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シオンの笑った顔を見たことがない。
彼はいつもしかめっ面で、まるで「この世の中に楽しいことなんてひとつも無い」と言わんばかりの不機嫌な顔を晒しながら仕事をしている。
正確に言うと、まったく笑わない訳じゃない。
俺たちの職業(と言えればの話だが)の性格上、全然まったく笑わないというのは不可能で、要するに自分の隣に座った某かの機嫌が悪くならないよう愛想というものは必要だ。
愛想という点からいうとシオンは全く愛想無しだ。客の前でもつまらなければ笑顔なんてこれっぽっちも見せないし、嫌なことは嫌だとはっきり言う。たとえきゅっと結ばれた唇が綺麗な弧を描いて引き上げられたとしても、その表情は本気で心の底から笑っているようには絶対に見えない。
それでもたまに、ほんのたまにだが笑顔のようなものを見せることがあって、その美しさと言ったら、滅多に見られない分だけ神々しく感じたりして、馬鹿じゃないかと思うが、勿体ないものを見せていただいたような気すらする。
そういう一種異様な高慢さは常人には絶対に真似できない。それはきっと持って生まれた天賦の何とかというやつで、たとえば俺のような素朴で無害な一般人には10回生まれ変わっても身につけることは出来ないだろう。
だから、かどうかは知らないが、…………俺がこの店で働き始めるよりずっと以前から、シオンは客からも店の連中からも『姫』と呼ばれている。
俺はこの生きながら半分伝説化している『姫』が、あまり好きじゃない。好きか嫌いかはこの際置いておくとしても、シオンは俺にとって、自分から積極的に関わりを持ちたい人種ではない。
それは主にシオンのせいじゃなく…………俺の側の問題だ。
「麻斗未くん」
「はい?」
フロアマネージャーの一条さんが俺を後ろから呼び止めた。振り返るといつもの如くどこから見ても体育会系の立派な胸板が目の前に迫る。その暑苦しい胸に抱き込まれる寸前、すんでのところで俺は半歩身を引いて難を逃れた。
一条さんは気さくで好い人だが、誰でも彼でもお構いなしに抱擁するという悪癖がある。仕事以外で同性に抱き締められるなんてまっぴらだ。
マッチョな支配人はさも残念、という表情を隠そうともせず、大袈裟にため息を吐いた。
「麻斗未くんはホントにつれないのよね」
「……あの、何でしょうか?」
とりあえず話を先に進めるために、俺は一条さんの顔を下からのぞき込んで促した。
「ああ、そうなのよ」
本来の目的をようやく思い出したらしく、ポンと両手を打つ。軽くだが、開店前の店中がぐらりと来そうなでかい音だ。
「姫がね、来れないの」
「はぁ、」
「アシが無くなっちゃったらしくて、家から出られないんですって」
アシって、まさか自分の足じゃねぇだろうが? とは言わなかった。シオンのすることはこの店でしばらく働いたやつなら大体ピンと来る。要するにお迎えに来るはずの誰かの都合が悪くなったから、店の人間に迎えに来させろと言うことだろう。
この店の誰も彼に対して、電車でもタクシーでも何でも、本物の足で歩いてこい! と言わないのは何故だろう?……何ていう疑問はとっくに捨てた。一事が万事この調子、それが『姫』の姫たる所以だ。
「アルファロメオが空いてるから、麻斗未くん、悪いけど迎えに行ってやってくれない?」
「いいですよ。俺、今日は遅番だし」
良いわけがない。やることがないからと遅番のくせに早々と出勤したことを、俺は心の底から後悔した。
俺はシオンが本当に苦手だ。心底関わりたくないと思っているのだ。
「住所は知ってるわよね? 30分くらいで行くって言ってあるから」
そんなことを言いながら、一条さんは明らかにホッとした表情で俺に背中を向けた。そんなに機嫌が悪いのかね、なんて、その時俺は……そんなことをぼんやり思った気がする。
シオンの家は店から車で20分足らず、そんなに遠い距離じゃない。俺は一条さんから話を聞いて、25分で彼の住む12階建ての高級マンションの玄関前に辿り着いた。
真っ赤なアルファロメオをゲスト用の駐車場に放り込んでエレベーターで12階まで上がる。あらかじめ専用のセキュリティナンバーを聞いていたので、エレベーターは何の問題もなく俺を最上階のロフトまで連れて行った。
このマンションの最上階は一部屋しかなく、要するにシオンしか住んでいない。したがって12階に用事のある人間は、シオンの所に来る人間だけ。しがないアルバイターの俺にとっては、夢より遠い幻の暮らしだ。
エレベーターの扉が開くと、目の前に広がるホテルのような光景。歩くと足跡が付きそうなふかふかの絨毯が敷き詰められたフロアをまっすぐ進む。何度来ても慣れなくて、何となく緊張するのは我ながら小市民だと思う。
