どうしても分からないことがある。
 なぜ人を愛するのか? なぜこんなにも誰かを求めるのか?
 答えを見つけて何が変わるというわけじゃないのは、昔、嫌というほど思い知らされたはずなのに。
 慧の腕は暖かく、強い。大きく広げられた腕の中に包まれると、あっという間に目を閉じて眠り込んでしまいたくなる。
 それでも。
 何かがユウカを引き留めるのだ。暗く口を開ける空洞の、ギリギリの淵に立って中を覗き込むような恐怖感。戦慄――――陶酔に似た感情の昂ぶり。そういうものからどうしても離れられない自分の在処に。

 解放の時はまだ来ない。




「今度の展覧会はずいぶんと大がかりなものになると思うよ」
「大がかり?」
「そう。オープニングには京崎先生もお見えになる。もちろん門下生である石黒先生や松谷くんもね。君は派手な場所は苦手だって言うけれど、今回ばかりはそういう我が儘は言わせないよ」
 如月ユウカはため息を吐きそうになるのを必死で堪えた。
「哲哉さんの、良いように」
 逆らっても仕方がないことは知っている。ユウカにこうして話をする時点で内容はすでに決定していて、準備も半分は終わっているに違いない。如月哲哉という男はそういう人間だ。
 それより以前に、ユウカが絶対に自分に逆らわないということをまだ分からないのか、という苛立ちさえ覚える。
(……違うな) 
 哲哉はユウカを試しているのだ。
 自分のギャラリーで著名な同業者を呼んで若い作家を披露する。それはとりもなおさず、その作家が自分のお抱えのひとりだということを世間に知らしめることだ。そうなったらユウカはこれから、関西圏で哲哉の所有するギャラリー以外での作品展は出来なくなる。もちろん慧の母が主催するギャラリーも例外ではない。
(牽制? 嫉妬?……それとも)
 ユウカの脳裏に慧の、溌剌とした輝きを宿した瞳の色が浮かぶ。慧はなんて言うだろう? 馬鹿なことをして、と怒るだろうか。ユウカが哲哉に捕らわれ続けることを知ってなお、自分をあの腕で抱きしめてくれるなんて……そんなことがあるんだろうか?
「ユウカ」
 ボンヤリしているユウカに痺れを切らしたのか、哲哉は惚れ惚れするほど滑らかな仕草で傍らのユウカを引き寄せると、静かに頬を寄せた。
 唇が重なる。触れるだけでは済まない。啄むように吸い付く哲哉の唇は身が竦むほどひんやりしていた。
 わずかに唇を開けて舌先を覗かせると、性急にそれを絡め取ろうとする。普段の哲哉の洗練された物腰とは対照的な、子供っぽい野性的な欲求。
 以前は…………それを愛だと思い込んでいた。


 流れるような手のひらの感触。それが熱を帯びた部分に触れると反射的に腰を上げる。長い時間をかけてユウカが哲哉に教え込まれた反応のひとつだ。
 自分で膝を持ち上げて固く目を閉じる。遅れて後孔に含まされる指がさらに増やされるのを感じる。
「あ、っ…………」 
「もう少し我慢して」
「んっ」
 いつもの会話。いつもの行為。慣らされてずいぶん経つ身体は受け入れることを拒むはずがないのに、哲哉は必ずこうしてユウカを初めてのように扱う。ゆっくりと、気が遠くなるほど時間をかけて神経の塊を解いていく。
 ユウカの唇から震える声が漏れた。
「もう、いいっ……から」
 欲しているのではない。早く、一刻も早く終わらせたいから。その本音が絶対に滲まないよう、声を作ることも覚えた。
「……はやく、俺の…………」
 ユウカの懇願するような泣き声が、明かりを落とした部屋に充満する。それでいい。望んでいることに変わりはない。
 哲哉の腕がユウカの膝を抱えて持ち上げる。くしゃくしゃになったシーツの上に手足を投げ出して、全身の力を抜いてその瞬間を待つ。
 名前だけはもう絶対に呼ばないと、それだけを強く心に刻みながら。




