いつのまにか眠っていた。ベッドに寝転びながら本を読んでいたのがいけなかったんだろう。読みかけの本を探すとバサリと床に落ちていて、かなり情けない格好で表紙が外れて散らばっていた。
 小さいわりに秒針の音がやけに響く古い時計が午後二時を差している。それにしては外がやけに暗いな、と智己は思った。雨が降っているのかも知れない。さあさあと耳に涼しい音は智己の耳には一向に届いて来ないが、起き抜けの頼りない聴覚には小雨程度の緩やかな雨音は、古い電化製品の立てる無遠慮な起動音でたちまち掻き消されてしまっているだろう。明るすぎる日光を遮るための簾が今や腐った茣蓙のように窓をうっそりと覆っていて、こすりこすり目を開けてもやはり外の様子は全く分からなかった。
 智己の住んでいる部屋は学生としては一見贅沢な一軒家だが、築三、四十年にはなろうかという木造の、いわゆるぼろ家だ。
 畳は色がすっかり抜け落ちてイ草の香りなんて望むべくもないし、壁の中にはたぶんシロアリもいる。ついこの間床に物を落として拾おうと思い屈んだ時、壁に怪しげな穴を発見したのだ。
 智己は生まれてからこの方シロアリというものにお目にかかったことはないが出来れば一生見たくもないと思ってもいるから、釘をぽつっと差し込んだ跡のようなその小さな穴に粘土を詰めて塞いでしまった。果たしてアリは怒るだろうか。怒ったシロアリの反乱は考えただけでかなり嫌な感じがするが、差し当たってはシロアリの存在を実感するよりはマシだろうと自分を納得させることにした。
 今日の授業は午後からだ。いや、午後からだった。もう始業時間はとっくに過ぎているのだ、今さら遅刻してまで大教室に飛び込む気にはなれないし、今日は自主休講ということにしよう。
 床に散らばった本を拾い上げてカバーを丁寧に掛け直す。この本は人から借りたものだから、本当なら汚したり傷めたりしてはいけないものなのだ。それにこの本の持ち主はそういう細かいことにひどくうるさい。会う度に智己が目を剥くような奇天烈な格好をすることは何でもないくせに、そういう所はまるで大正生まれのじいさんのようなのだ。
 本は現代詩人の詩集だった。何を思ったのか突然そんなものを買ってきたかと思うと、智己に「読め」と言う。
「ヤダ」
「ええから読めよ」
「何で俺がそんな辛気臭いもん読まなあかんねん」
 世の中にはもっと単純に、智己を楽しませてくれるものが沢山あるというのに?
「んなもんより、こないだ買った漫画貸せや。読んだら貸してくれるって言うてたやろ」
「ああ、あれな、捨てた」
「な、何ィ〜!?」
 びっくりするようなことをあっさりと言う。
「それってあんまりやろ、俺、楽しみにしてたのにっ。古本屋で見つけたのは俺やぞ−!」
「金払ったんは俺」
「それはたまたま俺がその時金持ってへんかったからやろっ。後で払うって言うた時、いらんて言うたんはお前やろうが」
「でも実際払ろたんはあくまでも俺。従ってあの本に対する生殺与奪権は俺にある。拠って俺があれの廃棄処分を決定した。以上、了解?」
「出来るか、ボケっ!」
 心底頭に来てたまたま手に当たった枕やらタオルやらティッシュボックスやらを手当たり次第投げつけて大暴れしたが、そんなことをしてみても後で掃除をする手間が増える分自分が損をするだけだということを嫌と言うほど思い知らされただけだった。
 もう一度深々と息を吐いて、智己は仰向けに寝転んだまま拾い上げた詩集を開いた。
 あの変人に嫌々無理矢理押し付けられた本だったが読み始めると意外と面白く、実のところ現在八合目、頂上(完読)まであと20ページという所まで来ている。こういう所がまた智己の癪に触るのだが。
 眠気が戻ってこないうちにもう少し読み進んでみようか。上手く行けばあと1時間程度で読み切ってしまうかも知れない。そうすれば夕方のあの男との待ち合わせの時、あの忌々しい澄まし面の鼻先に居丈高に借りた本を突き返してやれるかも知れない。それはひどく面白いことのような気がした。
 よし、ガンバレ俺、と俄然やる気を起こしてガバッと本を開いたら、目の前のごく近いところからぱらりと何かが落ちて、智己の視界を覆った。
 紙だ。この重さ、この感触、匂い。そうだ、紙の匂いがする。
 親指と人差し指で摘んで一応目で確認してみると、やはりそれは紙切れだった。
 それもノートか何かの切れ端のようないかにも適当な代物じゃなく、便せん、中でも短い文章を簡潔に認めるためのいわゆる一筆箋とかいう紙切れだ。木の屑が混ざったようなざらざらした手触りの淡雪色のそれに、誰が書いたのか流れるような筆跡がくっきりと濃い墨色で置かれている。素人目にもハネもハライも完璧なかっきりとした楷書体は、書いた本人のわざとらしい作為すら読み取れるようだ。
 便せんは貸した本を智己が最後まで読み終わったら目に入るよう、最後のページに薄糊で貼り付けてあったらしい。智己がたまたま高い位置から本を床に落としたので、衝撃でその止め付けが剥がれて顔の上に落ちてきたのだ。
 書いたヤツの見当は付いている。まず間違いなく、『ヤツ』だ。こんな持って回ったような、しち面倒臭い悪戯を思いつく知り合いは、すぐに思い出す中では一人しかいない。智己は目を細めてゆっくりと文字に目を走らせた。
 

