photo by crimson




 

 

 空がやたらと青かったのを憶えてる。
 広い肩越しに見上げた空は、作り物のように美しく、どこか不透明だった。
 ふかふかと軟らかい肉なんか一片も無い固く尖った肩に顎と頬を押しつけて、僕は瞳だけで空を見上げた。
 苦しくはなかった。背中に当たる掌の熱は、何故か僕が今いるべき場所を、くっきりと、でも輪郭はぼんやりぼやけたまま僕に教えてくれていた。
 苦しくはなかった。胸は詰まって痛かったけれど。

 そのうち息が苦しくなったのは決して、抜けるような青空を懸命に見上げていたせいじゃない。







「好きなんだけど」
 僕がそう言うと、タカは少し目を見開いて、わずかに首を傾けた。
 これは僕も僕じゃない人間もよく見慣れたタカの癖だ。心に浮かんだ疑問を口に出す前にタカは必ずこんなふうに、ひどく無邪気な表情を見せる。
 どこから見ても精悍な少年らしい顔つきが、ふっとどこかに飛んで行ってしまう。同級生より少し大人びて見えるタカのミニチュアでも見ているような気分にさせられる。
 僕はタカが見せるどんな表情より、この顔が好きだ。
 もう少し長くその表情を見ていたくて、壊れないようにと願いながら、わざと平坦な声音に聞こえるよう僕はもう一度同じ言葉を繰り返した。
「好きなんだ」
「誰が」
「僕が」
「誰を」
「タカを」
 僕の好きなタカの『無邪気』が少しずつ崩れ、変化する。寂しいけれどそれは仕様のないことだ。僕の突然の告白にタカが驚かないことの方が不思議なんだから。
 僕らはかつて友達だった。ほんの数秒前、僕が心にずっと刻んできたひとつの言葉を口にするまでは。







 タカが同じクラスの女の子と付き合い始めたのは知っていた。そのことが僕の耳に入ってきたのは、つい昨日のことだったのだけれど。
「なぁ吉住、お前山下と付き合ってるってほんと?」
 何となくだらだらと数人が残った放課後の教室で、クラスの盛り上げ役、ついでに情報伝達班班長である芳井が口を滑らせるまで、僕はそのことを知らなかった。
「山下が嬉しそうに俺に言ってきたんだぜ、『あたし吉住くんと出来ちゃったよ』って」
 口を滑らせたんじゃなく、芳井は確信犯だ。効果的な演出は最初から用意されていたんだろう。あまりにあからさまなその台詞に、周囲の級友たちがわっと湧く。
「すげー、山下も言うねっ」
「出来たってなに、やっぱそういうこと? マジで?」
 よく考えれば自分達には何の関係もないはずの事を、まるで鯉が投げ込まれた餌に群がるように大きな声で口々に囃し立てる。タカはずっと黙ったままだ。
「やっぱ山下は吉住狙いだったか。くっそー、どうりで最近やたら吉住に構ってると思ったらよ」
「ここんとこアプローチ激しかったよな。そうかー、山下の粘り勝ちってか?」
 山下由加里という女の子はクラスの中だけでなく、学内でもかなり目立つ存在だ。物言いがハッキリしていて強引で、特にその容姿は垢抜けていて可愛らしく、『ミス南高』という呼称に似合いの華やかな雰囲気を持っている。
 その山下がタカのことを気に入っているらしいという噂は、二年に上がったあたりからどこからともなく僕の耳にも届いていた。
「な、な、樋口も知らなかったんだろ、吉住が山下と付き合ってるって」
 芳井は裏も表も全然無いような、本心がどこにあるのか見当も付かない明るい笑顔で僕を振り返った。
「うん、知らなかった。初耳」
 本当に知らなかったから僕は素直にそう答えた。
 芳井や他の連中は僕の答えに満足したらしい。さもありなん、と言った顔つきでタカ以外の全員が同時に首を縦に振る。取り残される仲間は一人でも多い方が良いに違いないのだ。
「二人だけの隠密行動だったってワケね。やるな、吉住。山下っつったら3年にもファンがいるくらいモテるらしいぜ。顔、可愛いしな。俺の知り合いの先輩なんか『お前のクラスのカンノミホがさぁ』とか言っちゃってるもん」
「カンノぉ? 山下ってもちょっと子供っぽくねぇ? カンノって色っぽいじゃん」
「いや、山下もかなりキテるだろー」
 他愛ない会話だ。今にもきゃーっと黄色い声を上げそうなその場の雰囲気は、クラスの女の子たちが男の目を気にしながらひそひそ話で盛り上がっているのとそう変わりない。何を話しているのかは知った事じゃないけれど。
 比べて目の前で大袈裟にはしゃぐ彼らの頭の中は、女の子の考えていることよりはよほど解りやすい。
 同い年の奴に先を越された。興味と羨望と嫉妬が入り交じった複雑で単純な感情の渦。それは僕にもよく解る。