 ユウカが高村慧と出逢ったのは、大学の図書館。梅雨のまっただ中で、外は土砂降りの雨が降り続いていた。
 窓の外をぼんやり眺めながらため息を吐く。ユウカがアトリエのある高雄を出たとき、まだ雨は降っていなかった。しかも市内に帰る哲哉の車でキャンパスに送ってもらったので、傘を持って出ることを忘れていた。このままではアトリエに戻るためにバスを待っているあいだに、すっかりずぶ濡れになってしまうだろう。
 とにかく試験のための調べものをしたら傘を買いに購買へでも行くしかない。もういちど深々と息を吐いてユウカは席を立ち上がった。
 ユウカが大学へ通うのは哲哉の強い希望だ。ユウカとしては人の多い構内に足を向けるのは苦痛以外の何者でもないのだが、それも強引な哲哉の前ではなんの言い訳にもならない。勧められるまま受験して、合格したから通っている。ユウカにとって大学という場所はそれぐらいの意味しかなかった。当然籍を置いて2年が過ぎた今でも、友人と呼べるような知り合いもいなければ、積極的に通う理由すら見つかっていない。
 馬鹿馬鹿しいと思う。こんなところで無駄な時間を過ごす自分も、それが分かっていて人並みの生活をユウカに求める哲哉も。
「なぁ」
 突然後ろから掛けられた声に、ユウカはびっくりして振り返った。目の前に背の高い青年が立っていた。
「なんですか?」
 知らない人間と話をするのは苦手だ。声に緊張した響きが混じるのが自分で分かる。青年は首をわずかに傾けて、ユウカの手元に置かれた分厚い本を目で指し示した。
「その本、読まないんなら早く回してくれない? 俺もすっげ、必要なの、それ」
「……ああ、すみません」
 考え事をしていてすっかり忘れていた。今日中にこの本を読んでしまわないとレポートが間に合わないのだ。
「どうぞ」
 ユウカは読みかけの本を閉じると、青年の手に押し付けるようにして手渡した。知らない人間にそのことを説明する気にはならなかった。そんな苦痛を味わうくらいならレポートをひとつ諦める方がよほど気が楽だ。
「あんたは必要ないのか?」
「あとで構いません。急ぐ訳じゃないから」
 青年の眉が怪訝そうに寄せられる。
「あんた、田沢ゼミだろ? レポート提出、明日がギリなの、分かってる?」
「なんで……」
「知ってるかって?」
 青年の顔が快活にほころんだ。いい笑顔だ。歪みのない真っ直ぐな眼差し。ユウカが手に入れられないものの一つだ。
「あんた、自分が有名人なの、知らないんだな」
 本当におかしそうに肩を揺すって笑う。
「すげぇ美人で頭が良くて、ついていくだけで大変な田沢ゼミに3回に1回くらいしか顔を見せない奴が、目立たないはずないだろ? 名前は……」
「如月ユウカ」
 反射的に名乗っていた。さすがに驚いたらしく、青年の明るい口調が一瞬途切れる。自分から名乗ったのは早くこの場を立ち去りたかったからだ。これ以上話を続ける気は、ユウカにはなかった。
「下らないお喋りはそれぐらいでいいでしょう。その本は必要ありませんから、好きにしてください」
 出来る限り短く言い切って、ユウカは青年の脇をすり抜けるように歩き出した。
「ちょっと待てよ」
 呼び止めて、相手が素直に振り向くとでも思っているのか?
 心の隅に苛立ちが募る。馴れ馴れしく話しかけられるのは我慢できない。背中を追いかけてくる声を意識から閉め出して、ユウカは足早に図書館を後にした。


 図書館の玄関をくぐったときもまだ雨は降り続いていた。クラシックな趣に整えられた前庭が濡れそぼって、濃い緑色がさらに深い色に染め上げられている。
 普段は気がつかない美しい色合いが目に飛び込んできて、ユウカは思わず足を止めた。
(こういう色は、釉薬では出せないな)
 自然に生きるものが放つ生彩は、作られたものには真似できない。少なくとも自分にはまだ、それを土に写し取ることは出来ない。そう思っている。
(いつか、生きたままの土を焼くことが出来たら……)
 何かが変わるだろうか? 
 ユウカの形の良い唇に薄い苦笑が浮かぶ。変えたいと思っているわけでもないくせに。
 ふと、背後に人の気配を感じた。
「すげぇ、色…………」
 心の底からの驚きを素直に映し出す声。ゆっくり振り向くと、さっき図書館で話しかけてきた青年が、圧倒されたように前方を見つめたまま突っ立っていた。
「なんていうかさ、こういう色の洪水を見せつけられると、生きてて良かったって思わねぇ?」
「大袈裟だな」
 思わず笑った。目の前の青年が不服そうに顔を顰める。
「あんただって見とれてたんだろ?」
「……どうしてそう思う?」
「だって」
 青年は真正面からユウカの瞳を覗き込んだ。
「振り返ったときのあんたの目、すげぇ綺麗で子供みたいだった」
 そして青年は、まるで昔からの友人のように自然な動作でユウカの肩に手をかけると、
「走るぞ」
 と言うなり、呆然とするユウカを連れて、駐車場に向かって走り出した。


 そのとき恋をしたのかも知れない。
 まだ恋じゃないのかも知れない。



 
 揺らぐ想いは終わりのない螺旋を描いて、ユウカの体内を彷徨い続ける。
 内臓を強く押し上げられる眩暈がするような感覚の合間に、慧の瞳の色が途切れながら目の前を通り過ぎた。
 手を伸ばして届くのは目の前にある腕と、自分の中に飲み込んだ、哲哉の熱い楔だけ。
 もう意識はほとんど残っていない。ただ自分の喉から洩れる、隠しようのない快楽の音色だけが遠くから聞こえた。
 熱に浮かされるように、望まれた言葉を繰り返す。それは紛れもなくユウカの口から、心の底から沸き上がって来るものだ。


 そのとき恋をしたのかも知れない。
 まだ恋じゃないのかも知れない。



 解放の時はまだ来ない。




end

 プレビューです。……SSというよりこれはプレビューというべきだ。アタシはこういうものを書こうと画策しています。出来ちゃったんです……うっかり…………。
 こんなもの書くくらいなら、放置中のアレコレを先に書かんかいっ、というご意見はごもっともだと…………。
 これ以上放置を増やす勇気がないので、SSの顔をして出してしまいました。気になる方はリク下さい_瀕死。


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