◇ 一月一日・午前9時 ◇



「おはよ…」
 怠そうなため息混じりに、吸い込まれそうな黒い瞳がうっすら開いた。本当に体が言うことを聞かないんだろう、珱は寝返りを打とうとして、腕を上げるのも億劫そうにまたため息を吐いた。
「起きる?」
「ん、や…。もうちょい寝てたい、かな…」
 その気持ちはよく解る。つい六時間くらい前にカウントダウンライヴから流れた打ち上げが終わったばかり、最後はほとんど意識不明だった俺は、どうやって家まで帰り着いたのか実はあんまり憶えていない。珱もきっと同じようなものだろう。…あ、やべ。ちょい気分悪…。
 思わずぐぇと呻いたら、珱は今度こそ寝返りを打って俺の方を向いた。
「大丈夫か?」
「ん。頭はやっと回転してきたみたい」
「お前、飯田さんと正木さんにかなり飲まされてたやろ。気分は?」
「大丈夫…とは言えねぇけど、吐くほどじゃねぇよ」
 とは言っても動いたらやばそうな気もするけどな。


 JUDE初のカウントダウンライヴはデビューから丸三年目の年末、ついに実現した。日本一有名なテーマパークに隣接して新しく建設されたアリーナ級の大ホール。そのこけら落としにキャリアわずか三年のロックバンドが起用されたってことは、最近の異常なまでのJUDE人気とも連動して年末の各メディアをかなり賑わした。
 果たして四時間半に及ぶライヴは超満員、会場は熱気と昂奮で鉄筋の壁が全部吹き飛ぶかというほど盛り上がり、一気に新年へと雪崩れ込んだ。
 一万五千人分の耳を劈く熱狂ぶりに負けない、空気を切り裂くような珱の歌声は、観客だけでなく袖にいる俺までもを完全にノックアウトした。
 その勢いでスタッフ全員が一致団結してセットを二時間で撤収、予定を三十分繰り上げて大打ち上げ大会へと突入。
 メンバーは元よりコウさん、演出とそのアシスタントたち、音響、照明、美術、衣装、メイク、もちろん事務所とレコード会社の関係者まで加わった総勢100名に届こうかという大所帯。ひとり残らずが大仕事を終えた解放感と爽快感を一気に爆発させて、都内某所のホテルで子供みたいに大騒ぎした。
 珱も本当に楽しそうだった。珍しくよく飲んで、だからかいつも最後まで何となく人見知り感の抜けない気難しいヴォーカリストは、盛り上がり過ぎて一線を越え始めたスタッフたちに揉みくちゃにされて、それでも死ぬほど楽しそうに笑ってた。
 俺のほうはJUDEの中でも特に酒に強いベースとドラムの標的になって、寄ってたかってこてんぱんに潰された。会場にいた3・4時間のあいだに、二回吐いて一回意識を失いかけた。で、お開きを待たずに早々と家まで連れて帰ってもらったってわけだ。それも本日の主役に。
 他のメンバーやスタッフは陽が高くなるまで大暴れして、そのままホテルの部屋に直行だろう。たぶん丸一日死んだまま誰も起きてこないに違いない。
「リーダーは帰れてんのかな…」
「さぁなー。コウさんがいるから帰してもらってないんじゃねぇ?」
「美帆さんカンカンやない?」
「もういい加減慣れてるって。アマ時代だってそう変わんなかったもん」
 俺が言うと、珱は可笑しそうに声を上げて笑った。こいつだって相当飲んだはずなのに、俺よりうんとしっかりしてやんの。なんか悔しいかも。
「酔いは? 残ってねぇのか?」
「んー…。自分がめっちゃ酒臭いのがヤかも」
「まぁ…あれだけ飲みゃあなー…」
「やな…」
 時々ぼんやりする意識の中で珱の気配を探しながら、どうでも良いようなことをとろとろ話す。時間の流れがふだんより遅くなってるみたいだ。互いの体温と声がベッドの上を行ったり来たり、そのゆらゆら感がとても気持ち良い。
 指で頬に触れると、珱はゆるく閉じていた瞼をゆっくり上げた。
「なに?」
「別に、なんとなく」
「なんとなく、触んの」
「いいじゃん触るくらい。ケチケチすんなって」
 珱がプッと吹き出した。
「別にケチってへんけどな…」
 大きな瞳を柔らかく細める、その顔がすごく満足そうに見える。

 何に満足してる?
 年末の締め括りが大成功に終わったから?
 ますます弾みをつけたバンドの将来に?
 それとも…

 こうして変わらずお前がここにいることが、俺にとっては一番の満足なんだけどな。
 ―――――珱、お前は?

