その日は朝から雨が降っていた。雨粒が窓ガラスに当たる軽やかな音色が、静まり返った部屋に染み入るように響いている。准の部屋はベッドヘッドを窓に面した壁際にぴったり沿わせてあるから、強い雨が降ると音がもろに頭の上から降り注いで、まるで雨晒しの往来で寝転んでいるような気分にさせられる。
  急に肌寒さを感じて、准は薄い肌掛けを肩まで引っ張り上げると、自分の体をすっぽりと覆った。
 今日は日曜だが、部屋には准以外誰もいない。多忙な同居人はとっくの昔に起き出して、昨夜やり残した納期ギリギリのデザイン画を仕上げるために今頃はアトリエの机にかじり付いているだろう。
 いつも思うことだが、もしも鋼の頭の中に辞書というものがあったとして、加減とか限界とかいう単語は載っていないんだろうか?
 准の知る限り鋼が請け負った仕事をしくじったことはまだ一度もないが、そのために犠牲にしてきたことをいちいち数え上げたら、両手どころか両足まで使っても足りるかどうか怪しいものだ。
 時間の感覚然り、自分の健康然り、人間関係、特に友達付き合い然り。
 仕事に関する能力は人の倍ほど備わっているくせに、それ以外の能力といえばどこかに置き忘れるには気前が良すぎると呆れるほど、鋼はまるで持ち合わせてはいなかった。
(向こうでぶっ倒れてなきゃ良いけど)
 昨夜だってここに戻ってきたのは午前二時を軽く回っていたのだ。一昨日は一時、その前はアトリエに泊まり込んで、結局帰ってこなかった。このままでは今の仕事に片が付いたら気が抜けて体調を崩しかねない。が、余裕をかまして寝込んでいられるほど、鋼のスケジュールに隙はない。准が綿密に予定を組んで、得意先に最大限の妥協を拝み倒して、それでも追いつかないほど鋼の才能に対する評価が上がっていると言うことなのだから喜んでしかるべきだが、それを手放しで喜べるほど強靱な自律神経を当人が持ち合わせていないのだからどうにも仕様がない。
 グルグルと取り留めなく回り始めた思考を中断させるべく、准はのろのろとベッドから身体を引き剥がした。今ここで准がどんなに考え込んだところで、鋼の何を変えられるわけでもないのだ。それがどれほど無駄なエネルギーを消費することになるかは、自分が一番よく知っている。
  今さらだ。本当に何もかも今さらなのだ。



◆   ◆   ◆




 ベッドからゆっくり足を降ろしてキッチンへと向かう。准は慣れた手付きでコーヒーメーカーをセットすると、男所帯にしては驚くほどきちんと整頓された食器棚から使い慣れたマグカップを取り出した。
 台所のシンクは昨夜准が片付けたきり使われた形跡はなく、カップのひとつも残っていなかった。
(ったく、あのバカ…)
 鋼は朝食を食べて出る余裕もなかったらしい。いつ帰ってくるか分からない同居人を待っていることなどしないから、鋼とは3日ほど自宅でまともに顔を合わせていない。
 と言うことは鋼が風呂に入ったかどうかも怪しいものだ、と准は思った。准に見咎められないのをいいことに、もしかしたら着替えもしていないかも知れない。
 きちんと身なりを整えていればそれなりどころではなく立派に見えるものを、時間の無さを生来の面倒くさがりが後押しして、鋼はいつもどこか気の抜けた風体をしている。クリエイターとして独立して数年が経った今も、普段の鋼の格好は未だ貧乏学生のようだと店の女性スタッフにからかわれるほどの気楽さだ。そこが母性本能とやらをいい具合に刺激するらしく、鋼や准より三歳年上の彼女は、彼をまるで小学生の弟のような扱いで溺愛しているのだが。

 芳しい香りを放ち始めたコーヒーメーカーを覗き込んで出来具合を確かめてから、准はテーブルについて新聞を広げた。鋼が真似をすると部屋が散らかって仕様がないから、鋼が部屋にいる時には絶対に出来ない悪癖だ。

 穏やかな朝だ。香ばしいコーヒーの香りと、音のない空間。まとわりつくような静寂。
 隣近所のことを考えて、せめてリビングと寝室だけでも防音壁に替えようかと半ば本気で考えてしまういつもの部屋とは雰囲気がまるで違う。人が一人いなくなっただけで部屋の面積が倍ほど広がったように感じるのが、我ながら少し可笑しかった。
 それほど鋼の存在が大きいのだ。パワーといいエネルギーといい、鋼という人間を形成する何もかもすべてが恐ろしいほど鮮明な色彩を放っている。この部屋でこうして一人でいると、そのことを改めて強く感じずにいられない。

 圧倒される存在感。何者にも屈しない、文字通り強靱な『鋼』。
 それが准の知っている鋼だ。
 だから惹かれたのだ。面白いと思った。強烈に、腹の底から憧れて、鋼という男から一瞬も目を離せなくなった。それらとは少し意味合いの違う、別の感情を意識していなかった子供の時分から、それだけは何一つ変わっていない。
 ふと思いついて、左手に視線を落とす。准の人差し指はまだ辛うじて健在で、珍しく内出血で青黒く変色してもいなかった。



