような気配があって……心配で仕方なかったけれど珱を信じてずっと眠ったふりをした。
自分で選んだことだから自分の足で立つしかない。それは珱本人が一番よく分かってるはずだから。
行っておいで、俺はここで待ってるから。帰って来たらふたりでお祝いしよう。
覚悟を決めたのか、もう振り向かない背中を黙って見送ってようやくベッドから起き上がる。俺もそろそろ用意をしなくちゃ、三年生の卒業式に間に合わない。
家に戻って制服に着替えることを考えると、朝飯を食う時間は無さそうだ。仕方なくここにあるものを適当に口に入れて出掛けようと、キッチンに立ってシンクを覗き込んで、
……ふと流しに目が止まった。
細かく千切られた紙の燃えかす。思わず手に取ってまじまじと見つめる。
なんだ? あいつ、ここでなにか燃やしたのか?
ほとんど燃えてしまっているけれど、残っている破片の端に見える小さな文字。燃えかすの量。なんとなく気になって、一つ一つ細かいカケラを拾い上げて確かめる。
そうか、これってたぶん生徒手帳だ。角の丸くなったページの右肩に校章のようなマークが見えた。
…………息が止まった。
見覚えのある、月桂樹の葉を象った変わったデザイン。剣と旗が中央でクロスするレリーフの上に校名を表すアルファベットが二文字、下にジュニアハイスクール……中等部を表す『JHS』の文字が刻まれている。
「マジかよ……」
心臓が狂ったように暴れ出す。信じられないと繰り返す。何度思い返してみても思い当たるふしがひとつも無くて、目の前にある事実が全然理解できなかった。
俺のであるはずがない。ここには制服を置いてないし、生徒手帳は制服のポケットに突っ込んだまま、めったに取り出すことも、ましてや持ち歩くことなんか絶対にない。
呆然としたままでも体は動く。
慌てて着替えてマンションを飛び出すまでに、10分とかからなかったに違いない。
いろんなことが一度に頭の中に噴き出して、息が詰まりそうになる。ペダルを踏む速度は尋常じゃないだろう。スピードを上げ過ぎてカーブを曲がる度にタイヤが滑って、体ごと真横にグラリと傾いた。片足を軸にして車体を強引に引き戻す。スニーカーのかかとが嫌な音を立てる。とっくに限界を超してるのに、怖いなんて感じる余裕はなかった。
中学生? 珱が? あいつが?
なんで今までそのことを俺に黙ってたんだ? 聞かなかったから?
言われてみれば一度もちゃんと確かめたこと、なかった。どう見ても17、8にしか見えなかったし、俺が中2だってバレた時も、珱はなんにも言わなかった。びっくりしたとは言ったけど、怒ってないって…………
あたりまえだよ。お前も中学生なんじゃんか!
しかも…………!
自宅の玄関前に自転車を放り出して家の中に駆け込んだ。
最寄りの駅から学校までも、もちろん走った。ゆっくり歩いて15分、走ったら……今日は間違いなくいつもの3倍は早いに違いない。
こういうのを火事場の馬鹿力っていうんだ、きっと。朝から一瞬も止まってないのに、全然息が上がってない、気がする。
のろのろと前進する生徒たちの波を掻き分けて校門をくぐる。そのままスピードを落とさずに下駄箱を通過、周りのやつらを怯えさせながら一直線に階段を駆け上がった。
家から学校までの道のりの間に、俺の心の中にある確信が芽生えていた。絶対間違いない。なんとなく心に引っ掛かっていた、知り合いの先輩の言葉。
『2年の時に転校して来たやつなんだけど、俺たちと口もききやがらねぇの』
無口で無愛想で、見つめられると少し怖い。それは怖がりで傷付きやすいことを隠すための必死のバリア。誰も知らない。
本当は優しいんだよ。俺、ちゃんと知ってるんだ。大好きなの、あいつのコト。
大事にしてるんだよ!!
「珱っ!!」
飛び込んだ3-Aの教室に珱の姿は無かった。
「先輩!」
転校生の話を聞いた先輩を見つけて、飛びかかるように走り寄る。先輩がびっくりしながら振り向いた。
「斎、なに? どうしたんだよ、そんなに慌てて……」
「前に言ってた、転校生っ……」
突然、思い出したように息が上がった。くそっ、こんな時に! 咳き込みながらなんとか声を絞り出す。
「転校生、のっ、名前は!?」
「は? お前、なに言って」
「名前っ!!」
俺の意識が遠くなりかけてるのかも知れない、先輩の声も姿もぼんやりと遠く感じる。
「窪塚、珱、……っていう…………」
「ちくしょうっ」
霞んでいた意識が急激に引き戻された。
はらわたが引きちぎられるように痛んで、手近にあった机を力いっぱい蹴り飛ばす。隣の机ごと二台が盛大にふっ飛んで、派手な音と共に中身を全部床に吐き出した。
ぼんやりしている場合かよ。しっかりしろ!!
