虹と薄荷



 目が覚めて布団の上に起き上がって辺りを見回すと、東の窓が開いていた。



 珍しく風があるのか、灰色の壁に走った不穏な亀裂に沿って釘で強引に留め付けただけの、カーテン代わりのペラペラのトリコットがゆらゆらと風に揺れている。窓枠に凭れて蹲る夏彦の伸ばしっぱなしの前髪も時折浮いて、うざったそうに頭を振る姿が目に入った。
 強い光を当てると向こう側が透けて見えそうな色褪せた木綿の布は、三月ほど前に近所の生地屋で夏彦がメーター300円かそこらで手に入れて来たものだ。
 幅五センチくらいの太い縦ストライプは左から紫、藍、青、緑、黄、橙、赤。
 カラフルにも程があると呆れる、気が違ったかと疑うような配色だ。これなら壁がエグイ真緑に変わってもきっと似合うぜ、といかにもつまらなさそうな口調で面白くもない冗談を零してからもう三月、この部屋の壁は未だに無彩色のままだ。


 会った当初はしょっちゅうこの部屋からいなくなってた夏彦の姿を、最近よく見かける。曰くありげな恋人と会う度に必ず行方不明になっていた奔放な男が、ここ1ヶ月ほどなぜか借りてきた猫のようにおとなしく部屋のまん中に蹲っているから、何となくおかしいとは思っていた。
 1ヶ月に4,5回というペースで繰り返されていた失踪劇は、去年の夏が終わるあたりから徐々に回数が減り、冬を迎える頃にはほぼ完全になくなっていた。奴がいない間セックスする相手にも事欠いて暇で暇でしようがなかった俺は、何を思ったか突然日曜大工にハマってしまった。棚を作ったり机や椅子を作ったり、しばらく金にもならない大工仕事に精を出していたのだが、ついに弄るところがなくなった。なにせ元が犬小屋みたいな狭い部屋に大の男がふたりも寝泊まりしているのだ、これ以上無駄に幅を取るものを増やすわけにいかない。そんな時、夏彦がぼんやり言い出した。壁を塗り替えるのは? 目とかアタマとかヤラレそうなえげつない緑色とかさ。ジャングルみたいでいいじゃんか。色じゃなく薬でヤラレてるみたいな浮いた視線で、俺の目の前に尻を丸ごと晒しながら。そりゃいいやと、俺はすぐさま同意した。壁の塗り替えなんて、ちょっと想像しただけでもかなりの大仕事だ。夏彦が長いこと部屋を空けてなけりゃできないような大改造だ。
 それは名案中の名案だった。俺は浮かれた。夏彦が早く男の所へ行けばいいと思った。さっさといなくなって戻ってきたときにはこの部屋はマミドリだ、リアルアマゾンだ。おかしくて笑いが止まらなかった。ゲラゲラ笑う勢いに任せて後ろからガンガン衝いてあっけなく達った。夏彦とセックスするようになってから最高に感じた。いいトコロを外す余裕なんてなかったからか、夏彦は感じすぎて逆になかなか射精できなくて、かなり苦しんだようだった。

 あれから半年以上、夏彦は一度も姿を消していない。
 つまり俺が『インナートリップ・マイルームジャングル改造計画』なるものをブチ立ててすぐに、夏彦は男と別れた。監獄めいた灰色のコンクリート・ジャングルに眠るように横たわる、ひどく出来の良いダッチワイフ。それが今の夏彦だ。そして季節は巡りまた夏が来る。





 昼間は夏彦が急に散歩をしようなんて言い出すから、なんとなく、アパートから歩いて15分のところにあるホームセンターへ連れ立って出掛けた。びっしりと規則正しくマイカーを並べる家族連れを横目で見ながら駐車場を横切る時に、ようやく今日が日曜だったことを思い出した。
「おい、…っと待て。こんなうぜえ集団に混じって何が楽しい? 風呂場の簀の子とか猫砂でも欲しいのか」
「いいじゃん、たまにはこういうフッツーの空気吸ってみるのも。おまえはたまにここ、来てんだろ? タイルとか板きれとかいろいろ買って来て楽しんでんじゃん」
 俺の唯一の趣味をからかうように言う。目は入り口の正面にある平台に堆く摘まれた安売りのティッシュペーパーか何かに釘付けで、欲しいのかと訊くとアレはオレらにはフツウに必要だろ、とケツを蹴り上げたくなるようなマトモにイカれたコトを抜かした。
「俺、ヤなんだよ。ガンガン突っ込まれてるとその時はどーでもよくなってるから、布団の上にそのまま出すだろ。アレすると、後でケツとか微妙にかぶれるんだよな。お前、なんねえ? それにマジ汚ねえし。フェラのとき俺がお前の全部飲んでやるの、そのためだって知ってた?」
 俺、ヤなんだよ。牛乳飲むと絶対腹こわすからさ。それに後で口の周りが微妙にかぶれるんだよな。お前、なんねえ? ………
 というようなごく普通の口振りだが、内容はそれとは遠くかけ離れてとんでもない。
 こいつ、絶対わざとだ。ここが真っ昼間の、賑わってるホームセンターだってことをしっかりわかった上で、平然とこんなコトを口走っている。後ろから追い抜いていった子供連れの母親が、前を行く父親らしき男に慌てて駆け寄って、ひそひそ耳打ちしながらこっちを振り返った。父親のほうは「ナニ言ってんだおまえ」というように顔を顰め、女が見ている方、つまり俺たちを怪訝そうに見遣る。バッチリ目が合う。夏彦が低い笑い声を洩らす。たぶん来るなと思ってたら、案の定夏彦は俺の手を嫌味なくらい丁寧に握ってきた。握るというより指と指を絡ませている。
 ウンザリしながらもう一度前方を見ると、さっきの夫婦はまだ俺たちのことを見ていた。呆気に取られて言葉もないらしい。なんだか気の毒になった。
「こんなことしてなんか面白いか?」
「うん、すんげえ面白い、……あ、逃げた」
 やりぃ! と子供みたいにはしゃいで飛び上がる夏彦は、ガキくさいというよりウィルスに大事な部分をヤラレたコンピューターを思わせた。



