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「イサギ、そっち持って、そっち…」
「ちょお待てって、こっち済んでから手伝ったるから」
「待てへんっ、重くて手が滑るっ、落ちる〜〜〜!」
「う、わ…、待て待て待て! 危ない、椿っ!!」
ドンっ、ごろん、キーン、がっしゃーん!
最初のは俺が尻餅をついた音、次は俺が持ち上げてたキッチンの大テーブルを壊れない程度に床に落とした音。最後のふたつは俺を助けに駆け寄ったイサギの手の中から、グラスが2、3個離れて落ちて床に当たって砕けた音。
「あ〜あ…」
「やってもた…」
呟きながらふたりで呆然と見下ろした床の上には、跡形もなく砕け散った色とりどりのガラスの破片。トーンの高い澄んだ音がしたから、鉛の含有率がかなり高い、…たぶんクリスタルだろう。
俺が最後に見たそのワイングラスは宙吹き硝子らしく、いびつに歪んだ世にも奇妙な形をしていて、ひと目で大量生産のプロダクトものじゃないことがわかる代物だった。イサギが掃除していた食器棚に他にも似たようなテイストのものがずらっと並んでいるところを見ると、どうやらお祖母さんのお気に入りの作家のものらしい。
「割れたんは二個? 三個?」
「三個やな。…あ」
「ナニ?」
イサギが何か見つけたようだ。がばっと頭を下げて方々に散らばったガラス片のひとつを指でそっと摘み上げる。
「これ、めっちゃキレイやと思わん?」
イサギが拾い上げたそれは、割れたワイングラスのステムの一部らしい。奇跡的にヒビも入らず、欠けてもいない。球状のガラス玉が重なったようなデザインだったから、それひとつだとまるでビー玉みたいに見えた。
「こういうの、ビー玉とかおはじきとか姉貴がたくさん持っててさ、きれいなの見つけるとよくパチって庭に埋めたなぁ。そっからビー玉の木が生えて来えへんかと思ってさ」
「…ビー玉の木?」
イサギの子供時代の話を聞いていると、俺は時々本気で驚かされることがある。
今の台詞なんかまさにそう。イサギはユニークな遊びもたくさん知ってるし、とても想像力豊かな子供だったようだ。これは育った環境と言うより本人の資質の問題だと思う。
イサギと俺は同い年だけど、俺にこういう発想はなかった。スカしてたとか馬鹿にしてたとかじゃなく、純粋に思いつかなかったのだ。
馬鹿がつくほどあけすけでまっすぐで実は感受性の塊みたいなイサギ。よく人は自分にないものを求めるとか言うけど、俺がイサギに惚れてるのはもしやこういうところなのかも、といつも思う。
「あ、椿が呆れてる」
俺は知らない間に笑っていたらしい。イサギは少しムクレて、
「この男、またアホなこと言うてるって思ってるな」
「思ってへんよ」
「ええよ、もう。…痛っ」
大袈裟に顔を顰めると、子供みたいにぱくっと指を銜えた。
「俺が転けたしやな、ゴメンな。もしかしてケガした?」
イサギの手を掴んで、指を一本一本開いて丁寧に点検する。どこも切ったりしてないみたいでホッとした。
「…なーんてなっ。隙あり、椿っ!」
「うぉあっ」
イサギの手と割れたガラスに気を取られて油断してた。いきなり引っ張られたから踏ん張る余裕もない。ぐらっと来た次の瞬間にイサギの胸めがけてダイブした。
あっけなく腕の中に倒れ込んだ俺を、同じ男として腹が立つくらい優しくてたくましい腕が息苦しいくらいぎゅうーと抱きしめてくる。
「へへ、ラッキー」
たったこれぐらいのことで、俺のほうが照れるくらい嬉しそうな顔をする。
