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| 怒濤のような恋の嵐が吹き荒れた夜からさらに7ヶ月、季節は春になった。といっても桜にはまだ少し早い。 春といえば卒業シーズン。例に漏れず俺の通う私立中学でも卒業式というものはやってくる。 通い慣れた校舎だとか仲のいい友達だとか、そういう何だか大事なものと別れるってのはやっぱり寂しいけれど、同じくらいに「これから」ってヤツへの期待感もある。 でも俺はまだあと一年義務教育が残ってるし、学校生活そのものが大きく変化することはない。残りの一年、たぶんそう変わり映えのしない日々を送ることになるんだろう。 でも俺にとっての劇的な変化はそんなところにはない。去年の夏、珱と初めて……したときから……違うな。 きっと初めて口をきいた5月のあの日から、俺の人生は180度変わってしまったに違いない。 『こんなに誰かを好きになるなんて思っても見なかった』 俺の隣で優しげな表情を浮かべて無心に眠る珱の寝顔を見ていると、そんな言葉が頭の中に何度も浮かぶ。 我ながらとことん月並みな言葉だと思う。でも他に言い表しようがなくて、しょうがないから俺はとうとうはっきり開き直ることにした。 そう告げると珱は、決まって馬鹿にしたように俺を見上げて口の端を引き上げる。 「それって殺し文句なワケ? ちょっとストレートすぎて、捻りが足らん、と思わん?」 変なところで言葉を切って、少し怠そうな様子でゆっくりと俺に背中を向ける。取り替えたばかりの毛布から洗いたての裸の肩がこぼれて、緩やかに隆起した肩胛骨が目の前に現れた。 あの夏の夜以来、俺たちは週に3回くらいのペースで、兄貴が大学受験の時に借りた世田谷の小さなアパートに泊まっていくようになった。 バンド練習のあと俺たちは別々にスタジオを出て、俺はチャリで珱は原チャリで、兄貴たちを巻くようにしてアパートに向かう。まさか、手をつないで出るわけにもいかないしな。 といっても俺が試験勉強のためにアパートを引き続き借りたい、なんて言い出したときなぜか俺の味方になって両親を説得してくれたところを見ると、兄貴は薄々気がついているに違いない。 兄貴にしてみればガキだと思ってた弟にもやっと彼女が出来たかな、くらいのつもりだろうが、現実はきっと兄貴が想像するより100倍くらいスリリングだ。 何たって俺にとっては一生に一度あるかないかの大事件なんだから。 (まさか相手が珱だなんてコトは、想像もしてないだろーな……) 目の前に無防備に晒された滑らかなラインを目で辿りながら、俺は去年の今頃珱を初めて見かけてから今日までの、ジェットコースターみたいにめまぐるしい日々をぼんやり思い出してみた。 新宿のとあるライブハウスで古いジャズを歌う珱を見かけて、惚れ込んだ。その時は純粋に珱の持ってるとんでもない「声」に惹かれて、消息を探した。 2ヶ月探してやっと見つけ出して、口説き落としたのが5月の終わり。 初めてマイクを通さない生の声を聞いて、きれいな顔に似合わない毒舌の持ち主だということも知って、少し醒めた横顔の向こうになんとなく寂しげな表情を感じ取って―――――俺はあっけなく恋に落ちた。 好きとか嫌いとかそんな感情に100%支配されたことはそれまでなかった。 それがどうだ。 好きになったと自覚した瞬間から世界は珱中心に回り出し、珱が男だとか年上だとかいうことが大した問題だと思えなかったくらい、俺の心を強く捕らえてしまった。 俺はもともとノンケだし(……たぶん)、そもそも珱に惚れたって気がつくまでオンナがいいとかオトコがいいとか、そんなこと深く考えたこともなかった。当たり前にオンナと付き合ってセックスしてケッコンとかするんだろうと、漠然と想像していた。 自覚したとたん、血の気が引いた。これって、いったいどうするんだよ? 俺、お前のこと好きになっちゃったーとかいって、笑ってすましてくれるほど珱は寛大じゃないに違いない。