[ 夏椿の咲く庭で ]




「あーもう、せっかく風呂入ったトコやのに…これじゃ何にもならへんやん……」
「ま、ええやん。気にするな」
「お前はちょっとは気にせぇよ…」


 
 膝を両側に大きく拡げられた体勢でこんなことを言っても仕方がないと思いながら、俺はニコニコしながらのし掛かってくる壁に向かって最後の抵抗を試みた。
 太腿の内側を撫で上げる手の持ち主は、そんな俺の説得力のない文句など素直に聞き入れるようなしおらしいタマじゃない。全然気にも留めない様子で笑いながら伸び上がって、額にキスを落としてきた。
 本当にイサギというヤツは底なしだ。体力と言い、勢いと言い。黙って放っておいたらこうして俺を抱き上げたりひっくり返したり、1日中でもベタベタと玩んでいるんじゃないだろうか? 俺の身体機能がそれに耐えられればの話だが。
 イサギはさっきからずっと俺の体に点火するために、あれやこれやと手を替え品を替え数々のテクニックを披露している。その熱意たるや凄まじく、マジで尊敬に値すると俺はいつも感心する。
「椿…元気無い。勃たない」
「あったりまえやろ。これで何回目やと思てんの」
「あ、ごめん。数えてなかった」
「数えんでいい…」
 本当はもうそろそろ限界でイサギの思惑に乗せられるのは時間の問題って感じなんだけど、今のところ野性よりも精神力のほうが勝っているらしい。俺も結構やるもんだね。
 なんて余裕をカマしていたら敵も然る者、そんなことで諦めるようなイサギじゃなかった。「ほっ」というおかしな声と共に俺の腰を持ち上げて足の間隔をさらに広げると、唾液で濡らした指を後ろにぐっと差し込んできた。半分くらい入った所でいったん止めて、中でくりくりと捻るように指を回す。
 いきなりの圧迫感に体が竦む。嫌な感触じゃないから尚更だ。指と窄まった部分の皮膚が擦れて、むず痒いような、痺れるような…。
「ちょっ、おっと! 待った、…んっン」
 慣れってコワイ。もどかしい場所に留まっている指をもっと深いところに届かせようと、腰が勝手に揺らめいた。
「ほら、来た来た来た」
 イサギが異様に嬉しそうな声で囁く。ここまで来たらほとんど執念?なんて茶化す余裕は、前立腺を弄られた瞬間にあっけなく吹っ飛んだ。
「あっあっあっ」
 指の腹で小さい円を描くように擦りながら時々ぐっと強く押されて、体中の血液が海綿体めがけて流れ込んでくるのが目に見えるよう。ついさっきまでしらを切っていたはずのペニスがまるで冗談のように嵩を増す気配…じゃなく、モロに実感が、あった。
 こんなに簡単にオトされる俺ってマジサイテーかも。野獣(イサギ…)以下?
「気持ちええよな、椿?」
「アホタレー…」
 こうなったらニヤニヤしながらそんなことをほざくイサギを睨んでもあまり意味がない。指を喰ってる内壁がズキンズキン疼き始めたら、あとは前進あるのみだ。
 じっとしていられなくて身を捩るのに、焦らすようにペニスの先の方だけ銜えられて腹が立つやらもどかしいやら。
 もっともっと強くされたい。余計なことなんか考える隙間なんかなくなるくらい、心も体もイサギでいっぱいになりたい。
 だからイサギに抱かれる時に声を抑えるなんてしたことがない。それが俺たちの唯一のルール。欲しいときには欲しいって言う。思わせぶりな変化球なんか使わずに、直球で!