 家に戻るとすぐに手を洗うくらいの気軽さでセックスして、気がついたときにはもう夕方どころか夜だった。イカれた配色のカーテンのうざったさは、電灯の蛍光色の気色悪さに押されて少し和らいでいた。それだけが救いだ。窓辺に黒い影が見えるから何かと思ったら、夏彦が気まぐれで買ったペパーミントの鉢植えだった。何の変哲もない赤茶の素焼きの植木鉢の土の中から、茎の長い、細かいギザギザの葉っぱがにゅうっと生えている。見ると夏彦も窓をじっと見つめていた。暗い外を見ているのか、それとも他の何かを見ているのか。少なくとも俺にはわからない目をしていた。
「あれ、枯らすなよ」
「あれって何だ。あのクサい雑草のことか」
「今度の時まで保たせろよー」
「──はあ?」
 今度って。
 と言いかけて、俺はガラにもなく言葉を飲んだ。今度って、お前は今度いつこの部屋を出ていくんだ、と言いそうになったからだ。わかってる。それを言ったらお終いだ。
 俺の沈黙の意味を、夏彦は正確に読み取ったようだ。意味深に笑い、特別の秘密を教えるように声を潜めて囁いた。
「今度ここに帰ってくる時は…」
 言いかけて、途中で口を噤む。何か考えるように視線を落として、
「緑の囲いと、虹色のカーテンと、ミントティー」
 繋がらない単語を妙な節に乗せ、夏彦は歌うようにそんなことを呟いた。その声はまるで墓の下から聴こえているように、おそろしく静かだ。
 夏彦は急に立ち上がると、開け放たれた窓の前にゆっくり立った。窓の手摺りとの間に無理やり置いた植木鉢を上からのぞき込む。やがてぶちぶちと音を立てて葉っぱを毟り始めた。
「ミントって、食えるんだっけ……」
 間抜けなことを口走りながら緑の葉の乗った手のひらの上に顔を伏せ、数枚を唇で銜える。それからまっすぐ腕を伸ばすと、夏彦は残った葉を一枚ずつ窓から投げ捨てた。最後まで手のひらに張りついていた葉っぱも叩いてきれいに払い落とす。思いがけなく丁寧なその仕草は、まるで何かの儀式のようだった。それをすっかりし終えなければ次に進めない。手順とか、流れとかいう。それとも始まりの合図なのか。
「うえ…ミントくっせえ……」
 弾んだ声で顔を顰めて振り返りながら、おまえも?と訊いてくる。いらねえよと返すと、夏彦はぱっと目を見開いて、それからなぜかひどく嬉しそうに微笑んだ。
「だろうな、順威は絶対そう言うと思った…」
 と呟く唇は上向きに吊り上がっていたが、琥珀色の瞳は笑っていなかった。
 夏彦がおぼつかない足取りで近づいてくる。俺の膝に両手をついてしゃがみ込むと、俺を睨みながらぐっと額を寄せて顔の前で大きく口を開ける。あ、と小さく叫んで赤黒い舌を思いきり突き出す。見るとゆるく窪んだ舌の真ん中に、雑に噛み砕かれて粉々になったミント葉のなれの果てが乗っていた。
 元は鮮やかな緑色だった、だが今はただの黒ずんだ染みにしか見えない。
 見えるかと訊くから見えると答えた。


 何が?
 おまえには何が見えてる?

 ―――――残骸。


 痛めつけられて擂り潰されて跡形も無くゴミみたいな。
 生まれたときは確かに美しかったかも知れないが、今ではすっかり形を変えて、朽ちて消えていくのは時間の問題だ。神経をすり減らして大事にするほどの価値はない。
 奇跡的に原形を取り戻す可能性も……おそらくは。
「それってもうすでにミントじゃねえだろ。別の気持ち悪いモノに変わってる」
「なんだソレ…」
 人をバカにしたように鼻で笑うから、おまえみたいだと付け加えた。この一言は夏彦をひどく喜ばせたようだった。
「順威、おまえすんげえ上手いこと言うよな。ひょっとして…ポエマー?」
 ありがとう。
 そう聞こえたような気がして、思わず顔を見つめた。夏彦の瞳は濡れていた。さっきの台詞が俺の聞き間違いかそうでないのかを確かめる術はなかった。この葉っぱ目に染みるんだけど、と言い訳のように呟くのは卑怯だと思った。
 たった一枚だけ摘まずに残された青い葉と、いつまで経っても部屋に馴染まない七色の縦縞。
 最後の葉はすぐに枯れ落ちて、壁は死んだようなグレイ、カーテンは風景から浮いたまま。
 俺たちはまた夏を迎える。
 訊かなくても確信していた。夏彦の言う『今度』は、もう来ないのだ。


 
「ご褒美だ」
 と言って、無造作に重ねられた唇と吐息は噎せるほど濃く薫り高く、喉や肺を通り越して心臓を灼く。
 絡め取られた舌先と瞼の奥をヒリつかせるのは、清々しく甘く、


 ―――――胸を締めつける、薄荷の香り。







咀嚼と嚥下、痛いキス。諦観、抵抗、同化、受容、逆反発。
巧く言い表しているようで実はどれにも当て嵌まらない、それが感情。


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