そう思ったら腰が引けて、結局3ヶ月なーんにも出来なかった。ほとんど追っかけのように毎日逢いに出かけて、それで満足したりして、かなり危ないヤツになりかかってた。 結論からいうと俺たちはなんだか恋人、みたくなった。……あくまで結果的に。 きっかけを作ったのはあろう事か珱の方で、とある夏の夜、俺はヤツに詰め寄られて気圧されるまま告っちまう羽目に陥った。 俺の度重なる不審な行動に珱が切れた結果だったんだけど、ギリギリのところで幸福の女神は俺にちょっぴり微笑んだってわけだ。 もしかしたら俺があんまり情けなかったから、さすがの女神も同情してくれたのかも? ついそう思いたくなるくらい見事な、起死回生の逆転満塁ホームラン。 珱は俺を許した。もっというと俺が自分に惚れるのを許した。もっともっというと自分が俺を受け入れるのも許した。 ようするに、つまりは、そういうことだ。 紆余曲折(主に、俺だけが)のあげく一足飛びにソノ線を越えた俺たちは、それから改めて恋人になる準備を始めたのだった。 「ナニ、見てんねん……」 何となく黙ったままぼんやりと背中を眺めている俺の視線が気になったのか、珱が体を捻って俺を睨め付けた。かすかに額に残った汗と怠そうに開かれた目が、何だか異様に色っぽく見える。 強い光にもほとんど染まらない、墨色の髪。弱い日差しにすら陰を作る長い睫毛。決して女っぽいワケじゃないのに、時折息をのむほどなまめかしい表情を見せる切れ長の瞳。 「何やて、言うてるやろ」 ため息のように言葉を吐き出す。声は想像するよりうんと低い。 いつまで経っても染まらない生粋の関西弁の妙なリズムとその繊細な見た目とがあまりにもミスマッチで、でもそれすら俺にとっては動悸を逸らせる媚薬の役割をする。 もう一度問われて、 「うーん、綺麗だな、と思って」 俺は心に思ったことを素直に口に出してみた。………出してみて、後悔した。 そういうこと言われるのが珱はなにより嫌いなのだ。 俺が珱の見た目をほめると珱は決まって嫌そうな顔をした。 正直言って珱はおそらくとんでもない美形だ。俺は14年間生きてきて珱より整った造作の男を見たことがない。しかもそう思ってるのは俺だけじゃなくバンドの連中然り、バイト先の女の子連中然り。珱に会うヤツ会うヤツ、みんなおもしろいぐらい同じ反応を見せるのだ。 馬鹿みたいに口をぽかんと開けて、珱を見る。それこそ穴が空きそうなくらいに、だ。 混じりっけなしの日本人とは思い難い深い彫り。少しつり気味の大きな瞳は何かの宝石を填め込んだような漆黒の艶を放っている。 掛け値なしに『美しい』という形容詞がぴったりくる顔立ちを決して女性的に見せないのは、ガラスに映った夕日のような褐色の肌と墨色の髪のおかげだ。 でも本人はその『超絶美形』の顔が大嫌いらしい。 なぜかなんて、そんなこと、恐ろしいから訊いたことはない。 俺だけじゃなく誰かが珱の顔のことを話題にすると、あからさまに眉を顰めて『思いっきり不愉快』という表情を隠さないし、ましてや自分から見た目の話題に触れてくることは絶対にない。これはヤツの地雷なのだ。 案の定珱は俺の言葉を鼻先で笑ってあっさり無視した。とはいえ今日は虫の居所がいいのかもしれない。 こんなふうにエッチの最中にうっかり口を滑らそうものなら、一瞬で萎えるくらい冷たい目で睨まれて、ひどいときにはあともう五秒!とかいうときでも俺を置き去りにしてさっさとシャワーを浴びに行ったりすることさえあるからだ。 怒った時の珱は容赦というものを知らない。まるで悪魔だ。鼻白むくらいで済んだのはまさにもうけと感謝すべきコトで………… なのに俺は馬鹿だ。ホッントに馬鹿だ。せっかく珱が機嫌良く見逃してやろうとしてくれるのを、自分からほじくり返すなんて。 でも、俺の心にピリピリと警報が鳴っている。 何だか変、なんだか変、だぞ。 おい斎、珱の様子が変だ。気をつけろ、気をつけろ………… 虫が知らせたんだから仕方ない。珱を好きだっていう一途な虫が。 「どした? なにかあったのか?」 