教室にいる全員が振り向いてる。俺と先輩の会話を耳をそばだてて聞いているのが分かる。
おまえらが珱を、あんなになるまで追い詰めた。お前らだけが悪いんじゃない、それは分かってる。珱だって途中から全部諦めた。諦めて何もしなかった。
だけど珱にはそれ以上どうしようもなかったってこと、俺は知ってる。
「ここに……来てないんですね?」
「あ、ああ……」
水を打ったようにシンと静まり返った教室に、先輩と俺の声だけが響く。声を立てる奴は誰もいなかった。
どこにいる、珱? たったひとりで……でもこの学校のどこかにいるはずだ。
長い間捕われて来たものを自分の中から引き剥がすために。
黙って一回頭を下げて、三年の教室を後にした。
探さなきゃいけない。俺はお前のコト、絶対見つけるから。
「斎っ」
呼び止められて、足を止める。ゆっくり振り向くと先輩がまっすぐ俺を見ていた。
「アイツ……お前の、」
と言ったきり、後の言葉は出てこなかった。
俺は目を逸らさなかった。
「珱は俺の……大事なヤツです」
他の奴にどう思われたって構わない。大事なことはたったひとつだ。
学校中を走り回って探したけれど、珱はどこにも見当たらなかった。式はとっくに始まってる。校庭のはずれにある講堂に生徒全員が集まって、卒業式が厳かに始まる。
校庭の桜並木。プールサイド。使われていないはずの特別教室。音楽室。娯楽室。図書館。……どこにもいない。
思い付くところは全部探した。見つからない。気持ちばかり焦って苛立ちが募る。
珱の性格から言って式に参加してるなんて考えられない。でも意地っ張りだから学校には来てる。絶対に。珱はハッキリ言わなかったのに、なぜかそう確信してる自分に少し笑った。
でも俺、間違ってないよな?
縺れる足を引きずって校庭に転がり出た。前庭の花壇の前に積み上げてある、煉瓦で出来た囲いに座り込む。朝から走りっぱなしの両足はとっくに限界を超えていて、まだ動くのが不思議なくらいで。
「これ以上どこ探しゃいいんだよっ、珱のバカっ!」
思わず空を仰いで悪態をつく。目の前に広がる澄み切った広い空。雲がのんびり流れていくのが見えて、少しだけ心が落ち着いた。
大丈夫だと自分に言い聞かせる。
俺たちのこと、きっと神様が応援してる。大丈夫、絶対見つかる。見つけるから。
雲はゆっくり流れてる。
視線の先にチラっと動くものが見えた。
あれだ…………。
…………見つけた。 あそこに、珱がいる。
よろめきながら立ち上がって校内に引き返した。青くて大きいスクリーンを目指して、俺は最後の気力を振り絞って階段を上がりはじめた。
屋上に上がると風の流れが見える。
ここは俺の、学校の中で唯一好きな場所。目の前に遠く広がる空間は、歪んで凝り固まった狭い世界を少しだけ忘れさせてくれる。教室に居場所がなくなると俺は決まってここで暇を潰した。
真横から吹き付ける強い風にともすれば体ごと攫われそうになって、真直ぐ立っているのがやっとって感じだ。眺めのいい場所を探して、フェンス際にゆっくり腰を下ろした。
高い所から見下ろしていると校内の動きがよく分かる。ぞろぞろと移動していた生徒の姿が見えなくなったということは、卒業式が始まったということだろう。
気持ちをなんとか奮い立たせてここまでは来れた。校門をくぐる時、バカみたいに足が竦むのが自分でも少し情けなかった。教室には入ることすら出来なかった。
それでも良いと思う。自分の気が済むように、できる限りのコトができればそれでいい。そう思ったからここまで来たんだ。
ここまで辿り着くあいだ、何度も斎の顔を思い出した。『行けよ』って、そのシンプルな一言が俺をどれだけ支えてくれたか、斎にはきっと分からないだろう。
それでいい。あの腕さえあれば生きて行けると心から思える。
もうずいぶん長い間ここに座ってる。いつまでいようかなんて、考えてない。踏ん切りがついて立ち上がる瞬間は、きっと自然に来ると思う。
「斎」
たった一人の卒業式を終えたら、お前んとこに帰るよ。そしたら何にも言わずに抱き締めてくれな。
「斎…………」
もう一度小さな声で名前を呼んだ。
「呼んだ?」
心臓が、跳ねた。
掠れた声に少し笑みが滲む。ゆっくり近付いてくる聞き慣れた足音。
信じられなくて体が震えた。
なんで? 気のせい? 俺があんまりお前のコトばっか考えてるから、空耳が聞こえた?