なんてガキっぽいことを…と思いながらしっかり背中に腕を回してるんだから、俺も人のことは言えないか。

クリスマスは二日間とも、バイトが終わってからふたりっきりで過ごした。
次の日のことなんてこれっぽっちも頭にないイサギは普段よりさらに野獣度を増し、俺はそんなイサギに煽るだけ煽られて際限なく感度を上げさせられた挙げ句、最後はいつ終わったのかもいつ眠ったのかも知らない、遠い世界に連れて行かれた。
26日からはいちおう大掃除。バイトの時間を微妙にずらして、手が空いてるほうが掃除をするって約束で。
イサギは掃除洗濯炊事の三択で迷わず炊事を選ぶ(と言っても大した腕前じゃない)ほど大の掃除嫌いだから、結局大掃除は俺がほとんどひとりでやった。それで夜に少しケンカをした。
28日は買い出し。学生である俺たちの仮住まいでは正月用品なんて必要ないけど、クリスマスからこっち衰えることを知らないスーパーの賑やかな雰囲気につられて、用もないのにぶらぶらしたくなるのが人情ってモノで。
年末の締めくくりで大賑わいのスーパーマーケットにふたりで突入。買い物かごを片手に生鮮食品売り場なんかを冷やかしていると、なんだかカップルというより夫婦みたいだ。と言っても、そう思ってるのは俺たち本人だけなんだけど。
俄に子供率が高くなるお菓子売り場を通り過ぎようと思ったら、何処へ行っても無駄に目立つでかい図体がいきなり行方不明になった。慌てて姿を探すと駄菓子系の棚の前に立って、じっと低い位置を見下ろしている。
「ナニしてんの」
「椿、アレ買って」
イサギの人差し指が迷わず一点を指差した。
「なに、どれ?」
「アレ。オマケ入りのラムネ。知らん? フィギュアがめっちゃかっけーの。あと足りないキャラ一個でジオラマが完成するねん」
「へいへい、好きにしな…」
訂正しよう。夫婦と言うよりはこの場合、俺たちは間違いなく母親とその息子に見えるに違いない。これは決して見た目の問題じゃなく。
イサギは本当に時々、恐ろしく力一杯子供なのだ。
そして今日はイサギのお祖母さんの家まで、はるばる出張ハウスキーピング。
お祖母さんが旅行に出掛けてる留守宅に「今年一年は特にお世話になったから、掃除ぐらいしに行こう」ってのは俺から言い出した。
「お祖母さんが帰ってきた時、ちゃんとした正月飾りが出迎えてくれたら嬉しいんと違う?」
俺がそう言ったのは本心半分、言い訳半分ってところ。理由は他にもないワケじゃない。
この大掃除を終えれば、いよいよ大晦日。夕方までには掃除を終えて家へ戻らなきゃならない。それまで出来るだけ長いこと、イサギと一緒の時間を過ごしたかったからだ。
何でもいいから年の最後の最後まで、イサギと一緒に日常を過ごしたかった。なんの変哲もない、ありきたりの。でも年越しの気忙しい雰囲気がほんの少し非日常を感じさせてくれる。
普段は離れていることがないから、年末年始はけっこう堪える。
夏期休暇は大阪にいる親父に『帰らない』って電話すれば済むけど正月ともなればそうもいかなくて、俺とイサギはむこう5日間を別々の家で過ごすことになるからだ。
母親を早くに亡くした俺の家族は大阪にいる親父ひとり。高校まではもちろん一緒に暮らしてたけど、大学進学を機に俺が独立してもう二年近くになる。
母親のいない家庭ってのは、例え親子関係が上手く行っていても極々質素なものだ。華やかさに欠けるとでも言うのだろうか。それはある程度の年齢になって周囲のことが見え始めた頃から、何となく感じていた。うちの家はなんか地味だ、遊びに行く先の友達の家のような、賑やかな雰囲気はないなって。
