金曜日にウサギを拾った。

 その白い塊は場末のバーの裏口で寒さに震えながら、泣き腫らしたような真っ赤な目をして俺を見上げた。外は雪。今夜は今年一番の冷え込みになると言う。

 このまま放っておいたら死ぬな。―――――確実に。そう思った。

 よしんば死ななかったとしても、タチの悪い連中に玩具にされて飽るかやっぱり死ぬかして、またそこらの道端に転がされるのがオチだろう。そうも思った。
 どちらにしても幸福と言える目には遭わない。

 俺は決してお人好しじゃない。暇でもなけりゃ寂しがり屋でもない。ちなみに金持ちでもない。そんなことはどうでも良いが、要するに俺がウサギを拾う理由なんてこれっぽっちも、小指の爪先ほどもないのだ。

 だのに俺はウサギを拾った。うち捨てられて雨晒しになって、あと数時間もすれば楽になれたかも知れないその生き物を―――――俺は肩に担いでタクシーに乗せて、ぼろアパートに帰った。
 金曜日の晩のことだ。


 強いて言うならウサギは似ていた。

 白い服。白い靴。外気に晒されている手足まで奇妙なくらい白い。
 小刻みに体を震わせながら見上げてくる真っ赤な瞳を見て、似ていると思った。
 ほとんど忘れかけていた記憶の―――――20年近く思い出すことも無かった思い出の中の『ウサギ』にだ。

 そいつをガキの頃、縁日で親父が買ってくれた。白くてふわふわして、抱き上げると妙な重みと生暖かい肌の感触を覚えた。
 俺はそいつを可愛がった記憶がない。名前を付けてやったかどうかすら定かじゃない。そいつは俺のものになった途端、すぐに死んじまったからだ。
 気が付いたときにはすでに冷たくて固い物体に変わり果てていて―――――
 俺はすぐにウサギのことを忘れてしまった。

 何故思い出したのか自分でも解らない。
 まだ憶えていたのが不思議なくらいだ。



 ウサギはそれから三日ほど寝込んだ。
 高熱を出し、うなされ、薬すら上手く飲み込めない。仕方がないから薄い唇を無理矢理こじ開けて、水と一緒に流し込んだら大変なことになった。
 いきなりむせたかと思うとベッドの上でもんどり打って転がって、飲ませた水を天井に向かって全部吐き出しやがった。
 ナントカの法則に従ってそれはきれいな弧を描いて自由落下し、つまるところ俺のベッドは水浸しになった。ついでにゲロも落下した。そいつは薄汚れたアパートの壁に新しいシミを作った。
 ついてねぇな、と思った。

 ウサギは軽い。紙のように軽い。
 担ぎ上げて風呂場に放り込んで口を洗ってやった。また吐かれたらたまらないので、喉まで指を突っ込んで残ってるものもキレイに出させた。

 ウサギは悲壮な声でキュウキュウ鳴きながら、それでも大人しくされるがまま、ぐったりとしていた。
 死ぬなよ。殺すつもりはねぇ。

 なに、独り言だ。大した意味はない。
 薄目を開けて覗き込む瞳に言い聞かせた。それなら最初っからそうしてるさ、なぁ?



「ここは、ドコ……?」
「天国さ」
 口移しでやっとこさ飲み下せた薬が効いたのか、四日目の朝、ウサギはようやく人間の言葉を話せるまでに回復した。

 五日目。
「名前は?」
「ウサギ」
「へぇ、良いナマエだな。そうじゃないかと思ってたんだ。……で、ホントの名前は?」
「サチ」
 埒のあかない会話がひたすら続いた。
 体長約173cm、体重およそ55kg、オス、推定年齢……16才? 俺が見たところの、ウサギの実測データだ。まぁ、プラスマイナス2ほども誤差はないに違いない。
 ウサギは性懲りもなく同じ言葉を繰り返す。俺はそんなに気が長い方じゃ無いが、なぜか黙ってこの巫山戯た言いぐさを聞いてやっている。
「俺は順威、カ・ズ・イ。聞こえてるか? ……お前の名前は?」
「……ウサギ」
 言っておくが俺にはあまりネーミングのセンスはない。
「サチオ? サチスケ……サチ、……タ?」
 だからそう言ったはずだ。
「サチ」
 俺の唇から深く長いため息が漏れた。
「お前はオンナか? それとも女みたいな名前なのか?」
「…………」
 お次はダンマリか。イイ根性してやがる。

