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珍しいこともあるものだ。 隣に人がいない。―――――この部屋の主が。 一緒に暮らし始めてからこっち、恭一が和義より先に目覚めたことは一度もない。和義が支度を終えて家を出ようとする頃になっても眠り続けていることはよくあるが。 まだぼんやりと力の抜けた体を動かして、和義はゆっくりと寝返りを打った。ベッドの片側はすでに熱が冷めてひんやりしている。和義は今度は声に出して「珍しいこともあるもんだ…」と呟いた。 剥き出しの腕や脇腹に当たっているシーツの感触が気持ち良い。 サラリと乾いているようでほんのりと微かな温もりを孕んだ滑らかな感触は、どことなく今ここにいない青年の肌の手触りに似ている気がする。軽く顔を埋めると微かに人肌の匂いがした。 そう言えば昔、一緒に眠った後のシーツにくるまるのが好きだと言った男がいた。 言ったのは……物にも人にも執着しない和義にしてはめずらしく長続きした、かつての恋人だ。あれはもう何年前のことになるだろう。 その男とは高校生の頃一年と半年ほど付き合って、卒業と同時に別れた。年齢は和義より4つか5つ上だったから、別れた当時相手は今の自分と同じくらいの年だったはずだ。 だが彼は二十歳そこそこで小さいながらもバーの主として、数人のスタッフを抱えるほどのやり手だった。 だがいくらやり手とは言えもちろん自力で店を構えた訳はなく、パトロンらしき男の影があるのは和義も初めから知っていた。知っていたがそのことが二人の間で問題になったかというとそうではない。和義にとってはむしろ彼に別の男がいる方が気楽だったからこそ、一年以上も関係が続いたのだと思う。 今思うと彼はとにかく変わった男だった。 女と見紛うほどの美しい容姿と、それに全くそぐわない毒舌と。 その繊細な見た目に似つかわしい装飾過多で文学的な表現を持ち出すかと思えば、猥雑な単語も同じように平然と口にする。思いついたことを吟味せずにそのまま発しているような物言いは、はっきり言って少々下品だったと言えなくもない。だが彼のそんな俗っぽいところまでが、ひどく魅力的だった。 出会ったのは和義が家を飛び出して、友人宅を転々と泊まり歩いている頃だ。自分と同じく知り合いに未成年が多かったこともあり、そろそろ転がり込む先が無くなって困っていた時、偶然入ったバーが彼の店だったのだ。 自分も若いうちに無茶をしてのし上がってきた人間だからか、彼は詳しい事情を詮索することなく、行く当てのない和義を拾って面倒を見てくれた。まるで捨てられた犬猫でも拾って飼うような気軽さで、だ。どこから来たとか幾つだとか親はいるのかとか、余計なことは一切訊かなかった。別にそんなことには興味がなかったのかも知れない。 居候する代わりに自分に出来ることをしろと言われ、衣食住に関して不自由しない程度の家事を教わったのもこの時だ。 それだけでなく和義は彼から酒の飲み方を教わり、分不相応な遊びを教わり、男の抱き方を身を以て教わった。どれを取ってもそれが背伸びで無くなるまでに、あと10年は欲しいような贅沢な経験だった。 あの頃はそれなりに楽しかった。 日常とかけ離れた世界を見えそうで見えない位置から垣間見ることは、しばし足下の泥濘を忘れさせてくれることもある。 少なくとも和義にとって彼との関係は、現実から最も遠く離れた、最も都合のいい避難場所だったのだ。 (案外よく憶えてるもんだな) 枕に頬を押し付けて微睡みながら、ぼんやりと思った。 本当のところ、別れてから今日まで、その男と付き合っていたことすら忘れていたのだ。そもそもどうして急に彼のことを思い出したのかが、不思議でもある。 和義は過去の恋愛事を懐かしく思い出すほどの情や感傷を持ち合わせていない。すっかり忘れてしまっていることを、むしろ自慢に思うような男である。 それがどういう訳か今朝に限って、少しだけ過去をなぞらえてみたい気分になっているのだ。 (忘れられない事もたまにはあるってことか…) そして、思い出したくない理由も特に無い。 和義は目を瞑って、別れた男の澄んでいながらこっくりと深い、不思議な瞳の色を思い浮かべた。すると無惨に絡まったままその場所にうち捨てられていた記憶の糸が、少しずつ解け始める。縺れた糸口を慎重に指で摘み上げるように、埋もれていた記憶を辿った。 都合の良い時に綺麗に整えられた部分だけを少し分け合う。お互いにそれ以上何も求めないし、与えない。いい加減で未来が無く、そのかわり互いを縛り付ける重苦しい感情の入る余地も全く無い。曖昧で居心地の良い付かず離れずの関係だった。 彼は強い酒が好きだった。ほとんど毒か薬のような、強烈な味わいの酒を好んで飲んだ。 この酒にはこのつまみが一番相性がいいんだと頑なに言い張って、和義までがその影響から未だに抜け切れていない。 からっとしていて快活な表情の中に時折混じる、取り残されて怯える子供のような瞳を自分のもののように感じていた。 休みの朝に早起きして二人分の朝食を用意するのが秘かな楽しみだったようで、その日だけはうんと寝坊していられたことも思い出した。 よく作ってくれた料理は何だっけ? ―――――料理? 