それでも俺が小学生の頃は不器用な親父なりに、年末恒例のイベントラッシュにあれこれ趣向を凝らして一緒に過ごしてくれたものだけど、中学に上がって俺が遅ればせながら反抗期らしきものに突入すると同時に子供らしいイベントの数々はあっさり消滅、クリスマスどころか正月も別々に過ごすようになった。
高校生の頃なんて親父がひとり寂しくテレビで社会人駅伝やら天皇杯やら新春特別時代劇やらを観ているあいだ、俺は年上の男に連れられて海外に出掛けてた、なんてこともあったくらいだ。
それがここ二年連続で、どういうわけだか俺は年末から正月三が日を大人しく実家で過ごしている。
原因は他でもない…目の前にいる、このイサギがうるさいからだ。

飛び散ったガラス片を丁寧に片付けながらイサギが言った。
「親父さんに何か買って帰ってやるもん、ないの」
「別に。おせちとかもないし、つまみ作って酒飲むだけやもん。数の子くらい自分で用意してるやろうし」
「おまえんち、正月におせち食わへんの?」
「男所帯で立派な朱塗りの重箱に詰めたおせちがあったら驚くわ。んなの小学校くらいから、家で食べたことないよ。親父も昔は正月から仕事したりしてたし、まともに正月らしいコトってここ10年くらいしてへんかも」
「そっか…」
イサギの家は両親と長男坊のイサギの上にふたりの姉、さらに弟がひとりという6人家族。そうでなくても人数が多いところへ持ってきて、両親がふたりとも地元育ちということもあって近隣に親戚がひとかたまり集まっているらしい。本家であるイサギの家は年末年始ともなると来訪者が毎日10人を超えるというんだから、その賑やかさは半端じゃないだろう。祖父母は三人健在で、特に父方のお祖母さん…スミレさんとはしょっちゅう行き来がある。つまりイサギは生まれた時から一回も、人の少ない寂しい正月を迎えた経験がないのだ。
人は違えど小さい頃からふたりきりの正月しか迎えたことがない俺にとって、親戚一同が集まる賑やかな正月なんて想像出来ない。友達同士で集まる新年パーティーなんかとはワケが違うだろうし。
だからなのかも知れない。イサギにはどことなく生まれ育った家庭環境を彷彿とさせる雰囲気がある。うんとたくさんの血の繋がった人達に大切に育てられた、しあわせな子供の持つ独特の温かさ。イサギは本当に自然体で愛されることを知ってるし、同じように、愛することもよぉく知っている。
俺が不幸だったって言ってるワケじゃない。確かに母親はいないけど、親父と俺はまぁまぁ上手く行ってる方だと思う。母さんが死んでしまったことにしても、ふだんの暮らしの中でしょっちゅう思い出すことはなく、何かのきっかけでふと思い出が甦った時ほんの少し物足りない思いをするくらいのことだ。
『寂しい』ことには慣れた。寂しさを他の何かで埋め合わせる術を俺は知ってしまった。その『何か』の方が、現在の自分にとって大切なんだってことも。
そう言うとイサギは決まって悲しそうな顔をする。家族の人数がミニマムだってことは、イサギにとってそれ以上ないほど大変寂しいことらしい。
だからうるさいくらい『親父さんを大事にしろ』と俺に言う。俺はイサギのそういうところが、ちょっとオヤジっぽいと思うんだけど。
年齢を感じさせないシャキシャキと切れの良いお祖母さんを見ているだけでイサギの家庭の賑やかさは想像できるから、仕方ないかな、とも思う。
これは血筋だ。工藤家に流れる生粋のラテン系爛漫気質ってとこ。ラテン家族の絆はめちゃくちゃ強いのがお約束だろ?