 ヌッと手を伸ばしてウサギの体を片手で胸に抱き込んだ。腕をジワジワと締め付けて動けないように固定すると、ウサギはその中でぐずぐずと身体を動かした。抵抗しているつもりなのだ、一応は。俺には毛皮を擦りつけて餌でも強請っているようにしか見えないが。
 空いているほうの手でズボンの前を強く掴む。キュウ、とウサギが鳴く。細い体がひょろっと浮き上がってそのまま前方につんのめって、膝が抜けたようにカックリ折れる。それでも軽い。浮き輪みたいだ。
 素直な反応に力が抜けた。……間違いねぇ、お前は正真正銘、オスだよ。
「わかった、ウサギでいい。その代わり、俺がそう呼んだら必ず返事をしろ」
 それが礼儀ってモンだろ?



 六日目。
 ウサギは肉を食わない。ひたすら野菜ばかりを選んで食う。
 柄にもなく奮発して買ってやった上等の霜降りの乗った皿を、すまなそうに俯きながら俺のほうに押し戻しやがった。
「肉、食べられない。食べたことない……」
 呆れてものが言えない。

 肉は人間の血となり文字通り肉となる。お前は肉を食わないからいつまで経ってもそんな、弱々しい存在でしかいられないんだよ。それを自分で解ってないのか?

 なんて馬鹿馬鹿しい説教をあやうく垂れるところだった。


 たとえウサギが肉を食わずに野垂れ死ぬことになったとして、それが俺になんの関係がある? ウサギがそれを真っ当だと思うのなら、それはそれで間違っちゃいない。

 そして関係とは壊すモノだ。決して作るモノじゃない。
 ―――――これじゃただの言葉遊びだ。



 七日目。
 ウサギと街に出掛けた。雪こそ降っていないがひどく寒い。
 ウサギはウサギのくせにふかふかの毛皮を持っていない。赤肌が透けて見えそうな真っ白の、薄っぺらい木綿のシャツしか持っていない。
 俺のコートは案の定ウサギには滑稽なほど大きかった。まるで衣紋掛けだ。そうでなくても小さな頭が余計に小さく見える。
 それでもウサギは面白いほど喜んだ。
「これ、すぅごく暖かい」
「羽根のほとんど抜けちまったダウンがか?」
「順威の匂いがする…………」
 そう言って袖口に鼻先を埋める。肩を竦めて笑う様は確かに、初めて家に来たときほど寒そうには見えなかった。

 はぐれないように、と手を繋がれた。ウサギは散歩の時に果たしてリードで繋ぐのだろうか? お陰で歩きにくくて仕様がない。混雑した夕方の街中でウサギの散歩などするものじゃないことがよぉく解った。まっすぐ歩かせるのにも骨が折れる。
「こういうのはなんていうの? 知ってる?」
「なにが」
「こうして手を繋いで外を歩くことだよ」
「知るか。よくて散歩だろ」
「知らないの? デートっていうんだ。サチは順威とデートしてるんだよ」
 此奴は一体幾つなんだ? 頭がどうかしてるんじゃねぇのか?
「俺はウサギを散歩に連れてるんだ」
 肩に担いでそこいらのポリバケツに放り込まなかったのが何故なのか、正直なところ俺にもサッパリ解らない。
 散歩を途中で終了して家に連れ帰る間、ウサギはぼんやりと空を見つめながら誰に話しかけるでもなく、「サチが……、サチは……、サチ…………」と狂ったように繰り返し繰り返し、呟き続けていた。




