|
● ジョシュア
●
その夜僕は夢を見た。
見覚えのある海岸沿い。
海岸線の向こうになぜか、大きな大きな木が一本ひゅるりと立っていて、反対側の丘の上には真っ白な花が線状に連なって、先の方が霞むくらい遠くまで咲いている。
その浜辺を少年と犬が走っている。ときどき立ち止まっては鼻を突き合わせて、砂の上に転がって遊んでいる。
僕は彼らから少し離れた場所に立って、じっとその光景を眺めている。
うんと長い時間が過ぎるまで、僕らはずっとそこにいた。
それはとてもしあわせなしあわせな夢だった。

「ジョシュアが死んだんだ」
と電話口で突然、航平が言った。
僕はその時窓を見ていた。
水滴で曇った窓ガラスの向こうは、相変わらず雨が降り続いている。ポツポツポツとガラスに撥ねた透明な水が、3つくらいの先客を巻き添えにしてとろんと斜めに流れて行った。
「ちゃんと会えた?」
僕は出来る限り落ち着いた感じで言ってみた。それ以外にこの場面で僕に出来そうな事は無い。
「うん。最後には間に合った。彼女が眠るまでずっとそばに付いてた」
「そう…。それだけでも、良かった」
僕がそう言うと航平は少し黙り込んで、
「うん、そうだね。…それだけでも良かったよね」
と言った。
ジョシュアは享年16才の航平の姉弟だ。彼女は航平が小学生の時に航平の実家にやって来て、それから16年間をずっとそこで過ごした。
ジョシュアはだから、航平が大学を卒業して実家を出るまでの12年間、彼の人生の約半分近い時間を航平と共に過ごして来たことになる。
航平のうちにやって来たときのジョシュアはほんの赤ちゃんだったが、彼女は見る見るうちに成長して体格も大きくなって、年齢もあっという間に航平を追い越してお姉さんになった。しばらくしたらお母さんより年上になって、今日の時点ではすでに航平のお祖母さんくらいの年齢だったらしい。
性別で言うとジョシュアは女性だ。動物の種類で言うと、いわゆる犬に当たる。ジョシュアは航平の家の飼い犬だった。
けれど彼女が自分のことを犬だと思っていたかどうか、正直なところ僕にはよく分からない。家族ではない僕の目から見て、ジョシュアは一般的な犬と比べて、どちらかというと人間に近かったような気がする。明らかに彼女には感情があり、思考があって表情があって、例えば人間の赤ん坊なんかと比べると、ジョシュアの方がよほど僕にとって理解しやすい存在だったと言える。
なぜなら彼女は航平や航平の両親や妹にはとても従順で愛情深く大人しいのに、僕にだけはなぜか態度がひどくぞんざいだったからだ。
航平にとって僕は『恋人』という存在で、ジョシュアにはそれが気に入らなかったんじゃないだろうか。
僕が恐る恐る手を差し出すとジョシュアはいかにも面倒臭そうに頭を少し上げて、ぺろりと一回だけおざなりに舐めた。いつも一回だけ。それ以上舌を出して『舐めさせてくれ』と興奮するようなことは絶対に無かった。
僕はそんなジョシュアの態度が何となく面白く無くて、それを航平に訴えたことがある。
「ジョシュアって僕のことを馬鹿にしてない? 何となくだけど」
たかが犬相手に馬鹿にしてるもないんだろうけれど、大した問題じゃないと笑い飛ばしてしまうには、ジョシュアは余りにも家族に、特に航平に大事にされ過ぎていた。要するに癪に触ったのだ。
そう言うと航平は首をクイと真横に捻ってウーンと唸った。
「そうかなぁ? ジョシュアはすごくお婆さんだから1日中ほとんど寝てばっかりなんだけど、真尋が来ると必ず目を開けるんだよ。真尋のこと、すっごく好きなんだと思うんだけど」
そうかなぁ? 僕は航平の真似をして言ってみた。そんな風には到底思えないんだけれど。航平はジョシュアのする全ての事を好ましいと思うから、彼女の僕に対するの無関心な態度に気が付いていないだけじゃないんだろうか?