―――――違う。空耳なんかじゃない。
「すっげー、探した……。もうダメかと思ったよ」
笑いながら近付いてくる気配。声がどんどん近くなる。
俺の体は蹲ったままカチンカチンに固まって、指の先すら思うように動かない。
「ったく、手間掛けさせ、やがって……っ」
深々と吐き出されるため息。ここまで走って来たのか、言葉が妙なところでブツブツ切れる。大きな体が目の前に立つと、見下ろす視線の先のコンクリートが濃い灰色に染まった。
「信じらんない、ほんとにいるんだもんな。こんなことって、ホントにあるのかよ?」
それは俺の台詞だよ。
「珱」
呼ばれて、反射的に顔を上げた。動悸がどんどん早くなる。斎ははぁっと息を吐いて座り込むと、真正面から俺の顔を覗き込んで来た。
「やっぱ俺たちって、出会う運命だったってこと?」
ニッコリ笑うまっすぐな瞳に吸い込まれそうになる。斎はこの世でたったひとり、最初からまっすぐ俺を見てくれた。
「お前の制服姿一回でも見てたら、一発で分かったんだけどなぁ」
そうだな。俺もそう思う。俺ら、お互いのコト知らなさすぎだと思うよ、マジで。
斎がゆっくりと腕を広げる。「ホラ」って感じの全開の笑顔。
普通なら笑い出してしまいそうな場面なのに、さっきから涙が溢れて止まらない。
腕を目一杯伸ばして、斎の胸に体ごと飛び込んだ。
背中に回った腕に斎がぎゅっと力を込める。
「コレってなんか、映画みたいじゃねぇ?」
いつもなら絶対憎まれ口を返すのに、今は頭が混乱してそれどころじゃない。涙は相変わらず流れっぱなしで、一向に止まってくれる気は無さそうだ。
「なんでいんの、ココっ……」
必死で絞り出した声は安心してて混乱してて、頼りなく震えながら宙に舞った。
だってそんな偶然、この世の中にあるわけない。
俺達二人とも、同じ学校の生徒だったなんて。
「だから」
斎はまるで小さい子供に話すような口調で呟く。
「神様が味方してくれてるんだって。俺がお前を見つけやすいように、ちゃんと近くにいさせてくれんだよ」
「んなわけ、あるか……」
「だってそれ以外に考えられないじゃん。俺、ちゃんと見つけただろ? お前のこと。大丈夫なんだよ。どこにいたって会えるようになってたんだよ、初めっから」
自信満々で胸を張る。絶対そんなことあり得ないと思うのに、斎がそう言うとなんだかそんな気がしてくるのは我ながら変だと思う。
「でもなー……、二年近くこんな近くにいたのにお前のコト知らなかったなんて、惜しいことしたよなぁ……」
なんて、しみじみ言うのが堪らなく可笑しくて…………笑いながら、また泣いた。
気持ちがようやく落ち着くまで、どれくらいそうしていたんだろう。
俺は斎の足の間にペタリと座ってしがみついて、斎もそんな俺の背中に腕を回したままずっと抱きしめ続けてくれて。
ときおりあやすように大きな手のひらが頭の天辺から背中まで何度も往復して、その度にぼろぼろと涙がこぼれた。
目を閉じて斎の気配を感じ取る。ここにいる。ずっと、変わらず俺の目の前に。たったひとつ目に映る、確かな存在。
終わったんだってハッキリ分かった。
足許も見えない真っ暗な道を、独り手探りで歩くような生活。どこにぶつかっても何にぶつかっても分からなくて、分からないままふらふらと彷徨うことしかできなかった自分自身。
終わらせたいって思ってたんだよ、ずっと……ずっと、長い間。そのこともちゃんと思い出せた。
今、やっとここまで辿り着いた。斎、俺、……ここまで来た。
言葉が、本当に心から零れ出した。
「斎……」
もう何度呼んだか分からない。俺に力をくれる、大好きなコトバ。
黙ったままの斎の腕に力が込められる。俺の言葉を待ってくれているのだと、今なら分かる。
「もうええ、気ィ済んだ、から……早く」
オマエの、ところに
「帰ろう………………」