 声は殺さないけど、込み上げる切迫感は我慢する。夢中で俺を舐め上げるイサギの髪を乱暴に掴んで呼んだ。
「イサギ、なぁ…っ」
「んー?」
「早上がりしようや」
 ようするに前戯はもういいってこと。
 言うとイサギはちょっと口を尖らせて俺の中から指を引き抜きながら、不満そうな目を向けて来た。上目遣いに俺を睨むその顔はたまらなくおかしくて、可愛い。
「やる気ナシ? ムカツクー」
「ちゃうって、っぁイタタ……」
 両方の頬をギュウッと抓られながらだから、笑いたくても笑えない。しょうがないから手を伸ばしてイサギの固くなったモノを掴んで軽く撫でた。
「コレ、早く使いたくねぇ?」
「もう欲しくなったんか? いらちやなぁ。我慢せぇよ、もう少し」
 自分のことは体よく棚に上げて、イサギは呆れ顔だ。…誰のせいだと思ってるんだか?
「ダメ。待てへん。3…2…1……」
 首の後ろに腕を回してイサギごとベッドに倒れ込むと、ぎゃはははっと大笑いしながら頭をギュッと抱きしめてキスしてくれる。こういう瞬間がたまらなく好きだ。
 次への期待とイサギの優しさと、たくさんの「好き」が一度に流れ込んでくる瞬間。あるのはシンプルな愛情と欲望だけ。それでだけで十分。
「腰上げるとしんどいから、アレ入れて」
 息が上がり始めて上擦った声で言うと、
「オッケー」
 イサギもよく分かってくれてるから、短く返事をして俺の頭の下から枕を引っ張り出すと、片手で腰を持ち上げて下に差し込んでくれた。
 宛った枕を支えにして自分で膝を割る。潤っていることをもう一度指で確かめてからイサギがゆっくり内側へと滑り込んできた。
 呼吸を合わせながら片足を高く上げてイサギの腰に絡ませる。息を吐くごとにより深いところでイサギを感じる。慣れた痛みが消えて行くころには、体のほうが勝手にイサギを求めて疼き始めてる。
 まだ半分。もっと奥、…奥だって言ってるだろ。そんなところで遊んでないで。
 剥き出しになった神経がビクビクと脈打つ。とうとう我慢がきかなくなって、両足ともイサギの腰に乗せてグッと腰を擦り寄せる。
「こら、無茶するっ…」
「あかんて、早よせな、もうっ…」
 言い終わる前に一気に体重が掛けられた。内側に感じる質量がいきなり倍になったように、体が真ん中から張り裂けそうな圧迫感。そう、これが欲しかったんだ。
 そのまま内臓を押し上げられて、引きずられる。
「あああっ」
 イサギ、イサギ、イサギ。頭の中には同じ言葉がぐるぐる回ってる。ぎゅうっと押されてぎゅうっと引かれる。奥深くまで潜り込んでは、俺を心ごと持って行く。声はもう止めようと思っても止まらなくなってる。止めようなんて気は、これっぽっちもないけど。
 もっと、もっと、もっと。貪欲な俺の脈動は飲み込んだイサギの熱を際限なく絞り、吸い取ろう動く。壁がひくひくと喘ぐように呼吸する。
「はっあ…イサギ、あかんかも、…いいっ……?」
「オッケ。…力抜いて、椿」
 こんな意味不明な途切れ途切れの譫言も、イサギはちゃんと解ってくれる。ニッコリ笑って俺の腰を抱え直すと、最後のピッチで俺を連れて行ってくれようとする。
「んっん! ぁ…ああっ、あ…」
 最後は本当に涙を流しながら、俺はイサギに導かれるまま背骨が軋むくらい仰け反って、しがみついて、悲鳴を上げて、震えた。







