□ Wonder-Struck □





 春。何度も気が狂いそうになり、危うく失踪しかけ、他人様に多大な労力を提供させて何とかやり過ごした定時制高校の卒業が間近に迫っていた。子供の頃から同じ時間の流れを過ごした幼馴染みは、とっくに次の学習段階に入っている。決して出遅れたとは思っていないが、ここから先もまだまだ長い自覚はある。そんな春。
 鋼はぼんやりと両腕を下げて、ペンキの剥がれた鉄製の扉を凝視していた。ちょうど視線を軽く落とした辺りで目に入る、直径十センチほどの不気味な凹みをじっと見つめていた。
 これは一昨日の深夜、准がこの部屋を出る時叩きつけて行った最後通牒だ。渾身の、心を込めた三行半と言っても良い。この場合『心を込めた』という言い回しは明らかに妙だが、これ以上しっくり来る表現を自分は思いつかないだろう、と鋼は思った。
 正直なところ、あれほど激しいものだとは思っていなかった。
 准の、自分に対して向けてくる、内側に滾るものをありったけ振り絞ったような感情の塊。それは静かに自分を抱きしめている時も、欲望を顕わにして上から乗り上げてくる時も、怒りに我を忘れている時も同じ重さなのだと言うことを、鋼はその夜初めて知った。




 東京行きを決めたのは突然だった。バイト先で知り合ってずいぶん親切にしてくれたとあるメーカーのデザイナー兼オーナーが、今度向こうに事務所を構えるんだけど一緒に来ないか、と誘ってくれたのは三ヶ月ほど前のことだ。
「高校出たらパターンやりに行けって言ってただろ? どうせなら俺が講師をしてるとこで勉強したら良いじゃない。それで、学校の課題の合間にうちの事務所で下積み兼ねてバイト。どう? バイト代は安いけど修行と思えば悪い話じゃないと思うよ」
 君の持ってるモノ、俺なら伸ばしてあげられると思うよ。その人は子供が悪戯を仕掛ける時みたいな無邪気な顔つきでそう言った。

 彼は関西で活躍した後関東圏に進出した服飾デザイナーで、トーキョーコレクションには今期で4回目の参加になるらしい。噂によると有力な後ろ盾をがっちり掴んでるらしい、将来有望な若手クリエイターのひとりだ。これから海外での活躍を期待されている人材を10人挙げるとすれば、必ずその中ひとりに数えられるというほどの。最近ではとある話題の映画のコスチュームデザインが好評で、かなり話題になっていた。
 どう考えても悪い話じゃない。それどころか、鋼にとっては降って湧いたような信じられないシンデレラ・ストーリーだ。

 ―――――高い金を払って学校に通ってるってだけの、何の経験もない学生がいきなり現場に潜り込ませてもらえるなんて、したいと思って出来ることじゃない。こんなチャンスをみすみす逃すのは馬鹿のやることだ。チャンスは手の中に舞い込んだ。もし俺が掴まなければ、この幸運は他の誰かが手に入れるだろう。

 だから、即答した。答えはもちろんイエスだ。イエスイエスイエス。まさに天にも昇る気持ちだった。自分の目指す場所まで、一気に近道が繋がった気がした。
 問題は―――――鋼がそのことを、出発日があと一週間ほどに迫った一昨日まで准に黙っていたことだ。





 准があれほど怒ったところを、鋼は初めて見たのだ。大袈裟でなく、生まれて初めて准が鋼に殴りかかってきた。腕っ節では敵うはずのない相手に突然頬を張られて、当然鋼はあっけなくベッドの上に仰向けに転がった。衝撃でしばらくぼんやりしていると今度は首に両手が掛かって、渾身の力ではないにしろ、体格差のある准の体重の何分の一かを喉元ひとつで支える羽目になった。いきなり呼吸が止まって目に涙が滲んだ。やっと息を吸うことが出来たのは何秒後のことだったろうか。ちょっとアッチに渡りかけたか、と真剣に思った。
 もうほとんど痛みはないのに、鋼は顔を顰めて殴られた頬と絞められかけた首に無意識に手をやった。あの時の准の鬼のような形相を思い出して、思わず身震いする。
 それはもう、怖いなどという生温い心境じゃなく、本当に殺されるかと思うほど怖しかったのだ。