それに……俺は誰よりも大切にされてるって、ちゃんと知ってるよ。
「お前んちの正月ってどんなん?」
「…どんなんって?」
聞き返すイサギの顔が少しだけ曇る。ああだから、そんな顔するなって。俺は寂しくなんかないから。ただ―――――
お前がこれからどんな数日間を過ごすのかなって、ちょっとだけ、知りたい。
「これぞ正月ーっていうのあるやろ。正月飾りとか、おせちとか。俺んとこは鏡餅も飾らへんしな」
イサギが考え込むように首を傾げた。
「うちもだいぶ省略してるらしいけど、玄関前に紅白の水引で結わえた松立てるとか、座敷の床の間にでっかい柳掛けるとかは毎年する。メインのお鏡は床の間に置いて、小さいお鏡をいろんなとこに置いて回ったりもするなぁ。部屋とか台所とか会社の従業員の人の机とか、…あ、トイレにも置く」
「へぇ、面白いな。それも縁起もん?」
「改めて聞いたことないけど昔からそうやな。小さい頃、手のひらサイズの餅をそこら中に置いて回るのは俺の仕事やったん。譲葉っていう細長い葉っぱを下に轢くの。いらんとこにまで置いて、そのうち数が足りんようになって怒られたりして」
「やりそう、めっちゃやりそう…」
笑いながら考えた。イサギはどんな子供時代を過ごしてきたんだろう。
「初日の出とか見に行ったことある?」
「小学校の頃はな。親父にせがんで夜中に車出してもらったりとか。この家からでも割といい景色見られるし。椿は?」
「中学の頃、先輩のクルマに乗せてもらって海行ったかな」
「マジ? 先輩っていくつよ」
「ほとんど大学生やったな。中には高校生もおったけど、中坊はさすがに俺だけやった」
「ほんま椿はマセガキやったんやなー」
あははとイサギが笑った。大きな手で髪をくしゃくしゃにされるのが気持ち良い。
俺と出会う、うーんと以前のイサギ。やんちゃで元気でちょっとわがままで、たぶん誰からも可愛がられていたんだろう。
イサギと出会う前の俺はちょっと斜に構えててカッコつけで、愛想はいいけど掴み所がないなんて言われていい気になって、でも本心ではいつもどこか満たされない思いを抱えてた。
性格的にまるで正反対の俺とイサギ。
中学の頃に出会っていたら、きっと友達にもならなかった。高校の頃ならお互い『苦手なタイプ』の部類に入っていたかも知れない。
今だから好きになった。
昔なら気づかずに通り過ぎていた。
「椿?」
不思議そうな顔で名前を呼ぶ。エンジン全開の笑顔を俺に向けて。
今年中にこの顔を見ていられるのもあと少し。
あの日店が休みだったら、イサギは違うバイトを見つけていたかも知れない。
俺が突然バイトを辞めていたかも知れない。
偶然か必然かもわからないグッドタイミングに感謝しよう。

「さーて、ねーちゃんがお飾り持って来る前に掃除終わっとかな。もうちょいやし頑張ろっか」
「そやな」
頷いて立ち上がろうとした途端、ダダっとでかい足音が廊下に響いた。
「椿っ!」
ハッと気がつくとイサギは靴も履かないで庭に走り出て、日が暮れかけた裏庭の一角から俺に向かって手を振っていた。
「イサギっ、お前何やってんの。どうした?」
「これこれ!」
「なに? どれ?」
イサギが手を振る。俺に向かって。
もしくは―――――急ぎすぎず、でも流れを止めることなく過ぎて行く一年に向かって。
「さっきの割れたガラス、この木の根元に埋めとくから覚えとけよっ」
「オッケー、そこな、そこ。憶えた憶えた」
ガラスの欠片を丁寧に土に埋め終えて、イサギは満足そうに俺を振り返った。目の前に生い茂る濃緑の葉っぱを指で引っ張る。
「それからこれ貰ってって、俺らの家に飾ろ! やっぱ正月に飾る花言うたらコレやろ。三日の晩帰ってきたら、俺らも俺らの正月しようぜぃ!」
空気に氷が張ったような真冬の庭を、イサギの声が暖めていく。
年の初めから終わりまで、お前といるとホントに退屈知らずって感じ。
今年も一年ありがとうな。
来年も絶対―――――ヨロシクな。
「っ、イサギっ」
「なにー?」
「三日の夜、駅で待ち合わせてそっから家まで競争しよか。遅かったほうが罰ゲームってのはドウよ?」
「オッケー! ぜってー負けへんし覚悟しとけよぉ。椿まるごといただきーっ!」
「させるかよ。オアズケや、オアズケっ」
「うっわー、性格悪―――っ!!」
わははとオーバーに仰け反ったイサギの後ろに、小さいけど生き生きと茂って色づく千両の赤い実が揺れていた。

2002年の締めくくりはもうひとつの激甘カプ、ほわほわの年の瀬。
皆様もどうぞ、よいお年をお迎えください。
◇ 030131再掲載
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