「で、今日は…お祖母さんはちゃんと家におるんやろうな?」
「うん。朝から自分でメール入れて来たんやから大丈夫やろ」
「ホンマか? お前の言うことはどうも今ひとつ信用ならんからなぁ…」
 歯ブラシを銜えたままため息混じりにぼやくと、イサギはまるで反省の色の無い明るい顔でニカッと笑って、うっすらヒゲの伸びた頬を俺の頬にスリスリとくっつけた。



 何を隠そう今朝はイサギの携帯メールの呼び出し音で、俺たちは目が覚めたのだ。
 せっかく今日からしばらく店が休みなんだからもう少しベッドでゴロゴロしようと思っていたのに、そんな俺たちの甘い思惑は「太陽に吠えろ」のテーマによって無情にも奪い去られた。俺もイサギも今日の朝……正確に言うと昨日の夜だけれど……が来るのを指折り数えて待っていたから、目覚ましをわざと掛けなかったのに。
 どうしてそんなにこの日を待っていたかというと、俺たちは二人とも同じカフェでバイトしていて、夏期休暇の間中一緒に休みを取れるのは定休日の他は盆休みを微妙に外して取るこの夏休みくらいだからだ。そして待ちに待った店の夏休みが今日から始まる。
 なにせ昨夜の今朝だ。汗だくになったシーツもそのままに、二人ともかなりしどけない格好でベッドに潜り込んでる。まぁ要するに、生まれたまんまの格好で。
 こんなふうに休みの前だからと調子に乗って馬並の体力を誇るイサギの好きにさせたら、俺は次の日まず間違いなく半日寝たきり青年になる。
 腰なんか怠くてガクガクだし、声はと言えば「嗄れ」を通り越してほぼミュート。どちらかと言うと格好つけたがりの俺としては、こんな情けない姿をイサギじゃなかったら恥ずかしくて絶対誰にも見せなかったに違いない。イサギは俺がこんなふうにへろへろのクタクタになる姿がたまらなく好きらしく、いつも以上に構いたがるからまぁ良いといえば良いんだけど。そして休み初日の今日は終日こんなふうに気が向いた時に起きたり寝たりじゃれ合ったりして、ダラダラと過ごすつもりだったのだ。


 目を開けるなりイサギは電話の呼び出しなんてそっちのけで、いつもの如く俺の髪をくしゃくしゃにしたり瞼やほっぺたにキスをして来た。
「椿、すげぇ、たまらん色っぽい。可愛い」
「あぁもう、朝からくどいな…」
 なんて無造作にイサギの手を払いのける俺も実は満更じゃなかったりする。時にはそのままさらにもう一回、なんてことも…たまに…あったりして、さっきのワンラウンドはまさにソレ、しかもわざわざ一回シャワーを浴びて昨夜の汗やらナニやらを流してから。俺らって本当にバカモノなのかも知れないと、ちょっとだけ本気で思ってしまった。
 イサギがまた盛り上がらないうちに気を逸らさせないと、今度こそ間違いなく俺は昇天だ。…いや、そういう意味じゃなく。
「早よメール見ろよ。朝っぱらから盛大に鳴ってたぞ」
「ん〜」
 面倒臭そうに唸ってからイサギは渋々枕元に手を伸ばして携帯を手に取ると、ごつい指で器用に小さなボタンをピピピと押した。目を細めて画面としばし睨み合う。と、電話を握るイサギの手がハッキリ凍り付いた。
「どうした?」
 不安になって訊くとイサギは目だけ俺の方にくるりと向けて、
「一番恐れていたことが…起きた」
 どことなく頼りない表情で深々と息を吐き出す。何とも言えず不吉な台詞と共に。
 ……嫌な予感。ああ、ものすごく嫌な予感がする。っていうかイサギ、今のお前の顔は言っちゃナンだけどものすごく情けないぞ。
「見る?」
 イサギはしばらく黙って手の中の液晶画面を睨んだあと、おもむろに電話を俺に向けて差し出した。素直に体を乗り出して画面に映った文字に目を凝らす。そこには以下の文面が映し出されていた。
『起きろ、孫よ。起きたか?よしよし。スミレさんが明日から異国の人となるのは知っているな。ということで今日中に例の件を片付けるべく手配すること。昼を過ぎても連絡がない場合、然るべき措置を取るべくこちらが動くからそのつもりで。健闘を祈る。愛する潔へ』
 はっきり言ってこの文章を読んだだけでは、俺には何のことやらさっぱり解らない。このメールがイサギのお祖母さん…スミレさんから送られてきたものらしいということが何とか分かるくらいで。
「これが、何?」
「分からへん?」
「全然」
 見つめ合ったまま俺がプルプルと首を振ると、イサギはいっそう情けない顔つきでまた盛大にため息を吐いた。
「例の件とは俺の恋人を自分に紹介しろ、然るべき処置とは俺が言うことを聞かへんかった場合、有無を言わさずお前を強制連行するってこと。要するにばーちゃんがやな、今日中にお前をあの僻地の家まで連れて来いと…そう言ってるわけやね。…了解?」
「あ、そう……………」
 とりあえず、そう返事した。それ以外に思いつく言葉なんか一つも無い。
 だってそう言う他に、俺に何と言えって言うんだ?