 一度切れた准の怒りは留まるところを知らず、テレビのリモコンとパソコンの椅子の足を破壊してもまだ暴れ足りないみたいに、しばらくの間部屋の隅で肩で息をしながら鋼を睨んで唸りを上げていた。その恐ろしさと来たら鬼を通り越してさながら怪獣か点火済みの爆弾のようで、鋼は恐怖に怯えて、と言うより見たこともない光景に呆気に取られて、とっさに逃げることも思いつかなかったくらいだ。だって言ったらおまえ絶対怒るじゃんと言い返したら、准はやっぱわざと黙ってやがったのかと目尻を吊り上げてさらにいきり立って、鋼の気に入りのマグカップをわざわざ選んで床に叩きつけた。
 睨み合いは一時間続いた。准は最後に玄関に立て掛けてあったビニ傘を一本へし折ってから、ソニックが起こりそうな勢いで玄関ドアを突き抜けていった。取り敢えず静かにはなったが泥棒に入られた後のような部屋の床にへたり込もうとしたら安普請の壁を揺らす大音響に竦み上がって、恐る恐る外に出てドアの安否を確かめると、薄いとは言い難い鉄板の下から1メートルほどの部分が見事に内側に抉れて地色が覗いていた。茫然とドアの前に佇んでいる鋼を、入居以来顔を合わせたこともない隣の住人が(受験生らしいが、彼が外出しているところを鋼は見たことがない)5センチほどの隙間から古臭い型の銀縁メガネを光らせてじっと見ていた。目が合ったので微笑んでやるとすぐにぴしゃっと扉を閉められて、ムカついたから閉じたドアに向かってクソッタレ、と怒鳴った。
 それが一昨日の午前2時頃、それっきり鋼は准と顔を合わせていない。



 准があんなに怒るとは、鋼は本当に思っていなかったのだ。それは…多少は驚くだろうがすぐに立ち直って、いつかのように『おまえはやることが極端すぎるんだ』と言ってガックリ項垂れるに違いない。それから思い出したように何でもっと早く言わなかった、どこに住むんだ、学費はどうするんだなどと訊いてくる。学校に通う金だけは親が出してくれるってよ、とケロリとしている鋼に、『信じらんねえ。高校辞める時あれだけ揉めたくせに、ホントおまえって奴は…』と呆れ顔で言うだろう。そう思っていた。事は至って簡単に運ぶはずだった。
 それがどうだ。准はあれきりここに二日も顔を見せないし、自分は部屋に入るのも億劫で、扉の前でこうしてぼんやり突っ立っている。
 鋼は取り返しのつかない悲惨な傷を負わされた扉に凭れて、ずるずるとその場に座り込んだ。気になる出っ張りが薄い布帛のシャツの背を押し上げる。振り返って見ると、凹んだ痕の上部二センチほどが傷に被さるように飛び出して、庇のようにわずかに尖って突き出していた。
 腰を少し浮かせた不自然な体勢で首だけ捻りながら、その傷を見つめる。同じ恰好で固まったまま、頭の中でマーブル模様を描いている意味のない思考が纏まるのをじっと待つ。そしてふと思いついた。
「あ、そうか。そういうことかあ…」
 知らずに呟いていた。
 バランスなのだ。この世に存在する何もかもは、目に見える見えないに関わらず全てがなにかしらの均衡の上に成り立っている。何かが出れば何かが引っ込む。誰かが受かれば誰かが落ちる。こんな何の変哲もないアパートのドアだって、一部が凹めば余ったどこかが出っ張るくらいだ。そう考えると、准に愛想を尽かされたのは当然なのかも知れなかった。
 自分が別の何かを掴もうとしたから、持っているものをひとつ取り上げられたのだ。
 それならば解る。納得も行く。よく考えれば、何の努力もしていないのにあたりまえに与えられるものなんてあるわけがなかった。
 鋼はすでに知っている。准の怒りも行動も本音の心情も、准の内の何かが動く原因を作るのはいつも鋼自身だということを。だからこそ鋼は楽でいられた。喩えて言えば鋼が何か物を落とせば准が拾ってくれるし、迷子になれば必ず探しにも来てくれる。ラクチンだよなあと思ったことは何度もあるが、准が傍にいなければ困ると切実に思っているかと言えば、正直なところそうだと言い切る自信は、…ない。
 そこまで考えてうんざりした。そもそもそれが必死で足掻いてまで手に入れたいモノかどうかも、よく解らないのだ。
 気づいたら昔からそこにいた。だからなぜいるのかなんて考えなくても構わない存在だった。今さら、失いそうだからちょっと機嫌でも取って引き留めとけ、なんていきなり言われても困る。かつてそれがどこに収まっていたのかを気にしたこともないくらいなのに。もしかして俺ってば薄情なのか、と思い至ってまた気分が沈んだ。
「そりゃ…准も怒るかも、だよなー…」
 鋼はゆっくり膝を開くと、首を低く垂れて両腕で頭を抱えた。しばらくそうしていると、気持ちが少し落ち着いてきた。困った時に頭を抱えるというのは、外界からしばし自分を切り離す形骸的な行動として、理に適ったものであるかも知れない。どこかに吹っ飛んでいた聴覚も回復してきたようで、表を走り過ぎるトラックの音や酔っぱらいが大声で歌う声、錆びた階段を上る甲高い足音などが一度に脳に潜り込んできた。
 ―――――足音?
 鋼が慌てて呼吸を止める。膝に顔を埋めながら、ひっそりと耳を澄ませてみる。
 タンタンタン…とリズミカルに響く、聴き慣れた音。ビルの壁に適当に貼り付けられたみたいな、簡単な作りの非常階段を誰かが駆け上がる足音だ。
 鋼はもう一度腕に力を込めると、その音から身を守るように自分の頭を抱え込んだ。限界まで息を潜めた。このまま廊下の手摺りを飛び越えて逃げようかと思った。どうせ住むんなら頭の上に誰もいないのが最高だろと、エレベーターもないボロアパートの5階を選んだ自分を少し恨んだ。
 ぼやぼやしているうちに足音はあっという間に近づいて、鋼の目の前で静かに止まった。長く息を止めていたから鋼は窒息寸前だ。

