
電車の駅を降りて改札を抜けると、グレイに染まった曇り空がどんよりと広がっていた。駅前のショッピング街はクリスマス色で華やかに彩られて、平日だというのにたくさんの買い物客でごった返している。親子連れやカップルが多く、ひとりで歩いているのは学校帰りの中高生や大学生がほとんどだ。その中のひとりのような顔をして、俺も人混みの中に紛れ込んだ。
駅から実家のマンションまでは歩いて5、6分。ごく近い距離なのに、俺が電車を降りてからすでに20分以上経っている。ここから先になかなか足が向かないのはいつものことだけれど。
この駅に来るのは久し振り、と言っても秋の始めに一回来たけれど、その時は心配した斎が一緒について来てくれた。だから俺がひとりでここに来るのは、家を出て以来初めてのことだ。
少し時間が空くと以前にあった店がなくなっていたりして、新興住宅地の流行の移り変わりの速さに驚くことがあるけど、今日も気持ちを落ち着かせるために以前入ったカフェを探したら、すっかり別の店に入れ替わっていた。
カフェに替わって新しく出来たその店は、真っ赤に塗られた木枠のウィンドウ、深いグリーンにミルク色の文字で店名が描かれた看板はクラシックなイギリス風と言った雰囲気。いかにも女の子が好きそうな感じの店だ。ガラス窓越しに中を覗くと子供服のブティックのようだった。
(ここは…俺には関係なさそうな店だな)
秀樹のことが浮かんで思わず立ち止まってしまったけど、よく考えたら俺は弟の服のサイズなんて知るわけがない。身長は何センチになったとか靴のサイズはいくつだとか、兄弟ならたぶん気をつけていなくても自然に知っているようなことを、俺はひとつも知らない。
母の服のサイズも義父の靴のサイズも知らない。それはたぶん両親も同じで、俺の服の好みやサイズなんて全然分からないに違いない。
当たり前のことを当たり前に知らない。
俺たちはずっと長い間それぞれの時間を出来る限り交わらせることのないよう、別々に過ごしてきたんだから。
自分から手放してしまった時間を取り戻すことは、手を離すことよりはるかに難しいのだと思う。
母はまだ俺にかなり気を遣っていて、下宿先にも自分からはあまり電話をして来ない。用事があるとき電話してくるのはたいてい義父で、「お母さんも元気だよ」とか「珱くんがちゃんとご飯を食べてるかとか、すごく心配してる」とか必ずそういうことを言ってくれる。でも「お母さんと替わろうか」とは言わない。
俺も「ちゃんとやってるから心配せんといてって言うて」って言うだけ。母と電話を替わって欲しいと言い出したことは一度もなかった。
いつまで経っても同じ事の繰り返し。自分の母親と普通に話をすることが出来ない奴なんて、周りを見渡しても自分以外にはいないような気がする。
仲良く買い物をしてるカップルや親子連れの姿がやたら目に入るこの季節は特にそう思う。家にいても表がいつもより騒がしいような気がして、子供の声が聞こえたりすると、そわそわして落ち着かなくなってしまう。
だから何となく家を出て、何となく駅に向かって、何となく電車に揺られて、気がついたらここに来てた。
クリスマスプレゼントを買いに出なきゃならなかったから。
斎が塾の冬季カリキュラムに参加してて帰ってくるのが遅いから、バイトを休みにした俺は夜までヒマだったから。
何となく地下鉄まで歩いて行ったら、たまたま実家の最寄り駅の表示が目に入ったから。
いろいろと理由を付けてみるのは単なる言い訳。自分に言い訳したってしょうがないのに。
少しだけ、会いたくなった。
少しだけ、お互いの距離が近づき始めた母に。
何となく、どうしてるのかなって思った。
「こんにちわ。いらっしゃいませ」
急に声を掛けられて心臓が縮み上がった。
長い間ウィンドウの前に立っていたからだろう、見ると店の女の人が扉から顔を覗かせて、俺に向かってにっこり微笑みかけていた。