珱は背中を向ける一瞬前に俺を見た。 少し驚いたように、わずかに眉根を寄せて。 俺は自分の察しの良さを呪った。 「べつに」 そのまま、また綺麗なうなじを目の前に晒す。 俺は辛抱強くもう一度訊いた。 「別に、は無し。何にもなけりゃ、訊かねーよ」 正直言うとハッタリだった。何の根拠があったワケじゃない。 それでも珱の肩が小さく跳ねてキュッと固まったのが分かって、俺は心のどこかでやっぱり……と思った。 「明日、卒業式なんや」 珱がぽつりと言った。へぇ、そりゃオメデト……って、おい! 「誰の!?」 「俺の、に決まってるやろ」 「マジで?」 ガバッと起き上がったら毛布が跳ね飛んだ。 珱が嫌そうに顔をしかめながら、毛布を丁寧に引っ張り上げる。俺は体を半分起こしたまま、呆然とつぶやいた。 「お前、学校行ってたの……」 間抜けな台詞だが正直な心だ。 俺はてっきり珱は高校に行っていないか、途中退学したのだとばかり思っていたのだ。まさか現役高校生だったとは。 「だってお前、毎日店来てたじゃん? 昼間学校行って、バイトもしてたっての?」 珱がフンと鼻を鳴らした。 「毎日行かんでもええ学校やったし、」 そんなはずはない。 「テストん時と、ギリギリの日数、適当に計算してそれだけ行った……」 「出席日数のハナシ?」 「なくても大丈夫らしいけど、出とけばダレも文句、言えへんやろ?」 ため息混じりに言って、横目でちらっと俺を見上げた。 いや、高校は義務教育じゃないから、出席日数は大事だろ……と思ったが口には出さなかった。 そもそも授業も受けずにテストだけ受けて落第しない程度の成績が取れるなんて、やっぱこいつって並じゃないんだなとも思ったが、それもこの際黙っておいた。 ……なんだかそういう問題じゃない気がしたからだ。 俺はたぶんまだ珱のこと、半分も解っちゃいないだろうとは思ってた。頭良いくせに学校行ってないこととか、毎日夜中じゅう家を空けても親がなんにも言わないこととか、もしかしたら珱は俺なんかが想像も出来ない何かを背負ってるんじゃないかって。それはあからさまなサインじゃなく日常のちょっとした変化、……仕草とか目線とかそういうもので何となく俺に伝わった。 体の距離と一緒に心の距離も近づくにつれて見えてくる、珱の内側の暗い何か。いつかは触れようと思ってた……今がその時なのかもしれない。 俺は珱の滑らかな肩に手を伸ばした。指が触れても今度は反応しなかった。手に力を込めて軽く揺すってやると、珱は自分から体の向きを変えた。 狭いベッドの上で真正面から目を合わす。ド迫力の超美人とじっと見つめ合うのが恥ずかしくなるくらい近い距離だ。 俺は目を逸らさなかった。けど、さすがに緊張のあまり、小さく深呼吸してから切り出した。 「どうして、学校行かなかったワケ?」 「行きたなかったから」 珱は一瞬も迷うことなく即答する。 そうじゃないだろう。そういうんじゃなくて、 「行きたくなくなること、あったのか?」 我ながら辛抱強くて涙が出る。これは珱と付き合いだしてから身につけた特技だ。 珱は本当に意志が固い。っていうか頑固で意固地だ。絶対に口を割らないと決めてることを吐かせるには、こいつが根負けするまで気長に付き合うしかないのだ。 はっきり言って短気この上ない俺に、そうまでさせるのは何か? それはひとえに、愛のチカラってヤツで。 たぶん珱も解ってて。 だから、珱が折れた。深い深いため息をつく。 「聞き始めたら、長いで? 途中で寝たら張り倒したるしな。それでも聞くか?」 「もちろん」 俺は明るく言った。珱はやれやれ、とでも言いたげな表情で、またため息をついた。 「最初は……転校した学校で、やったかな」 珱の話し方は淡々としていて、まるで他人のことを喋っているみたいに聞こえた。 最初は転校先の学校で、外人みたい、と言われたことが発端だったらしい。 「俺の見てくれ、よう目立つしな。アホくさ思うけど、隠すわけにもいかんし。