 今日はお前のハッピーハッピーなバァスディだぜ 。憶えてるかい? 愛しのハニィにお前の好きな天然100%オレンジと、泣いて悦ぶお楽しみを用意したぜ。冷蔵庫を開けて見な。驚いてぶっ飛んで、俺の可愛い尻ほっぺにキスしたくなっちゃうこと請け合いだ!              =各務大明神=


「…………」
 読まなかったことにして、細かく破いてゴミ箱に投げ入れようかともと思ったが、何だか嫌なものを冷蔵庫にツッコまれているのもゾッとしない。そしてヤツならやりかねない。それがどんなことなのかは想像したくもないが、智己が悲鳴を上げながら頭を抱えて、冷蔵庫の前で蹲ってしまうような怖ろしいことをだ。
「あの、クソ野郎が…」
 ぼやきながらベッドからどうにか体を起こす。すでに手足は拒否反応を起こしかけているらしく、胃は石を飲み込んだようにずっしり重い。
 ドアを開けるなり、ねず…とか…カマキ…とかいうおぞましいコレクションがごろんと転がり出して来ないことを切に願いながら、恐る恐る冷蔵庫の扉に手を掛けて、息を詰めて勢い良く引っ張ると―――――
 驚いたことに冷蔵庫の中身はカラッポだった。昨日食べた菓子パンの残りも、まだ3本はあったはずの買い置きのビールもペットボトルのミネラルウォーターも見当たらない。…一体あれらは何処へ行った?
 それはそれでものすごく嫌な考えが頭を掠めたが、とりあえずの智己の興味は中段にちょこんと置かれたオレンジ色の小瓶とその横に積まれた3冊の本、に引きずられた。
 手を伸ばしてまず小瓶を取り出す。間違いなく奴の言った通り、天然果汁100%のオレンジジュースだ。見たことのないメーカーのラベルにでかでかと踊るような文字で『そのまま搾りっぱなし! 濃縮還元ではありません!』とのコピーが付いている。
 搾りっぱなしという言葉の響きはあからさまな卑猥語よりさらに卑猥な気もするが、販売には問題ないのだろう。それに確かに智己は濃縮還元されたジュースが何より嫌いだから、各務はたまたまどこかで目に付いたそれを大事に持って帰ってきたんだろう、そのことには素直に感謝した。あとでゆっくり味わいながら飲ませてもらうことにしよう。
 次に智己は本を手に取ってみた。おそらくこれが真の意味で問題だと思う。そもそも冷蔵庫から本を取り出すという行為が人の心をこれほど掻きむしるものだと言うことを、世の何人が体験しているだろうか。妙な行動だ。あまりにも理不尽だと思う。
「あっ! あれ、…あ、れ〜」
 悲しみに暮れながら簡素な装幀に目を落として、智己は素っ頓狂な声を上げた。
 本は、紛れもなく智己が熱心に古本屋を探し歩いていた漫画本だった。シリーズ全三巻、つい最近苦労の末ようやく発見した一巻目をあの変人にあっさり捨てられてしまった例の本だ。
 表紙の真ん中に墨文字ででかでかと『捨てるわけないやろ、アハハン』。