エレベーターホールの正面、廊下の突き当たりがシオンの部屋だ。重そうな木のドアに時代がかったライオンの顔が付いている。映画なんかでよく見る、掴んでコンコン、とノックするあれだ。俺が思い出すその映像は、いつも何故か白い手袋を填めた執事の手だ。
俺はドアの前に立って息を思い切り吸い込むと、大声で部屋の主を呼んだ。
「姫っ! 俺、麻斗未っ、遅くなった!」
遅くどころか、時間ぴったりだ。それでも、こういう情けない台詞が自然に口をついて出てくる。やれやれ、何てこった。
返事はなかった。俺は黙ってドアの前で待った。ノッカーを使わないのは、以前そいつでドアを叩いて呼んだら、うるさいと言ってしばらく出てこなかった(違う、あやうく追い返されそうになった)ことがあるからだ。
じゃあ、どうすりゃいいんだと聞く俺にシオンは、初めきょとんとした顔を見せて、それからあの、花が開く瞬間のような笑顔を見せてこう言った。
『アンタが他に出来ることは何だ?』
と言うわけで、それ以来俺はこうしてドアの前に突っ立って、大声を張り上げるようになった。
しばらく待って、もう一度その場で10数えて、俺は諦めてドアノブに手を掛けた。案の定、ドアは簡単に開いた。ドア自体は全く無駄に重いのだが。
「姫? 起きてるか?」
電話を掛けてきたくらいだからその時は起きていたに違いないが、それからもう一度眠り込んでいないと言う保証は何処にも無い。大きな音を立てないように注意しながらドアをそっと閉めると、俺はホテルのスイートルームのような、がらんとした空間に足を踏み入れた。
呼んでも返事がないときは入っても構わないとは、一番最初に迎えに来た時に本人から言われた。どうせ知らない人間はここには来ないからと、どうでもいいと言いたげな口調で。
呆れることにこの部屋は、本当に愛想というものがない。まるで住んでいる本人そのものだ、と本気で思う。だだっ広い天井と窓に囲まれた空間は、壁という壁が埋められていず、床も隠れている所が無い。家具というものがほとんど置かれていないからだ。机とか戸棚とか、普通に生活していれば普通にありそうな家具が、この部屋にはひとつも無かった。あるのは部屋の風景が映り込むほど良く磨かれた黒いグランドピアノと、濃いキャメル色をした革張りのソファ。本当にそれだけだ。
がらんどうのリビングルームを横切って寝室へと向かう。バスルームより寝室へ先に向かうのは、いきなりバスルームで鉢合わせするのは勘弁して欲しいと思うからだ。
玄関扉より軽い色調の木製のドアを押し開くと、そこは空だった。人のいる気配は無い。ため息を吐きたい気持ちを何とか押し殺して、仕方なくバスルームへ向かった。
これが俺の、シオンを苦手とする最大の理由だ。
俺は客を相手に酒を飲ませたり遊ばせたりする店で働いている。いわゆるホストのようなものだ。一般的に想像するホストという職業と違うとすれば……その相手が男、同性という所。給料が他のバイトに比べて信じられない程高くて、つまり金のために自分を売って生活しているというわけだ。
この職業に就くと決めたときから覚悟していたから、仕事のときに誰に肩を抱かれようが手を握られようが、たまに股間に触れられることがあっても、慣れた。別に減るものじゃないし、嫌悪感もそれほどない。
だが、セックスとなると話は別。どうしてもそれだけは出来ないと、この店に面接に訪れたとき、俺は最初に支配人に言った。それはいっこうに構わない、というのが一条さん、ひいては店の答えで、俺はここで金を稼ぐことに決めた。
同伴オーケーのほうが何げに給料が高いと言う噂もあるにはあるが、店側も法律面への配慮があるからか表向きは同伴を奨励していないし、今のままでも十分金を貰えるからしたいとも思わない。俺自身は同性嗜好と言うわけじゃないのだ。
なのに、俺はシオンが苦手だ。というより、心をかき乱されるといったほうが正直だろう。シオンは俺の心のどこかに、何らかの波紋を呼び起こす存在なのだ。
例えば仕事中ふと目が合った瞬間、ぼんやりしていてハッと我に返る瞬間、いつも俺の目の前にはシオンがいる。
それは俺が無意識にシオンを目で追ったり、その存在をいつも意識しているからに違いない。そう思う。
初めてこの部屋を訪れた時もそうだった。いくらドアをノックしても出て来ないシオンを、俺は途方に暮れながら待った。ずいぶん長い間ドアの前に立ち尽くして、とうとう諦めかけたとき目の前の扉が開いて……現れたシオンはひどく不機嫌で、『お前は誰だ』と宣い、挙げ句の果てに自分で呼びつけた俺に向かって『帰れ』と言い放った。
その姿は素肌に薄い部屋着を纏っただけ。白い首も白い腕も足も無防備に明かりの下に晒されて……信じられないことに俺は勃起した。
ショックだった。
男の相手を喜んでするのは仕事だけ、本来の俺はけっして同性愛者じゃない。そう思うことで自分を正当化しようとしている己の浅ましさに気づかされたからだ。
どこが違う?