まあ、前の学校でもおんなじような目に合うたことあるし、今度も無視しとったらそのうち向こうが飽きるやろ、思て放っといたんや」 「そしたら?」 「まぁ、しつこいっちゅーか、気ィ長いっちゅーか、なかなか飽きよらへんかって。そのうち関西弁がどうとか成績がどうとか、しょうもないことばっか言い出して。うちの学校、クラス替えないねん。卒業までずっとこの調子じゃ鬱陶しいな、思て」 「で?」 「お前らアホか、言うた」 「ぶっ!」 まじめに聞いてるつもりが笑ってしまった。 確かに珱のこの見た目と口調でアホとか言われたら普通の奴はショックだろう。俺ですらたまーにカックリ来ることあるんだから。 「……何かおもろいか?」 「ゴメン…………」 珱は ま、いいけど、てな顔でまた話を再開した。 …………やっぱ、何かが違う。いつもの珱じゃない。 どうしてこんなに怒らないんだろう。いつもなら今頃絶対怒り出して話が中断してるはずだ。 なんだか続きを聞くのが恐い気がした。 「あのさ、え…………」 口を開こうとしてあっさり遮られた。 「とにかくそれが気に食わへんかったんやな。そのうち教室で嫌がらせみたいなんが始まって、最初は子供のイタズラみたいなどうでもいいことやったんやけど、そのうちエスカレートして」 「…………何、された?」 心臓が小さく撥ねて、声が震えた。 珱はしばらく黙っていた。俺と目を合わせたまま、ピクリと身動ぎもしないで。 「……初めは殴られた。4人ぐらいに近所の公園のトイレとか連れて行かれて。俺、ガタイでかいしな。ちょっとくらいはやり返せるけどそれも長くは続かへん。ボッコボコにされて耳が裂けた」 言いながらちょっと口を歪めて左手で髪を掻き上げる。 目を凝らしてよく見ると、耳の上の辺から耳の穴に向かって斜めに一本、付け根に一本、3センチくらいの傷痕が、浅黒い肌からクッキリ浮き上がる生々しい色で残っていた。言われるまで気がつかなかったのが不思議なくらい大きな傷だ。 「だんだん面倒臭なって、しばらくしたら殴られるままにさせたった。教室で何言われてもなにされても全部無視した。どうせ言い返したって殴りたなるんは一緒やし」 ふっと目を伏せてまたしっかり俺に目を合わす。俺が目を逸らしちゃいけない気がした。体はすでに情けないほど震えてる。 「もう誰にも何も言わん、何もせん、好きなようにしたらええ思て」 「親にも言わなかった?」 「言うてもしゃあない」 「先生にも?」 「もっと役に立たへん」 「周りの奴らはなんにもしなかったのかよ?」 「誰がナニ出来る? 教室で殴られてる俺を庇って、自分も殴られるんか。まぁ、俺に構ってた奴らは、教室ではビンタくらいで済ましてくれたけど?」 「要するに教室以外では滅茶苦茶されてたってことだろ!?」 きれいなアーモンドアイが細められて唇が引き上げられる。 「熱くなんな。もう、一年以上前のことや」 「時間なんて関係ねぇよっ」 「……ホンマに終わったことなんや。もうどうでも良いと思うから話してる。そやなかったら…………」 話してないってその目は言ってる。多分そうなんだろう。珱はそういう奴だ。 「どうなった、それから……どうやって収まった? 収まらなかったから学校に行かなくなったのか?」 「……7月くらいかな、テスト期間やった。放課後、いつもの奴らに呼び出されて教室で殴られた。……あんだけ殴られて顔とか体とかに傷ひとつ残ってないって、俺の顔、メチャ丈夫なんかも知れんって自分で可笑しなるくらい殴られた気がする。さすがに気が遠なってぼんやりしてたら……一人が俺のことオンナみたいやって言い出して」 ―――――ゾッとした。 まさか、と思う気持ちと最悪の想像が同時に頭に浮かんだ。 俺の表情に気持ちがはっきりで出たんだろう、珱も気がついたらしく、唇が綺麗な弧を描いて引き上がる。 「服脱がされて裸に剥かれて殴られた。オンナみたいやのに男なんや、とか何とか言っとった。そのうち四つん這いにさせられて……」 「珱っ……」 「安心しィ。突っ込まれたんは……あれ、なんやったんやろ? チューブみたいな、なんかそんなんやったから。