 八日目。
 ウサギの様子がどうもおかしい。
 昨日までは元気に機嫌良く部屋の中をウロウロひとりで遊び回っていたのに、今日はベッドの上でじっと蹲ったまま動こうとしない。
「具合でも悪いのか?」
 そう問いかけると真っ白な顔をゆらと俺のほうに向ける。目が真っ赤だ。当たり前か、ウサギなんだから。
 ウサギの唇は赤い。赤いと言うより黄色い。違う、赤いと黄色いが混ざり合ったような不思議な色をしている。少なくとも目よりは黄色い。
 その唇が少しだけ隙間を作る。ウサギが声を発する瞬間。それは俺を昂揚させる。腹の底から笑みが零れそうになる。
「サチ……、死んじゃった…………」
 ウサギはいつものキュウ、というか細い鳴き方ではなく、しゃくり上げながら真っ赤な目からぼろぼろ涙を溢れさせてクンクン泣いた。
 そうか。そういえば目が真っ赤なのは必ず、こうして涙を流しているときだよな。
 鳴いているときが多い。泣いていないときも多い。
 真っ赤な目を見ないで済むにはどうしたらいい? 
「サチ……は、お前だろ? 自分でそう言ったんだぞ。もう忘れちまったのか?」
 ウサギ、とも言ったがな。おかげで未だにどっちで呼ぼうか迷うときがある。
「僕はサチじゃない……、サチになってやれない。サチはいない。ここにも、どこにも、……消えてしまった。何処にもいない」
 意味不明の嘆きは止まらないまま、俺の腕の中に収まったあともずいぶん長い間、ウサギの口から零れ続けていた。


 サチっていうのは、ウサギの双子の妹。長い長い病院暮らしの末、ウサギを残して遠くへ逝ってしまった。
 生まれてから一度も辛気くさい建物の外に出たことは無かったという。
 ウウ、ウウ、と鳴き続けるウサギの口から漏れる何某から、やっとそれだけの事が理解できた。あとは何を言っているのか全然解らない。


「僕は何処にでも行ける。サチは行けない。サチは何も知らない。街の中を歩き回る人たちも、凍えそうな寒さも……順威のコトも」
 当たり前だろ? 俺と出会ったのはウサギ、お前だ。サチじゃない。
「こんなふうに誰かの側にいることも、……誰かを好きになることも」

 サチが誰かを愛するのはサチの心だ。お前じゃない。その逆もまた同じ事。それは誰も代わってやれない。そうでなければ誰かを愛する意味なんて無い。
 たったひとりに、たったひとり。誰かじゃなく、他でもない。シンプルで覚えやすい法則だろ?
 解ったら、これから一生忘れんなよ。

 
 泣き止まない子供を黙らせる良い方法を思いついた。
 1. 鼻をつまむ。
 2. 大声を出して驚かせる。
 それから…………
 俺は三番目に思いついた方法を試した。

 つまるところウサギは泣き止んだ。
 突然唇を唇で塞がれて、息が出来なくなったせいもあるだろう。二度ほどブルッと体を震わせたあと、事切れたように大人しくなった。
 少しのあいだ唇を離して呼吸を解放してやった。息が出来なければ動物は死んじまうからだ。空気の入る隙間すらないほど密着した粘膜が離れる瞬間、ウサギはやっぱりキュウ、と情けない声を出した。
 ガクリとカラダが頽れる。床に激突する寸前、仰向けに滑り込んだ俺の腹の上にどすんと落ちた。
 暖かい。軽い。俺に覆い被さるウサギの重みが胸の奥まで染み通ってくる。
「お前は誰だ?」
「解らない……」
「俺に、どうして欲しい?」
 こんな質問は馬鹿げている。女々しすぎて笑ってしまう。どうして欲しいかだって? 
 そんなこと、……決まってるだろ?


「サチが知らないことを全部、教えて欲しい…………」



「お前がサチなら俺は抱かない」




 ウサギの真っ赤な目が俺を真上から捉える。真っ赤だ。でも泣いちゃいない。
 クン、と鼻を鳴らしてウサギはゆっくり目を閉じる。
 鳴きそうな声。
 泣いちゃいない。
「僕は、……僕だ。順威の知ってる僕…………」
 それでいい。俺はサチを知らない。俺の目の前にいるのはウサギ……お前だ。
 お前だけだ。





