今にも崩れ落ちそうなボロいアパートが俺たちのねぐらだ。床は傾いていて物が真っ直ぐに立たないし、壁には冗談のような大きなひび割れが縦横に走ってる。夜中にちょっと大きな地震があったら俺はかなり情けない格好で元は家だったであろう瓦礫の下から見ず知らずの誰かに発見されるに違いない。その時はもう生きちゃいないだろうから、そいつにどう思われようが俺の知ったことじゃないが。
 そんな人間の住処としては最低の部類に入りかけてる場所の唯一の長所と言えば、ドアを壊そうが壁をぶち抜こうが誰も気にしちゃいないというところだ。既に「終わってる」それをこれ以上どうにかしたところで困る人間は誰もいないと言うことだ。
 そんなわけで俺は今日も狭い玄関にひとり蹲ってせっせと作業に精を出している。
「順威……、オマエは昨日からそこで何をしてるんだ?」
「見て分かんねぇのか。床にタイルを貼ってるんだよ」
「んなこたぁ見れば分かる。なんでその小汚い玄関の土間を青いタイル張りにする必要があるのかって聞いてんだよ、俺は」
 久しぶりにここに戻って珍しく昼前に起きてきたと思ったら開口一番がコレだ。夏彦という奴は本当に全くどうしようもない。
「うるせぇよ。ここは俺の家だ。俺の好きにして何が悪い」
「別に悪かねぇけど、……暇だな、オマエ」
 後頭部を蹴り飛ばしたくなることを言い残すと、夏彦は盛大にあくびをかまして部屋の奥へと消えた。
 
 俺のおんぼろアパートに夏彦が転がり込んでから半年になろうとしている。狭い六畳間の真ん中にぺしゃんこの布団。角の抉れた背の低い机。物置にもならない三畳ほどの板の間の脇にネコの風呂ぐらいの大きさの流し台。それが俺たちの世界のすべてだ。
 俺たちはここで暮らしている。何を分け合うわけでもなく、むしろ搾り取るように貪欲な牙を剥き出しにして。

 ずっと下を向いていたからかさすがに気分が悪くなって俺は左官屋の真似事を中断して部屋へ戻った。敷きっ放しの薄っぺらい布団に頭から倒れ込むと嗅ぎ慣れた体臭がフワリと立ち上る。夏彦の匂いだ。
「もう終わりか、暇つぶしは?」
「……ゲロ吐きそうになった。ヤメだ、ヤメ」
「バッカじゃねぇの……」
 鼻で笑う声がする。まるで鼻歌でも歌っているような軽い響きだ。夏彦はいつもこういう笑い方をする。低くて静かで抑揚のないその音は、慣れるまで随分のあいだ俺にはどうしても笑っているように聞こえなかった。
「まぁいいか。暇ならもっと他にすることあるしよ」
 言いながらそっと近寄って俺の背中に掌を押しつける。項から肩胛骨に沿ってゆっくり滑り降りる掌は何の躊躇いもなく薄い布帛のシャツの下から滑り込んでくる。
「セックスしようぜ」
 これも聞き慣れた台詞だ。無言で体を仰向けに捻ると目を見開いたままの夏彦の顔が近づいてすぐにぼやけて見えなくなった。







 夏彦は高校生のときから或る男との関係を続けている。そいつに関してそれ以外の詳しいことを本人の口から聞いたことは一度も無いが、一緒に暮らしていると自然と見えてくるものはあってどうもそいつは夏彦の他にもしがらみがあるらしい。俺がそう思うのにはそれなりの理由がある。
 それはほんのたまにしか電話を掛けてこないこととかそれが一方的なものらしいこととか、そいつから連絡があると夏彦は短くて二日、長いときでは一週間くらい忽然と姿を消しちまうとかいったことだ。当たり前だがその時夏彦が俺に何の断りも伝言も残していくことはない。
 初めて夏彦が長い間部屋に戻って来なかったときにはさすがの俺も面食らったが、事情が何となく飲み込めた今となっては「あぁまたか」とぼんやり思う程度だ。そもそも俺たちは初めから相手に「何処へ行く」とか「何をしてる」とか確かめるようなベタついた関係じゃなかった。
 しばらく部屋を留守にして戻って来ると夏彦は必ず俺を誘った。必ずだ。無言で部屋のドアを蹴り開けて一直線に俺の前に立つと、シャワーも浴びずに俺の首に両方の腕を回して「セックスしようぜ」と呟くのだ。
 その時の夏彦は面白いほど素直で感度が良い。どこに触れても嫌がらないし、俺がしろと言えばどんな格好でもする。いつもの人を馬鹿にしたような笑みを浮かべながらそれでも大人しく俺の言うことに従うのだ。それは例えばこんな風に。
「足、もっと広げろよ。狭いんだよ」
「んっ……」
「ケツ上げろ。入れて欲しいんならな」
「入れて欲しいに決まってんだろ…………」
 そして俺から何かを奪い取ろうとするみたいに自分から腰を振って天国を目指す。