よう覚えてへんけど。オトコ強姦するような度胸ある奴らと違たしな」 「そういう問題じゃねぇだろ!!」 思わず怒鳴った。体が勝手に浮き上がる。 怒りで頭がおかしくなりそうだ。珱は相変わらず表情も変えない。 「……そういう問題やで? 俺はチューブで良かったて思てる……そうでなかったらたぶん俺、…………今ここにおらん」 珱はどれだけ傷ついたんだろう。 どんなに想像しても絶対足りないくらい深いところを傷つけられて……それでもちゃんとここにいるんだって俺に言う。 「さすがに切れてめちゃめちゃ暴れて……多分あいつら恐かったやろな。今まで大人しかった奴が突然気ィ狂ったみたいに暴れ出したんやから。で、揉み合ってるうちに一人がバランス崩して……ガラス突き破って窓から落ちた」 珱が静かに目を伏せた。 「……教室は三階やった。他の奴らはびっくりして逃げ出して、俺はそのまま家に帰った。教室を出るときクラスの女が逃げていくんが見えたけど、どうでも良かったからそのままにした」 「そいつ、どうなったの……?」 「俺はアバラが2本ほどイっとってしばらく学校行けへんかったからすぐ夏休みになって、そいつが助かったてのはあとから聞いた。教室で遊んでて事故で落ちたってことになったらしいけど、ホントのとこはようわからん。俺んとこにも教師が何回か来たけど、ホンマの理由は知らんと来てたみたいやったし。金持ち学校やしな、何か上手くしたんやろ。どうでもよかったから誰にも聞かへんかったし、二学期になって学校行ったら、そいつらはどっかほかの学校に転校しておらんようになってた。しばらくして俺も学校行かんようになったから、もっとどうでも良くなった」 「クラスの奴らみんな、知ってて黙ってたってことか?」 「さあな。知らんヤツもおったと思う。態度違うから」 淡々とした珱の言葉が胸に刺さった。 俺には何も言ってやれない。思い知らされた。俺はなんにもしてやれない。 珱に、何一つ。 涙が―――――溢れた。 「お前が、泣いて、どうすんの…………」 俺を見つめて、仕様がないって顔をする。それでも止めようがなくて、あとからあとから涙が流れて顔中ぐしゃぐしゃに濡らしていく。 「クッソ……っ」 馬鹿に見えてもいい、俺には泣くことしかできない。 珱が笑うのが、こんな風に、どうでもいいって笑うのが悲しい。 ただ泣くしかできない自分が悔しい。 どうしてもっと早く出会えなかったんだろう。もっと早く出会ってても何もしてやれなかっただろうか。傍にいるくらいしか出来なかっただろうか。 それでも、傍にいたかった………… 「斎が泣くの、初めて見た……」 珱の指が頬に触れた。指で流れ続ける俺の涙を拭って、自分の頬にそれを擦り付ける。何度も何度も指を運んではその仕草を繰り返す。 俺の涙が珱の頬に薄い軌跡を描いていくのを俺はじっと見つめていた。 珱の表情は不思議なくらいおだやかで、宝石みたいに光る目はまっすぐ俺を見ていた。 そうすることで珱は涙を流したのかも知れない。たぶん……泣くことすらできなかったんだ。 もういい。思い出さなくていいなら。俺に話すためだけに、どうでもいいって言いながら忘れるはずのないこと、思い出そうとしてるなら。 「俺、どうしていいかわかんねぇ。どうしたらいい? 何でそんなこと話すの」 「なんもせんでええよ。話したかったから話した、……それだけ」 また勝手に喉から声が漏れる。しゃくり上げながら必死で珱を抱きしめたら、珱は少し息を吐いて、体を丸めるようにして俺の腕の中に潜り込んできた。 「斎」 「……なに?」 「俺、お前のこと、……ホンマに好きやなって思う」 胸に額を押し付けるようにして呟く。眠りにつく寸前のような輪郭のぼやけた声。まるで―――――夢を見てるみたいな。 「好きになるってすごいわ。他のこと全部、もうええかなって思えるもん……」 「珱……」 「あんま、そういうこと上手く言われへんしこれからも言えるようになるか自分でも分からんけど、」 頭が少し動いて俺の肩の辺りに柔らかい唇が触れた。 