「どうぞ、よかったら中に入ってゆっくり見ていってください。外にいたら寒いでしょう?」
「あ、…や、あの」
すごくびっくりして、返事に困ってしまった。どう見ても俺はこの店に用事があるようには見えないと思うし、実際用事はないだろう。
「すみません。見てただけやから…」
「中の方がよく見られるわよ。どうぞ」
「というか、何を見てたってわけやないんです、けど…」
女の人はまたにっこり笑った。
「実を言うとお客様が誰もいなくて少し退屈してたところなの。大丈夫、押し売りなんかしないから、安心して。君は子供服が必要な男の子には見えないわ」
そう言うと女の人は人懐っこい笑顔で、ふわふわと手招きをした。

外から見ているとあまり分からなかったけど、中に入ってみると店は思ったより広々としていて何より暖かかった。今日は今年いちばんの最低気温を記録しそうな天気で、表はいつ雪が降り出してもおかしくない寒さなのだ。
店の雰囲気はやっぱりオールドイングリッシュスタイルといった感じで、艶のある濃いめの色をした木製の棚にタータンチェックの布が掛けられていたり、奥には俺と同じくらいの背丈のクリスマスツリーが飾られていたり。小さなセーターや温かそうなマフラーや靴下が、綺麗に畳まれて棚に少しずつ並べられている。猫足のアンティークふうのカフェテーブルにはレース編みのセンターが敷かれて、華奢な作りの銀の燭台に細長いキャンドルが三本飾られていた。
「子供服とアンティークの食器を少し置いてるのよ」
ぼんやり店内を見回していた俺に、女の人が話し掛けた。
「若い男の子には興味ないかな。やっぱり迷惑だったかしら」
「いえ…そんなこと、ないです」
俺は棚に近づいて生成色のセーターを手に取った。
「俺、弟がいるんです。まだ2才で、こんなんきっと似合うと思う…」
ふわりと柔らかい手触りのセーターには、赤や緑のカラフルな色合いで雪柄とツリーが編み込まれている。そう言えば秀樹はいつもこんな感じの、男の子にしては可愛い服をよく着ている気がする。と言ってもうろ覚えだから自信はないけど。
「あら、君の弟さんにしては小さいのね。幾つ違いなの?」
「13、…14、かな。まだ赤ちゃんみたいです。色が白くてすごい可愛い顔してるから、よく女の子に間違われるらしくて。本人はまだ分かってへんらしいけど。目がまん丸で大きいトコとか、母に…よく似てるんです」
俺はどうしてこんなことをぺらぺら喋ってるんだろう。
「このセーターはちょっと大きすぎるかな。身長は…どれくらいなんやろ。あんまりよう知らんから」
「子供の成長って、ほんとにひとりひとり違うのよね。でもそのセーターはもうちょっと大きい子用かな」
女の人はゆっくり俺の横に並んだ。
「弟さんのこと、すごく可愛がってるのね。優しいお兄ちゃんの顔してる」
この人は俺のことをよく知らないからそう思うんだろう。
秀樹が生まれた頃俺はほとんど家にいなかったから、実家にいるあいだ秀樹のことを血の繋がった兄弟だなんて実感したことは一度もなかった。久し振りに秀樹を見るとどんどん大きくなっていて、正直なところどう接して良いかも分からなかったくらいで。秀樹も俺を見るとあからさまに「この人誰?」って感じで、そわそわと落ち着かなかったりぐずったりすることが多かった。
だからいつのまにか秀樹が起きている時は、なるべく同じ部屋にいないよう気を遣うようになってしまった。
母も気づいていると思うけど、何も言わない。俺の前で秀樹の話をほとんどしないし、義父と秀樹がどうしたなんて話もしたことがない。
俺の負担になるようなことを言わないように。不用意な言葉で俺を傷つけることがないように。
そういう母の気持ちが解るから、俺も秀樹の話題に触れないようにしてきた。
「あんまり秀樹のこと自分の弟とか思ったことなくて。半年以上顔見てへんし、あいつが生まれてからずっと、声しか聞いてなかったような気がする…」