「…ナニしてんだおまえ、そんなとこで」

 思った通り、間違いなく准だった。鋼がさらに身を縮める。さっさと部屋に立て籠もればよかったのだと今さら思いついても遅かった。
 言い返す言葉を思いつかないから、仕様がなく黙っていた。頭はまっ白になって、あきらかに回転が緩んでいる。力を入れすぎて首が折れそうだったが我慢した。

「んなところでスヤスヤ寝てんじゃないっての」
「………」
「ほら、立って」

 准の穏やかな物言いには、この間の夜のような怒り狂った様子はなかった。むしろいつも俺様な幼馴染みの萎れきった様子に心底呆れてでもいるのか、優しいと言ってもいいくらいだ。
 頭の上で固く組まれた鋼の腕をそっと開かせて、腋に手を入れてゆっくり立たせる。ふらつく膝を自分の膝頭でコツンと蹴る。鋼がぎゅ、と肩を竦める。頭ごと肩に寄り掛からせられた途端、瞼がじわっと熱くなってヒヤリとした。


「まさかおまえ、拗ねてんじゃねえだろうな? …たァく、」
 准はわざとらしく大きなため息を吐くと、ちょうど良い位置にある鋼の耳の裏に鼻先を擦り付けてきた。
「おまえ幾つになったよ? ガキじゃあるまいし、俺とケンカしたくらいでいちいちこんなんなっててどうすんだよ。これじゃ勇んで向こうに乗り込んだはいいが、冷たい都会の片隅で疲れて荒んで生き倒れて、志半ばであっさり朽ちて果てるぞ」
 白々しい笑い方が勘に障った。なんだよおまえだって一昨日のあのキレ方はなんなんだまんまガキじゃねえかよヒトのこと言えんのかと早口で言ったが、あくまで心の中で叫んだだけで、あくまで口には出さなかった。


 手放しで望むには厄介すぎる。けれどいなくなるのは不安でたまらない。准という男は本当に、なんて端迷惑な存在なんだろう。汗ばんだTシャツの背中をぎゅっと握りながら考える。
 ―――――なんとなくやり込められているみたいに、無性に居たたまれない気分になるのは何故だろう?
 静かに耳に掛かる浅い吐息とか、正面から回された腕の感触とかを、触れられる前から心に思い描くのは?


「あと一週間しかないんだろ? 先に言っとくけど、おまえ明日から勝手にどこも出掛けんじゃねえぞ。今日もこれから飯食って風呂入ってピカピカにして、そのあと朝までヒィヒィ喘がせてやる。出発まで毎日だ。向こう行っちまったら何ヶ月かはデキないんだから、ひとり寂しく抜かなくても済むように今のうちにガンガン腰振っとけ?」
「―――――ウン、」
「って、えらく素直だな…」
 驚いたように准が呟く。そういう時はおまえなにエロいコト言ってんだぶっ飛ばすぞって暴れないとホントに襲われんぞーなんて笑いながら言い出すから、もしかしてコイツはちょっとバカだと思った。


 半端も曖昧も許容も阿呆も幼馴染みもその先も、行くところまで行き着けば、意味はほとんど同じになる。 それなら今はこれでいいのかも知れない。
 もう一度首を縦に振ったら、やはり我慢出来ずに、少し涙がこぼれた。




end





あ、びっくりした。という話。驚いて唖然として噛みついて、お互いに。ナツさん、こんなコワレ受ちゃんでヨカッタでしょうか〜?(不安…)
リクエスト、アリガトウございましたvv

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