 体の下でウサギの白い胸板が撓った。細く、頼りない声が宙に舞う。脈打つ心臓に口づけると、そこから熱い空気が立ち上る。唇の色に似た小さな突起が震えながら天を指す。
 ウサギはもう泣いていない。真っ赤に染まった目を固く瞑って、切れ切れに苦しそうな息を吐く。緩やかに隆起する肌の上を少しずつ移動する唇の動きは、すでにウサギを何処か、違う場所に連れて行ってしまったのだろうか?
 ウサギがふと思いついたように腰を上げた。あからさまに熱を帯びた塊が俺の胸に触れる。何度も何度も請うようにそれを擦りつける。餌を強請る仕草。震えてはいない。解ってもいない。
 辿り着いて口に含むとそれは一瞬で大きく形を変えた。
「ひっ…………」
 キュウ、とか、クン、とか以外の声を初めて聞いた。鳴き声には違いないが。
 指で塊の奥に潜む閉ざされた場所を探る。ウサギがまた息を飲む。
 ウサギのもう一つの顔が口の中でびくんと撥ねる。解き放たれる瞬間を待っている、真っ白な欲望。
 高い所へ。
 今まで知らなかった場所へ。
 連れて行くのは俺だ。


「順、威っ…………」
 ウサギが呼ぶ。何かを堪えるように。トーンの高い鳴き声が散る。天井から吊られるように引き上がる手を捉えると、指を開いて絡ませてきた。
 ただ一点に押し上げることだけを意識しながら、口の中のウサギを擦ってやる。
 混じり合って粘度の上がった液体が唇から零れて、俺の顎やウサギの人目に晒されていない肌を汚していく。
 迸る声が限界を教える。言い様のない焦燥感がジワジワと全身に拡がった。
 微かに湿り気を帯びた奥まった場所にそっと指先を滑り込ませた。関節を折り曲げて中を探ろうと動かした瞬間。
 ウサギは哀れなほどあっけなく自分を手放した。

「ぁ……、あっ……」
 呆然と見開かれるウサギの目。激しく胸を隆起させながら引きつったような音を立てて、新鮮な空気を求めて喘ぐ。
 安心しろ。こんなことで世界が変わったりはしない。何処へも行かない。お前はちゃんとここにいる。
 喉の奥に残った液体を飲み下しながらウサギの視線を探した。くしゃくしゃになった髪を掻き回すと何か言いたげな顔をする。
「なんだ?」
 髪に差し込んだ手を止めて先を促すと、ウサギは息を詰めながらようやく震える唇を開いた。
「気持ち、……よかった、すごく…………」
 思わず笑い出しそうになった。そんなことを面と向かって口にする奴なんかいない。素直な感情は時として人を阿呆に見せる。そしてそれをそんなふうにしか感じられない俺はさらに大馬鹿だ。
「そうかよ、」
 短く言って額を擦り合わせた。こうすると子供は安心する。俺がそうだった。


 さっきから指を差し込んだままの場所が微かに蠢いて存在を主張する。自分でもそれが解ったのだろう、ウサギはハッと体を強張らせて俺を見た。
「気持ちいいか?」
 指を小刻みに揺らしながら訊くと、ウサギは顔を顰めて首を横に振った。正直なのはいいことだ。
 今にも泣き出しそうな表情から目を逸らさないように気を付けながら、神経を指先に集めてゆっくりと指を動かす。熱く締め付ける内側の、同じ所を何度も丁寧に撫でてやる。
「気持ち悪いか?」
 もう一度問うとウサギはさっきより激しい勢いでまた首を横に振った。
 それもいい。出来ることならそうあって欲しいと、柄にもなく心から願う。

 閉ざされた秘所はやがて緩やかに解け始める。ウサギが急に身動いで精一杯膝を開いた。
「無理しなくていい」
「ン、ん……っ」
 泣き腫らして元の色が消えてしまった瞳を俺に向けて、それと分からないほど微かに笑顔を見せる。
「全部、教えてって、……言った………………」

 その言葉に導かれるように指を引いて、そこに俺自身を埋めた。




「――――――っ!」
 ウサギの背骨がしなやかに反り返る。その滑らかな曲線とは対照的に、体は固く強張って息を継ぐことすらままならない。透明な滴がひとつ、透明な頬を伝って落ちた。
 動くことも出来ないまま、細い体を抱き締めた。ウサギが息を吐き出すたびに、その意志とは無関係に内側の襞が蠢いて俺を掻き立てる。
 