航平はジョシュアをとてもとても大切にしていた。姉バカというか、祖母バカというか、とにかく肌身離さず彼女の写真を持ち歩いたりして、僕は自分の家で動物を飼ったという経験が一度も無いから、航平のそういう気持ちをホントの意味ではよく分かっていない。
一度など僕とジョシュアが並んでいる写真を撮りたがって、困った。
そのころ僕はまだジョシュアに慣れていなくて、というよりジョシュアほど大きな体つきの犬に慣れていなくて、はっきり言ってジョシュアのことが少し怖かった。
居間の一番日当たりのいい場所に置かれた彼女専用のギャッベにくたりと寝そべるジョシュアにそっと近付いて恐々横に座ると、彼女はさも怠そうな様子で思い出したように時々身動いだり大きなため息を吐いたりして、その度に僕は飛び上がった。航平はそんな僕らの様子を眺めながら嬉しそうに何枚も写真を撮っていた。
僕は突然思いついて掌をそっとジョシュアの目の前にかざしてみた。すると彼女は薄目を開けて僕を見上げて、僕の掌をやっぱり一回だけぺろりと舐めた。そしてまた大きなため息を吐いて眠ってしまった。
(航平が楽しそうなんだから、それでいいんじゃない?)
その時ジョシュアは確かにそんな表情をしていた。彼女もまた航平のことをとても愛していたのだ。
その日撮った写真が出来上がると、航平はさっそく嬉々として、いつも使っているファイロファックスの特等席にそれを据えた。僕としては今ひとつ気に入らないその一枚を、航平はいたく気に入っているらしい。
顎をぺたりと絨毯に押し付けて寝そべる彼女の横で、恐る恐る片手を彼女の口元に差し出す僕。顔には今にも逃げ出しそうな情けない表情がありありと張り付いている。
写真の中のジョシュアは片方の目だけ薄く開けて、そんな僕をじいっと見上げていた。
『家族のような』と『家族である』という言い方が歴然と違う意味だとすれば、航平は間違いなくジョシュアのことを家族だと思っていた。
航平の家族が今日ひとり減った。そう思うと心が少しだけシンとした。

航平がうちに帰ってきたのは僕がひとりの晩餐を終えて、2時間も経ってからだった。電話をくれたときに帰りが遅くなると言ってたから、僕はひとりで食事を作ってひとりで食べた。航平と同じ家で暮らし始めてからひとりで夕食を取ったのは初めてだった。
航平は生活を共にする上で食事というプロセスをとても重要なことだと考えているから、どこに出掛けていようとどんなに仕事が忙しかろうと必ず家で僕と一緒に晩ご飯を食べたがるのだ。だから僕は今日も、航平が夕食までに帰ってくるんじゃないかとヒヤヒヤした。家族が亡くなったって言うのに、いくら何でもそれはあんまりだ。
「泊まってくれば良かったのに。家に帰るのなんて久しぶりじゃないか」
「でもジョシュアを葬儀屋さんにお願いしちゃったら、もう家族にはすることがないから」
帰ってきたとき航平は泣いてはいなかった。思っていたよりずっと平気そうで、ジョシュアは眠るように逝ったんだよ、と僕に言ったりして、まるでホッとしているようにさえ見えた。
「ふうん。そんなもんなの?」
「うん。そんなもんだよ」
意外とあっさりしているんだな、と思った。
僕は航平がもっとメソメソしているだろうと思っていたから、それにはとても驚いた。航平の意外な一面を見たような気がする。目の前から姿が消えてしまったら、悲しみも同時に消え去ってしまうんだろうか?
例えば僕がこのままいなくなってしまったら。夕食を終えた食卓もそのままに、忽然と姿を消してしまったら? そうしたら航平は何を思うだろう。
それより航平が僕の前からいなくなってしまったら? その時僕は泣くだろうか。それともけっこう淡々と、「そんなもんだよ」って言うんだろうか。
想像してみたけれど、あまり上手くいかなかった。順番から言って先に死ぬのは航平の方だけど、僕より先にこの世からいなくなられるなんて絶対にご免だ。
ちょっと疲れたから早く寝るね、と声を掛ける航平を見つめながら僕はふとそんなことを考えた。

雨はまだ降り続いていて、時折表を車が通ると、水溜まりが刎ねて縁石に当たる音が聞こえて来る。それは海の音に少し似ている。
ざぶん、と寄せる波のかたまり。水と塩で出来た膜が大きなヴェールになってジョシュアの真上から降り掛かる。全身濡れそぼってどことなくしょんぼりする彼女の姿が、不意に目に浮かんだ。
「ね、ジョシュアって海が好きだったんだよね」
寝返りを打って顔を航平の方へ向けると、航平は後ろからすでに僕を見つめていたらしく、すぐに目が合った。
