桜下の一群
今年は桜をゆっくり眺めるチャンスがなかったなー。
「このまんまやと、公園の桜がいつ咲いたかわからんまま散ってまいそう。春が来てへん感じ?」
イサギがそんなことを言い出した、日曜の夕方。マジで呆れた。この男は今ごろ何を寝ぼけたことを言ってるんだか?
公園の桜というのは、俺たちの住むマンションの窓から見える児童公園の桜の木のことだ。
「なに言うてんの、この大変な時に花見なんかしてる場合ちゃうやろ。だいだい『ばーちゃんが死んだら俺も死ぬ』いうて泣き喚いて、お姉さんにどつかれても病室から出んかったんは誰やねん」
「してへんっちゅうねん!」
大きな子供が真っ赤になって言い返す。だけどイマイチ迫力がない。
……いつもイサギらしくない。
この4月、俺とイサギは揃って三回生になった。院に進むか、卒業するか。そろそろ将来のことを考え始めなきゃ間に合わない、微妙な時期に差しかかっているわけだ。
そしてさらにそれより少し前の、3月が終わろうという頃、ちょうど御所の桜が咲き始めたある日。
イサギのお祖母さんが突如入院した。病名は心筋梗塞。本当に突然の出来事だった。
第一報を受け取った時俺たちはマンションにいて、まだ眠っていなかった。時間は午後10時前だったと思う。春休みの途中で特に予定もなく、いつものようになんとなくふたりでダラダラじゃれついていたところに、イサギのお母さんから電話がかかってきたのだ。電話を最初に取ったのはイサギだった。受話器を耳と肩に挟んだ横着な格好で、片手で抱えた俺にもう片手でいたずらしながら。
『なに、こんな時間に? あ、こら椿、動くなー。………………うそ。ばあちゃんが、……?』
俺はイサギの腕の中で、すぐ近くで、一瞬で血相変えたイサギの顔を見ていた。何が起こったのかはわからない。だけど大変なことが起こった。見ているだけでそのことがハッキリと読み取れるほど、イサギの顔色はいつもと違っていた。
結論から言うとお祖母さんの容態は、俺たちが思うほど悪くはなかった。胸の痛みを訴えて救急車で病院に運び込まれて、集中治療室で丸1日半閉じこめられていたものの命には別状なかったのだ。年齢からするとお祖母さんは『医者までが呆れる驚異的な回復力』なのだそうで、経過は順調、今は無事に一般病棟に移っている。
スミレさんが入院してから、半月と少し経つ。その間イサギは1日も欠かすことなく、家族の誰よりも熱心に病室に通い続けていた。そしてついに呆れたスミレさん本人から『見舞い禁止令』を食らってしまったのだった。
「イサギくんはすっごいお祖母ちゃまっ子なの。小学校に上がるまで、鞍馬のお祖母ちゃまんちで暮らしてたからかな。お祖母ちゃまには特別な思い入れがあるみたい」
バイト先に突然現れた真理ちゃんは、店長が淹れてくれたオーガニックココアを美味しそうにすすりながら、俺を励ますようにニッコリ笑った。イサギはというと平日の昼間でほとんど客がいないのに、いやに熱心に誰も使っていないテーブルを拭いて回っている。真理ちゃんが来てからずっとあんなだ。落ち着きがないったら。
もしかして、何かしていないと心配でたまらないから?