女の人は黙って俺を見上げた。この人にも子供がいるのかも知れない。何となく『お母さん』って感じがする。斎のお母さんとか、…母とよく似た雰囲気だから。
「母の、…再婚した人との子供やから、俺ら半分だけ兄弟なんです。普段は離れててあんまり会うたことないから、向こうは俺のことお兄ちゃんやって思ってるかどうかはわからんけど。顔見せると泣かれたりするし…俺もどうやって接していいのか全然わからんくて」
「そうなの? そういうふうには思えないなぁ。弟さんのことすごく可愛くてしょうがないって顔してるのに」
「俺が? そうですか?」
「そうよ」
茶目っ気たっぷりににっこり微笑まれて、急に恥ずかしくなった。俺はこの人にどんな顔を見せてるんだろう。
「どんな顔してます? 俺…」
「そうねぇ…」
女の人はうーんと言いながら首を捻った。
「お母さんに似てるのね。だから目が離せないのかな。気がついたらじっと見つめてたりしない? でね、今までご機嫌で笑ってたのが急に泣きそうになったりするとはらはらするの。頭を撫でてやろうかな、と思うけどもっと泣かれると困るからなかなかそばに行けなくて、ちょっとジレンマ。…そういう顔」
屈託ない笑顔につられて、つい笑ってしまった。
「それってどういう顔ですか」
「いい顔よ。とってもいい顔。格好良くて優しい、お兄ちゃんの顔」
「わかんねー…」
そうね、とまた彼女が笑う。
「自分じゃ分からないかな。じゃあ誰かの顔を思い出してみて。身近にいる人で、ご両親とか友達とか、…彼女とか? その人があなたを見てるとき、どんな顔してる?」
そんなこと、急に言われても思いつかない。
「早く早く、ほら目を瞑って思い出してみて」
「え、待って…」
「思い出した? その人はどんな顔してる?」
あんまり楽しそうに言うから、逆らえなくて素直に目を瞑った。
まっ先に心に浮かんだのは、斎の笑顔。
『俺、お前のこと好きなんだ』って照れ臭そうに言った時。
学校の屋上で俺を見つけた時。
家を出たいって言った俺に、迷わず『待ってる』って言ってくれた時。
いつでも俺を見て、いつも笑ってて。俺がたまに素直な反応をすると、嬉しそうに目を細める顔がいちばん格好いいと思う。
「ね、その人すごく優しい、いい顔してるでしょう?」
「うん、いい顔、かな…」
「大切な人に見せる顔は誰も同じ。その人もお母さんもお父さんも、君も同じよ」
自分のことは分からないけど、彼女が言う『いい顔』と斎の笑った顔とは同じものなんだってコトはよく解る。
しばらくすると、女の人はキッチンからお茶を持って来てくれた。
銀色のトレイの上には湯気の立つ紅茶、だろうか。色が薄いから違うかも知れない。目の前に差し出されたカップから、何となく憶えのあるフルーツのような甘酸っぱい香りがした。
「どうぞ。遠慮しないで飲んでね。自家製の柚子茶なの」
「そっか…柚子、ですよねこれ…」
言われてみると確かに柚子の香りだ。柑橘系特有のツンと澄んだ香りが柔らかい湯気に包まれて、ふわりと目の前に立ち上る。口に含むと香りと同じ味が口の中一杯に広がった。
「すげ、美味しい…」
「でしょう? ホントはイングリッシュティーを淹れた方が良いんだろうけど、これが好きなの。冬になるとどうしてもお客様に飲んでもらいたくなっちゃって」
女の人はすごく嬉しそうな笑顔を見せた。
お茶は本当に美味しかった。一口飲み込むごとに、身体中に甘い香りがゆっくり広がっていくみたいだ。
そして、すごく懐かしい。
「これって生の柚子を蜂蜜で漬けて作ってるんですよね? よく香りが出てるから十日目くらいかな…」
「そう、細くスライスしてたっぷりの蜂蜜で漬け込むだけ。よく知ってるのね」
俺が柚子茶の作り方を知ってることが、彼女には不思議だったようだ。
「小さい時…母が、よく柚子とかレモンとか蜂蜜で漬けてお茶を作ってくれてたから。俺も時々瓶を洗ったり果物切ったりして手伝ってたんです」
「そうなの、それでよく知ってるのね。そうそう、お母さんのお手製のお茶は特別に美味しいわよねぇ」