 どう見ても表紙の紙に直接書いてある。…あのクソ野郎、ぜってー殺ス……。
 顔のど真ん中を流麗な文字に縦断されながら、人の好さそうなキャラクターは智己に向かってニコニコと笑いかけている。
 主人公の犬型ロボットくん、お前はなんて心の広い、好い奴なんだろう。
『まいいじゃん、いいじゃん。許してやんな。そこがお前のっ、い・い・と・こ・ろ♪』
 智己の脳裏に突然鳴り響いたのは、洗面所でおかしな鼻歌を歌いながら歯を磨いている各務の、調子っぱずれな歌声だ。
 放心して脱力して、へなへなと冷蔵庫の前に座り込む。
 呆れて物が言えないとはまさにこういうことを言うのだ。こんな時にいきなりあの歌を思い出すなんて、まさかこういういざという時のために、各務はわざとあの奇妙な鼻歌を毎朝歌い続けてたんじゃあるまいな…。あり得ないことだと自信を持って言い切れない自分が何となく哀れだ。
 各務のしでかすことはいつだって智己の想像可能領域の、はるか一万メートルほど上空を超して行く。その数字に意味はない。数値に置き換える意味がないのと同じようにだ。
 それがどうした。そんなことはもうどうでも良い。納得の行く答えなんて、どうせ初めから有りはしないんだから。
 ふと見ると黒く小さい蟻が綺麗に隊列を組んで、智己の脇を静かに通り過ぎる所だった。
 彼らの向かう先は冷蔵庫の横に無造作に置かれたコンビニの空き袋。だらしなく横に倒れて、中身の一部が床に転がり出ている、まさにその塊だ。
 目を凝らしてじっと見る。何か、無性に見覚えがある気がした。
 ―――――間違いない、あれは菓子パンだ。昨日俺が食いかけて止めて冷蔵庫に大切に保管した、ジャムパンの残り。
 よく見ると袋の奥の方にビールの缶らしき物体も見える。おそらくミネラルウォーターも同じ袋の底にでも突っ込まれて、仲良く床に転がっているんだろう。
 何てこった。何てこった。まったくなんてこったよ、各務のクソボケ野郎が!
 餌に向かって一心不乱に行進する蟻の列を遮らないよう、智己は少し離れた場所にごろりと体を横たえた。
 蟻たちは智己を邪魔にするでもなく、せっせと目的に向かって邁進している。
 それでいい。余計なことを考えないで素直に楽しめ。欲望のままに突っ走れ。
 虫も動物もおそらくは人間だってそういう奴が一番強い。…俺が保証してやる。
 先頭の一匹がようやく念願のお宝に辿り着いた瞬間、智己はもんどり打って仰向けに転がると、涙を流しながら手を叩いて爆笑した。



end


 「発火エゴイズムラヴソニSP番外編」、BD記念に差し上げるつもりで書いたものの、エロどころかBLですらないことにハタと気づき、やむなくボツに。
 変人各務(カガミ)と哀れな凡人智己(トモミ)、この人達デキてます。この話だけでは全く読み取れませんが。(微笑)




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