……なんて呑気に訊けるわけがない。あれだけ挙動不審な行動を見せられたらさ。
「なんとなくはわかってたけど、あれほどやとはな。正直参ったっていうか」
イサちゃんココアおかわり、と威勢よく手を挙げて叫んでから、真理ちゃんは俺の言葉にうんうんと肯いた。
「そうやね。わたしは昔からそう思てた。イサギくんてちょっとババコンいうか、変なんと違うかなって」
「ババコン……? 真理ちゃんはほんとオットコマエやね」
「まあね。友達にもよう言われるわ。だから椿さんもゲットし損ねたやん。しかもイサギくんにかっさらわれたって。それってどうなん女として。今でも悔しいわ」
「あ、そう……それはゴメン、な……。これ俺が焼いたクッキーやけど、食べる?」
「食べる食べるー!」
可愛らしく唇を尖らせたりニコニコしたりと忙しい真理ちゃんに、クッキーを乗せた皿を差し出しながら、乾いた笑いを洩らす。イサギの従妹とは思えないほど、うっかり見惚れるほどの美少女の口から『ババコン』とは。俺は女の子に幻想を抱かないほうだけど、やっぱり、ちょっと、ひるむかな。
「ほいココア。好きなだけ飲んでけ。おかわりしたいなら自分でしろ」
言われた通りココアのおかわりを持ったイサギが、ぬぼーっと暗雲を背負って背後に現れた。真理ちゃんはありがとーと言ってカップを受け取ると、でかい保温ポットを握りしめたイサギを気の毒そうに横目で見上げた。頭を抱えたくなったのは俺も同じ。そのポットになみなみとココアを淹れてきたのかおまえは。店長ごめんなさい。
「イサちゃん。あたしそんなにココアいらない。飲めないから」
真理ちゃんは男らしく(?)きっぱりそう言い切ると、
「とにかく退院決まったら知らせるから。それまでイサちゃんは病院に出入り禁止。そんな暇があったら勉強しなさいって、お祖母ちゃまからの伝言。来たら百叩きの刑および、今住んでるマンションは解約。イサちゃんは実家行き、椿さんは自分がもらうから安心しなさいって。あー楽しみって。ていうかあーもう椿さん天才! クッキーおいしいですうー!」
「あ……そう。ありがと」
「ばーちゃん…………ひどい」
言いたいことを全部言い切って満足そうな真理ちゃんと、突如この世の終わりが訪れたかのようなしょぼくれたイサギ。その二人の間で力いっぱい途方に暮れる俺。
泣きたいのは俺の方だよ。…………なんで、そこに俺が出てくるんだ?
その日のバイトを終え、地下鉄を乗り継いで家に戻る頃には、日はすっかり落ちていた。すっかり人のいない児童公園の脇を通り過ぎて、マンションへと向かう。公園の側道を100メートルほど進んだ先に、俺たちの部屋の窓とカーテンが見えている。
俺の片手には店でもらってきたカフェ飯の残り。もう片方の空いてる手に、隣を歩くイサギの手が指先を掠めるように時々当たる。これって偶然じゃないだろーなと思いながらも、今日は怒らないでおくことにする。
「イサギ」
こんなに甘やかしていいんだろうかと少し迷った末に、俺はあきらめてイサギに話しかけた。頭上では終わりかけだけれど、イサギの好きな枝垂れ桜が濃い色合いのきれいな花を咲かせている。その下を俯いて歩くイサギなんて見たくなかった。
「そんなに落ち込むなや。スミレさん、来週には退院できそうって話やし、会えへんのなんて数日やって。退院しはったらすぐ一緒に飛んで行って、もうしばらくいいわってくらい顔見せてもうたらええやんか」
「うん……そうやな」
俺に気を遣ったのか、イサギはうんうんと肯いて、いつもよりちょっとパワーダウンしたイサギスマイルで答えた。
「ありがとな、椿。大好きや」
「俺に言わんでもいいから、その分スミレさんに言ったげて。うざがられても出入り禁止になっても負けんな」
変な励まし方だと思うけど、イサギにはきっとこういうのが一番効く。イサギはよしわかったと言って、俺の髪を両手でくしゃくしゃにした。
「なー椿。桜ちょっと見ていかへんか?」
「え? ちょ、ちょお待て、待てって! おい!」
やっぱり効果はあったみたいだ。その証拠にイサギはさっきまでの見事なしょげっぷりをすっかりどこか吹き飛ばして、俺の手を引いて走り出した。