 浅く呼吸を繰り返す唇に唇でそっと触れる。遠いところに置き去りにされていた腕がいつの間にか俺の背中を掻き抱く。ウサギがもう一度鳴き出す前に、その声を吸い取ってしまいたかった。
 痛みを思い出すことのないように。苦しい記憶が体のどこにも残らないように。

 こんなふうに抱きたいと思ったのは初めてだった。




「う、動いて……いい、…………っ」
「いいんだよ…………」
 満たされるより大事にしたいものがある。それだけで満たされることも。取り繕うことも飾ることも忘れて素直にそう言うと、ウサギはまたゆるゆると首を振って、
「そ、れはっ、同じ……。順威も、僕、もっ…………」
 


 掌に収まるくらいの膝を肩まで抱え上げて、ウサギを貪った。
 仰け反る胸に体重を掛けて、深く浅く、俺は貪欲にウサギの内を喰い尽くした。

 ウサギは二度と鳴かなかった。
 少なくとも昨日までの、―――――キュウ、という弱々しい声音では。



 焦点の合わなくなった赤い目が、暗い天井をなぞるように彷徨う。 
 ウサギの感じるまま、すべてが音になって吐き出される様は壮絶だった。

「やっ…… あ、やぁ……っ」
 目尻に涙を浮かべながら、与えられる刺激にのめり込む。苦しげな息遣いがいつの間にか甘く切なげなそれに変わる。

「か、ずぃ……そこ、熱ぅ、……っ!」
 極みに押し上げられていく。

「……あ、……あっ、ん…… ああっ…………」
 白く輝く線を描いて目の前を通り過ぎる流星のような。

 
 今夜ウサギが俺に聴かせた鳴き声は最高だった。





 九日目の朝は雪が降っていた。
 窓の外は都会の風景とは思えない純白の、無垢な衣装を纏って静かな寝息を立てている。
 まだ早い。世界はまだ眠ったままだ。
 腕の中のウサギの重みを確かめようとはしなかった。
 
 何となく、解っていたからだ。
 次に目が覚めたとき、おそらくウサギは……この部屋にいないだろうということは。


 拾いウサギは元いた世界に還っていった。
 何かを求めて檻を飛び出して、何かに気づいて自分の意志で戻っていった。そう言うことだろう。

 ウサギのことを考えると調子が狂う。思いがけない感情が俺の中から溢れてくる。

 ウサギは鳴いていないだろうか?
 サチはウサギを愛していたんだろうか? 
 ひょっとしてまた何処か場末の裏道に転がって、風邪でも引いていやしないか?

 手の届かない場所にあるものは、それだけで愛おしい。
 それは作り上げるものであって、壊すものじゃない。



 ふと、テーブルの上に視線が留まった。それを確かめるために、よろよろと起き出して部屋を横切る。
 それは小さな紙切れだった。手に取って、持ち上げてみる。確かにウサギは紙切れよりは重かった。

 丁寧に書かれた鉛筆の文字。所々滲んだような染みが見える。俺の部屋に鉛筆があったなんて知らなかった。

 最初の文字は『早智』。
 次は『カズイのコート、借りていきます』。『早智』と『カズイ』のあいだに、妙に広々とした空間があった。
 そのまたうんと下に『usagi』の文字が見える。俺はウサギをカタカナで呼んでいた。どうでも良いことだが。
 苦笑しながらテーブルに紙切れを放り出そうとして―――――手が止まった。

 『usagi』と書かれた文字の下に何か別の文字が掠れて見える。書きかけて指で消したのだろう。そこだけが周囲より僅かに黒ずんでいて、だから気が付いた。
 その文字を読みとろうと目を凝らした。

 『翔』
 ショウ。
 そうか、ウサギは『ショウ』って言うのか。

 小さな紙切れを握りしめたまま、窓に近づく。錆びついて歪んだガラス戸をこじ開けると、たちまち冷たい冬の吐息が部屋に流れ込んでくる。ほんの一瞬、寒さを忘れて思い切り息を吸い込んだ。
 ニコチンと排気ガスで汚れた肺に凍った空気を送り込む。
 それはウサギの、―――――ショウの鳴き声のように透明な味がした。



end


めずらしく最後まで結末を決められないまま、書き終えた話。今も本当の結末は解らないままです。
このふたりにはいつかなんらかの形で、ちゃんと結末をつけたいなあ。

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