| |
| 顎が外れるかと思うほど気持ちよく大あくびしながらバスルームの扉を開けると、斎が顔を洗っているところだった。 「お。いたのか」 「う゛」 「…いいから、返事。顔洗いながらのおはようは。一心不乱に洗いなさい」 「う゛」 言うと、また短く唸って、斎は顔面に向けてばしゃばしゃと水しぶきを上げた。 そう言えばこうしてまともに斎の顔を見るのは、ひと月ぶりくらいか。デビューシングルの進行が押せ押せでずれ込んで休みが取れなくて、俺と高崎はずっとスタジオで寝起きするような生活をしていたから、俺がここんちに帰って来たのも一週間ぶりくらいだからな。 なんとなく出て行くタイミングを逃して、所在なく腕を組んで壁に凭れた。 そのままぼんやりと、なんとなくぼんやりと、ひさびさに無駄にでかい図体を後ろから眺めた。 しかしホントにでかいなコイツ。しみじみ思う。昔から俺よりうんと成長が早いとは思っていたが、ここ三年ばかりの間に斎は本当に、見違えるほど一気にでかくなった。 見るたびに背だけでなく横幅もぐんぐん広がるし、まだ骨が出来上がってなさそうな子供っぽい体つきだった肩や背中にいつのまにか筋肉がパンパンに詰まっていくのがわかって、それがけっこう見物だったりもした。いつも横に並んでる奴が人一倍ひょろ長いモデル体型だったから、その対比はあまりに鮮烈で、仲間内でしばらく話のネタとして使われていたほどだ。 そういえば、ひどい時にはお米だけでも一升炊くのよ、とお袋が派手に嘆いていたっけ。俺は食べ盛りの時でもそれほどじゃなかったから、凄まじいまでの食欲魔人と化した斎はお袋にかなり新鮮な恐怖を与えているらしい。「まるで人型ブラックホール」という喩えは、どっちにとっても少々哀れだ。 お袋の涙ぐましい努力のおかげか本人の体質に因るところかは知らないが、今の斎は図体だけ見れば立派に常人の一人半前を超している。食うのはいいがそれ以上太ったらオマエあいつの倍になるぞと脅かすと、太ってねえ、まだギリで標準以下だっと涙目で反論してくる所は、まだまだガキ臭さ全開だったけどな。 斎は洗い終えた顔面を拭きもせずに、短い前髪や顎からダラダラ滴を垂らしたまま歯磨きに移ろうとしている。 だからな、オマエはそういう大雑把なところを飽きずに誰かさんにどやされてるだろうが? 顔ぐらい拭けって、面倒くさがらずに。とは言わずに、ため息を吐きつつ声を掛けた。アイツが言っても聞かないものを俺が言ったところで、斎は右から左へスルーだろう。まさしく馬の耳に念仏ってヤツだ。無駄な努力だ。 「オマエ、学校どうだ?」 「う゛ー。ばあばあ」 「まあまあってな、なんだ。ちゃんと勉強はやってんのか? 進路のことお袋から聞いたぞ。またえらいこと考えつきやがって。言うのは簡単だけど、選択権を持ってんのはあくまでむこうだ。際になって慌てるようなことになんないようにだけはしとけよ?」 うんざりと、今度は自分にため息を吐きそうになった。ああオヤジ臭え。こんなことをちまちま言うようになったら、人間終わりだ。年が離れたこの弟は昔から周囲が考えもつかないようなことを次々しでかす暴君だったから、俺は今でもその頃の心配癖が抜けきっていないらしい。 夏休みに入ってから、斎が毎日欠かさず学校の補習と塾の夏期講習を交互に受けていることはお袋から聞いて知っている。あの子けっこうやるよね、とうれしそうに言ってた言ってた。しかも何を思ったか、2年になってから突然学校外のサッカークラブに入ったとか言うのも聞いた。練習は週に三回程度らしいが、それでますます高層ビル化とブラックホール化が進行したらしい。 「う゛ーう゛」 またもや動物以下の返事が返ってくる。 「そういや美帆がK大の卒業生からいろいろ聞いてあるから、暇になったら話聞きに来いって言ってたぞ」 「ういー」 斎は歯ブラシを銜えたまま、鏡の中でちらりと目を上げて片目を瞑った。…生意気なガキだ。 人の話をちゃんと聞いてるのかそうじゃないのか判断に苦しむような、なんとも気の抜けた返事を聞きながら思った。 ああ違う違う。俺は昔から、こいつのことを心配してるわけじゃなかったよな。 たとえば。 自分で見つけて惚れ込んだヴォーカルを、得意そうにスタジオに連れて来て自慢した時。 両親の前で自分のためではなく、他人のために『助けてくれ』と泣きながら頭を下げた時。 