 その時の夏彦の顔を俺が見ることはない。俺たちが繋がるときいつも決まって俺は夏彦の背中を見ている。夏彦は薄汚いシーツを見ている。見たくないのか見せたくないのかその両方なのか、それをわざわざ確認することほどアホらしいことはないだろう。



 夏彦とは高校の学園祭で知り合った。誰かの紹介だったかも知れないが、さすがにそんなことは憶えちゃいない。
 一目見ていけすかねぇ奴だと思った。取り澄まして涼しい顔でいかにも優等生みたいな面をした夏彦は、悪さばっかりしてた俺とは全く正反対の次元の生き物みたいに見えた。
 そのときは明らかにお互い何の関わりもない人種で、だから二言三言言葉を交わしてそれっきり。二度と会わないだろうと思ってた。
 再会は大学に入ってからだ。つまんねぇサークルかなんかの合宿に無理矢理連れ出された俺はあまりの馬鹿馬鹿しさに途中でフケて宿を抜け出して、同じように別の合宿をトンズラしてきた夏彦と田舎の草むらでバッタリ出くわした。蒸し暑くて風も吹かない真夏の午後のことだ。
 そのときの夏彦の目はちょっと忘れられない。以前に見掛けた人形のようなそれとは違う、野性動物のような青白く強い輝きを放っていた。
 おそらく俺はその瞳に惹かれたのだと思う。
 まるで別人の顔つきになった夏彦と並んで駅までの道をひたすら歩いた。途中でバスが二台ほど背中を追い越して行ったが、どちらも乗ろうとは言い出さなかった。歩き疲れて座り込んだ大木の根元に凭れながら、夏彦に誘われるまま何となくセックスした。男とセックスしたのはそれが初めてだった。
 どっぷりと日が暮れる頃ようやく一緒にボロアパートに帰り着いて、夏彦はそのまま俺の部屋に住み着くようになった。

 一緒に住み始めてしばらく経った頃ようやく俺にも状況が飲み込めてきた。
 俺と再会したとき夏彦と件の彼氏はちょうどセカンドステージに突入していたらしい。つまり周りも見えないほど狂ったようにお互いを求め合う時期を過ぎて、頭が冷えてくる段階に入ったって訳だ。その証拠に俺の元に転がり込んでから一ヶ月ほどそいつからの連絡は途絶えていたらしく、夏彦は糸が切れた人形のように部屋から一歩も出なかった。
 手の掛かる動物でも飼い始めたように俺の生活は一変した。上手く行かない事情を抱え込んだ夏彦にとって俺はそれこそ格好の気晴らしだったに違いない。あからさまに甘えるでもなくただダラダラと毎日を過ごす夏彦を眺めながら気が向いたときに欲しいだけ奪い合う関係は、俺にとっても思いの外居心地が良かった。
 或る夜のことだ。
 薄い布団に転がっていつもの如くどうしようもない情熱を擦り合わせていた俺たちの頭の上で夏彦の携帯が無遠慮に鳴った。アタマに来て部屋の隅に蹴り飛ばしたら俺の腹も蹴り飛ばされた。
 そのまま電話に囓り付いて部屋を飛び出して―――――夏彦は3日間戻って来なかった。まだ夏期休暇も終わっていない頃だったと思う。
 次の日俺は生まれて初めてホームセンターなんぞという所に出掛けて小さい子供用の手作り椅子のキットを買って帰った。今思い返してもその時の自分の行動に深い意味があったとは到底思えない。
 頭を空っぽにして没頭出来ることなら別に何でも良かった。没頭し始めていた餌に逃げられてぽっかり空いた隙間を埋める方法を他に思い付かなかっただけだ。
 三日経って夏彦はひょっこりこのボロアパートに舞い戻ってきた。玄関を盛大に開け放して一心不乱にニスを塗る俺を見下ろして、鼻歌のように頼りない笑い声を落とした。
「よぉ、何してんの」
「椅子を作ってる」
 2時間もあれば出来上がるそれを三日も掛けて丁寧に作った力作だ。
「小さすぎてケツがはみ出るじゃん」
「当たり前だろ。ガキのサイズだ。誰も座れねぇよ」
「バッカじゃないの……」
 そう言い放ったあと夏彦はちょっと近所のコンビニまで出掛けていたような具合で何事もなく部屋に上がり込み、俺の布団の上に大の字になって体を投げ出した。
 それから俺たちは一言も言葉を交わさずに辺りが真っ暗になるまで抱き合った。