 

 まだ初夏と言えるころ訪れたイサギのお祖母さんの家は、市内から直線距離で20キロ以上離れた山奥にある。電車に揺られること40分、そこから歩いて一時間強の森の中だ。
 いつもの如く突然の思いつきで(イサギに言わせると予定通りらしい…)ワケも分からず連れて行かれたはいいが、俺は結局お祖母さんに会うことは出来なかった。それがモロにお祖母さんの怒りを買ったらしく、その後実家に顔を出したとき運悪く彼女と鉢合わせたイサギは、それはもうぐうの音も出ないほどこてんぱんに苛められたらしい。今日の呼び出しはだから前回のリベンジ、仕切り直しというわけだ。
 お祖母さんがそこまでして俺に会いたがる理由はイサギから一応聞かされたけど、俺には今ひとつよく解らない。『綺麗な男を眺めるのが趣味』って、字面だけ見たらものすごーく不穏なんだけど。
 とにかく俺がお祖母さんの家に行けばすべて丸く収まるわけだし、それぐらいどうってこと無いから、俺たちは早速連れ立って目的地を目指した。

 休みにどこかへ出掛ける時のためにイサギの実家から車を借り出して来ているから、今日は前回の訪問より道程ははるかに楽だった。助手席にデンと座っているだけで、俺は自動的にお祖母さんの家まで運ばれて行くという寸法だ。
 車内から眺める遅い夏の木立は瑞々しく輝いていて、その緑の深い碧は目に痛いほどだ。窓を閉め切っているのが勿体なくて、エアコンをオフにして窓を全開で開け放った。
「虫が飛び込んでくるぞ〜」
「平気。めっちゃ気持ちイイ」
「おっ、成長著しいな、椿」
 運転席のイサギが嬉しそうに言う。
 都会育ちの俺は昆虫やらは虫類やらがちょっと苦手で、よくイサギにからかわれるのだ。
 バカ、ここは特別なんだよ。だってお前の大切な場所だから。
 見覚えのある見事な大木が見えてきたからあと少し。あれがイサギのご神木。大切な大切な…『俺』だ。
「おし、到着」
 ブレーキングのショックとイサギの声につられて目を上げると、いきなり緑の壁が切れて端正な前庭が目前に広がった。
 垣根も無いようなだだっ広い庭の端から端までが駐車場みたいなものだから、イサギは堂々と玄関の真ん前に車を横付けにした。先に助手席から滑り出て、イサギが運転席から降りてくるのを目で追いながら待つ。
「あれ〜?」
 少し遅れて俺の隣に並んだ瞬間、イサギが素っ頓狂な声を上げた。
「今度はどうした」
 前回のことがあるから、イサギがこういう声を出すとそれだけでエマージェンシーだ。
「やられた…」
「だから何が」
 さらに詰め寄るとイサギは来い来いと俺を呼んで、手を掴んで玄関に向かった。馬鹿ほど重い木の引き戸をゴロッと開ける。俺を連れて挨拶もなしに上がり込むから、慌てて腕を引っ張って呼び止めた。
「どうした?」
 不思議そうな顔で聞き返してくるオマエの方が不思議だよ。
「どうしたやないやろ? なんかないんか、挨拶とか」
「誰に挨拶するの」
「誰にって、決まってるやろっ。お祖母さんに…」
 口をぱかっと開けたままそこで止まってしまって、次の言葉がどうしても出て来ない。
 返事もなく誰もいない。その時彼の人ははるか彼方、イサギの実家にいた……………。
 まさか。
 まさかと思うが……そうなのか?
 俺の考えてることは口に出さなくてもきっと顔に書いてあるんだと思う。その証拠にイサギはえへへと苦笑いした。イサギは何にもなくても笑うけど、何かある時特にこういう笑い方をする。
「アタリ。よう分かったな。ばあちゃん、またおらんわ。車が無い」

 今回はオマエのせいじゃないよな。俺たちは彼女に呼び出されたワケだし、俺だって初めから状況を全部把握していたし。そんなことぐらいよぉく分かってるよ。だから俺が思わずオマエをげんこつで殴り飛ばしたのは、言ってみれば……
 そうだ、これは条件反射って奴だ。悪気は無い。もちろん怒ってもいないから。
 だからあきらめろ。…な?