女の人は優しく言ってうんうんと頷く。
母と一緒にそれを作ったのは、小学生の頃だ。
きれいに洗った実に包丁を入れるといい香りがするのが面白くて、俺にもやらせてくれって言い張ったことがあったっけ。母に手を添えてもらいながら切った柚子の実は太かったり細かったりボロボロだったりして、それでも母は『珱ちゃんが切ってくれた柚子で作るお茶が、きっといちばん美味しいよ』って笑ってた。
「お母さんは今でもよくお茶を作ってくれるの?」
「あ、…さあ、今は母と離れて暮らしてるから、よく知らない、です」
「まぁそうなの」
女の人はお茶と一緒に持ってきた小さなケーキを俺の目の前に置いた。
「風邪を引いた時とか、こういう飲み物って嬉しいでしょ? 私も娘がいるんだけど、普段は思い出しもしないのに風邪で寝込んだ時に限って自分から柚子茶作って、なんて言ってくるもの」
「ああそれ、俺も憶えがありますよ」
懐かしい香りは子供の頃の記憶を次々と呼び覚ます。
終業式の直前、学校でひどい風邪をもらってきた俺は、熱を出して学校を休んだまま冬休みを迎えたことがあった。
すぐ治ったから大した熱ではなかったんだろうけど、その時はとにかく苦しくてひとりで家に残されるのが寂しくて、母が仕事に行こうとすると泣き喚いて引き止めようとした。
何より、楽しみにしてたクリスマスが台無しになったことがとても悔しくていつもなら聞き分けがいいはずの俺が思い切りわがままを言ったから、母は毎日嫌がる俺を何とか宥め賺して仕事に出掛けなきゃならなかった。
帰ってくると俺は寂しさからとても不機嫌になっていて母と口をきこうとしなくて、母はそんな俺に黙って蜂蜜漬けの果物のお茶を作ってくれた。
母に背中を支えてもらいながら、熱いお茶を飲ませてもらうのが嬉しかった。だから元気になるまでずっと、わざと機嫌の悪いフリをしてた様な気がする。母もきっと解っていたんだろうけど何も言わないで、仕事から帰ってくると真っ先に湯を沸かして、温かくて甘い香りのするお茶を作ってくれた。
あの頃母と俺は世界中でいちばん近い存在だった。俺には母しかいなかった。
いつのまにか距離が遠くなって、お互いが世界で唯一の存在でなくなってしまってからも、俺は母を見ていて、母も俺をずっと見ていた。
そして俺たちは本当に長い間、それを口にすることが出来ないでいた。
なんだかとても不思議な気分だ。驚きと戸惑いと、ほんの少しの照れくささがごちゃ混ぜになって、頭の中をグルグル回ってる。でもなぜか苦しくはない。
思い出したことをひとつひとつ話しながら、昔のことをとてもよく憶えている自分に驚いた。そして会ったばかりの人に、それを話して聞かせている自分にも。
以前ならこんなことを誰かに話したりしなかった。忘れてしまったことも忘れられないことも、痛みを感じるのが怖くて必死で思い出さないようにしてたから。
今は……
こうして母のことを考えるのは、少しだけど怖いことではなくなった。
「あの、お願いがあるんですけど」
「なぁに?」
「弟に、プレゼント、…選んでもらえませんか?」
途端に女の人は困った顔になった。
「そんなつもりじゃないのよ。言ったでしょ、押し売りしたりしないって」
「そうやなくて、」
自分でもびっくりするほど声が大きくなった。
「弟に何かプレゼントしたいけど、何買ってやったらいいか分からなくて困ってたんです。やから、服とかやったらいいかなと思って。ほんまに俺、あいつに何を買ってやったらええかわからへんから。お願いします」
少しの嘘と本当の気持ち。確かにここに来るまでは、そんなこと思ってもみなかったけど。
「困ったな…」
しばらく考えてから、
「じゃあその前に、お茶をもう一杯付き合ってくれるかしら?」
女の人は優しくそう言うと、店の奥へと消えた。

店を出る頃には日はすっかり落ちていた。
「すっかり遅くなっちゃたわね。これからどこかへ出掛けるの?」