「そうだよ。真尋と会ったときにはもう走れなくなってたから、連れて行ってあげることは少なくなってたけど、昔はよく裏の海に出掛けたよ。学校から帰るとすぐジョシュアと一緒に浜に行って、真っ暗になるまで遊ぶんだ。最初は誰か大人と一緒でなくちゃ許してもらえなかったけど、僕が中学くらいになったらジョシュアはもう立派な大人だったから、放課後は僕らだけの時間だった。彼女はとても優しかったから、僕の友達ともすぐ仲良しになったしね」
「そのころにはもうあんなに大きかったの?」
「そうだね。今とそんなに変わらなかったかな」
そのころのジョシュアに会わなくて本当に良かった。小さい頃から体格の良くなかった僕はきっと、元気に海辺を走り回るジョシュアにあっさり踏み潰されていただろう。
その反面、会ってみても良かったかなとも思う。僕が航平と出逢ったときジョシュアはもうすでに結構な年だったから、それは初めから叶わないことだったのだけれど。
僕が航平と出逢う前に、ジョシュアは航平と出逢っていた。
僕が航平のことを好きになる前に、ジョシュアは航平をもう愛していた。
ジョシュアは何でも僕より先に航平のことを知っている。
そして僕らよりうんと先に逝ってしまった。
「ね、ちょっとだけくっついてて、いい?」
「…こう?」
「うん…。ちょっとだけ、こうしてて」
いつもと全く反対に、今夜は僕が航平を抱き締めてやった。心臓がトクトク鳴る音がよく聴こえるように、航平の頭を両手で抱え込んで胸にキュッと押し付けた。
身体を屈めて頭のてっぺんにキスすると、唇から航平の淡々とした悲しみが流れ込んでくるような気がした。一気に盛り上がって一気に爆発しない分だけ、その悲しみは長く深い。海の底に少しずつ降り積もる雪のように、いつまでもいつまでも心の底に溜まったまま、乾いて消えて行くにはきっとたくさんの時間がいるのだろう。
外側の器は一瞬で灰になってしまうと言うのに。
ジョシュアの亡骸はたぶん、もうこの世にはいない。
ジョシュアはもう焼かれちゃったのかな?
うん、たぶんね。
今からジョシュアの灰を盗みに行こうか。
僕がそう言うと航平はちょっと目を見開いて僕を見た。
盗みに行くって、一体どこに?
もちろんペットの火葬場だよ。
当然のように言い返したら、航平はさらに驚いた顔をした。
でもきっと他のたくさんの犬やネコと一緒に焼かれるんだよ。見つかるわけ無い。
解るよ。ジョシュアの灰はきっと特別な色で輝いてるから。
僕は確信を持ってひとり頷く。きっとオパールみたいな虹色をしてると思うんだ。それは僕らにだけ見える色なんだよ。
どうしてそう思うの?
航平はどうしてそう思わないの?
航平はうんと長い時間考えて、それはそうだね、と言った。
ジョシュアは毛色も象牙色だったし、灰が虹色でもおかしくないね。
だろ?
僕らだけが空想するのに理由なんかいらない。
ジョシュアの灰が本当は何色かなんてことも問題じゃない。
だって航平はジョシュアのことを愛していた。
ジョシュアも航平のことを愛していた。
それならどんなに形が変わっても、分かり合いたいと思うだろ?
僕も航平のことは分かると思うよ。どんな形になってたって。
例え空気に紛れてたって。小さな雨粒になって空から落ちて来たって。
それはきっとキレイだろうね。
うん。ものすごくきれいな色だと思うよ。
どこか遠い島の大きな緑の木の下に彼女の灰を埋めてあげようか。それともいい匂いのする白い花の垣根がいい?
今度ふたりで旅行をしようか。
ジョシュアがのんびり眠れるよう、ちょうどいい場所を見つけに行こう。
地球は大きな海と大きな陸地に囲まれて、どこまでもずっと繋がっている。もしジョシュアの灰がどこに埋まっているのかを僕らがはっきり知っていたら、いつか僕らが灰になって土に還ったとき、きっと僕らは迷わずに、まっすぐ彼女のいる場所に辿り着けるだろうから。
ジョシュアの灰をトランクに詰めて飛行機に乗れるかな?
やばいクスリと間違えられるかも。
それはちょっと困るよね。
航平が笑う。
僕も笑う。
悲しい気持ちが笑い声に溶けて、シンシンと胸に降る。
その夜僕ははじめて、航平に家族のような温かい愛情を感じた。

航平はいつの間にか目を瞑って、すうすうと優しい寝息を立てていた。
その規則正しいリズムを感じながら、僕もゆっくり眠りについた。
その夜、僕は航平とジョシュアの夢を見た。それはとてもしあわせなしあわせな夢だった。
寄せて返す波のような雨音と航平の穏やかな息遣いが、ウトウトと微睡む僕の耳にいつまでもいつまでも聴こえていた。
● fin
●
|