 見下ろした机の上に紙切れが一枚、ぺらりと乗っていた。前回のときも無断で入った、簡素な造りのこざっぱりした書斎のだ。イサギはあとでこの部屋はお祖母さんの部屋だと俺に教えてくれた。
「お祖母さんのって、あの家全部お祖母さんのやろ?」
「そうなんやけどあの部屋は特別なんや」
「どう?」
「あそこは元々じいちゃんの書斎やったん。じいちゃんの子供部屋で大きくなったら書斎って呼んで、約70年分のじいちゃんがあそこにいっぱいおるんやって、ばあちゃんが前に言うてたことがある…」
 だから死ぬときは出来たらここがいい。ここに静かに横たわって眠ってるうちに、おじいさんが迎えに来てくれたら最高。そのあとスミレさんはそんなことを口にしたと言う。
「なんか、すごいええな。聞いてる方が照れるけど」
「そうかぁ? ばぁちゃんが言うとホンマにやりそうで、照れるとかそういう問題やないような気がする。ちゅうか自分から迎えに行きそうでコワイ」
「なんちゅう失礼なことを…」
 そんな会話を交わしたことを思い出しながら、机の上の瀟洒な一筆箋を手に取った。顔を近づけて声に出して読み上げる。
『椿さんへ。急に用事が入ってしまい、しばらくこちらを離れます。夕方までにはお逢い出来ると存じます、どうか失礼をお許しください』
 本当ならもっと難解な語句で書く所を、現代っ子の俺たちにも理解できるよう簡単な言葉に置き換えてくれたんじゃないか。ふとそんなことを想像させる、どことなく人をほっとさせる紙の選び方や文章。知らないはずのお祖母さんの顔が見える気がする。
「さすが椿にはべたべたやな。それに比べて…」
 イサギが苦笑いしながら、隣に並べてあったもう一枚の紙を指で摘んでヒラヒラと振る。見るとそれはイサギ宛に書かれた伝言だった。
「愛しの孫へ。椿さんを飢えさせたら許しませんよ。あなたが責任を持って、精一杯客人をもてなすように。不埒な行動に及んだら庭に吊します。了解したら即行動。以上」
 俺のスミレさんに対する認識は、もしかしたら大きな誤解かも知れない。「んなら、行こか」とイサギに手を引かれてもてなされに行く間中、俺は懸命に頭を絞ってそんなことを考えてみたが、結局結論は出ないままだった。


「イサギ、それで俺たちはどこに向かってる?」
「ん〜、台所。ばあちゃんがそう言うからには、食い物くらいあるんやろ」
「台所はちなみにどこ?」
「ここの廊下を突っ切って左に曲がって奥まで行く最後の角を右に曲がって、八枚続きの襖を過ぎたらお手伝いさんたちの離れに通じる渡り廊下があって……」
 途中から俺は真面目に聞くのを諦めた。