表から見ているだけではわからないけれど、児童公園は面積がずいぶん広かった。住宅街に面した一面だけじゃなく、三方を囲む形でびっしりと桜の木が植えられている。道理でこの季節にマンションの窓から外を見ると、なんかどこまでもピンク色に煙って見えるはずだ。
「へえ知らんかったー。この公園て奥まで来ると、えらい暗いんやな。なんか不気味なくらい」
「そうなんや。俺もこないだ初めて知ったん。鍵かけてるのは住宅街に近いから、防犯の意味もあるんやって。こないだ上の階のおばちゃんに聞いた」
「ホンマに? なら勝手に忍び込んだらまずいんちゃうの」
ていうかお前はなんで、近所のおばちゃんとすぐに仲良くなっちゃうの。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ!」
呆れるほど呑気な、お気楽イサギにまんまと押し切られてしまった俺も悪いけど。
実は公園に入ろうと思ったら門が閉まってて、その上鍵も掛かっていたから、門を乗り越えて中に入ったのだ。誰かに見つかったらナントカ侵入罪か何かで捕まるんじゃないだろうか。
「椿、こっち! これが俺が好きな、スペシャルな桜。ほら、枝ぶりが他となんか違うと思わへんか?」
「そーかなあ。よくわからん。他と同じに見える……」
「そんなはずはない! ちゃんと見ろ! よっく見ろ、暗いけど!」
「はいはい……」
笑いながらムッとするイサギにつき合って、手を引かれながら立派な桜の幹の周囲を一回りする。桜にはそんなに特徴的な香りはないけれど、ひとときも途切れずにふわりふわりと風に乗って散っていく花びらを見ていると、どこからか新鮮な花の香りが漂ってきた。太い幹にもたれて息を吸い込むと、曖昧だけどはっきりと香る。これは散りゆく花に宿る残り香のようなものなのかもしれない。
「いい匂いやな。桜って香り、あるんや」
「そうやな。桜の香りって夜にならんとわからへん。特徴ないから、昼間は他の紛れてしまってるやろ」
「そういえば夜桜って、最近見てないな。円山公園とか行かへんしな。中学の頃とかよう来たけど」
「出た! 不良椿っ。中学で花見酒やて。なっまいきー」
「あーはい。先輩に混じって、ちょっとは飲ませてもらってました。ええやん。もう時効やろ」
なんでだろう。花に酔ったみたいだ。さっきから足下が頼りなくふわふわしてるのは、夜の気配のせいだろうか。
「椿、だいじょうぶか?」
「うん、俺はだいじょうぶ…………お前は?」
「…………俺?」
イサギは少し考えるように黙って、
「俺は、どうかなー……」
いつものイサギらしくない。元気がない。
かすかな花の香りを感じながら、近づいてくるイサギの唇を唇で受け止める。ぽつりと呟くイサギの声までが頼りなく聞こえる。お祖母さんが倒れたという第一報を聞いた1時間後、病院に向かう途中のイサギの顔を思い出してしまった。
イサギがあんな頼りない顔をするのを、俺は初めて見たんだ。
知らせを聞いたのは真夜中だった。不安そうな表情を顔中に張り付けたまま、財布も持たずにマンションを飛び出したイサギを追いかけて、一緒にタクシーに乗って病院に向かった。慌てるな、しっかりしろと叱り飛ばしたらイサギは少し正気に戻って、ごめんな、ありがとうって、泣きそうな顔で言われた。イサギは運び込まれた病院の名前をしっかり聞いていなくて、家族に電話もできないから、断片的に憶えてる名前の片鱗から運転手さんにカーナビで探してもらったんだっけ。
その時俺は初めてわかった気がしたのだ。イサギにとって、スミレさんは本当に特別の存在なんだって。
たぶんイサギは生まれて初めて、失うことに恐怖した。
その気持ちはおそらく俺にはわからない。実感できない。それは俺にとってとっくに通り過ぎた、すでに馴染んでしまった感情だ。だけど思い出せないほど遠い過去でもない。
母さんがもう助からないって知った時、俺は泣いたんだっけ。失うことの本当の意味を知らないまま、無くしたらもう戻ってこないことだけを知っていた。
「なっさけねーカオして。ん?」