その『他人』のために決まりかけていた楽な進路をあっさり蹴って、自分の将来を真剣に考え始めたと知った時。 変わってるって思った。正直に言うと、俺の弟はもしやちょっとばかり変人かも、とさえ。 驚いた。というか呆れたというか。 普通じゃないよなって思った。 しかもそうやって泣き喚きながら、斎は何一つ譲らず、諦めず、そのうち飄々と楽しそうな気配さえ見せて結局今に至るんだから、もっと驚いた。 いつのまにか自力で超えてやがる。大したもんだよ。呆れるよ。 だから俺は弟のやらかすことのひとつひとつが、たまらなく、面白くてしょうがない。たぶんこれが本音だ。 「…兄貴、ナニひとりで笑ってんの」 いつのまにか斎は歯磨きを終えていて、見慣れない動物でも見るような妙な目つきで正面から俺を見ていた。顔面はタオルで拭き取る前にすでに乾き始めている。…だからオマエは大雑把だって罵られるんだよ。 「今世紀最大のスーパールーキーとの呼び声も高い『JUDE』の柱とは思えない。マ・ジ・で、こわい」 くそ生意気でガキで世にも一途な弟が言う。でかい図体の割に小さい頭をぷるぷる振りながら。そんなことしても全然可愛くない。 「うるさいよ。べらべら喋ってないで早くそこを退け。邪魔なんだよ」 「へいへい」 斎は何か言いたそうな顔で俺を振り返ったけれど、思い直したらしく黙って大きな体を洗面台の脇に退けた。おもむろにラックからタオルを取って、自然乾燥が完了している顔をバカ丁寧に拭き出す。ごし。ごし…ごし。時々手を止めてはまた動かす。使い終わったタオルをのろのろと洗濯かごに放り込んだりして、いっこうにバスルームから出ていく様子がない。 狭いバスルーム(大の男がふたりも並べば、そこそこ広いバスルームだって息苦しくもなるだろう)にぐずぐずと居座るお子様に背を向けて洗面台に向かうと、斎はようやく、と言った感じで声を掛けてきた。 「レコーディング…終わった?」 「まだ」 ほら来た。笑いを抑えながら答えるのに苦労した。聞き出すタイミングを伺ってたのが見え見えなんだよ。オマエが俺からなにを聞き出したいのかもな。 「終わりそう?」 「さあな」 「今日中も無理か?」 「知るかよ」 わざと大げさに顔を顰めて言ってやる。 「とにかく歌が全然だ。声は出てないしリズムはめためただし、コウがもうカンカンなんだよ。あんまり嬉々として集中的に苛めるから窪塚が参っちまって、とりあえず昨日は実家に帰した。今日は昼くらいからまた修羅場だ」 そう言えばアイツが昨夜こっそりスタジオを抜け出してたのは、斎にそのことを電話するためだったのか。斎がこの家にいるのが良い証拠だ。ていうか俺はさっき徹夜明けで帰って来たって知ってるか? どうでもいいかおまえらには。 「あ、そう…」 斎、おまえ声が死んでる。死んでるよ。 笑いを堪えすぎてそろそろ腹筋が痛くなってきた。項垂れてるのが声だけでわかるなんて、面白すぎだ。笑うなって方が無理な話だろ。 「一応12時過ぎにスタジオに集合して、即再開。コウが納得行くまで窪塚にはとことん付き合ってもらうから、今日も帰してやれるのは何時になるかわかんないぜ? それから1時間おきにメール入れるのはヤメロ。アイツの気が散る。了解?」 「へ〜い……」 俺の冷たい言い草に諦めたのか、斎は背中にどんより暗雲を背負ったまま、すごすごとバスルームを出て行きかける。 悪いけど、本気で、爆笑した。 「斎っ」 うん?と振り向く間の抜けた顔にまた爆笑した。 「と思ったけど、昨日の様子だとコウがオッケー出すのは早そうだから、おまえ夕方までにはちゃんとむこうのマンションに帰っとけよ」 ふん、と頷いた顔はきょとんとしていて、見るからに「なんで??」って顔で、事情を理解しているようには全然見えない。呆れるくらいぴったりくっついて離れないヤツのことには驚くほど気が回るくせに、こと自分に関して斎がてんで鈍いのは、救いようのない致命傷だと思う。 俺もいい加減甘やかしすぎなのは自覚してる。でも今日は特別な日だし、コウもこれみよがしにため息を吐くくらいで見逃してくれるだろう。 素直に喜ぶ顔がちょっと見たくなった。それだけだ。 「歌入れ終わったらリーダー権限でヴォーカルは即オフ。…コウのスパルタにがんばって耐えたご褒美と」 それに、もうひとつ。 大人なんだか子供なんだか、まだ微妙な弟への誕生日プレゼントにな。 |