 台所までがまた遠い。夏だから良いようなもののこれだけ広い廊下だ、冬はさぞ寒いだろう。大阪生まれの俺とって京都の底冷えだけでも相当堪えるのに、こんな山ン中じゃ絶対暮らせないだろうな、なんてふと考える。
 そうこうしているうちにイサギの姿が視界から消えて、そのまま進むと廊下の突き当たりにある台所にまっすぐ到着した。
 『ザ・台所』とでも呼びたいような、純和風な空間が目前に広がる。驚いたことに石造りの竃まである。
「まった、すげぇなこれ」
「ここの台所、広いのはええんやけど使いにくいんやな〜。ドコに何が仕舞ってあるかサッパリわからん」
 なんてぼやきながら、イサギは手近な戸棚を物色し始める。ほどなく調理台の上に、冷蔵庫や貯蔵ボックスやその他いろいろなところから食料がどっさり集まってきた。
「これだけあれば腹も膨れるやろ」
「全部食うのはヤメロ……」
 ダメ?なんて表情で見返してくるイサギに苦笑しながら、お茶を淹れるためにやかんを火に掛ける。やかんはなぜかコミカルなイタリアンデザインのケトルだ。イサギのお祖母さんという人は、一風変わった感覚の持ち主なのかも知れない。
 イサギが見つけてきた材料の中にスパゲティーニがあったのでそれを使うことにして、調理台の端に置いてある籠にどっさり盛られた、形が思い切りいびつで美味そうなトマトも使わせて貰おう。
 面倒臭いし腹が減ってるから、手っ取り早く出来るものを作ることにした。イサギは自分でしたがったけど、俺が作った方が数倍早く食事にありつけるから、腹の虫を優先して抗議するイサギはキッパリ無視した。
 パスタ鍋にたっぷりのお湯を沸かしながら材料を用意。トマトは湯むきして大きく櫛形に切って種を取ったものを大きめのボウルに一杯。ニンニクと唐辛子もどっさり。ゆうに一掴みの塩を放り込んだ鍋にパスタを散らしながら沈めたあと、刻んだニンニクと鷹の爪が泳ぐくらいのオリーブオイルの中でゆっくり火を通す。
「塩壺…うわ、でかっ。の上に、この塩めっちゃ美味そう。粒がでかくてゴミ入ってる」
「バリから送って貰ってんのと違うか? いつも口癖みたいに塩化ナトリウムと塩は違うーとか言うてるもん」
 言いながらイサギが塩壺に指を突っ込んでひと掬い舐める。途端に「辛っ!」とばかりに情けない顔で俺を振り返った。当たり前だよ、旨い塩ってのはほんのり甘くてとびきり辛いモノなんだよ。
 あまりの可笑しさに腹を抱えて爆笑したかったけど、目の前で展開するのっぴきならない事情を考えるとそうも行かない。吹き出すのを何とか堪えながらイサギを呼んだ。
「バジルあったよな。取ってくれる?」
「ほい」
 俺が呼ぶとイサギはすでに手慣れた様子でバジルの葉をちぎって、ペーパータオルで丁寧に拭いてくれていた。これは俺の教育の賜物というより、バイトの成果だ。
 熱した油にトマトをぶち込んで手早く火を通す。パスタが茹で上がるのと同時にソースが出来るっていう、このタイミングさえ間違えなければ、15分ですべてが完了するシンプルレシピだ。
「イサギ、あと何分?」
「1分24秒」
 もちろんパスタの茹で上がる時間だ。
「ええ感じ、ええ感じ」
 火を止める直前にバジルを散らしてから仕上げにパスタのゆで汁を少し加えて、茹で上がったパスタをソースに絡めたあと塩加減を調節したら出来上がり。皿に移すのもそこそこに二人ともすでにフォークを掴んでいる。
「おっしゃ、出来っ。食うぞ!」
「いっただきま〜す!」
 旬の新鮮なトマトと塩だけで十分いけるマスター直伝の簡単メニューは、自分で言うのもなんだけど、めちゃくちゃ美味かった。







 食事が済んだら途端にすることが無くなって、ひとしきり思案したあとイサギが何かを思いついたらしく、もう一度書斎へ戻った。
「たぶんもう出来上がってると思うんやけどな〜」
「何が?」
「いいもの」
 ニカッと笑ってそれ以上のことは教えてくれない。まぁ行けば分かるだろうと、俺もそれ以上突っ込んで聞くのを諦めて二人で書斎に向かった。軽い音を立てて襖を引いて部屋の中へと入る。
「ほら、やっぱり。出来てる出来てる。椿、ほら」
 嬉しそうにイサギが指差す方に目を向けると、それが正面から目に飛び込んできた。
「うわっ、綺麗。さっきは気がつかへんかった…」
 イサギが指したのは床の間に掲げられた掛け軸だった。ベージュ地に黒と茶色が滲んだようなオリエンタルふうの幾何学模様の布地に縁取られた、白い花の絵。一輪の真っ白い素朴な形の花びらが繊細な筆遣いで描かれている。……この花は。
「沙羅双樹……」
「さすがに知ってる? そう、別名夏椿。お前の仮の姿」
「はい? …俺?」
 訳が分からなくて首を捻ると、イサギは面白そうに肩を竦めて笑った。
「ばぁちゃんがさ、紅いか白いかって聞くから何のことかと思ったら、お前はどっちの椿だって俺に聞く訳よ。んで、冬やないな、どっちかというと夏やなって言うたらこうなった」
 俺の髪をくしゃくしゃにしながらイサギが言う。
「お前に会うのが待ちきれんかって、お前の絵を描いたんやって。モーロクした人間国宝をこき使って、一週間でお軸に仕立るからってこないだ電話してきてな。ほんま無茶するわ、あの人は。その人がどないかならへんか、俺はもう気が気やなかったね」
 驚いて息が詰まって、うっかり涙が零れそうになって、優しく笑うイサギの声が一瞬耳に届いて来なかった。