促すように言って、自分から身を乗り出してイサギの唇を塞ぐ。少し躊躇ってから、足の間にイサギの手が滑り込んできても止めなかった。太腿の内側を手のひらが頼りなくさまよう感じがいい。こんな時にこんな場所で不謹慎かなと思ったけど、イサギの手の温かさが気持ちよかったから、まあいいかと思うことにした。
「いい? 椿……」
ゆっくり頷いて、イサギの口の中にねだるように舌を差し入れると、やっと思い切ったのかイサギの手が動いて、ジャケットの裾をまくり上げて裸の腹に触れてきた。
もどかしそうにベルトのバックルを外され、ファスナーに指が掛かる。ゆるめた前に手を差し込まれると、敏感なソコが待ちきれないように脈を打ち始める。ごく軽く手のひらに包まれるだけで、すぐに先端に冷たいモノが滲んできそうだ。
俺たちのいる場所は片側がちょうど建物の死角になっていて、もう片側には桜の木と向かい合う形で大きな看板が立っている。その間の陰になった狭い所に隠れるようにして、立ったまま互いの体を探り合った。
「なあ、椿」
イサギがのんびり声をかけてくる。呼吸は荒くてすごくやらしいのに、声は普通なんてずるい気がする。俺なんか息が苦しくて、胸が痛いくらいなのに。
「なに、」
「んー。いつもはベッド以外のトコでするの嫌がるのになあ、と思って」
「なにそれ。お前は、したないの?」
「すっげしたいです」
真顔で即答したから、バカなことを訊いた罪は許してやることにした。
「わかんね……、急にしたなった、だけ」
立ったままだと思うように動けなくて、触れたい部分にすぐに触れられないし触れてもらえないから、焦らされてるような気分になってくる。俺は強引にイサギのジーンズの下に手を入ると、自分がしてほしいようにイサギの性器を強くこすった。
「イサギ、もっと強く、……こんなふうにして。じれったい……」
「うわ。すっげ大胆……」
口ではそう言いながら、イサギは俺が望んだ以上に激しく丁寧な指遣いで、あっという間に俺を追いつめていく。膝が震えてもう立っていられないくらいで、時折関節が外れるみたいにガクッと折れ曲がって、その度にイサギが慌てて腕で支えてくれた。
「ゴメン俺……もう、ちょっと、ダメかも」
情けないけど限界がきてるっぽい。早く出したくてたまらない。できれば途中で正気が戻ってきませんように。心が正反対のところを行ったり来たりしてる。
「椿かわいい。顔がもういっちゃってる。やらしー顔してる」
うれしそうに言って、犬か猫みたいに鼻の頭をぺろっと舐める。子供っぽい仕草とは裏腹にイサギが急に手の動きを早めた。自分の性器と俺のを一緒に握って、こすり合わせるようにする。俺のくだらない心配はあっけなく吹き飛んでいった。
「あ、あ、……っ」
やばい。我慢できない。固い芯がぐりぐりこすれる感じがすごくいい。イサギの肩にかじりついて何とか声だけは抑えたけど、腰が勝手に揺れるのは止まらなかった。
「イサギ、も、出る、なんか……っ」
俺が言い終わらないうちに、膨らみきった先端にふわりと布が被さる感触がして、耳元で椿、すき、というイサギの声がした。俺が好きなイサギの声だ。不安定な俺をしっかり包んでくれて、抱きしめてくれる大きなイサギ。
「椿、手貸して……ここに」
「んっ…………」
「いって。俺も、すぐやし、だいじょうぶ」
イサギがそっと俺の手を取って、中心に導いていく。自分の手に俺の手を重ねさせて、もう片方の手で上から強く握り込んだ。一緒にいこうなって言ってるみたいに。
「椿」
名前を呼ばれたから、反射的に返事をした。
椿がいてくれてよかった。
いつものイサギの声で、そう言ったように聞こえたけれど、気のせいだと思うことにした。
花冷えの春の夜。時折強く吹く風の音に声が紛れて、少し安心した。泣いてるみたいな自分の声が散りかけの桜の花びらに吸い込まれていくようだった。
END
ひさびさ(数年ぶり…)に関西弁をテキストで書いたら、リズムがうまくつかめない……
「イサギ(20)よりうんと大人な椿(19)」と軽く青姦。まあそれだけのお話でした。
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