「あ、や…友達が家に来る、から」
「そうか、若い子はみんなで集まってパーティーするんだ。楽しそう!」
「パーティー…ってほどやないけど」
曖昧に笑って誤魔化した。『みんな』ってほどじゃないことは黙っておこうと思う。
俺がクリスマスイブを一緒に過ごすのはたったひとり。一緒に過ごしたいと思う人もひとりしかいない。
やっぱりイブだからだろうか、人通りは昼間とほとんど変わりなく、賑やかなクリスマスソングに乗って少し早足で目の前を通り過ぎて行く。
なんだか急に家が恋しくなった。
両親と弟の住む家じゃなく、斎が帰ってくるはずの……あの部屋が。
「すみません、長いことお邪魔して。なんか自分のことばっか喋ったし…」
「ううん、すごく楽しかった。こちらこそ無理言って引き止めてしまってごめんなさい。荷物は間違いなく今日中にお届けするわ」
女の人はそう言って、カウンターに置かれた小さなセーターを振り返った。
「似合うと良いわね。あれ、とっても可愛いから、きっと気に入ってもらえると思うわ。秀樹くん喜ぶわよ。それから…お母さんもね」
「そうかな。…そうだと良いけど」
女の人が笑った。
「大丈夫。物ってね、ただそこにあるだけでは単なる『物』に過ぎないけど、人から人へ渡るとそこに気持ちが宿るものなの。不思議だけどね。あなたから誰かへ。誰かからあなたへ。大切に選んだものを贈ったり贈られたりすることで、その人を大切に思う気持ちはちゃあんと伝わるものなのよ」
だとしたら、上手く言えないでいるいろんな気持ちの、ほんのひとかけらでも伝えられるかも知れない。
今はまだ―――――俺にはこんなことしか出来ないけど。
ぺこっと頭を下げて店を出た。夕方の駅前はいっそう混雑していて、改札前も通路も人で溢れている。一回だけ振り返ったら女の人はにっこり笑いながらふわふわと手を振って、駅の構内に入るまで俺を見送ってくれた。
次にここへ来るとき、この店はまだ同じ場所にあるだろうか。

少し寄り道をして夕飯の買い物を済ませてからマンションに戻ると、時刻はほとんど夜になっていた。斎はまだ帰っていないから部屋は空っぽだ。
冷え切った部屋に入って電気を点けた。そのままエアコンとオイルヒーターのスイッチを入れようとして、携帯電話のランプが点滅しているのが目に入った。電話を持って出るのを忘れてたから、斎が伝言でも入れたのかも知れない。
荷物を床に放り出して留守録の再生ボタンを押す。と、発信音と合成のアナウンスのあとに似たようなトーンの声が響いた。
『もしもし、…珱ちゃん? あの、お母さん、です…』
思わず電話を耳に押し付けた。自分の立てた物音で声がよく聞こえなくて、慌てて再生し直した。
『もしもし、…珱ちゃん? あの、お母さん、です…。今な、駅前のお店の人が荷物、届けてくれて、…珱ちゃんからやって言わはるから、すごいびっくりした。あの…秀樹に選んでくれたセーター、サイズぴったりやった。すごく似合うよ。あの子もすごい気に入ったみたい。あのな、珱ちゃん、お留守やし、また電話する。あの、珱ちゃん、ありが……』
ピッ ----------------------- ---- --
『録音時間オーバー』
電話はそこで途切れた。

ポケットに手を突っ込んでブラブラ通りを歩いていると、道の向こうのうんと離れた外灯の下に、見慣れたシルエットが立っていたから驚いた。
お出迎えとはこりゃまた珍しい。クリスマスだからか?
だんだん距離が近づいて行くけど珱はじっと突っ立ってこっちを睨んでいるだけで、全然動く気配はない。
もしかして飛びついて来てくれるのか?なんてバカなことをチラッと考えた俺は「ま、そんなことあるわけねぇか」と、ひとり寂しく自分で自分に突っ込んだ。
「ただいま〜」
「お帰り」
横目で俺を見ながらぼそっと言う。機嫌が悪けりゃ外まで降りてわざわざ待ってるはずないし、でも特別ご機嫌ってワケでも無さそうだ。…どうなってるんだ?