「俺のこと……好きでいてな、…………ずっと」 「バカ、やろっ……!」 また涙が溢れて来て、どうしようもなくて、腕が折れそうなほど強く抱きしめた。 あたりまえだろって怒鳴る声が震える。 いつだって、いつまでだって好きなまま。お前が俺のことキライになっても絶対好きでいる。 だって今までそうだった。好きで好きでどうしようもなかったんだから。初めてお前を見かけた日から今日までずっとずっとずっと。 泣きながらそう言うと珱はウン、って頷いてそれから掠れた声で言った。 「さっきも言うた。もう終わった。斎が泣いたからもう泣くのも済んだ」 ふと言葉を切って少し黙り込む。それからため息みたいに微かな声で呟いた。 「俺、今すげぇ、幸せなんかも知れん……」 俺はやっぱり馬鹿みたいに、珱を抱きしめながらまた大声で泣いた。 少し眠ってた気がする。暖かい何かが動く気配で目が覚めた。 目を開けると珱が変わらず腕の中に収まって俺を見上げていた。ぼやけていた焦点が合って少し笑いかけると、ゆっくり目を閉じて体を丸めて、俺の肩の辺りに軽くキスした。 珱は明日が卒業式だと言った。わざわざ言ったということは、きっと。 「卒業式……行きたいんだ?」 俺は出来るだけさりげなく聞こえるように言ってみた。 答えが返ってくるかどうかは分からない。でも、ここで終わらせたらいけない気がした。 終わったと言いながら躊躇いを見せる。 珱は迷ってる。どうしていいか分からないと俺に言う。 ……そんなこと当たり前、自分だけで解決できるなら俺に話したりするはずないよな? 言葉なんかなくても俺はそれを知らなくちゃいけない。 珱は俺をまっすぐ見た。瞬きしないので、長い睫毛はまるでナイロンの作り物に見える。ふっと目を伏せて、ぽつりと、 「わからん」 睫毛で隠れて瞳の表情が読みとれない。でも言いたいことは分かってる。たぶん、言わなきゃいけないことも。 「大丈夫って、珱、自分で言ったよ? やりたいようにやらないの、お前っぽくないでしょ」 「お前、軽く言うね……」 その一言がおそらくすべてを表しているのだろう。 言ってから珱はほんの少し眉を顰めて、それでも笑おうとした。 泣き出すんじゃないかと思った。 珱にとって、決して軽くないもの。 それを長い時間一人で背負い続けてきた。 珱はそれを明日『卒業』する……違う、したいと思ってるだけかも知れないけど、それでも一歩前進することに違いはない。だってそれが一番大事だろ? 滞って、一カ所で腐り落ちていくのをやめた珱。 自分が誰かを許容するのを、認めはじめた珱。 まだ痛みが残ってる。でも傷はいつかかさぶたになって、やがて乾いて消えていくんだ。ああ、消えたんだなって、……たぶん、あとはそれだけ。 「行けよ、卒業式」 珱が何か言いた気に口を開いた。でも言葉が出てこないのか、もどかしそうに眉を顰めて……結局なんにも言わなかった。 どうでもいいと思ってることには腹が立つくらい頭が回るのに、ホントに言いたいことは自分の言葉で半分も上手く言い表せない。 それが珱。 強くて脆い、ガラスで出来た箱の中で、誰かが通りかかるのを待っている。 でも大丈夫。俺はちゃんと分かってるから。 珱が腕を伸ばして、指で俺の頬に触れてくる。 首を少し傾けると、伸び上がるようにして俺の首にそっと腕を回してきた。体を屈めて顔を近づけると瞼がゆっくりと閉じられて……唇が触れた。 恋人同士みたいなキス。ほら、こんなキスだって俺たちはできる。 「行かなきゃ終わんねぇだろ、いろんなもの」 唇が離れても目を閉じたままの珱に、俺はもう一度言った。 珱が言って欲しい言葉。言いたくても言えない言葉。それは俺だけが知っている。 珱の表情が少し緩んだ。うっすらと瞼を上げて俺を見つめる。視線を合わせてほんの少し口の端を上げるだけ。 「そやね……」 そう言って、珱は微かに笑顔を浮かべたまま、また目を閉じた。 折しも季節は卒業シーズン。そういえば俺の通う中学でも明日、三年生が卒業する。 |