どこも違わない。誰を愛していようと誰に欲情しようと、本質は同じ、みんな獣だ。
そして俺はその時明らかにシオンに欲情した。
それは何故だ?
答えは…………もうすでに知っている気もするし、知らないなら知らないままの方が良い、ような気もする。
だから俺はシオンに近づきたくない。出来れば……出来ることなら。
バスルームの前に立って、声を掛ける。やはり返事は無い。水音も聞こえない。まさか……
慌てて不透明なガラスのドアを開ける。
シオンは真っ白なタイル張りの床の上に、手足を投げ出して倒れていた。
「姫!」
屈み込んでその華奢な体を抱き起こすと、力の抜けた細い腕が俺の腕の中からだらりと零れて床に触れた。
「おい、どうした!?」
自然な流れでカーブする髪は濡れたまま薄く色づく頬に張りついている。電話があってから今までそんなに時間は経っていないはずなのに、腕に触れるとびっくりするほど冷たかった。一体いつからこうしていたんだろう?
俺は腋と両膝の下に腕を差し込むと、そのままシオンを抱き上げた。見た目より重く感じる体を抱えてバスルームを出る。何か着せてやりたかったが、見えるところに服らしきものは無い。仕方なく急いで寝室に飛び込んで、ベッドにシオンを横たえた。
意識があるのかどうかすら怪しいものだ。血管が透き通って見えそうな頬は青ざめて、閉じられたままの瞼が苦しげに震えている。と、ひくりと唇が動いてうっすらと開いた。
「、……」
「何?」
聞き取れなくて、口元に耳を近づけてもう一度訊く。
「ま、……と、…………」
言葉はまともに繋がらないまま、シオンはゆらりと首を傾けて、やがて動かなくなった。
目の前に横たわるシオンのしなやかな肢体。何も着けていない肌は薄いカーテンから差し込む傾きかけた日の光に溶けてしまいそうだ。
俺はまるで阿呆のように、ベッドの端に腰掛けてじっとシオンを見下ろした。恐る恐る手を伸ばして、その細く長い首筋に人差し指でそっと触れる。
不思議な感触。柔らかい……のだろうが、そういうのじゃなく、俺は感動した。磁器のような肌というのはおそらくこういうことを言うのだろう。するりとして不快な凹凸がなく、人肌と思えないほどヒンヤリしている。でもそう思ったのは一瞬で、指先はすぐにシオンが温かい血の通う人間であることを俺に教えた。触れていると分かる。シオンの体温は普通よりきっと高い。
掌が鎖骨の辺りに広く当たっても、シオンは目を開けなかった。少しだけ身動ぎをして、また静かな呼吸の音。俺は驚いてとっさに引いてしまった手を、もう一度胸の辺りに押しつけた。
昔何かの映画の中で、彫刻家が作品の出来を確かめるのにこうして自分の掌をくまなく彫像に這わせる、というシーンを観たことがある。それは圧倒的にエロティックな香りがした。
動かない、命すらないものを、一方的に支配する。その対象が本人の作り出したものだからこそ、ある意味陵辱より屈辱的で、自慰的な意味合いをも感じたからだ。
この感覚は、あの彫刻家と同じだろうか? 俺は俺自身が作り出したシオンの幻想を確かめているのかも知れない。
何もかもが不確かで、曖昧な感触しか伝わってこない。
夢なのかも知れない。シオンの存在そのものが。
俺はゆっくり身体を傾けると、自分の唇をシオンのそれに深く重ね合わせた。
湿った唇の温度。生暖かく、柔らかい。唇の裏側の粘膜に触れると、微かに果物のような味がした。
シオンがわずかに唇を開けて、息をしようとする。それを遮らないように少しの間だけ重なりを解いた。
掌はいつのまにか腹部にまで達している。薄い皮膚を通してはっきりと分かるシオンの骨格を丁寧になぞる。仰向けに寝ているせいで少し抉れた腹部に触れると、両膝がゆらりと持ち上がって…………
気がついたら、俺はシオンの身体を上から覆うように乗り上げていた。