◆   ◆   ◆



 電話が突然、跳ね上がるようにけたたましく鳴り出した。最近の電子音は良く出来ているとは言っても作り物であることに変わりはなく、こういう静かな朝にはあまり耳にしたくない代物だ。それでもピリピリとか細いその音に反応してしまったのは、それが誰からの電話なのか、確信はないが確かに察したからだった。准はため息をひとつ洩らして、ゆっくり受話器に手を伸ばした。
「もしもし、…鋼か?」
『お休みのところ恐れ入ります、○○から参りました××と申しますが…』
 …という間の抜けた展開を期待したが、そう上手くは行かなかった。良く知った幼馴染みがほとんど寝ていないハイテンションで、受話器に向かって息を吸い込む様が目に見えるようだ。こういう場合受話器から飛びだす鋼の声は、もはや声というより破裂音に近い。
『准っ、起きてるかー!? 上がった、今、上がったから速攻で帰るっ。三日もしなくてゴメンっていうか、俺がゴメンって感じ! 准、おい准ってば、聞いてる? 聞いてるかーい!? 返事は? ハイは? ハイハイって』
 思った通りだ、これ以上はないほど弾け飛んでやがる。電話の相手はこの切れ目のないマシンガントークの、一体どこに言葉を挟めと言うのだろう?
「聞いてるよ…」
「聞いてるなら返事くらいしろよ、このうすらトンカチっ。もうホントに、どいつもコイツもちょームカツク。ったく『アストロ』のヤロウ、このクッソ忙しいときにメールが返って来やがるんだぜ、信じられる? アッタマ来たから30描いたデザイン画、全部プリントアウトしてファックスで流してやった。ザマーミロだ! 今頃あそこの社長室、ファックスからトイレットペーパー垂れ流したみたいになってるぜ!」
 そして明日俺が出勤して一番にすることは、社長室に詫びの電話を入れることに決定したわけだ。と思わず喉から出掛かった正直な感想を飲み込んで、准が苦笑する。
 まあいい。出社直後の予想外のアクシデントではなく、事前に事態を把握している分だけマシというものだ。『アストロ』の社長は何が好物だったっけな?
 こんなことは日常茶飯事、これが鋼の鋼たる由縁だ。
 だから何だと?
 文句があるなら俺に言え。全部纏めて焼き払ってやるから。
『准、お前やっぱり聞いてないーっ。返事しろよ、やるの、やらないの!?』
 鋼のハイトーンヴォイスが耳を劈く。試しに受話器を見下ろす位置まで下げてみたが、内容がしっかり把握できるくらい声は聞こえた。電波を通して吐き出される溢れんばかりのパワーに、手の中の受話器が心なしか震えた気もする。
「してくれるのか、して欲しいんだけど、の間違いだろ?」
『もー、んなコトどうでも良いじゃんかよ。やることは変わんないんだからさ』
「確かにどうでも良いから、つまらないこと言ってないで早く帰って来い。雨降ってるのは知ってるのか? お前車出してるだろ。途中で眠りそうだったら他人様に迷惑だからアトリエで待ってろ。一時間でそっちに行くから」
 呆れ半分で言うと、
『だーい丈夫だっつうの。寝てる場合じゃねぇんだよーん』
「はいはい、そうかい…。じゃ、気をつけてな」
 連日のハードワークでさすがの鋼も相当ぶち切れているらしい。イキッ放しで一向にこちら側に戻ってくる気はなさそうだ。
 それから懐かしのアストロボーイのテーマソングを一節歌って、季節外れの台風は過ぎた。途端に電話が気を失ったように黙り込む。レッドゾーンを振り切った鋼のテンションは無機物をも昇天させる威力があるのかと、笑えない考えが頭を過ぎった。
 防ぎようのない天災より始末が悪い。それがまた、ひどく心地良いんだから最悪だ。
(…帰ってきたら今度こそ流血かな。テンション上がりきってるって感じだったし、そのままベッドに直行か)
 何気なく、左手の疵に親指を滑らす。
 准の顔に嫌な気分ではない苦笑が浮かんだ。

 あと40分もすれば玄関の蝶番が外れるくらい乱暴にドアが蹴り開けられて、転がるようにリビングに駆け込んでくる。大袈裟に腕を広げて飛び跳ねながら声を上げる。
『准、逢いたかった〜っ。俺、いますっげ気分イイの、分かる? 分かる? お前も気分良くしてやるよぉ』
 そうしたら、自分はこう答えるだろう。
『わかったから、とりあえずその前に飯を食え。3時間眠れ。風呂に入れ。それからこの間みたいに風呂で眠るな、死ぬぞ』
 鋼が白い喉を晒す。仰け反って、高らかに笑い声を上げる。アリアの旋律、准の心をぐらつかせるには充分だ。
『全部する! するからその前にお前の左手、俺にくれ。思いっきり噛ませろよっ』
 はいはい、仰せのままに。指ぐらい好きなだけくれてやる。
 何本でも、望むなら指以外の何もかも、ひとつも惜しいとは思わない。
 鋼という唯一無二の存在をここに留めておこうと思ったら多少の犠牲はやむを得ない、今まで指一本で事足りているのがむしろ不思議なくらいだ。
 それにどうせ抗えないのなら、とにかく大きな仕事を片付けたご褒美に、今日くらいは鋼の言うことを素直に聞いてやっても良い。

 鮮明に蘇る慣れた痛みに指が疼くのがどうにも心地良く、目を閉じて、ほとんど消えかけている情痕の名残に軽く唇を寄せた。



end



 マゾ? …ではないにしろ、囚われてはいる男がひとり。相手が全く気がついていないから何事もなく日々は過ぎる。一生悟らせないのが甲斐性というもの?


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