「出来てねぇよ、バカ」
 タカは目を伏せて軽く息を吐き出すと同時に、低い声でそれだけ言った。他に一言もない。黙っていたことをズバリ言い当てられて困ったような様子も見せない。足下がふわふわと浮くような気恥ずかしい空気の渦の中心にいるくせに、タカは一人驚くほど平然としていた。
「なんだよ、照れんなよ。いいじゃん山下なら、コレもんでいただきま〜すって感じだろ?」
 芳井がわざとらしく大きく手を振り上げて、顔の前で両手を合わせて拝む真似をすると、周囲の空気はいっそう勢い良く盛り上がった。
 これも他愛ない冗談。僕らには何の関係もなく、タカと、山下との間に起こったことだ。誰も本気で興味を持ってもいなければ喜んでもいない。明日になればクラスの話題はきっと別の内容に変わっているだろう。彼らにとってはそれぐらいのことだ。
 彼らにとっては。
「な、よしず…」
「別に照れてない。出来てもいないけどな。…行くぞ」
 つまらなさそうにあっさり言って、タカはいきなり僕の腕を掴んだ。タカの手は指が長くて大きいから、下手をすると僕の手首は両方とも一纏めにされてしまいそうだといつも思う。
 グイと引っ張られて体が前方にぐらりと傾ぐ。転ぶんじゃないかとヒヤッとするより早く、タカは僕の背中に腕を回してくれていた。僕はそのままの体勢で、タカにすっぽり抱えられたまま教室を出た。ぴったり押し付けられた腕や脇腹辺りから、タカの静かで熱い体温がひたひたと伝わっていた。
 タカも僕もその場にいた誰一人として、「じゃあな」とも「バイバイ」とも言わなかった。
 夕方の教室が一瞬だけ完全に真空になってしまったように。


 引きずられるように足を運びながら振り返って見たときの、キョトンとした顔つきで一列に並んで僕らを見送るクラスメイトの顔が、妙に幼く見えたのは何故だろう?






 黙って肩を並べて僕らは今日も同じ帰り道を辿っている。一昨日も同じ。昨日も同じ、そして今日も全く変わらない道程だ。
 隣を歩くタカの足音も歩幅も息遣いも変わらない。それはきっと僕にも言えることで、タカは聞き慣れた僕の足音や話し声を、いつもと同じく聞くともなしに聞いているんだろう。
 高校に入学した時からほとんど変化しない日常の風景。時々目に映る花の色が濃くなったり薄くなったり、雲の流れが早くなったり遅くなったり、それぐらいの。
 ずっと、何も、変わらない。

 そんなこと一体誰が決めた? なぜ決まっていると思い込んでいた?
 何も決まってなんかいなかった。
 だから気がついたときには変えられてしまっているんだ。気がつくのがほんの少し早かった誰かの手で。


  
 立ち止まって見上げた空はセルロイドで出来ているみたいに、透明なのにどことなくぼんやり霞んでいる。
 あたりまえの道程で、あり得ない場所で足を止める僕に、タカはもうすぐ気がつくはずだ。そしていつのまにか自分の隣から消えてしまった僕を探して振り返る。
 日常は緩やかに形を変える。ひっそりと、物音も立てないで、昨日までと違う道を辿り始める。
 タカが振り返ったら一体僕はどうするんだろう。






