【? Mischief or Naughty ?】


 





「おはようございます……」
 いつものように「GREEN DAY」の従業員用の入り口のドアを開けると、スタッフはまだほとんど誰もいなかった。
 それは別に驚くようなことじゃない。時刻はまだ昼の2時半。普通なら店は閉まってる時間だからだ。
 ふだんなら人混みが苦手で、仕事か斎と一緒の時くらいしか渋谷辺りをうろつくことなんて無いのに、今日は適当にやらなきゃいけないことを済ませて俺は早々に家を出た。なんだか家に一人でじっとしているのが嫌になったからだ。
「どうしたの、こんなに早く」
 スタッフルームでひとり伝票の整理をしていたらしい美帆さんが、目を見開いて俺を見上げた。
「今日は働く日じゃないのよ。忘れちゃったの?」
「や、そう言うわけやないんですけど……」
 いつも明るい美帆さんの表情がからかうようなそれに変わる。
「こら、今日の主役がそんな顔しててどうする。ぴりっとしなさい、ぴりっと! 克彦が見たら今日のライブ中止にするって暴れるわよ」
「はぁ…………」
 そう、今日は俺が加入してから初めての新生「JUDE」のライブ当日なのだ。

 
 妙な時間に突然現れた俺の顔を見て美帆さんは何か思い出したらしい。俺の顔を見ながらヒョイと手招きをする。
「君の顔見て思い出した。預かり物があるのよ」
「なんですか?」
「真美ちゃんのハワイ土産。香水だってさ」
「香水?」
 手渡された免税店のビニール袋から取り出した中身は、確かに香水だった。パッケージにデカデカとそう書いてある。
「……なんで俺に香水?」
「せっかくいい男なんだから少しは洒落ろってコトじゃない?」
 意地悪く言ってニヤリと笑う。
「今日のステージにつけて出れば? 気分を盛り上げるにはいいんじゃない、非日常的で。香水なんか使ったことナイでしょ」
「手に持ったのも初めてですよ……」
 正直に告白すると、美帆さんは思い切り顔を反らせて爆笑した。


 
 まだ仕事があるという美帆さんをスタッフルームに残して楽屋へ入った。仕事で数え切れないほど出入りしてるのに、自分が使う立場になるのは妙な感じだ。部屋に足を踏み入れるのすら少し緊張した。
 壁際の長椅子にゆっくり腰を降ろす。ひとりになっても緊張してるのは変わらないから何かしていないと落ち着かなくて、ぼんやりとさっき貰った香水の箱に手を掛けた。
 包装用のビニールを剥がして瓶を箱から取り出すだけで、馴染みの無い香りが微かに立ち上る。

『俺たちは近いうちにトップに立つから』
 斎に連れられて初めて練習スタジオを覗きに行ったとき、初対面の俺に向かって瀬田兄ははっきりそう言い切った。曲作りもパフォーマンスもファンも、すべてそのために作っていくって。その言葉通り、瀬田兄は長い時間をかけていろんな方面から準備を進めている。
 「JUDE」に加入してからの俺のステージ経験と言えば、予定していたバンドの代役でいきなり歌わされたコトがあるだけで、「JUDE」として単独で人を入れるライブは正真正銘今日が初めてだ。他はその前に半年いたバンドで5,6回程度。俺のキャリアはそれで全部。
 ライブに関して瀬田兄は恐ろしく固い信念を持っていて、要するに『金をもらって人前で演奏するからにはソレなりでは許されない』ってことなんだけど、今まで「JUDE」は瀬田兄の基準に達していなかった。
 他のメンバーはずっと一緒にやってきたわけだから、……どう考えても問題は間違いなく俺にあるってコトで。だからこそ気合いも入るし、正直言ってプレッシャーでどうにかなりそうでもあった。
 フラフラと家を出たはいいけどやっぱり人の多さに閉口して、かと言って家に戻る気にもならなくて気が付いたら店に足が向いてた。……ああ、情けねぇ。
 