 イサギに俺の名前の由来を話したことはまだ無いはずだ。死んだ母さんがこの沙羅双樹が大好きで、生まれてくるのが女でも男でも絶対『椿』って名前にすると言い張って父さんを困らせたこと。母さんは元々体が弱く病気がちな人で、結局俺の小学校入学を待たずに亡くなった。
 だから男にしては変わっているけれど、俺は自分の『椿』という名前をとても気に入ってる。この名前があるだけで、今はもういない母さんがとても近くにいるような気がして。でもさすがにいい年をして恥ずかしいから、今まで誰にも言わずにいた、大切な思い出だ。
 イサギはこのことを絶対に知らない。だけど何でも知ってるんだ。
「うっそ、みたい…」
 思わず呟くと、
「んー?」
 イサギは俺の反応が気になるらしく、さりげなく俺の顔色を窺ってる。胸がじんわり暖かくなって、また込み上げてくるものがあった。
「これ、お祖母さんが描いたん?」
「そう。絵も描くし字も書く。彫刻も現代絵画も陶芸も、興味があることは何でもする。マルチで器用で才能と節操は無しって言うのがあの人の持論。ホンマおかしな人や」
 その多才ぶりはまるでピカソだ。それに才能無しっていうのは控えめすぎる自己評価だと思う。
「すごくいい絵やね」
「うん。俺もそう思う」
 イサギは俺の手を引いて、縁側へと連れて行った。ガラス戸を開け放して広い庭の左方向に指を向ける。
「あそこ分かる? 背の低い、葉っぱの小さい…」
「うん。夏椿やな」
 広い庭の片隅に今は花がすっかり終わってしまった、初夏には白い花を湛える山の木が、一つの群をなして植えられている。花の頃は6月の終わりから7月の始め。少し来るのが遅かったな。たわわに咲き乱れるこの庭の沙羅双樹をひと目見てみたかった。
 言葉が浮かんで来なくなってぼんやり黙り込んでしまったら、イサギが肩を抱いてくれた。瞬間、夏の終わりの涼しい風が、さあっと目の前を掠めて行った。
「来年はもう少し早く来よ。ここから一緒にあの花見よな。ばぁちゃんも一緒に」
 ウンって頷こうとしたけど頷いたら涙が零れてしまうから、代わりに精一杯の思いを込めて、コトンと音を立ててイサギの肩に頭を乗せた。