心に何か引っ掛かった。意識を途切れさせないよう注意しながら、ささくれのような小さなきっかけを手繰り寄せる。 (あ…ああ、そうか……) 突然彼を思い出した理由。 明るい陽光を遮っていた厚い雲が風に流れるように、いきなり瞳の焦点が合って、霞んでいた視界がさぁっと晴れた。 なるほど、そういうことだったのか。 判ったら自分で自分が可笑しくなった。我ながら薄情なことこの上ないと思った。この話を聞いたら男は苦笑して『カズのことだからどうせそんなことだろうと思ってた』とでも言うだろうか。 それほどのめり込んでいたつもりはなかったのに、こうして時間を置いて思い返してみると、自分の内にあの男の影が驚くほど染みついていたのだということに改めて気づかされる。 記憶とは細胞の奥深くに染み込んでその形を変える生き物だ。 たとえ散り散りに砕けて原形を留めなくなっていたとしても、ちょうど今のように些細なきっかけでいきなり鮮やかにその形を取り戻すことがある。 それでも記憶とは、あくまで現実に起こったことの記録にしか過ぎない。 時が過ぎれば現実も過ぎる。記憶は思い出とすり替えられて行く。 永遠に捕らえ続けることなど誰にも出来ない。そして捕らわれ続けることも出来ないのだ。 ふと、階下にいるはずの青年の顔が心に浮かんだ。 (さて…と) 心の中でため息を吐いて、和義はゆっくりベッドから起き上がった。 眠っていた記憶を呼び覚ました物の正体を確かめに行こうか。早くしなければ見逃してしまうかも知れない。 それはきっと世にも珍しく、一見の価値のある光景だろう。 簡単にシャツを引っ掛けて階段を降り始める頃には、記憶はすでにその輪郭を曖昧に滲ませて、懐かしい思い出として再び蘇る当てのないまま、細胞の奥へと沈み始めていた。 開け放したキッチンから沁み出した香りは、店のフロアを通り越して階段を昇り、三階まで届いていた。 一階に降りてキッチンを覗くと、思った通り恭一は作業台に細々と材料や道具を広げて、朝食の用意をしているところだった。 鍋の中を覗き込んだり汚れた道具を流しに放り込んだりするのに夢中で、和義が後ろから顔を覗かせていることに気づかない。和義はキッチンの入り口の壁に身体を預けて、黙ってその様子を眺めた。 何となくだが、恭一のリズムを壊してはいけないような気がした。 煮込んだ野菜と、澄んだスープの香り。 恭一が作っているのは、食欲が無くて物が口に入らない時和義が恭一によく作ってやるメニューだ。ドライトマトを加えているから味にも香りにも少し酸味が効いていて食べやすく、栄養もある。 改めてレシピを教えたことはないが、舌で味を覚えていれば恭一にも充分作れると思ったからしょっちゅう食べさせてやっていた。 しばらくすると恭一は思ったよりずっと器用な手さばきで、最後に散らすディルとパセリを刻み始めた。固い金属が板を打つ軽やかな音が耳に沁みた。 「よお、…早いな」 おもむろに声を掛けると、恭一はナイフを握っている手をピタリと止めた。 「…遅ぇよ。朝飯…出来てるぞ」 振り向かないのは不機嫌だからか、照れ臭いからか。どちらでもある気もするし、違う気もする。けれどそれをわざわざ確かめようとは思わなかった。 そんなことをしなくても、そこに在るものは歴然と、在る。 見えなかったことも失ったものも、すべては見ようと思えばいつでも手の中にある。 そのレシピを最初に和義に教えたのは、ありふれた日々で触れ合い、擦れ違ったことのある男だった。 見ていなくても見えているもの、忘れているようで忘れないことは、確かにあるのだ。 スープの香りで突然あの男を思い出したように。 恭一がくるっと和義を振り返った。 「まだ寝ぼけてんのか? 突っ立ってないで皿くらい出せって…」 眉を顰めてはいるが、機嫌が悪いようには見えない。その証拠に和義が傍に近づくと、恭一は声を立てずに小さく笑った。 「ほら、」 手のひらに乗るサイズの小皿にスープを少し掬って、目の前に差し出す。味見しろというのだろう。和義が皿を受け取って口を付ける。 「旨いか?」 「まあまあだな」 「可愛くねェなぁ…」 不満そうに呟くと、恭一はチェッと舌を打って顔を背けた。 まあまあどころではなく、抜群に美味かった。 どこかで味わったことのある、懐かしい味がする。恭一の辿ってきた日々もまた自然とそこに滲み出しているのだと思った。 「美味いよ」 正直に言ってみたが、恭一が振り向くことはなかった。 今ここにある日常。 特に意識しないまま延々と積み重ねられた途方もなく膨大な時間の、一番突端にあるのがそれだ。過去がなければ現在も無い。それが巡り合わせとかいうものなのだろう。 和義は少し手を止めて、肩を並べて立つ恭一の横顔を見つめた。 置き去りにした場所と還る場所。 ここが自分の行き着いた先なのだと、思った。 end この話を書きながら、心の中にある思い出と体に染みついた記憶とは別物なのかも知れない、なんてことをぼんやり考えていました。 どちらも自分の中に確かに在る、という点では同じだけれども。 ほんの少し未来が覗く『オペラ』的日常、BGMは "Angel's Tale"。 素敵なリクエストをどうもアリガトウございました。 |