だから、言ってくんなきゃ分かんないってば、珱さん。
「寒いのにどうした? 雪降ってくる、」
「もう降ってる」
「あ、そ。そうね」
見上げると真っ暗な夜空にふわふわちらちら、小さな雪の結晶がちらつき始めていた。どうりで寒いはずだよ。天気予報でも関東地区は今年いちばんの冷え込みで、今夜あたり雪になるって言ってたもんなぁ。
「さっび〜…」
思わずブルッと体が震えた。見ると珱はジャケットも着てないからまたびっくりした。
ったく、信じらんない奴だよっ。このクソ寒いのにこんな所で上着も着ないで待ちぼうけして、コイツはいったい何を考えてるんだぁ!?
「何やってんのっ。ばっかやろ、こんなに冷えて……」
どさくさに紛れて抱きついてやったらさぞや怒るだろうと、悪戯心が沸いて抱きしめようと思ったら、
―――――細い身体がふわりと倒れて、腕の中がいきなり重くなった。しかもめちゃくちゃ冷たいし。
てか、お前マジ冷てぇよ。身体冷え切ってるじゃん。
「いつからいたの。こんながちがちになっちゃって」
「10分か15分くらい…」
ウソをつけ、ウソを。あーあ、手も凍ってら。指、動かないんじゃないか?
腕を回して背中をさすると、珱は伸びするみたいに腕を広げて首にしがみついて来た。
「酔ってる? …って、まさかね」
「アホかお前は…」
「アホはどっちだよ! 部屋帰るぞ、部屋!! マジで風邪引くっつうのっ」
珱を首からぶら下げて、うんしょっと気合いを入れて歩き出す。
なんだかもう、生きた銅像みたいなのっぽの男を引きずって運ぶのに、俺はいい加減慣れてきたみたいだ。
そう言えば去年のクリスマスも、こんなふうに地蔵と化した珱を担いで部屋に上がったんじゃなかったっけ? つか、クリスマスになると珱が地蔵化する??
と、黙って首にしがみついてたコイビトが急に離れた。途端に肩の辺りがスカスカした。やっぱくっついてないと寒いし、それに落ち着かねぇわ。
「珱〜。離れんな、こら」
ぐいっと腕を引っ張ると、珱がよろけた。素早く手を握ると怒ったような拗ねてるような顔でチラッと俺を見上げたけど、振り解かないところを見ると珱も満更ではないらしい。
頬が濡れてるみたいに光ってる。雪がかかったのかな? 濡れるほど強く降ってないと思うけど…。
「ほっぺたに、雪、ついてる…」
思わず手を伸ばすと珱は少しギョッとして、吹き出す寸前みたいな妙な表情を見せたあと、―――繋いだ手をぎゅっと握り直して引っ張りながら―――俺に背中を向けてゆっくり歩き出した。
「なぁ、今年のプレゼントが何か当ててみな?」
「さぁな。そんなん考えてもどうせ分からんやん。何でもええよ」
予想通りのクールなお答え。
「なんだよ、もしかして全然期待してませんってヤツ? ほんとお前って張り合いねぇよな〜…」
「…何でもええよ」
振り向かない背中がちょっとだけ立ち止まる。声も向こうを向いたまま。
「お前がくれるもんは何でもええの。全部、大事に…するから」
聞き間違いかと思ったけど、そうじゃないみたいだ。もしかしてこれってすげぇプレゼントだよな。だっていつもは絶対こんなに素直じゃないもん。
「クリスマスってやっぱいいかも。お願いしなくても手ェ繋いでもらえるし、お前すっげ素直だしさ」
「アホなこと言ってんと、ほら、寒いから早よ帰ろうって…」
珱がまた俺の手を引っ張って歩き出す。小さなふわふわが揺れながら綺麗な横顔にツ…と留まる。
まっ白な雪の粒は見る見るうちに透き通って、すぐに溶けて消えて行った。
end
(2002.12.24/25/26 限定公開 後日再掲載) |