「オマエ、俺がいないとそんなに暇なのかよ?」
「あァ?」
「しばらく見ねぇといつもどっか変わってるだろ、この部屋」
 気が付いていたとは驚きだ。確かに棚も作ったしドアも塗り替えたし床も張り替えた。
「アホ臭ェこと抜かすな。これは俺の趣味なんだ。放っとけよ」
 ほんの半年ほど前から始まった趣味だがそれを正直に言ってやる義理は無い。
「趣味なぁ……」
 薄く笑う気配がする。夏彦の頭は何か喋るとき以外俺の腹の上でせわしなく上下を繰り返していて、俺はずっと左巻きの旋毛をぼんやり眺めている。表情は見えない。
 夏彦がいない空白の時間を埋めるために始めた大工の真似事だったがやってみると意外に面白く、今では趣味と実益を兼ねた格好の暇つぶしになっちまった。
「俺がここにずっと居るようになったらお前の趣味の時間が減るな」
「だろうな」
 そういう状況にあるのかとは口が裂けても訊かない。そんなことを言いだし始めたらお終いだ。無理に向き合おうとすればたちまちバランスを失って二人とも墜落してしまうだろう。俺たちはそういう関係に慣れてない。まだ―――――少なくとも今のところは。
「俺の唯一の趣味を潰すな。……これで食ってく気は無いけどな」
 途端に夏彦は高らかに笑い声を上げて身体を起こすと俺の目の前に惜しげもなく服従の証を晒した。
 充分に解けたその場所に自分を宛って一気に貫くと目の前の肩が見事なラインで隆起する。珍しく夏彦の唇から愉悦の吐息が漏れた。切れ切れに吐き出す息の途中に意味のある言葉が僅かに混じる。
「しょうがねぇよな…………」
 泣いているようだと何となく思った。


「順威さぁ、」
 内臓を突き破るほどの強い律動にシーツを握り込む指は白くなりかけていても夏彦の声は何故か乱れない。
「いっそのこと壁も天井も全部塗り替えたらどうだ? えげつない緑色とかに。ジャングルみたいでちょっと格好良くねぇ? 玄関をちまちま弄るよりかよっぽど暇は潰せると思うぜ……」
 そうか、ジャングルか。そいつは良い。
 出口の見えないこういう暮らしはジャングルに似ている。噎せるほど湿り返った生温い空気にアタマまでやられちまってる俺たちにはそんな場所が相応しい。
 倒れるほど仰け反りながら見上げても光は差さない。自分の進む方向すらおぼつかない。容赦無く行く手を遮る濃い枝葉を素手でかき分けると腕に体に必ず痛みが走る。入り組んで暗く茂った森の向こうから次に何が出てくるのか、そんなことは誰にも予測がつかない。抜け出せないことへの不安がやがて妙な混乱の引き金になって足を踏み入れた者をさらに深い場所へと誘い込むのだ。
 似ている、それは誰かと。その身体から発する青々とした生々しい芳香すらもだ。
 そこに蹲ったまま朽ち果てるのを待つかそれとも血だらけになることを厭わずに出口を探して立ち上がるか、選ぶのは自由だ。
 俺はまだどちらも選べないでいる。

「そんでさ、天蓋付きのベッドとか入れてそこでどっちも勃たなくなるまでセックスすんだよ」
「バカじゃ、ねぇのか、……オマエ」
 振り返ってニヤリと笑う濃く色付いた唇を見ているとそれも悪くない気がした。

 今度夏彦が姿を消したら、ペンキを買いに道具屋へでも行ってみるか。
 押し寄せるように狭まっていく視界が毒々しいほど鮮やかな緑色のペンキで覆い尽くされる場面を想像しながら、俺は夏彦の細い首筋に囓りついたまま最果てに跳んだ。



end


 前作と関係あるようで全く別の話。主人公が同一であるというだけの。でも何処かで繋がっていることは間違いなく、それはひとりの男の生き様でもあります。
 愛とか恋とかいう得体の知れないモノを腹の底から思い知る前の、長い一瞬。



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