 とりとめのないことを考えながら蓋を取って顔を近づけてみる。アトマイザーの上からでは香りがよく分からない気がして、それも取っ払って直接クン、と鼻を近づけて、…………危うく瓶を取り落としそうになった。
 慣れないアルコール臭を思い切り吸い込んでしまった。強烈な香りに眩暈がする。甘いのか爽やかなのかサッパリ分からないけど、とりあえず全然良い匂いじゃない。真美子のヤツ、何を考えて俺にこんなモノ…………
 突然声を掛けられて心臓が跳ね上がった。
「何やってんだよ?」
「え? あっ!」
 と同時に手の中の香水瓶がスルリと滑る。
「う、わっっ!!」
「わーッ」
 ガラスの砕けるトーンの高い音が頭の中に響く。
 あ、ダメだ、割れた。最悪…………と思ったら、俺の反射神経も捨てたものじゃなかった。
 盛大に中身をぶちまけながら転がった香水瓶は、俺の掌の上で一回転してなんとか膝の上に乗っかった。遅れてさっきの100倍くらい強い芳香がいきなり鼻をついた。
「くっせぇ……」
 思わずぼやいたら、声の主が面白そうに笑い声を上げる。
「あーあ、何やってんだろうね。シャツもパンツもびしょびしょじゃん」
「斎」
 こんな早い時間になんでお前がココにいる?
 とりあえず床を汚さなくてヨカッタよ。
 斎の顔を見た途端ちょっとだけホッとするなんて、俺ってアホ……などなど。
 いろんな混乱でドキドキしながらじっと顔を見つめると、斎は片方の眉を器用に上げて俺の足下を指差した。
「早く脱がないとパンツの中に染みるよ?」
「げっ」
 いくら何でもそれはシャレにならない。慌てて立ち上がったものの、大事なことにハタと気がついた。
「……着替えがない」
「……マジで?」
 さすがの斎も呆れ声だ。ステージ衣装なんて面倒だからこのまま舞台に上がるつもりで着替えて来たんだから、これ以外の着替えなんてあるわけがない。
「替えのTシャツとかも持ってきてねぇの?」
「ない」
「ったく、しょうがねぇなぁ。ほら、」
 斎は盛大にため息を吐くと、どこかの店のキャリーバッグの中からまだ値札が付いたままのTシャツと黒のカーゴパンツを取り出した。
「6限フケて買い物に行って大正解。感謝しろよ?」
「アホか、お前は。何してんのっ」
「お前絶対そのまんま来ると思ったし。ちょっとはカッコつけねぇとな。一応新ヴォーカルのデビューなんだし?」
 手早くタグを噛み千切りながらはっきりしない口調でボソッと呟く。
 びっくりしてやっぱり手が止まってしまった。
「俺の……?」
「あたりまえでしょ? でなきゃわざわざ、んな面倒臭ェコトしねぇよ」
 驚いて見上げるとしょうがねぇヤツ、って感じで笑う瞳と目が合った。