 タカはずっと目を見開いて僕を見ていた。
「好き、なんだ」
 他に言葉が思いつかなくて、僕は壊れたアナログ盤のように繰り返す。もしかしたら自分が山下と同じ言葉を口にしているかも知れないと思ったら、少し笑えた。


 『好き』以外の言葉をたぶん、誰も、知らない。
 それひとつでは意味を持たないふたつの音が繋がっただけで、僕の心の中に埋もれていた細々とした破片が、磁石に吸い寄せられるようにひとつの場所に集まり始める。
「…驚いた?」
 聞くとタカはしばらく黙って僕の顔を見つめてから、
「いや…、そうでも…ない、な…」
 首を傾げながら静かに言う。
「知ってた?」
「まさか。考えたこともなかった」
「だろうな」
 タカの言葉はとてもありふれていて穏やかだったから、僕は思っていたよりはるかに落ち着いてタカの顔を見つめていられたように思う。
 痛みも悲しみもそこにはなかった。僕はただ目を凝らして刻々と変化していく日常を見つめていた。
 
 その先に道は続いているか?



「考えてたことと違う事が起こると、慌てるな」
 普段より少しトーンの落ちたタカの声は、映画館の壁面の両側に据え付けられたスピーカーから零れている。両の耳から流れ込むその音は、頭の中心でぶつかり合って初めて意味を紡ぎ出した。
「考えてた事って?」
「山下が俺のこと、好きだって」
「うん。それで?」
「そんなもんかと思って…キスしろって言うから、した」
「うん。それで?」
「キスし終わったから、そのまま帰った」
「…それだけ?」
「それだけだ」
 やがて僕らの頭上に沈黙が降る。タカがそれ以上何も喋りそうになかったから、僕もずっと黙っていた。「それだけ」というタカの言葉と、自信と幸福に満ちた山下の顔が交互に頭に浮かぶ。その痛々しい眩しさに思わず目を瞑った。

 先に口を開いたのはタカの方だった。
「…それだけじゃない」
 タカは唐突に僕の名前を呼んだ。目を開けるより早く、今度は言葉が降り掛かる。
「山下とじゃなくて、お前とすればよかったって、思った」
 僕の動作はひどくのろくて、タカの顔を見つめるまでに何秒も何分もかかった気がする。
 お互いの視線が確かに絡み合ったのにしばらく気がつかないくらいには。

「どうせならお前とキスしたかったってな」

 そうだな。そうしたら、せめて僕らを変えるのは僕ら自身だった。
 そんなことくらい、もっと早くに気がつくべきだった。自分達じゃない誰かの手で変えられてしまう前に。
 僕らは肝心なところでいつでも少ししくじるんだ。

「バカだな」
「そうだな…。バカだな」
 首を傾けて少し笑んだタカの瞳がひどく眩しい。




 僕はもう一度振り仰いで空を見上げた。
 数分前目にした時と寸分違わないセルロイドの青。透明な大気の層はとても作り物めいて、だけれどそれが間違いなく本物だということを、僕らはちゃんと知っている。
 もしかしたらこの空の青だけはいつまでもずっと変わらないのかも知れない。何が、どんなふうに形を変えようと。
 僕とタカとを繋ぐ道が、予測もしなかった方向に変わろうと。
 それならいいと思う。
 変わらないものもあるのなら。

 タカが、願い事のように口にする。 
「今度、明日、ここでキスしようか」
「今日と同じように明日がちゃんと来たら、…してみたいな」
 僕が、願い事のように返事をする。


 それから僕らは黙って、またそれぞれの家に向かって歩き出した。
 明日が今日と同じかどうかなんて、そんなこと、誰も知らないから。



 
 次に訪れたのがたぶんいつもと変わらない朝だったから、僕らは学校に行きがけの道の途中で立ち止まって、セルロイド色の青空の下で、どちらからともなくキスをした。




fin


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