 しばらく黙って顔を眺めていたら、珱はおもむろに俺の手を取って指先に軽く唇をつけた。
「もっと触ってよし」
 笑いながら自分の頬に掴んだてのひらを押し付ける。指を動かして悪戯すると、くすぐったいのか、きゅっと目を瞑って肩を竦めた。
「もっと? どこでも?」
「ええよ、どこでも」
 それはそれは。じゃあ、お言葉に甘えて。



 ぱらりと額に掛かる艶のある髪を指で掻き上げる。珱がすっと目を開ける。何か思いついたのか唇を少し開いて、思い直したようにまた閉じた。
 親指の腹で色の濃い頬をそっと撫でる。目尻の際を指先が掠めると、伏せた睫がヒクヒク揺れる。それでもじっと目を閉じて俺の指の動きを追っている。
 ヘンなの。意識しなくても触りたい時には構わず悪戯してるのに、珱が大人しいのが妙に新鮮でつい真剣になってしまった。
 唇とか瞼とか、柔らかい部分に指が触れると微妙に反応するのが面白い。笑いたいのを一生懸命堪えているのがわかる。瞼にキスすると珱は俺の胸をそっと押し退けた。
「キスはナシ?」
 聞いても笑うだけで答えない。
 Tシャツの下から手を差し込んで腹にぴたっと押し付ける。窪んだ鳩尾から胸に向かっててのひらを滑らせると、珱は俺から逃げるように身を捩った。
「何すんの」
「何って…ナニ」
「マジで?」
 声がワントーン低くなって、眉がきれいに中央に寄せられる。こんな不機嫌極まりない顔も見惚れるほどキレイってのは反則だよな、と本気で思う。
「マジっつったらどうする?」
「アホか。今暴れたらお前吐くぞ」
 眉間に皺がさらに深くなる。あれだけ酷い目にあったのに、ちっとも堪えてなさそうな俺にちょっと呆れてるみたいだ。新年初っ端からこんな表情を立て続けに見るのもレアで良いかも。
 一緒にいられる時間が極端に少ないから、珱の見せるどんな表情も見逃したくない。こうしてゆっくり顔を眺めていられるのは、こんな時だけだから。
 だから、もっと見せて。怒った顔でも呆れた顔でもいいから、隠さないで、全部残らず俺に見せろよな。
 黙って見つめていると、珱は落ち着かなげに視線を揺らした。俺がじっと見つめると決まってこんな顔をする。居心地悪そうに何度も瞬きして、照れが最高潮に達すると、最後はむっと上目遣いになる。
 もうすぐ珱は音を上げる。表情が少しずつ固まって、頬がうっすら赤くなって。ほら、……
 にゅっと腕を伸ばして、向き合う頬と額にそっと手を置いた。これで珱は目も逸らせなくなったはずだ。
「斎、目がマジ…」
「バレた?」
 最初は冗談だったのに、だんだん本気になってくるのはいつものことだ。
「軽く運動したら酔いが冷めるかも」
「アホ言うなって」
 言うなり、トンと胸を押されていきなり視界がグラついた。酒がまだ抜けていないんだろう。目の前がクラクラするし、治まってきた吐き気も甦ってきた。まんま二日酔いの兆候だ。
「…来てる?」
「やばい、マジ来てるかも」
 意識し始めた途端、一気に症状が悪化した。
 頼むから新年早々二日酔いってのは勘弁してくれ。我ながら情けなくて涙も出ない。ちくしょう、恨むぞ底なしリズム隊。今度一緒に飲む時はぜってー潰してやる!
「薬飲むか?」
「いや、まだ大丈夫みたい」
 心配してると言うより、珱はなぜかものすごく嬉しそうだ。
「復活するまで悪さは出来ひんな。…自業自得?」
「うるせー、覚えとけよ。復活したらお前も泣かしてやる」
「残念でした。オフは今日だけやから、ぐずぐずしてたらタイムアウトやぞ。"泣かす"時間も無くなるね」
「信っじらんない…」
 冴え渡る意地悪にぐうの音も出ない。
 たまにしか会えないコイビトに向かって、そんなこと言うか?
 ようするに俺は今年も変わらず、このキレイで素直じゃない最強の男にやられっぱなしってワケだ。
「あ、気分悪ぅ…」
 ぐえぇと変な声を出すと、珱はもぞもぞと俺の胸元に体を寄せてきた。
「ヤバなったら早よ言えよ。バスルームまで連れてったるから」
「サンキュー…」
 お世話掛けます。

 しょんぼりしながらそう言うと、珱はうんと得意そうな満面の笑顔で「どういたしまして」と頷いた。




>>> 午後三時