 昔からこうだ。
 斎はきっと俺よりも俺のことを良く知ってる。俺の足りない部分を知らないうちに埋めてくれてて、気が付くと俺は斎の腕の中で楽に呼吸をしてる。
「あ。……サンキュ、助かった……」
「どういたしまして」
 言いながら俺のTシャツに手を掛ける。有無を言わさず脱がされそうになって、慌てて大きな体を押し退けた。
「ええって。そんなん自分でするっ……」
「それぐらいサーヴィスしてくれてもイイんじゃねぇ?」
 おい、ちょっと待て。
「サーヴィスってなんや、サーヴィスって!」
 ああもう、コレくらいのことで赤くなるなって、俺!
「出張着替えサーヴィス。させてくれないなら、これ貸してやんない」
 ニヤニヤしながら目の前で買ったばかりのTシャツをひらひらと振る。
「くっそ、アホ斎っ……」
「はい、腕上げて」
 悔しいけど今の俺の立場はとことん弱い。ぐうの音も出なくて黙り込むと、斎はさっそく嬉々として俺の着替えに取り掛かった。
 腕を高く上げさせられて、Tシャツをゆっくり引き抜かれる。それだけでアタマが沸騰して倒れそう。斎の掌が剥き出しの胸に触れると、耳の中まで脈打ってズキズキ熱を持ってくる。一応念を押しておかなきゃやばいことになりそうな雰囲気だ。 
「……着替えだけ、な?」
「あ、ばれた?」
「お前なぁ」
 顔を顰めて睨みつけると、斎はクスクス笑いながら新品のTシャツを着せかけた。ったく、油断も隙もないんだからな。
「ハイお次は下な」
「ン」
 続いてベルトがゆっくり外される。金属が触れ合う音とファスナーを下ろす音がびっくりするほど大きく響いた。わざとか知らずかは知らないが指がソコに軽く押しつけられて、体が勝手に固くなる。
「クソっ……」
 堪えきれなくて思わずぼやいてしまう。
 斎も絶対分かってて、俺を手近な机に座らせると見せつけるようにわざとゆっくりパンツに手を掛ける。足を片方ずつ持ち上げてそろそろと引き抜いた。
 恥ずかしさは最高潮。なぜってそりゃ、こうして斎に服を脱がされるときは要するにソウイウ時なわけで。こんな時にそんなコト思い出したら最後、嫌でも意識が下半身に集中してしまう。斎の肩に顔を伏せてギュッと目を瞑った。そうでもしないと妙な声が出そうだ。
 と、斎の掌がまともにトランクスのど真ん中を掠めた。何かを確かめるように何度も擦り付けてくる。
「やっ、アホ! 触んなっ」
 反応したらどうする、アホ斎!
「だって濡れてたらこれも着替えなきゃなんないじゃん」
「濡れてへん! 濡れてへんからっ」
 焦りながらブンブン首を振ると、斎の手はさも名残惜しそうにやっとそこから離れた。
 絶対わざとやってやがるこの野郎。ちくしょう、目の前がチカチカしてきたぞ……………
「お前、遊んでるやろ」
「何を言う。メチャクチャ真剣だよ俺は」
 ウソつけっ。声がニヤついてんだよ、すっげぇやらしく!
 こんな状態で何を言っても説得力はない。最後まで斎にされるがまま、大人しく足を上げたり腰を上げたり、まるで幼稚園児のように着替えをして貰った。
「ハイ終わり。よく出来ました」
 誰に言ってるのかよく分からない意味不明なコメントと共に、ようやく苦行から解放された。ホッとして深くため息を吐くと斎の腕が背中に回されて、突っ立ったまま軽く抱き締められた。
 顔を近づけて額をそっと合わせるだけで唇は触れない。そんなことに胸が疼くのはちょっと切ない。
「すっげ、たまらん恥ずかしかった……。ここ一応俺の仕事場やぞ」
「いいじゃん誰も見てねぇし。なんかドキドキしねぇ? こういうの」
「アホか」
 脳天気な斎には全然通用しないみたいだ。昔から嫌というほど知ってるけど、やっぱり可笑しくて笑ってしまう。
 あまりの恥ずかしさにさっきまでの緊張がどこかに吹っ飛んでしまった。あんなに気が重かったのがまるでウソみたいだ。俺にも斎の脳天気が感染って来つつあるのかも。
「仕上げはこれな」
 言いながらこれまた真っ黒なスウェットパーカを着せ掛ける。俺の頭にフードをすっぽり被せてその上からポンと叩いた。
「顔が隠れてちょっとは楽だろ?」
「……サンキュ」
 分かってるね、まったく。お前には全部バレバレってか?


 腕を伸ばして自分から斎にしがみついた。何となくもう少し強く抱き締められたい気分。
「どうした?」
 黙ったまま首にしがみつく俺の背中に、不思議そうな声が降ってくる。
「……サーヴィスに決まってるやろ」
 小さい声で呟くと、斎は笑いながらもう一度、回した腕に力を込めて抱き締めてくれた。




end


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