 自分でもすごく不思議だけど、イサギのお祖母さんが一人で住んでいるというこの古い屋敷は、俺にとって知らない人の家っていう感じがしない。こうしてイサギといつもと変わらない会話を交わしながらまるで俺たちの家にいるみたいに自然に振る舞ってる。
 どこに何が仕舞ってあるかとかこの花は広い庭のどの辺りから摘んできたとか、お祖母さんがその花を活けるためになぜこの花瓶を選んだのかまで何となく理解できる。もちろん俺はお祖母さんと実際に顔を合わせたことは一度も無い。
 この家には気配が溢れてる。住んでいる人の意識とか嗜好とか喜び、悲しみ、今までここで過ごしてきた日々の、事細かな日常がそこここに染み込んでいる。
「なぁ…お前、お祖母さんに似てるって言われへんか?」
「そうやな。見た目はともかく性格はまんま隔世遺伝やて、お袋がよう笑ってるわ」
 …笑ってしまった。そうか、やっぱりそういうことか。だから俺はこんなに自然にこの家に馴染んでるんだ。
 ここにもう一人のイサギがいる。イサギと同じ空気を纏って、俺を安心させる人が。
 初めて心からお祖母さんに会ってみたくなった。会って、イサギと同じ瞳で見てもらいたい。お祖母さんもきっと俺のことを好きになる…なんて自惚れすぎだろうか?
「早よ帰ってきてくれへんかな。会いたいな…」
「ホンマに?」
「ウン。すげぇ会いたなってきた。惚れるよ俺、きっとスミレさんに」
「それだけは勘弁しろ。あの人がライバルやったら、さすがの俺も怯むよマジで」
 イサギが本気で心配してるのがその口調からひしひしと伝わってきて、本当に、腹の底から大笑いした。
 その時廊下の向こうから、重い引き戸がガラガラと動く音がした。あの音は。
 俺が顔を上げるのとイサギが俺をギュッと抱え込むのはほぼ同時だった。イサギは俺を両腕でしっかり抱えて立ち上がると、ここからさらに奥の部屋に俺を無理矢理引きずり込もうとする。
「待て待てイサギ、お前何してんの。今の音、きっとスミレさん……」
 一瞬混乱して腕の中で暴れながら振り向くと、完全無欠の爆裂天然脳天気はドコへやら、ついぞ見たことのないほど頼りない顔つきのイサギと目が合った。
「や、…何かめっちゃ不安になってきた……。ばぁちゃんにお前会わすの、ちょっと、やめとこうかな…」
「オイコラ待て。ここまで来て今さら何を言う。ここでバックレたらお前またスミレさんにボッコボコにされるぞ」
「いい。それぐらい耐える。お前を取られるくらいなら俺は喜んで犠牲になる…」
 クスンと鼻を啜りながら俺を大事そうに抱えて何かが頭に湧いたようなことを言い出すイサギは、バカだけど可愛い。可愛いが完全にイっちゃってる。この場合、手っ取り早くイサギをその気にさせるにはコレしかないだろ。
「イ・サ・ギ」
 首を軽く傾けながら、語尾にはピンクのハートマーク。その気になればイサギには見えるはずだ。俺のとっておきの笑顔から飛び散る、凶悪な必殺ラヴ<懐柔用>光線が。
「せっかく休みなんやから、せなあかんことはさっさと済ませてさっさと帰ろ。早よ帰って飯食って、今日は風呂も一緒に入ろっか…」
 なにを腐った豆腐みたいなことを言ってるんだ俺は、と自分にツッコむ台詞を奥歯で粉々に噛み砕く。いささかどころじゃなく、苦手な納豆より強烈に臭うが今は致し方ない。イサギがよからぬ想像に気を取られて「う…」と言葉に詰まった所をすかさずキス。チュッと軽い音を立てて唇に触れると、イサギは諦めたように情けなく笑った。
「しゃあないね。では、ゴジラ相手に宣戦布告と行きますか。ぜってー負けへんからな!」
 そうそう、そうこなくちゃ。それでこそ俺の、イサギだ。
「取られんなよ? …絶対、俺を、離すなよっ」
「まっかしときー」
 自然に手を繋いで部屋を飛び出して、玄関に向かって勢いをつけて走り出す。ドタドタと廊下を曲がると、視線の先に想像していたよりはるかに華奢な年輩の女性の姿が現れた。俺たちの立てる騒がしい足音にびっくりして振り返る気配。
「ばぁちゃーん! 連れてきた、こいつが、俺のっ、椿!!」
 俺の、椿。その言葉にスミレさんが笑ったのが解った。最高だ。俺も目一杯胸に息を吸い込んで、思い切り叫ぶ。最高に幸せな気分で!
 俺が、イサギの。

「椿です! はじめましてっ…」





END


 うっかりすっかり忘却の彼方だったもう一つのバカップル再登場。ある意味某オニキスカップルの(全然某じゃなく…)更に上を行く最強の彼氏たちと自負しております。重たいものがなーんにもないから。
 実は作者はこの人たちの特にエロを書くのが好き。ちょっと下品なくらいリアルでワイルドな甘々Hは、ラヴソニキャラの中でもこの人たちの専売特許かも知れません。

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