服を着たままの腰に足が絡みつく。まるで柔軟な生き物のようにまとわりつくそれは、重さは全く感じられないのに何故か動くことが出来ない。
「ま、と、…………」
触れるか触れないかの位置で唇の動きを追う。最後の声は聞き取れなかった。
けど分かる。俺の名前だ。
囚われたと、思った。
無意識のまま止まっていた手が動き出す。そうしようと思っているわけじゃない。そうしたいと思っているわけですら。
掌がシオンのペニスに触れた。
それはほんの少しだけ堅さを増して俺の指が触れるのを待っている。何故かそう思った。
筋に沿って下から上へ指を這わすと、ひくりと腰が浮き上がる。小さく声が漏れて、シオンはもう一度俺の唇を探すように喉を反らせて、喘いだ。
「麻斗、未…………」
今度ははっきりと俺の名を呼ぶ。
頭が真っ白になっていく。手の中でどんどん大きくなる欲望の象徴は、触れているだけでやがて甘ったるい感触の蜜を吐き出し始める。
背筋がヒヤリとした。
俺も。
同じだ。
俺も…………………………
血の気が引いた。
弾かれるようにシオンの身体から飛び退いた瞬間。
目に映ったのは、何か言いたげな瞳で俺を見つめるシオンの白い顔。それは俺が初めて彼に会ってから、一度も目にしたことのない表情だったように思う。
あれは一体何だったんだろうか?
今でもまだ答えは見つからない。それは一瞬だけ煌めくように俺の心をまっすぐ突き刺して、すぐに何処かに消えてしまった。
シオンの唇が奇妙な角度で引き上がる。あの笑顔だ。心の底から浮かんでこない、偽りの微笑み。
「やめんのか………………?」
俺は答えられない。
初めからするつもりもなかった。それをどう言えばいいっていうんだ?
「意気地がねぇなあ…………」
辛辣な台詞だが嘲笑には聞こえない。それは素直な感想のようだ。
今にも倒れてしまいそうな身体を何とか引き起こしてベッドから滑り落ちた。羞恥と情けなさと意味の分からない感情の揺れが一度に襲ってきて一秒でも早くこの場を立ち去りたいのに、足が思うように前に進まない。四つん這いで這っていなかったかどうか、それすら自信がない。
1キロメートルもあるように感じる長い道程の末ようやく玄関のドアに辿り着いたとき、背後からシオンの声がはっきり耳に届いた。
「抱きたくなったらいつでもおいで。俺はたぶん、待ってる」
たぶん? 言ってる意味が全然分からない。
そして俺はマンションを逃げ出した。シオンの前から、文字通り、這うようにして。
その日俺は店を辞めた。理由は適当に付けた。こういう商売だからか、いきなり辞めると言い出した俺に店はあれこれ深く詮索しない。一条さんはその日までの給料をすぐに計算して、退職金だと言ってその合計の二割増の金額を現金でポンと渡してくれた。
「気が変わったら、いつでも戻ってらっしゃい」という、親切な言葉さえくれた。
もうすっかり日が落ちてこれからネオンが輝きを増す時間になる。この街は夜眠らない。一晩中爛々と目を輝かせて、それぞれの思いを抱えて行き過ぎる人々を見下ろしている。
人混みでざわつく街頭をふらふらと歩きながら俺は考える。
なぜシオンを抱きたいと思ったんだろう?
なぜシオンを抱くことが出来なかったんだろう?
答えは無い。たぶん、初めから、その問いかけすらも。
最後に振り返ってシオンの笑顔をもう一度見ればよかった。
「待ってる」と言ったシオンはきっと笑っていただろう。あの、見る者の胸を痛くさせるきれいな顔で。
見てもいないのに………………何の根拠もなく、そう思った。
end
ある言葉がどうしてもアタシの中から出てこなかったお陰で、この物語は本当の意味で未完です。それが見つかったとき初めて完結するか、それとも続きが出てくるか自分でも予測がつきません。
シオンという少年はアタシの中で、ある意味天使のような存在だったりします。
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